明日を夢見て~神様と筋ジストロフィーと共に生きる~

保田広輝。神戸市の25歳。クリスチャン。デュシェンヌ型筋ジストロフィー患者で電動車椅子と人工呼吸器を使っている。

ゼロになる勇気

2016年09月26日 20時07分51秒 | キリスト教
日本キリスト改革派の「教案誌 vol.62」に、
僕のメッセージが掲載されました。
長い文章ですけど、読んでいただけたら嬉しいです。

タイトル「ゼロになる勇気」
 
【詩編23編1節】
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」

 
羊の性格を調べてみると、第一に、羊は臆病です。
群れの中から、はぐれてしまった羊を捕まえようとすると,
不安と恐怖心で、逃げてばかりで捕まえられないそうです。
 
第二に、迷いやすい。羊は羊飼いに連れられて
毎日行き来している道を自分では行きも帰りもできず,
すぐ迷ってしまいます。
 
第三に、頑固です。羊は従順ないっぽう、頑固で,
羊飼いに逆らって自分勝手に進んで行き,
群れから離れて危険なところに行って
自滅するという習性をもっています
 
また、イスラエルは4月から10月くらいまで雨が降らないですし、
羊は放って置くと、草を根元まで食べてしまうので、
そうならないために羊飼いは、羊が草を食べて、
水が飲めるコースを、常にあらかじめ決めておく必要があります。
 
さらに羊は、鼻に脂を塗ってやらないと虫がつき、
毛を刈ってやらないと重くて動けなくなります。
 
このように、羊はとても手が掛かるので、
いつも世話をする羊飼いが必要なのです。
羊は人間そのものの特徴をたとえる家畜として聖書に登場します。
 
羊は存在のすべてを羊飼いに負っています。
羊は羊飼いから離れては何もできません。
 
「主は羊飼い」というのは、自分が弱い羊であること、
羊飼いである神様がいなくては決して平安に生きられないことを
知っている信仰告白です。
 
また、「わたしには何も欠けることがない」というのは、
神様との親しい交わりの中で、豊かに満たされている告白です。
神様は良い羊飼いですから、
私たち羊はこの信仰告白ができるのです。

 
でも、「わたしには何も欠けることがない」と思うことは
なかなか難しいですよね。
 
むしろ、人生の中で「欠け」を感じる人は多いと思います。
不足する。乏しさを感じる。何かを失っていく。
何かが奪われていく。できることができなくなっていく。
そのようなことが人生の中でいくらでも起こります。
人生の最後は自分の命さえも失うことになります。
 
進行性の不治の難病を抱えている私は、
手の指以外は全く動かせない身体で、
人工呼吸器で延命していますし、
医学的には、今後さらに症状が悪化して、寝たきりになり、
残り10年(35歳)で死ぬだろう、と言われています。
 
進行性の難病だから、
以前は当たり前のようにできていた事ができなくなります。
それが死ぬまで繰り返されます。
 
他人から見れば、
当たり前の人生から脱線したように見えてしまうでしょう。
でも、本来は人生に当たり前なんて何ひとつないんですよね。
 
得たものをいつ失うか分からないから、
いつまでもしがみつこうとし、悩み苦しんでしまう。
 
他の人はこれを持っていることが当たり前なのに、
自分には無いって、無くすことが恐いって思うから、
他の人と比べる生き方が続いてしまう。
だから、人はゼロになる勇気が必要なのです。
 
もし得たものを失ったなら、
もしできていたことができなくなったなら、確かに苦しみます。
 
でも、失った後なのに、
失う前の自分の価値観で物事を考えてしまうから、
自分を追い詰めてしまうのです。
 
だから、失ったのなら、今まで抱えてきた人生の価値観を降ろし、ゼロになる勇気を持って、
新しい価値観で生きていく必要があるのです。

 
多くの人は幸福とは所有であると思っています。
ある人は財産や物をたくさん所有することを願います。
ある人は恋人や配偶者ができると幸福になると思います。
だから、失うことを恐れます。
 
