明日を夢見て~神様と筋ジストロフィーと共に生きる~

保田広輝。神戸市の25歳。クリスチャン。デュシェンヌ型筋ジストロフィー患者で電動車椅子と人工呼吸器を使っている。

神の御国を待ち望んで

2016年08月13日 22時38分41秒 | キリスト教
真の楽観主義者とは、現実を無視して、
単に「なるようになるさ」と、根拠のない希望的観測を抱きながら生きている人ではない。

現実がいかに厳しくとも、
自分には使命があり、苦難には必ず目的があって意味がある、
自分は神様の偉大な目的のために生かされている、
という確信を持っている人のことだ。

苦難には必ず目的があって意味がある!という確信と、
全能なる神様のご計画に対する信頼があるからこそ、
現実の中で闘いながら、
その苦難を、使命を達成するためのエネルギーに転化することができるんだ。

もちろん憂鬱になる時もある。
でも、人間は目の前のことばかり思い煩っていては疲れ果ててしまう。

だから、そんな時こそ、「遠くを見る」ことが必要だ。
広々とした空間に目を向けてこそ、人間は安らぐんだよね。

イエス様を自分の救い主と信じて受け入れたとき、御霊が僕たちの心に住んで下さった。
御霊をいただいている僕たちは、神様の子供とされているから、
すでに神の御国での救いの完成は保証されている。

だから、悩み多きこの世にあっても、
天にある神の御国、やがて訪れる神の御国を仰ぎ見ることで平安を得て、
天からの愛を感じることができるんだ。

【三浦綾子】

「 『使命』という字は、命を使うと書くと聞いた。
なるほど、使命とは命を使うことか。味わい深い言葉なり。

一本の花が命の限りに咲いている。
それもまた使命を果たしているということ。
その人なりにひたすらに生きる、美しいことだ。 」


この記事と合わせて、↓の僕のメッセージも読んでもらえると嬉しいです。

神の摂理に信頼する(この文字をクリックしてください)


【新改訳聖書 ヨハネの黙示録 21章1~5節】

また私は、新しい天と新しい地とを見た。
以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、
神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。

そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。
「見よ。神の幕屋が人とともにある。
神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。

また、神ご自身が彼らとともにおられて、
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。

もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。
なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

すると、御座に着いておられる方が言われた。
「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」

また言われた。
「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」


以下は、本で読んだ箇所を簡単にまとめました。
やがて訪れる神の御国の説明です。

ヨハネ黙示録の最後の21章と22章には、救いの歴史の結論であり、
救いの完成を指し示す、まったく新しい世界の始まりがある。

そこには「聖なる都、新しいエルサレム」と呼ばれる輝かしい永遠の「御国」が啓示されており、
その中心には、神様と小羊(キリスト)との御座がある。

御国において、神様の民は、永遠に神様に仕え、神様の御顔を仰ぎ見るのである。
そこで、人は神様の聖が回復されて、神様との永遠の交わりをもって、共に住むのである。

完成された御国では、 神様と人との関係は、もはや永遠に断たれることはない。
この上なく親密で、至福の交わりである。全宇宙で最も輝かしく美しいものなのである。

「聖なる都、新しいエルサレム」は、「小羊の妻である花嫁」であり、
神様の臨在をあかしする「神の幕屋」とも呼ばれる。
神様と人とが、顔と顔とを会わせ、共に住むのである。

神の都の特徴は「輝き」「光」である。
神様の臨在の輝き、栄光は地上にいる私たちには十分理解することはできない。
それでも、今の地上での礼拝の中で、神の都の栄光の一部を味わうことができる。

やがて神の都においては、神様の臨在の中に私たちが引き入れられ、
圧倒されるような聖さ、愛、真実さにふれることになるだろう。

神の都には、「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」。
神の都での最もすばらしいことは、その民が「神様の御顔を仰ぎ見る」ことである。

