六朝文絜箋注 - 维基文库。
箋注とは要は注釈のことだが、その注釈を見なくてもそのまま原文を読めば文意は通じる個所が大部分を占めると思える。そもそもこれは本文読解の助けになる為に付けてあるわけではないようだ。たんに注釈者のセンスがよくないか、あるいは読者のことなど考えない、「俺はこれだけ物を知っている」という自己顕示のためということが考えられるが、もうひとつ、denotationではなくconnotationを重視した註解かもしれない。あるいはassosiation。これは、やや好意的に過ぎる解釈かもしれないものの、畢竟は当たらずといえども遠からずのところかもしれない。ふつうに考えると、語釈以外、無意味無駄と思える注釈が異常に多い。こちらの頭が現代人だからその意義や必要性が解らぬのではないかと、自分の足下から疑っている。
箋注とは要は注釈のことだが、その注釈を見なくてもそのまま原文を読めば文意は通じる個所が大部分を占めると思える。そもそもこれは本文読解の助けになる為に付けてあるわけではないようだ。たんに注釈者のセンスがよくないか、あるいは読者のことなど考えない、「俺はこれだけ物を知っている」という自己顕示のためということが考えられるが、もうひとつ、denotationではなくconnotationを重視した註解かもしれない。あるいはassosiation。これは、やや好意的に過ぎる解釈かもしれないものの、畢竟は当たらずといえども遠からずのところかもしれない。ふつうに考えると、語釈以外、無意味無駄と思える注釈が異常に多い。こちらの頭が現代人だからその意義や必要性が解らぬのではないかと、自分の足下から疑っている。