しかし、本当の幸福は、
何かを所有して得られるものではありません。
神様と共にいることが本当の幸福なのです。
 
神様は、私たちに「欠け」を自覚させるために、
苦難をお与えになります。
それが苦しく大変であることを知っておられても、苦難を通して、
 
私たちが抱えている価値観、習慣、生活環境などを
きれいに整理させることで、
神様と私たちの関係を妨げているものを取り去ります。
 
そして、それらを全てゼロにして、神様が共にいなければ、
私たちは何もできないことを悟らせて、
私たちの人生を神様に委ねるように、導かれます。
 
今までの生き方を変えることは難しいですが、
クリスチャンはゼロになったとしても、
永遠に失われない神様の救い・復活の希望・永遠の生命を信じているし、
 
神様が共にいてくださる、
神様が日毎に生まれ変わらせてくださる、
という永遠に揺るがない価値観を信じているから、
神様の導きによって、ゼロになる勇気を持つことができるのです。

 
主イエス・キリストは、
【ヨハネによる福音書10章10節~11節】で、
 
「わたしが来たのは、
羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
わたしは良い羊飼いである。
良い羊飼いは羊のために命を捨てる」

 
と言われただけでなく、
事実そのことを実行してくださいました。
 
イエス様は、罪の罰を私たちに代わって引き受けるために、
私たちを罪と死から救うために、十字架で死んでくださいました。
 
そして、死を打ち破り、三日目に復活されたのです。
イエス様が自分の罪のために死なれ、墓に葬られて、
三日目に復活されたことを信じる人は、
罪が赦されて、死んで復活し、
神様と永遠に交わる永遠の命が与えられるのです。
 
神様は私たちを小さなものとは思っておられません。
神様にとって、私たちがどれほど大切な存在であるかは、
神様が何よりも大切な独り子であるイエス・キリストを
十字架につけるほどに、私たちを愛されたことで分かります。
 
私たちは罪人であるにもかかわらず、神様に選ばれて、
イエス様の尊い血潮によって罪ゆるされて、
神様の満ちあふれる愛の中に引き寄せられているのです。
 
【ヨハネの手紙一 4章9~10節】
 
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。
その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。
ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
 
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、
わたしたちの罪を償ういけにえとして、
御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」

 
そして、私たちには、
神様と出会うための礼拝の場が与えられています。
 
礼拝を通して、私たちの救いの根拠である
イエス様の十字架と復活がハッキリと示されます。
 
厳しい社会と苦難の中で絶望し、挫折して、
それでも神様から離れて、
自分の力で生きてしまう失敗を繰り返す私たちが、
 
祈り、悔い改め、助けてくださいと叫び、
罪の赦しと慰めを受け、神様から新たな力を得て、
再び厳しい社会へ出て行けるようにしてくださる
礼拝の場が与えられているのです。
 
礼拝から、私たちの人生は意味あるものに変わっていくのです。

 
人は弱い羊です。誰にでも「欠け」があります。
羊飼いである神様が共におられなければ、
決して平安に生きていけません。
 
だからこそ、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」と
告白できるのだと思います。
 
【コーリー・テン・ブーム】
 
「世の中に目を向ければ、悩みが増すでしょう。
自分の内側をのぞいてみても、落ち込むだけです。
しかし、あなたがキリストを見上げる時、心に安らぎが与えられるのです」
 
【チャック・スミス】
 
「恵みという言葉の根源の意味は「美」です。
聖書における恵みは、『神がその人の真価に関係なく、
与えて下さる好意、贈り物』という意味です。
 
恵みとは、私が自分の力では得ることの出来ないものを
私にくださることです。
 
恵みとは、私にはその価値がないのに
神に受け入れられるということです。」
 
「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。
主のあわれみは尽きないからだ。(哀歌3:22)
 
