明日を夢見て~神様と筋ジストロフィーと共に生きる~

保田広輝。神戸市の25歳。クリスチャン。デュシェンヌ型筋ジストロフィー患者で電動車椅子と人工呼吸器を使っている。

別府国際バプテスト教会で証し

2017年02月04日 17時18分54秒 | キリスト教
1月29日は、
別府国際バプテスト教会(日本バプテスト連盟)で、
礼拝の奨励(証し)をさせていただきました。

 
教会の紹介(FEBCのウェブサイト)はこちら→
読むには、この青字をクリックしてください
 

この教会は、多国籍の人々がたくさん集われているので、
あらかじめ証しの原稿をすべて英語訳してもらい、
その翻訳をプロジェクターで映しながら、お話しました。
 

証しの後には、
いつも証で使っている「もうひとつの実を望まれ」という賛美を、
みなさんで歌いました♪
 

昼食のお交わりでは、
おひとりおひとりが証しの感想を語ってくださって、


僕の証しを通して、
神様がそれぞれの心に語りかけてくださったんだなぁと思えて、
嬉しかったです。
 

この教会は、多国籍の人々がたくさん集われていて、
約80名の出席者のうち、
半分くらいが留学生をふくめた大学生の方々で、


若々しくて、英語が飛び交っている元気であたたかな教会でした♪
 

大学生の執事さんもおられたのは驚きでしたし、
大事なことだと思いました。

 
教会のみなさまが、あたたかく迎えてくださって、
神様の恵みあふれる素敵な1日でした。(≧▽≦)

 
教会のみなさま、心からありがとうございました!











英訳された証しをプロジェクターで映しながら




当日の週報










昼食後の交わり




礼拝前の賛美タイムの様子(動画なので、後ほど削除します)