神様との深い交わりの中で、私たちの重荷はすべて取り払われて、
私たちの目は、ただ御座におられる神様と小羊(キリスト)にのみ注目し、
その方を永久にほめたたえながら、喜びと感謝を表わす。

これこそ、回復された人間の本来的な姿であり、天における礼拝の姿なのである。

♪賛美「新しいエルサレム」♪




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御言葉は命の水

2016年07月05日 20時17分43秒 | キリスト教


日本キリスト改革派の「教会学校教案誌 vol.61」に、僕のメッセージが掲載されました。
そのメッセージをブログにもUPします♪

タイトル「御言葉は命の水」

【新改訳 ルカの福音書 5章15~16節】

「イエスのうわさは、ますます広まり、多くの人の群れが、話を聞きに、また、病気を直してもらいに集まって来た。しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。」


イエス様は、どんなに忙しい時も、たったひとりで荒野(寂しい所)に退いて、祈っておられました。それは父なる神様と親しい交わりの時間を持ち、父の御声を聞くためであり、父の御心を知るためでした。

神様に選ばれた人がまず導かれる場所は荒野です。私たちは荒野を避けて、居心地の良い場所で休み、自分の力で生きようとしてしまいます。世と同じ価値観で人生を歩もうとするのです。

しかし、御霊は私たちを人生の荒野へ導きます。隠れていた罪の性質や、自分すら気付いていなかった傲慢な心、怒り、といった日頃は浮かび上がることのない、心の奥にあるものが、荒野で追い込まれた時にあらわれてきます。神様はそのような古い性質を打ち砕き、整えてくださり、神様の務めを果たすのにふさわしい者へと、造り変えてくださいます。荒野で神様に取り扱われ、新しい自分に養われていくのです。

荒野は神様の恵みの豊かさを知り、安息を味わう場でもあります。荒野でイスラエルの民が天からのマナで養われたように、私たちも父なる神様が背負ってくださることを知ります。

【新改訳 申命記 1章31節】

「また、荒野では、あなたがたがこの所に来るまでの、全道中、人がその子を抱くように、あなたの神、主が、あなたを抱かれたのを見ているのだ。」


荒野は、ヘブル語で「ミッダバール」、つまり「御声の場、神様の御声を聞く場所」という意味があります。神様が私たちを荒野に導くのは、最高の理由があるからです。神様ご自身が私たちと2人きりになりたいのです。

【新改訳 ホセア書 2章14節】

「それゆえ、見よ、わたしは彼女をくどいて荒野に連れて行き、優しく彼女に語ろう。」


荒野は、神様とのデートコースです。私たちが御声を聞きたいと願う以上に、神様はご自身の声を聞かせたいと願っておられます。しかし、私たちは日常があまりに忙しく、疲れているので、御声を聞き取りにくいのです。だから、神様は私たちと2人きりになれる荒野へ連れ出すのです。

ちなみに、荒野は『水』が流れるなら、人が生きることができる豊かな土地に変わります。

【イザヤ書 43章20節】には、「荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ、わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。」とあります。神様が私たちに与える『水』がわき出る場所は、荒野です。何もない荒野にいるような試練の中で、『命の水』である御言葉が与えられるのです。

神様が私たちに試練を与える目的は、何もない環境の中で、父なる神様に立ち返り、私たちの人生が御言葉によって回復させられて、神様に礼拝と賛美をささげるためです。そして、自分のために生きるのではなく、神の国と神の義を求める人生を生きるために、試練が必要なのです。

大切なのは、試練が速やかに終わることを願うのではなく、何もない荒野にいるような試練の中で、飢え渇いて神様を慕い求め、『命の水』である御言葉を受け取って、神様の御心を自分の心とすることです。

6年前に、難病の私は「35歳で亡くなる」と余命宣告されてから、いつも御言葉を読んで祈っていても、神様の沈黙をずっと感じていて、絶望の中でどうしてよいか分からない時期が長く続きました。神様は共におられないのか?と真っ暗な気持ちに支配されました。