パウロは「愛は決して絶えることがありません 」と
アガペを説明しました。
 
神はあなたが良い時に愛し、悪い時に憎むのではありません。
神の愛は不変であり、絶えず注がれ、
愛することを止めないのです。」





♪歌詞♪
「私の目を開いてください」

傷ついた時 あなたを思う
この私のために 傷つかれた痛みを
孤独な時に あなたを思う
背をむけてた私を 見ている悲しみを

この苦しさも この悲しさも 必ず希望につながる
その約束が あなたを知るほど 確信となる

主よ どんな時も 私の目を開いてください
あなたの姿 あなたのことばに
今 目を留められるように

主よ どんな時も 私の目を開いてください
そして あなたのゆかれた道に
私を生かしてください

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是非とも読んでください

2016年09月21日 21時21分08秒 | 難病のこと
僕が定期的に通院している八雲病院(北海道)の石川悠加先生のインタビュー記事が、
ヨミドクター(読売新聞)に掲載されています。

八雲病院と石川悠加先生、八雲病院のスタッフの方々は、僕たち患者にとって人生の救世主です。

僕は八雲病院と石川先生に出会えていなければ、今ごろ気管切開を拒否して死んでいたか、
気管切開をして寝たきりになって、生きる希望もなく、絶望しながら毎日を過ごしていたと思います。

石川先生のスピリット・人生や、僕たち筋ジストロフィー患者の苦悩、
気管切開の必要がない人工呼吸療法「NPPV」のことを、
以下のインタビュー記事を通して、たくさんの方々に知ってほしいです。

記事を読むには、青字をクリックしてください。
是非とも読んでいただけたら幸いです。

石川悠加さん(1)全国から患者が集まる「駆け込み寺」に

石川悠加さん(2)「天職」に導いた患者たちとの出会い

石川悠加さん(3)「今がいい」と患者が言えるように 理念を合わせてチーム医療

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神が土台の人生

2016年09月08日 22時02分43秒 | キリスト教
先日のラジオ関西「キリストへの時間」の放送で、
僕の証しメッセージが流れました♪

番組のホームページに、その録音が掲載されたので、
よろしければ、聴いてくださると嬉しいです。

録音はこの赤字をクリックしてください

文字起こしは↓です。

タイトル「神が土台の人生」

【新共同訳聖書 詩編40編2~3節】

「主にのみ、わたしは望みをおいていた。
主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。
滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ、
わたしの足を岩の上に立たせ、
しっかりと歩ませ、」


この詩編の冒頭には、「主にのみ、私は望みをおいていた」とあります。
原文のヘブライ語では、神様が祈りに応えてくださることを
「待って、待って、待ちつづけた」というような意味になります。

ただぼんやりと待つのではなく、
心の底から神様を待ち望む、
耐え忍んで神様を待ち望む、という姿勢が、
この意味に込められています。

続けて、「滅びの穴、泥沼」とありますが、
これは自分の力では絶対に這い上がることができない場所、
死の世界を意味します。

つまり、この詩編を書いた人は、
自分ではどうしようもできない苦しみの中で、
神様に助けを祈りながら、待って、待って、待ちつづけて、
神様が祈りに応えて救い出してくださった、と言うのです。

そして、滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げてくださった神様は、
わたしの足を岩の上に立たせ、
しっかりと歩ませてくださるお方です。

神様は、私たちの人生を確かなものにしてくださるお方なのです。

神様を知らない人はみんな、
自分自身を土台にして生きています。

でも、人生には自分ではどうしようもできない苦しみがありますし、
いつ死ぬか分からない自分自身を、
人生の土台に置くことは、危険なことだと思うのです。

でも、神様は、
イエス・キリストを信じる人たちを死の世界から救い出してくださって、
「岩」であり、確かな土台である神様に
支えられる人生へと導いてくださるのです。