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別府国際バプテスト教会で

2017年01月17日 20時24分28秒 | 日常
こんにちは♪


年末年始と体調を崩していたので、

また久しぶりの更新になってしまいました。


今年もよろしくお願いします。


ひとつ前の日記に、僕のメッセージを載せました。

よろしければ、読んでいただけますと嬉しいです。


それと、お知らせです。

1月29日に、大分県にある別府国際バプテスト教会で、

僕が礼拝の奨励(証し)をさせていただきます。

礼拝の時間は、11時~12時です。


立命館アジア太平洋大学の留学生さんも多い

インターナショナルな教会です。


教会の住所↓


〒874-0917

大分県別府市中須賀東町10-1

電話 0977-66-0084

ホームページはこちら




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神様に信頼するということ

2017年01月17日 19時46分25秒 | キリスト教
日本キリスト改革派の「教案誌 vol. 64」に、

僕のメッセージが掲載されました。

長い文章ですけど、読んでいただけたら嬉しいです。


タイトル「神様に信頼するということ」



【新改訳 詩篇 62篇5~8節】

「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。

私の望みは神から来るからだ。

神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。

私はゆるがされることはない。

私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。

私の力の岩と避け所は、神のうちにある。

民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。

あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。

神は、われらの避け所である。セラ」




アメリカで2006年に公開された「フェイシング・ザ・ジャイアント」という信仰の映画があります。





ジョージア州のバプテスト教会が自主製作し、話題になった映画ですが、

とあるミッションスクールのアメリカン・フットボール部の成長物語です。


一度も試合に勝ったことがない万年最下位の弱小チームのコーチである主人公は、

日々熱意を持って指導していましたが、


部員たちは弱気で、いつも集中力に欠けていて、

授業の成績が悪く居残りさせられる部員もいる中で、

成果が上がらず思い悩む日々を過ごしていました。



小さな不幸が立て続けに起こったり、

部員の保護者たちからはコーチを解雇しようとされたり、

子供ができない原因が主人公自身にあると医者から告げられたりと、

全てが悪い方向に向かい、人生に対する希望を失いかけていた主人公が、


老紳士クリスチャンの助言をきっかけにして、

悔い改め、み言葉に基づいた祈りの生活を始めることにより、

自分だけでなく、周りも変えられていきます。



そして、主人公は新しいチームの指針を作ります。

「聖書の教えに従うこと、全て神様の栄光のために生きる」という明確な方針を部員に示します。


それだけでなく、まず自分が模範となりながら、

部員たちの生活全般にわたる指導も始めていきます。


そうして、ひとりひとりの部員が、持っているものを全力で神様のために使いながら、

自分の置かれた場所でキリストの弟子に造り変えられていく、という素晴らしい映画です。



この映画に、このようなフレーズが出てきます。


「勝敗は小さなこと・・・神様をあがめるため、我々はここにいる・・・

人生で最も大事なのは、神様を愛し、他者を愛すること。

全勝しても、それができないなら無だ・・・

イエスは人のために死に、人はイエスのために生きる・・・



プレーだけではなく、人間関係や目上の人への敬意で神様をたたえよう。

教室でもネットを使う時でもだ。

このチームで神様のみ業を示そう。



常に全力を尽くせ。

勝って神様をたたえ、負けても神様をたたえる。

どちらでも、態度で神様をあがめよう。

私は全力で神様を敬い、結果はお任せする」




私はこの映画から、「たとえそうでなくても」の信仰、

どんな試練の時も、たとえ勝負に負けても、人生に挫折したとしても、


神様から与えられている人生を感謝し、神様を賛美して、

神様を愛することの大切さを学びました。

これが神様を信頼することなのだと思います。



しかし、私たちが試練に遭うとき、苦しいとき、病気になったとき、

生きる希望がなくなってしまったとき、

神様は生きておられるのだろうか、

神様は私の祈りを聞いておられるのだろうか、と苦悩します。



私たちの信仰生活を脅かすものは失望だと思います。

「あぁ、今日も神様は祈りを聞いてくれなかった」、

