美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

文事・宣伝に通じたえらい人達がちゃちな話の種を大ごとに仕立てて商売などしていたら、結局とんだ笑い種になるだけだろうと分別ある大人は同情しつつ黙殺する(尾佐竹猛 大森洪太)

2024年05月18日 | 瓶詰の古本

 窃盗犯人堀本貞一、重禁錮一年に処せらる。といつた丈けでは三面欄も難有がられず、申訳的に行数を塞ぐに過ぎないが、この記事が明治二十五年の諸新聞に掲げられると、世人はアツト驚いたのである。
 といふのは、当時文壇に覇を称へた硯友社一派の柵山人の本名がこの堀本であつたのである。他の文章を剽んだとか、ひとの趣向を無断借用したとかいふ風の泥棒なら文壇では敢て珍しいことではないが――といふと甚だ失礼千万な言であるが、これは現今の文壇を指すのではない、昔の話であるから勘弁を願ひたい――いやしくも文壇一方で名のある小説家が、真個の窃盗犯人、それも一度や二度でなく、他人の邸宅へ忍び入つて金品を盗んだといふのであるから、いくら神経過鈍な人間でも、これや驚かずには居られない。
 これは珍種、とばかりに都下の新聞は一齊に書きたてた。当時のインテリは寄ると触るとこの話で持ち切つた。なかにも憤慨もし、慨嘆をしたのは文士連中であつた。我等の名誉を汚すものだと泣いたものさへあつた、といふ程その頃の文壇は純真であつたのである。
 この間にあつて冷然として、世評を看過して居つたのは、硯友社とは別に文壇の一方に割拠して居つた森鷗外であつた。駈けつけた新聞記者が、御感想はと切り出すと、フヽンと鼻であしらつて曰く、小説家が泥棒をしたのではないよ。記者はあつけにとられ、ヘエー。鷗外は曰く、泥棒が小説を書いて居つたのだよ。
 この話はこれきりであり、鷗外の挿話として残つて居るだけであるが、世の中には、この種の論鋒は少くはない。
 幕末の志士、日柳燕石は博奕が好きであつた。マア一面からいへば博徒であつた。しかも一面は勤王の志士として著聞し、その詩文なども秀でたものであつた。そこで或人が忠告して、いやしくも天下の志士たり学者たるものが博奕を為すとは徳を傷つくること大なるものだといつたが、燕石の答は曰く、学者が博奕を好むのは良くないかも知れぬが、博徒が学を好み、慷慨の志ありとしたら褒めて貰つてもよいだらう。

(「防犯科學全集第八巻 特異犯篇」 尾佐竹猛 大森洪太)

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