イエス・キリストを信じて、神様と共に歩むならば、
私たちの人生は確かなものになります。

ちなみに、
私はデュシェンヌ型筋ジストロフィーという治療法のない難病を抱えています。

いま25歳ですが、ドクターから、余命は残り10年で、
あと数年で寝たきりになると言われています。

いま身体は手の親指だけしか動かせなくて、
電動車椅子と24時間ずっと人工呼吸器を使って生きています。

かつての私は自分を土台にして生きていました。

ひとりで生きていける健康な自分、弱さのない自分、社会で成功する自分、
そういう自分を目指していました。

だから、こんな難病になった自分は、なんて惨めなんだ、
こんな難病で何もできない自分は生きる意味すらない、
と自分の価値を自分で決めていました。

自分を土台にして生きていたら、
自分の価値を自分で決めてしまうので、
私はずっと苦しかったです。
生ける屍のように生きていました。

でも、自分ではどうしようもできない難病の苦しみの中で、
神様に祈りながら、待って、待って、待ちつづけることで、
聖書と祈りを通して、神様がこのように応えてくださいました。

神様が難病の私をつくってくださった、
私は神様から望まれて生まれてきた、
私も神様の作品で、難病の私は神様の失敗作ではない、
と神様が語ってくださったのです。

自分の価値を自分で決めたら、辛いだけです。

でも、苦しみの中にあっても、
神様の言葉である聖書を通して、
自分を捉えていくことで、
ありのままの自分を受け入れていけますし、

聖書と祈りを通して、
いつも神様から愛されていることを感じられるから、
難病の苦しい人生でも、生きる力と喜びが湧いてくるんですよね。

かつての私は自分を土台にして生きていたので、
難病という大きな苦しみに直面したら、
生きる意味がまったく分からなくなり、
生ける屍のようになってしまいました。

でも、今は神様を土台にして、
神様の言葉である聖書を土台にして、
神様の支えを感じながら、
人生をしっかりと歩んでいけるように変えられました。

そして、難病じゃなければいいのになんて、今は思いません。

私は、わたしという人間であることが幸せですし、
神様が私をこうお創りになったのには、確かな理由があるからです。

神様は、「私は難病だけど、こう生きている。
難病であっても、人生をしっかりと歩んでいける。」ということを、
人に見せなさいっていう機会をお与えになったのだと思います。

私は難病だからこそ生きる意味があるのです。

神様を人生の土台とするとき、絶望的な状況でも、乗り越えることができます。

病気、仕事、学校、様々な人間関係の中の苦しい状況でも、
祈りながら、耐え忍んで神様を待ち望んでいくとき、
神様は必ず応えてくださいます。
泥沼から引き上げてくださいます。

そして、神様は私たちの人生をしっかりと歩ませてくださるのです。

♪メッセージで使用した賛美「呼び求める」♪




【歌詞】

荒野さまよい 行き場うしない
たどり着く 御前に

わがたましいは 探し求めた
生ける水の川を

へりくだり 飢え渇いて
待ち望む あなたを

いま切に呼び求める
こたえてくれるから


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大津福音自由教会で証し

2016年09月03日 21時25分31秒 | キリスト教
8月28日は、大津福音自由教会の主日礼拝で、
証し奨励をさせていただきました!

多くの方々が礼拝に集ってくださって、
会堂がいっぱいになったので、嬉しかったです。(*^_^*)
 
今回は、僕が礼拝の賛美を選ぶことになり、
礼拝で賛美を選ぶことは初めてだったので、
貴重な経験になりました♪
 
無牧の教会なので、今回の依頼が確定してから、
僕の証しが教会の方々の励ましになりますように、
とずっと祈ってきました。
 
昼食の交わりの時に、
おひとりおひとりが証しの感想を述べてくださって、
ゆっくりと分かち合いの時間を持つことができました。
 
礼拝のすぐ後に、
おひとりおひとりの証しの感想や分かち合いを直に聞ける機会って、なかなかないので、
本当に感謝でした。(o^∇^o)ノ
 
大津福音自由教会は、子供たちが多くて楽しい教会で、
教会の方々が家族のようにひとつとなっているように感じたし、
僕は良い意味で緊張感なく、
以前から教会の方々と何度もお会いしているような感覚で、
証しを語ることができました。
 
教会のみなさまが、あたたかく迎えてくださって、
神様の恵みあふれる素敵な1日でした。(o^∇^o)
 
教会のみなさま、心からありがとうございました!

