夜更けにならないと文字が書けない、そんな夜更けとは一体なんだろう。白昼脳に蓄えた自縄自縛の規律が解ける頃合のこととでも言うのだろうか。昼と夜とは、太陽の周りを廻り、地軸を傾けながら自転することから生まれる光の綾かとも思われるが、その果てしない明暗の繰り返しのなかで、人は様々に心の地層を殖やし膨らまし、やがて褶曲に裏面を、断層に怪異を隠し育んだ。これら測り知れない隠秘の種子が、一体いつどこからどのようにして現象して来たものなのか、人一人の心の深淵に降りて行くだけでその起源に辿り着くことは道理的にあり得ない。
夜更けに結晶を生成させるという鉱物こそが我々の祖先であるとしたら、なおさらに。
岩崎彌太郎三菱会社長たり 一時海上王と呼ばれ大に驕奢を極む 或年の夏某紳士彌太郎を其邸に訪ふ 彌太郎将に日本料理を饗せんとす 紳士心に以為(おもへら)く 岩崎は名たヽる富豪なれば定めて山海の珍味を二汁五菜に過ぐる者あらんと窃かに喉を鳴らして膳の上を見れば何ぞ図らん 洗魚(あらひ)は皿に四五切吸物は椀の底に一口半あるのみ 紳士案に相違して思(おもへ)らく 岩崎の贅沢は世に隠れなきことなり 然るに実際は寧ろ吝嗇なりと云ふて可なりと 仍(よつ)て先づ一箸を試む 彌太郎即ち下婢を呼びて残れる所を捨て更に新鮮の品を侑(すヽ)めしむ 一口にして交へ一甞(なめ)にしてまた換ゆ 斯の如くすること殆んど数(す)十回 客始めて岩崎の贅沢に驚く
(「幕末明治英雄裏面史」 鈴木光次郎)
逢ふと必ず志賀直哉を賞めてゐた人。私は芥川氏の親切な心だけにより逢はなかつた。皮肉には一度も逢はない。最初に見たときはまだ殺人したことのない刀を思つた。二度目には街を歩かぬ学者。三度目には竈の前に坐つた陶器師。四度目には疲れた兄貴。五度目には謙遜な好紳士。六度目には憂鬱な詩人。七度目には、羽根の生えた老人。八度目には睡眠薬の碎けた白い粉が、梯子の上に散つてゐた。
(「考へる葦」 横光利一)
五六間行くか行かないうちに、又一人土手から飛び下りたものがある。――
「轢死ぢやないですか」
三四郎は何か答へようとしたが一寸声が出なかつた。其うち黒い男は行き過ぎた。是は野々宮君の奥に住んでゐる家の主人(あるじ)だらうと、後を跟けながら考へた。半町程くると提灯が留つてゐる。人も留つてゐる。人は灯を翳した儘黙つてゐる。三四郎は無言で灯の下を見た。下には死骸が半分ある。汽車は右の肩から乳の下を腰の上迄見事に引き千切つて、斜掛(はすかけ)の胴を置き去りにして行つたのである。顔は無創である。若い女だ。
三四郎は其時の心持を未だに覚てゐる。すぐ帰らうとして、踵を回らしかけたが、足がすくんで殆んど動けなかつた。土手を這ひ上つて、座敷に戻つたら、動悸が打ち出した。水を貰はうと思つて、下女を呼ぶと、下女は幸ひに何も知らないらしい。しばらくすると、奥の家で、何だか騒ぎ出した。三四郎は主人が帰つたんだなと覚つた。やがて土手の下ががやがやする。それが済むと又静になる。殆んど堪へ難い程の静かさであつた。
三四郎の眼の前には、ありありと先刻の女の顔が見える。其顔と「あゝあゝ……」と云つた力のない声と、其二つの奥に潜んで居るべき筈の無残な運命とを、続合はして考へて見ると、人生と云ふ丈夫さうな命の根が、知らぬ間に、ゆるんで、何時でも暗闇へ浮き出して行きさうに思はれる。三四郎は欲も得も入らない程怖かつた。たゞ轟(ぐわう)と云ふ一瞬間である。其前迄は慥に生きてゐたに違ない。
(「三四郎」 夏目漱石)
子曰く、巧言令色、鮮し仁。
孔子が曰はれるに、言葉上手に人の心を迎へようとしたり、顔色を作つて人の心にとり入つたり、うはべばかり飾るやうな人は、本心の徳、仁の心が少いのである。いや殆どないと言つてもよい。
(「平易に解いた論語講話」 杉田篤)
猫人のためにかたる
江戸増上寺の脇寺の徳水院に久しく飼れし赤猫あり。ある時梁(うつばり)の上にて鼠をおひまはしけるに。何としたるにや。取りはづして梁の下へおち。南無三宝と大こゑして云ひしかは。人々聞つけ。扨は猫またぞや。粗相なる化(ばけ)やうやと云ひければ。それより。いづくへ逃げさりしか。ふつに見えざりし。元禄年中の事なり。
大小男子(なんし)
南部信濃守殿へ国方(くにもと)より石力雲藏とてたけ七尺五寸。杉臺右衛門とて長(たけ)三尺一寸ある男を。めつらしとて連たまひし。雲藏か右の袖口より臺右衛門訇入(はいつ)て。左の方へぬけ出(いで)し。誠に過不及のたがひなり。在江戸の中人々に見せたまひし。
(「新著聞集」)
★前世紀後半のイギリス劇壇に咲きほこつた一輪の花リリー・ラングトリーという女優がいた。美しく才豊かな彼女は、イギリス海峡の小さな島ジャージー島の牧師を父として1852年生まれた。彼女は輝やかしい美貌と溢れんばかりの才気の持主で、イギリスのみか、自分の力だけで、アメリカ巡業をなしとげたこともあるくらいだつた。
★さて、リリーは故郷のジャージー島の毛糸で編んだ、身体にぴつたり合つたジャケットを着て人々の前に現われた。・・・・・・こうしてジャージーの名は知られた。
★でも、いつか人々はその名を忘れてしまつた。そして30年後、パリのデザイナーのガズリエレ・シャネルが、彼女のコレクション(自作発表の会)でシンプルなシルエットのジャージーのドレスを発表し、今日の流行の緒をつくつた。
(『宝石』 ’57年5月?)
と思いたい。