五六間行くか行かないうちに、又一人土手から飛び下りたものがある。――
「轢死ぢやないですか」
三四郎は何か答へようとしたが一寸声が出なかつた。其うち黒い男は行き過ぎた。是は野々宮君の奥に住んでゐる家の主人(あるじ)だらうと、後を跟けながら考へた。半町程くると提灯が留つてゐる。人も留つてゐる。人は灯を翳した儘黙つてゐる。三四郎は無言で灯の下を見た。下には死骸が半分ある。汽車は右の肩から乳の下を腰の上迄見事に引き千切つて、斜掛(はすかけ)の胴を置き去りにして行つたのである。顔は無創である。若い女だ。
三四郎は其時の心持を未だに覚てゐる。すぐ帰らうとして、踵を回らしかけたが、足がすくんで殆んど動けなかつた。土手を這ひ上つて、座敷に戻つたら、動悸が打ち出した。水を貰はうと思つて、下女を呼ぶと、下女は幸ひに何も知らないらしい。しばらくすると、奥の家で、何だか騒ぎ出した。三四郎は主人が帰つたんだなと覚つた。やがて土手の下ががやがやする。それが済むと又静になる。殆んど堪へ難い程の静かさであつた。
三四郎の眼の前には、ありありと先刻の女の顔が見える。其顔と「あゝあゝ……」と云つた力のない声と、其二つの奥に潜んで居るべき筈の無残な運命とを、続合はして考へて見ると、人生と云ふ丈夫さうな命の根が、知らぬ間に、ゆるんで、何時でも暗闇へ浮き出して行きさうに思はれる。三四郎は欲も得も入らない程怖かつた。たゞ轟(ぐわう)と云ふ一瞬間である。其前迄は慥に生きてゐたに違ない。
(「三四郎」 夏目漱石)