「まだ神様はこの苦しみから解放してくれないのか」と落ち込む、そのような失望です。


失望というのは長引くものです。

ですから、失望と向き合うことが大切です。



失望と向き合うためにすることは、

まず自分の願いや叫びを包み隠さずにさらけ出して、

神様に自分の心をすべて注ぎ出すことです。

その後に手放す自由が与えられます。



心を注ぎ出すことなしに、

私たちは自分の願いや叫びを手放して、

「御心がなりますように」と神様に委ねることはできないと思います。



多くの人たちは、苦しみに対して誤った態度を取ってしまいます。

苦しみを受け入れないで、向き合おうとしない。


しかし、クリスチャンにとって苦しみは、産みの苦しみです。

苦しみを受け入れて初めて、産みの苦しみとなります。


私たちは、たとえ神様がくださる良いものであっても、

自分の願い通りのものでなければ、

受け取ることを拒否してしまいます。



確かに苦しみは味わいたくないものですが、

み言葉に支えられながら、苦しみを忍耐していく中で、

私たちの祈りが聖別されて、

「私の人生はこうでなくてはいけない!」という執着がなくなるとき、


私たちは自由にされて、

どんな苦しみを抱えていたとしても、

神様が与えておられる自分の人生を感謝できるように変えられていくのだと思います。



そうして今まで見えずにいた、

神様がくださる多くの恵みを感じられるようになって、

「神様は真実なお方だ。み言葉は真実だ。

神様は決して私たちをお見捨てにはならない。

神様は、私たち我が子にかかわる全てのことに、心を注いでくださる」

というような神様への信頼が芽生えてきます。



私たちは、思い通りにならない時に、

忍耐することで謙遜にされて、神様への信頼を学びます。

そうして、平凡な日常でも感謝する心が生まれてきます。


苦難を乗り越えた時はもちろん、

平凡な日常でも感謝することで、

神様への信頼はますます深められていくのだと思います。



信仰とは、何かの行いではなく、神様に対する信頼です。


祈りが叶えられたから、祝福されたから、自分が幸せだから、

信頼が生まれるのではなく、

神様への信頼は試練の中でこそ生まれるのです。


死のような試練から生き返り、

絶望の中でも、キリストの力がまた私を生き返らせてくださるのです。



【新改訳 ヘブル人への手紙 12章2節】

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」




とあるように、信仰の創始者はイエス・キリストです。

ただイエス様を見ていればいいのです。


すべて失い、すべて諦めたとしても、

目には何の証拠が見えなくても、

最後の瞬間までイエス様を見上げることが大切なのだと思います。


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神様のみこころを求める祈り

2016年12月28日 15時40分13秒 | キリスト教
お久しぶりです。。


4年ぶりに風邪を引いてしまって、

しかも扁桃炎だったので、ずっと体調を崩していました。


今はようやく回復したのですが、久々に苦しんだので、

色んなことを思いました。


あと、先月は、同じ難病の2歳上の友人が亡くなったことが大きな出来事です。


僕よりも病気の状態が良くて、体格も体力も勝っていた人だったのですが、

数日前まで普通に元気だったのに、突然の急死。。


思いもよらない訃報だったので、本当に驚きました。


やっぱり僕たちは延命治療をしながら生きていますし、心臓も弱いから、

いつ死んでもおかしくないんだなって改めて思いました。


死と隣り合わせで生きているのです。

でも、それは豊かな人生。


【マルティン・ハイデッガー】


「人は、いつか必ず死ぬということを思い知らなければ、

生きているということを実感することもできない」



僕はこの人生を生き抜いていきます☆


というわけで、僕の原点を振り返るために、

このメッセージを載せます♪


日本キリスト改革派の「教案誌 vol.63」に、

僕のメッセージが掲載されました。

長い文章ですけど、読んでいただけたら嬉しいです。


タイトル「神様のみこころを祈る」

 
【新共同訳 エフェソの信徒への手紙 6章18節】


「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め」


 
聖書は、「どのような時にも祈りなさい」と言います。

これは幸いな招きです。

祈りに対する条件や状況など一切ありません。


常に祈ることを神様はよしとし、

どんな祈りも受け入れてくださいます。


言い換えると、神様は私たちとの交わりを常に求めておられるのです。

私たちには、いつでも神様と話すことができる特権が与えられています。


祈りは、イエス・キリストの御名の権威によって、

天の父なる神様に届けられます。

人間の熱心や努力によって、祈りが聞かれるのではありません。


祈りは、イエス・キリストを通して、確実に父なる神様に聞かれます。


イエス・キリストの御名によってのみ、