しかし、現実の問題が大きくて、自分の思いに支配されていたので、神様の語りかけを聞く心のスペースがなかったことを、余命宣告から10ヶ月が経った時に、祈りの中で示されたんです。

私は「人生を自分の好きなように生きたい。そのために健康になりたい。」と心の奥で思っていたし、自分が人生の主となっていたので、自分の思いに支配されていました。私には「神様が私の主であり、自分の思いではなく、神様の御心に従って生きる」という気持ちがなかったので、神様の語りかけを聞く心のスペースがなかったんです。

だから、自分の思いに支配されて、神様の語りかけを聞くことができない心の高ぶった状態が罪であると示されて、悔い改めました。自分が人生の主となっていた罪を悔い改めました。そして、神様の御心に従って生きるためには、私の内に御言葉が回復しなければ、何も始まらないという事が示されました。

それからは、「神様が私の主です。私は神様の僕です。御言葉を通して、私に対する神様の御心を教えてください。御言葉がなければ、私は生きることができません。人生に必要な御言葉を与えてください。ただ神様の御言葉に従って生きていきたいのです。」と祈るように変えられていきました。

そして、余命宣告から2年が経った時に、次の御言葉を通して、心が新しく変えられたんですね。

【新改訳 ヨハネの福音書 15章16節】

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」


私は自分の意志で生まれて、自分から望んで生まれつきの難病になって生まれて来た訳ではありません。ということは、私は神様からの任命を受けて、生まれつきの難病の体に選ばれた、と感じたんです。神様が難病の私を造ってくださって、難病の人生を生きていきなさい、と神様が任命してくださったからこそ、私は生まれた時から難病の人生にチャレンジしているんです。

だから、難病の私も神様から愛されているんだ、難病の私も神様の作品なんだ、難病の私は神様の失敗作ではないんだ、と思えるようになりました。それからは、難病を受け入れて、いつも神様から愛されている喜びを感じられるようになったんです。

また、難病は神様から与えられた良いものだと示されました。なぜなら、私はこの難病で生まれて来たからこそ、今の自分の性格や人生になれたし、今まで築き上げて来た人間関係があるからです。ひとりの命は自分に関わっている人たちに何かしらの影響を与えていますし、もし私がこの難病になって生まれて来なかったら、今まで私に関わってくれた人たちの性格や人生が何かしら変わってしまうと思うんです。神様はひとりひとりの人間を用いて働かれますから、神様と人との関係から考えたら、私にとって難病は良いものだと示されました。

私にとって難病の人生と余命宣告は、水がなくては生きていけない荒野にいるような試練ですが、こうして『命の水』である御言葉が与えられて、神様の御心に従って、前向きに生きていけるように変えられました。

クリスチャンである私たちの視点は、「私が、世が、こう言っている」ということではなく、「御言葉が何を言っているか」に合わせることが大切だと思います。御言葉を通して、父なる神様の御心を感じることができるからです。

【マタイによる福音書 4章4節】

イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」


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証しの動画

2016年06月27日 14時22分11秒 | キリスト教


6月12日は、板宿教会(日本キリスト改革派)の男子会・婦人会の合同集会で、
証しをさせていただきました。
本当にありがとうございました!

それと、先月、関キリスト教会で僕が語った『証しによる奨励』の動画を、
教会から許可をいただいて、YouTubeに掲載しました。

よろしければ、観てくださると嬉しいです。




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今回の選挙の争点は憲法改正

2016年06月21日 22時07分23秒 | 政治



↑の動画のように、選挙の争点は憲法改正です。

自民党の改憲案が憲法になったら、
重度障がい者の僕も生きていけない日本になる。

『基本的人権は、国民の義務を果たした者だけに、国が与えるもの』

こういう自民党の改憲案だし、
義務を果たせない障害者などに人権はないのだから、
ナチスがしたように、障害者の大量虐殺さえもできる。

24条『家族は、互いに助け合わなければならない』、
道徳を書いているようだけど、わざわざ憲法で書くと、
「家族で助け合えばいいのだから、社会保障も年金もあげない」こともできる。

しかも、改憲案を読むと、国民の義務がものすごく増えているけど、
義務をすべて果たせない人の切り捨てはいくらでも出来るし、
そんな人たちに人権はないわけだから、北朝鮮と同じだよね。


自民党の憲法改正を阻止するために、今回ばかりは、野党に投票します!

