京都市上京区にある本法寺へ行ってきた。堀川通りを北上し、途中東側へ入るのだがよくわからない。ようやく山門を見つけて、近くにいた人に駐車場を尋ねてみると、堀川通りに小さな入り口があるとのこと。そちらへ回ると確かに本法寺と書かれた小さな看板があった。車を入れるともうそこは境内の中だった。確かに堀川通からは非常に分かりにくい。すぐ隣に裏千家の茶道資料館があるのでそれが目印となる。
本法寺はそれまで全く名前も聞いたことがなかった。京都市内の主なお寺は大概行ったが、この寺院のことは知らなかった。たまたまネットの地図で京都市内のお寺を調べていたら、結構広い境内を持つ本法寺を見つけて行くことにした。
沿革についてはパンフレットに載っていた文章を下に載せておくが、かなり由緒のあるお寺だ。
山門を入ると、各建物のほとんどが京都府の登録有形文化財に指定されている。また宝物として数多くの重要文化財を有しており、専用の宝物館もある。
本堂は思いの他大きく迫力がある。二層の多宝塔は優雅な造形をしており、内部への入口となる庫裏も、如何にも大きなお寺としての風格がある。拝観料を納めて中に入ると、すぐ国の史跡に指定されている見事な庭園の一部が広がる。この庭園は本阿弥光悦によるものと言われ、彼の作品として唯一残っているもの。
そしてなんといってもすごいのが、宝物館内の長谷川等伯による仏涅槃図。これもパンフレットにあった解説を載せておく。レプリカとはいえ、縦の長さ10m というのはド迫力というしか言いようがない。残念なのは、このレプリカが約30年前のもので、各パーツに分けた写真を引き伸ばして組み合わせたものなので、いかんせん全体がぼやっとしている。今現在なら、高精細なデジタル複製があちこちの寺院でも行われているので、是非そうして欲しいものだと思う。修行僧の若い女性のお坊さんに言ったところ、なかなか厳しいですね、というお答えだった。相当な金額がかかるようだ。しかし、必見と言えるほどの見事なものだ。涅槃図としては日本一の大きさだという。
そしてつい先日、国の重要文化財に指定された日親上人の絹本著色日親像も、レプリカではあるものの掲げられていた。宝物館内部には他にも多数の重要文化財が展示されており、かなり見ていて満足感がある。宝物館から奥へ進むと、庭園の中心部分が現れ、とても大都会の住宅街の中とは思えないような落ち着いた光景が広がる。また本法寺は本阿弥家の菩提寺でもあって、本阿弥家一族や長谷川等伯らの墓もある。
本法寺は日蓮宗僧侶である日親上人によって開かれたお寺だ。彼は信仰に深く帰依し、自分たちの信仰こそが唯一のものだとして、他の宗派を否定し攻撃するほどだった。厳格な信仰の強さから、足利時代は世の中が乱れ、そのことを将軍に申し出たところ、逆に強い反感を買い拷問を受けることになる。それでも彼は自分の意志を曲げることなく貫き通したと言う。また後には他の宗派から将軍へ批判の申し出があり、本法寺が焼かれたりもしている。このような攻撃や弾圧を受けながらも、日親上人の後を継いだ僧侶達が、信仰を守り通し現在に至っている。
日蓮宗が他の宗派と異なって、ある意味我が道を行くといった独自性を持つのも分かる気がする。そういった点では日本の仏教宗派の中では、かなり厳格な信仰を持っているのではないかと言える。決して有名ではないお寺だが、境内も宝物館も枯山水の庭園もとても見応えがある。
『叡昌山本法寺は、室町時代に活躍した日蓮宗僧侶、久遠成院日親上人(一四〇七~八八)によって開創されました。その時期や場所は諸説ありますが、永享八年(一四三六)に東洞院綾小路で築かれた「弘通所」が始まりとされています。その後、永享十二年(一四四〇)に、日親上人の幕府諫曉が原因で最初の破却に遭い、康正年間(一四五五~五七)に四条高倉で再建しました。寛正元年(一四六〇)年、日親上人の他宗派批判が原因で、二度目の破却に遭った本法寺は、三条万里小路に移転して復興を果たすと、この寺を一門の中心地に定め、多くの僧侶たちが棲み繁栄しました。
しかし、天文五年(一五三六)の法難によって一時は都を追われ、大坂堺に避難する事となりました。後に一条戻橋付近で再興し、さらに天正十五年(一五八七)、豊臣秀吉の聚楽第建設に伴う都市整備の影響で現在地に移転しました。その時の貫首日通上人は、外護者であった本阿弥光二・光悦親子の支援を受けて堂塔伽藍を整備し、本法寺は京都の町に一大栄華を誇るまでに及びましたが、天明八年(一七八八)に襲った大火で経蔵と宝蔵を残すだけとなりました。その後、檀信徒達の堂塔再建に対する願いは着々と結実され、今の本法寺となりました。』
『本堂・開山堂・多宝塔・仁王門・庫裡・書院・大玄関・唐門・鐘楼・経蔵・宝蔵・石橋・棟札十三枚はすべて京都府指定有形文化財に指定されております。
佛涅槃図【原寸大複製】(真筆は国指定重要文化財)長谷川等伯
蓮池図【複製】(真筆は国指定重要文化財)伝舜挙
絹本著色日親像 (真筆は国指定重要文化財)伝狩野正信 』
(他HPより)
『長谷川等伯 大涅槃図
本法寺の「佛涅槃図」(国指定重要文化財)は京都三大涅槃図のひとつに数えられ、その大きさは縦約10m、横約6mにおよびます。作者は安土桃山時代から江戸初期を代表する絵師長谷川等伯(1539 ~ 1610)で、自身の家族や心を寄せた日蓮宗僧侶らの供養を目的に、61歳のときにこの絵を描き本法寺に奉献しました。
能登国七尾に生まれた等伯は、染物を生業とする長谷川家の養子となり、故郷で絵師として活動しました。その後、養父母の死をきっかけに京都へ移り住み、菩提寺の本山であった本法寺を拠点に活躍し、数多くのすばらしい作品を遺しました。当山では通常、佛涅槃図の複製を展示していますが、春季特別寺宝展の1ヶ月間限定で等伯の正筆をご覧いただけます。』
(本法寺パンフレットより)