私たちは神様の御前に来る特権が与えられ、

神様に祈りを聞いていただくことができ、受け入れられるのです。


祈りは、神様が人間に与えられた素晴らしい特権です。

世界の創造主である神様の御前に出て、話すことができ、

交わることができるのは驚きです。


自分のことを心から愛してくれる恋人や配偶者でさえ、

どんな時も自分の話を聞いてくれるとは限りませんが、

神様はどんな時も私たちの祈りを聞いてくださるのです。



でも、多くの場合、祈りは単に「~してください」と願い事をするだけにとどまり、

自分からの一方的な会話で終わってしまいます。


または、「苦しいときの神頼み」と言いますが、痛みや苦難を経験しても、

どこか自分の力で何とかなると思っていて、

自分の小手先で解決しようとしたり、

上手くその場をしのいでしまったり、

現状に甘んじて、何となく時を過ごしていることはないでしょうか。


神様から答えを待とうとせずに、

祈り終えた次の瞬間、すぐに解決に乗り出し、

自分の行動に出てしまうことはないでしょうか。



しかし、痛みと苦難の中で、神様は私たちを取り扱われるのです。


作家のC・S・ルイスは「痛みは神の拡声器である」と言いました。


苦難を通して、人間の限界を思い知らされ、

いかに自分が無力な存在であるかを示されます。

どこにも行き場がありません。


それで、ようやく私たちは神様を求めるようになり、

神様に近づけられ、神様に身を委ねて、

当たり前の日常では求めることのなかった、本気の祈りへと導かれるのです。



クリスチャンは祈ります。

朝ごとに夕ごとに、習慣的に祈ることも幸いです。

しかし、あるとき、私たちは本気で祈る必要があります。


痛みに押し出されて、とことん神様と話し合い、

愚痴も嘆きも含めた自分の思いをすべて注ぎ出して、

神様と真剣勝負の交わりをするのです。



でも、苦難のただ中で祈るとき、

すぐに答えや助けをくださらない神様の沈黙に対して、

私たちは不安を覚えます。

救いの道が見えないので、不安しかありません。


このような試練は私への裁きであろうか。

神様のことが分からなくなります。

それでも私たちは神様を無視することができずに、苦しみます。


様々な考えが頭によぎり、こころ乱れて、眠ることができません。

見える現実ばかりに目を留めてしまい、ますます苦悩してしまうのです。



でも、クリスチャンには特別な恵みが与えられています。

イエス様を信じた私たちの内には、神様の霊が住んでおられるのです。

神様が祈りを導いてくださるのです。


長く続く真っ暗なトンネルの中で、信仰の揺らぎを感じたとしても、

私たちの浮き沈む心の動きの中に、神様の御手が確かにあるのです。



私は難病のデュシェンヌ型筋ジストロフィーを抱えています。


この持病の悪化で、手の親指以外は動かせない不自由な身体になり、

19歳の時に、余命宣告を受けて、人工呼吸器を使うようになってから、

「こんな人生では生きる意味がない」と、ずっと絶望しながら祈っていました。


祈っていても、いつも暗い気持ちでしたし、

「病気を治してください」と自分の願いを主張するばかりで、

私は神様に思いを寄せていなかったので、いつまでも絶望していたのです。


だから、これほどの苦しみの中に置いた神様にいらだちをぶつけ続けました。


ひたすら神様の沈黙を感じる日々でしたが、

それでも旧約聖書のハンナのように祈り続けました。

まさに神様と格闘する祈りでした。


【新改訳 サムエル記第一 1章15~16節】


「私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。

・・・私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです。」



でも、日曜日はいつも礼拝に行き、

毎日のように聖書を読んで祈る中で、少しずつ変えられていきました。


この苦難が長く続き、いつまでも解放されないのはなぜだろうか。

たまたまそうなっているのではなく、

神様が意図的にそうしておられるのかもしれない。


私は自分の直面している苦難と神様の御心を関係づけていきました。


み言葉に目を向けて、

神様の御心に目を留めるように、変えられていったのです。



神様は、聖書の中で、

私たちに対する神様の御心とご計画を表しておられます。


聖書と祈りを通して、

神様が私たちにお話しになることを聞くのが、神様との交わりです。


祈りの時間に聖書を読み、神様の御心をみ言葉から見つけるのです。



神様は、み言葉を通して、語りかけてくださり、

人生に対する神様の御心とご計画を示してくださいます。


祈りとは、私たちの願い通りになることではなく、

神様の御心が実現することであり、

神様のご計画が成就されるために、私たちが変えられることです。


神様は私たちひとりひとりを通しても働かれるからです。

祈りによって、私たちが変えられていきます。



私はこういうプロセスで、聖書と祈りを通して、

神様の御心を受け取り、変えられていきました。