『自民党憲法草案には何が書かれているのか?』
とても分かりやすい♪♪
記事を読むには、この青字をクリックしてください

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神学校でリトリート

2016年06月09日 15時49分28秒 | キリスト教
報告が遅くなりましたが、
5月19日・20日は、関西学院千刈キャンプ場で、
僕のいる神学校でリトリートがありました。

今年のリトリートは、「若者と生きる教会」と題して、
KGK(キリスト者学生会)総主事の大嶋重徳先生と裕香夫人の講演がメインでした。

内容がとっても深くて、
今の自分にとって必要なことをたくさん学びました。
大嶋先生ご夫妻を通して、神様が僕に語ってくださったと感じています。

今の僕の信仰生活があるのは、
これまで忍耐と祈りをもって、
僕に関わってくれた全ての兄弟姉妹の方々の支えがあったから。

僕は中学生になってから、ずっと10代の頃は、
同世代のいない自分の教会はつまらないなぁ、
礼拝は硬すぎて理解できないなぁ、と
不満ながら教会に通い、

教会の先輩方から話しかけられても、
「あぁ、はい、別に大丈夫です。」みたいな愛想のない雰囲気で、
全く可愛げのなかった僕だったのに、

教会の先輩方は、
そんな僕を見捨てず、裁かず、
愛想のない尖っていた思春期の僕に、いつも話しかけてくださり、

教会の子どもとして、ずっと僕を愛してくださったから、
忍耐と祈りをもって、生き方を通して、僕に信仰継承をしてくださったから、

今の僕があるんだなぁ、と講演を聴いて思いました。

このような先輩方のように、果たして僕は教会の方々を愛してきただろうか、
教会の子どもたちの信仰継承のために、責任ある言動をしてきただろうか。。

もちろん若い世代・子どもに、礼拝が理解できるように、キリストの福音が命となるように、
教会の子どもたちが、「自分はこの教会に居場所があるんだ。」と安心できるように、
教会や礼拝のいろいろな改革も必要だけど、

『見かけだけ』変えても意味ないわけで、
何よりも大切なことは、

見返りを求めず、忍耐と祈りをもって、教会の子どもたちを愛し続けること。

子どもたちを、信仰の兄弟・同労者として尊重すること。

子どもたちの前で、正直になって、
イエス様の憐れみがあるから、自分の人生はギリギリセーフなんだと、
ありのままの自分を出すこと。

イエス様の愛に生かされている福音の命をあらわしていくこと。

あらゆるアンテナを張り巡らして、若者に届く言葉を常に探して、考えている、
ご自分が関わる若者ひとりひとりを真剣に考え、神様の家族として心から愛して、
そこから心に響く福音メッセージをつくる、

キリストの命を育むために、若者ひとりひとりの人生・魂に対する、ものすごい努力と情熱、
そのために地道に聖書・神学を学び続ける、

この大嶋先生の信仰の姿から、いちキリスト者として大切なことを学びました。

神学についても、多くの気づきを与えられましたし、
講演の感想をここでは書き切れないけど、

本当に多くの方々に、
大嶋先生ご夫妻の講演を、ご夫妻がされている若者ミニストリーの生きた経験を、
是非とも聴いてほしいです!

大嶋重徳先生の次回の講演会のお知らせは、
ひとつ前の日記でシェアしたので、ご覧ください。











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