書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

司馬遼太郎 『歴史と風土』

2005年11月01日 | 日本史
 再読。
●冒頭の「日本、中国、アジア」(昭和46・1971年7月)で示される洞察にあらためて敬服。

“資本主義というのは官吏が全部お金を吸いあげていく制度だと思っているのが東アジアです” (本書28頁)
 ――「東アジア」とはここでは儒教文化圏を指す。下の「アジア」も同じ。

“福沢諭吉が『脱亜論』を書いたり、脱亜論的なことは今の知識人には「アジアの中にいるくせに脱亜論などといいやがって」と評判が悪いですけれど、これは福沢も間違っているし、それを批判する側もまちがっている。日本は始めから脱亜なんです。(略)アジアではない、アジア的な原理で動いてきたことはないんだということは、はっきりしておかなければならない大事な、そしてあたりまえの平凡なことだと思います” (本書29頁)
 ――「アジア的な」とは、「社会・政治体制としての儒教の」という意味。

●以下は本書収録「堺をめぐって」(昭和48・1973年12月)からの抜き書き。

“(加藤)清正は満州の国境近くまで猛進します。ですから後世はそれに較べて(小西)行長をつまらない男のようにいいますけれども、行長は当時数少ない世界性を身につけていた人間ですし、カトリックでもあり、貿易業者でもあり、この戦さ(文禄・慶長の役)のバカらしさをよく認識していたと思います。清正の戦国武将的な勇猛さが讃えられて、行長が評価されないというのは、日本人の性格はあまり当時も今も変わっていないということでしょうかね” (本書180頁)

 私は、清正が好きだ。しかし、少なくとも文禄・慶長の役に関しては評価するのは行長である。
 いまの若い人たちはどうなのだろう。(じじくさ。)

(文藝春秋 1998年10月)

▲上と関係のあるような、ないような話ふたつ。
 
 1.小風秀雅編『日本の時代史』23「アジアの帝国国家」(吉川弘文館 2004年4月)の扉に、明治23年の大日本帝国憲法発布を仮装して祝う東京市民の錦絵が飾られている(勝月画「憲法発布上野賑」)。その画中、女性(芸者)の男装はまだ良いとして、男性が戦国武将のごとき鎧兜姿なのはどういうわけだろう。キャプションでも指摘されているように、発想が理解できない。

 2.『日本国憲法』「前文」(講談社学術文庫 1985年3月より)

 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

 目下の憲法改正論議は、要は「前文」にある「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと」いう、「崇高な理想」を取り下げるかどうかというところにある。“普通の国になる”とは、煎じ詰めればそういうことだ。
 この背景には、「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる」のは、あまりにも現実離れしていたという戦後60年の反省がある。隣り合った国々を見ればよい。「自国のことのみに専念して他国を無視」する国ばかりではないか。
 しかしそれが普通の国というものである。普通の国とは、「平和を愛する諸国民の公正と信義」など信頼しない国のことである。普通の国は、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において名誉ある地位を占めたい」とは思わない。そもそも国際社会が本当に「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる」と考えていない。ついでにいえば東アジアの儒教文明国家が唱える“友好”とは、安定した対等関係ではなくて安定した上下・主従関係のことである。中国・北朝鮮に至っては「国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」という「政治道徳の法則」を「人類普遍の原理」として認めようとすらしない(韓国も近頃どうも怪しくなってきたようだ。李朝時代の衛正斥邪思想に逆戻りしている。さらにいえばロシアは共産時代どころか帝政時代へ逆戻りしたとしか思えない)。
 ともあれ、周辺国家が普通の国ばかりであるのなら、こちらもある限度、普通の国に戻るほかはない。つまり私は憲法改正に賛成である。第九条の第二項を削除すべし。そして唯一のまだまともな隣国、米国との同盟関係をいよいよ緊密にすべし。
 しかしである。「日本国民」が「国家の名誉にかけ、全力をあげて」「達成することを誓ふ」べきものは、戦後60年を閲してもやはり残っているだろう。例えば第九条第一項がそうである。現在の第二項のかわりにどのような条文を新設するかは、代議士と国民がとくと考えなければなるまい。