まず、【ヨハネによる福音書 15章】のみ言葉を通して、

難病の自分を受け入れることができました。


それまでの私は自分を拠りどころとしていたのです。

ひとりで生きていける健康な自分、

弱さのない自分、社会で成功する自分、

そういう自分を目指していました。


だから、不自由な体になった自分は、なんと惨めなんだ、

何もできない自分は生きる意味すらない、

と自分の価値を自分で決めていました。

だから、ずっと絶望していたのです。


でも、聖書と祈りを通して、神様の愛を実感できました。


神様が生まれつき難病の私をつくってくださった、

私は神様から望まれて生まれてきた、

私も神様の作品で、難病の私は神様の失敗作ではない、

と神様の愛を感じることができました。


そして、「難病の人生を通して神様を伝える。

難病の人生で、育まれる信仰と希望を伝える。」と、

私は難病クリスチャンとして生きる使命を感じるようになったのです。


ここから、少しずつ人生が変えられていきました。


神様のお導きで、

私の難病では世界トップレベルの八雲病院で治療できるようになってから、

それまでのベッドで過ごす生活から解放されました。


そして、神様の不思議なお導きにより、

数多くの教会で集会に呼んでいただき、

また色々な所で、難病の人生を通して、

神様の証しをする機会がたくさん与えられるようになりました。


私の証しを聞いて、イエス様を信じてくださる方々も、

神様は起こしてくださいました。本当に感謝です。



「どのような時にも祈りなさい」というのは、

「絶えず神様のことを考えなさい」という意味なのだと思います。


神様のことをいつも考えるようになるのが、祈りです。


聖書を読み、み言葉を黙想し、神様に思いを寄せて、

神様という御方について考えるとき、不思議に恵みの転換があります。


そうして、私の思いと神様のご計画がひとつになり、

神様の御心を自分の思いとしていけるのです。


解決は、自分の中ではなく、神様にあります。

神様のご計画は、私たちの苦難のただ中でも、確実に備えられているからです。


【新共同訳 詩編 77編12~13節】


「わたしは主の御業を思い続け、

いにしえに、あなたのなさった奇跡を思い続け、

あなたの働きをひとつひとつ口ずさみながら、

あなたの御業を思いめぐらします。」



【口語訳 ヨハネの第一の手紙 5章14節】


「わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。

すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、

神はそれを聞きいれて下さるということである。」



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板宿に引っ越し

2016年11月14日 22時43分38秒 | 日常
報告が遅くなりましたが・・・

10月20日に、僕は北神戸にある改革派神学校から、
神戸市須磨区の板宿に引っ越しました♪

新居は、僕が属する板宿教会(改革派)から、
すぐ近くのマンションです。

『板宿駅』から徒歩3分のマンションなので、
みなさん、神戸に来られた時は、お気軽に訪問してくださいね。(*^_^*)
 
神学校では、理事会の特別配慮で、
空いていた学校の教授宅に住まわせていただきながら、
聴講生として3年2ヶ月を過ごしました。
 
僕はただの聴講生にも関わらず、
牧師を目指す神学生たちの交わりに「仲間入り」させていただき、
ただ授業を一緒に受けるだけでなく、
 
祈祷会やリトリートや、色んな神学校行事などに参加することができて、
半分聴講生、半分神学生のような日々を過ごせたことは、
一生の思い出ですし、本当に神様の恵みでした。(≧▽≦)
 
神様から召された神学生たちとの交わりは、
とっても特別な経験だったと思います。
 
牧師を目指す神学生活の中で、
すごい努力と熱き思いをささげながら、
神様の弟子として成長されていく神学生たちの姿は、
僕の人生に強烈なインパクトを与えてくれました。
 
その姿を目の当たりにしながら、
僕は牧師にまったく召されていないけど、
やっぱり神様のために生きたいし、
『↓の日記』のように、自分なりの召命を祈っていきました。
 
『2年前に書いた日記』→ この青字をクリックしてください
 
そうして、僕は生まれた時から難病に召されていることを神様に示され、
神様の不思議なお導きで、各地にあるたくさんの教会で、
難病クリスチャンとしての証しをしていくようになりました。
 
ちなみに、僕が神学校に来たかった初めの理由は、
聖書をよく学んで、
天国に行く準備、死ぬ準備(終活)をするためだったけど、
 
こんな風に導かれるとは、まったく思っていませんでした。
神様のご計画は、人間の思いをはるかに超えているんですね。
 
これからのことは祈っているところですが、
来年からも神学校の授業は週1で受けます。(o^∇^o)ノ





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