中国の「実用理性」〔功利的人格〕と西洋の実用精神にはなんの共通点もない。〔中略〕
それ〔西洋の実用精神〕は経験的事実をもって真理を検証する基準としている。〔中略〕それはただ真実であるか否かを問うだけで、政治的利益と道徳的善悪を問わない。真実が宗教的タブーや権威の意志に反するとき、真実が政治的権力や道徳規範および社会常識と衝突するとき、実証主義の精神は真実だけに従う。
一方、中国の「実用理性」は、事実や真実と向き合うことを最も嫌い、権威を疑うことを最も恐れ、むしろ君主の命に従って真理に従おうとせず、聖人の教戒を信じて自己判断を信じようとせず、古籍を信じて事実を信じようとしない。現実において、「実用理性」は政治権力と道徳規範を支えとし、ただ政治権力と道徳規範だけに従う。 (「第7章 真理を堅持せぬ功利的人格」 本書192-193頁)
学術において、中国の知識人はめったに経験的事実と向き合うことはなく、仮説を提出して実験でそれを検証しようとしない。そして、難題にぶつかるごとに教条に救いを求め、文字の考証をもって化学実験に代え、古人の遺訓をもって理論仮説に代えるのである。
漢代の経学の大御所にはじまり、数千年間、中国の文化人は文字考証のゲームをしてきた。そして山積みになった注、疏、釈義が、中国の最も正統な学術研究の対象となった。デユーイのプラグマティズム哲学の影響を深く受けた胡適でさえ、西洋の実用精神と中国の考証の伝統との根本的な違いをわきまえていなかった。 (「第7章 真理を堅持せぬ功利的人格」 本書193頁)
文字の考証は学問の方法のひとつであり、それはただ実証できるだけで、発見することはできない。発見は経験的観察、理論の仮説、実験の証明によって完成するものであり、またインスピレーションの啓示によって導かれることもある。しかも、学問の実証の方法についてだけいっても、文字の考証は一番重要なものではない。なぜなら、本の上のいかなる理論もかならず実験による実証を経てはじめて真理性をもつからである。 (「第7章 真理を堅持せぬ功利的人格」 本書193頁)
ところが中国が書籍と文字の考証をかくも重んずるその深層の原因は、これらの書籍と文字が権威として奉られている者たちによって書かれているからということにある。権威は永遠に正しいというのが考証をおこなう心理的前提であり、後世の人がしなければならないのは、ただ考証のなかから権威にたいする誤解を排除することだけである。もし権威が最初から間違っていたなら、あるいは権威も歴史とともに時代遅れの骨董になるものであるなら、自分たちの考証はそれこそまったく徒労な仕事ではないのかといった問題を、中国の知識人はほとんど考えたことがない。 (「第7章 真理を堅持せぬ功利的人格」 本書193-194頁)
これ以上、何を付け加える必要も認めぬ。
(徳間書店 1992年9月)
それ〔西洋の実用精神〕は経験的事実をもって真理を検証する基準としている。〔中略〕それはただ真実であるか否かを問うだけで、政治的利益と道徳的善悪を問わない。真実が宗教的タブーや権威の意志に反するとき、真実が政治的権力や道徳規範および社会常識と衝突するとき、実証主義の精神は真実だけに従う。
一方、中国の「実用理性」は、事実や真実と向き合うことを最も嫌い、権威を疑うことを最も恐れ、むしろ君主の命に従って真理に従おうとせず、聖人の教戒を信じて自己判断を信じようとせず、古籍を信じて事実を信じようとしない。現実において、「実用理性」は政治権力と道徳規範を支えとし、ただ政治権力と道徳規範だけに従う。 (「第7章 真理を堅持せぬ功利的人格」 本書192-193頁)
学術において、中国の知識人はめったに経験的事実と向き合うことはなく、仮説を提出して実験でそれを検証しようとしない。そして、難題にぶつかるごとに教条に救いを求め、文字の考証をもって化学実験に代え、古人の遺訓をもって理論仮説に代えるのである。
漢代の経学の大御所にはじまり、数千年間、中国の文化人は文字考証のゲームをしてきた。そして山積みになった注、疏、釈義が、中国の最も正統な学術研究の対象となった。デユーイのプラグマティズム哲学の影響を深く受けた胡適でさえ、西洋の実用精神と中国の考証の伝統との根本的な違いをわきまえていなかった。 (「第7章 真理を堅持せぬ功利的人格」 本書193頁)
文字の考証は学問の方法のひとつであり、それはただ実証できるだけで、発見することはできない。発見は経験的観察、理論の仮説、実験の証明によって完成するものであり、またインスピレーションの啓示によって導かれることもある。しかも、学問の実証の方法についてだけいっても、文字の考証は一番重要なものではない。なぜなら、本の上のいかなる理論もかならず実験による実証を経てはじめて真理性をもつからである。 (「第7章 真理を堅持せぬ功利的人格」 本書193頁)
ところが中国が書籍と文字の考証をかくも重んずるその深層の原因は、これらの書籍と文字が権威として奉られている者たちによって書かれているからということにある。権威は永遠に正しいというのが考証をおこなう心理的前提であり、後世の人がしなければならないのは、ただ考証のなかから権威にたいする誤解を排除することだけである。もし権威が最初から間違っていたなら、あるいは権威も歴史とともに時代遅れの骨董になるものであるなら、自分たちの考証はそれこそまったく徒労な仕事ではないのかといった問題を、中国の知識人はほとんど考えたことがない。 (「第7章 真理を堅持せぬ功利的人格」 本書193-194頁)
これ以上、何を付け加える必要も認めぬ。
(徳間書店 1992年9月)