2016年8月28日 大津福音自由教会で証し









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神の御国を待ち望んで

2016年08月13日 22時38分41秒 | キリスト教
真の楽観主義者とは、現実を無視して、
単に「なるようになるさ」と、根拠のない希望的観測を抱きながら生きている人ではない。

現実がいかに厳しくとも、
自分には使命があり、苦難には必ず目的があって意味がある、
自分は神様の偉大な目的のために生かされている、
という確信を持っている人のことだ。

苦難には必ず目的があって意味がある!という確信と、
全能なる神様のご計画に対する信頼があるからこそ、
現実の中で闘いながら、
その苦難を、使命を達成するためのエネルギーに転化することができるんだ。

もちろん憂鬱になる時もある。
でも、人間は目の前のことばかり思い煩っていては疲れ果ててしまう。

だから、そんな時こそ、「遠くを見る」ことが必要だ。
広々とした空間に目を向けてこそ、人間は安らぐんだよね。

イエス様を自分の救い主と信じて受け入れたとき、御霊が僕たちの心に住んで下さった。
御霊をいただいている僕たちは、神様の子供とされているから、
すでに神の御国での救いの完成は保証されている。

だから、悩み多きこの世にあっても、
天にある神の御国、やがて訪れる神の御国を仰ぎ見ることで平安を得て、
天からの愛を感じることができるんだ。

【三浦綾子】

「 『使命』という字は、命を使うと書くと聞いた。
なるほど、使命とは命を使うことか。味わい深い言葉なり。

一本の花が命の限りに咲いている。
それもまた使命を果たしているということ。
その人なりにひたすらに生きる、美しいことだ。 」


この記事と合わせて、↓の僕のメッセージも読んでもらえると嬉しいです。

神の摂理に信頼する(この文字をクリックしてください)


【新改訳聖書 ヨハネの黙示録 21章1~5節】

また私は、新しい天と新しい地とを見た。
以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、
神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。

そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。
「見よ。神の幕屋が人とともにある。
神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。

また、神ご自身が彼らとともにおられて、
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。

もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。
なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

すると、御座に着いておられる方が言われた。
「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」

また言われた。
「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」


以下は、本で読んだ箇所を簡単にまとめました。
やがて訪れる神の御国の説明です。

ヨハネ黙示録の最後の21章と22章には、救いの歴史の結論であり、
救いの完成を指し示す、まったく新しい世界の始まりがある。

そこには「聖なる都、新しいエルサレム」と呼ばれる輝かしい永遠の「御国」が啓示されており、
その中心には、神様と小羊(キリスト)との御座がある。

御国において、神様の民は、永遠に神様に仕え、神様の御顔を仰ぎ見るのである。
そこで、人は神様の聖が回復されて、神様との永遠の交わりをもって、共に住むのである。

完成された御国では、 神様と人との関係は、もはや永遠に断たれることはない。
この上なく親密で、至福の交わりである。全宇宙で最も輝かしく美しいものなのである。

「聖なる都、新しいエルサレム」は、「小羊の妻である花嫁」であり、
神様の臨在をあかしする「神の幕屋」とも呼ばれる。
神様と人とが、顔と顔とを会わせ、共に住むのである。

神の都の特徴は「輝き」「光」である。
神様の臨在の輝き、栄光は地上にいる私たちには十分理解することはできない。
それでも、今の地上での礼拝の中で、神の都の栄光の一部を味わうことができる。

やがて神の都においては、神様の臨在の中に私たちが引き入れられ、
圧倒されるような聖さ、愛、真実さにふれることになるだろう。

神の都には、「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」。
神の都での最もすばらしいことは、その民が「神様の御顔を仰ぎ見る」ことである。

神様との深い交わりの中で、私たちの重荷はすべて取り払われて、
私たちの目は、ただ御座におられる神様と小羊(キリスト)にのみ注目し、
その方を永久にほめたたえながら、喜びと感謝を表わす。

これこそ、回復された人間の本来的な姿であり、天における礼拝の姿なのである。

♪賛美「新しいエルサレム」♪




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