書籍之海 漂流記

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『史記』「項羽本紀」「馬童面之、指王翳曰、此項王也」の「面」の解釈について

2014年01月16日 | 東洋史
 前項で名の出た小島祐馬「中国文字の訓詁に於ける矛盾の統一」にも、樋口靖「いわゆる“反訓”について」にも、この「面」についての言及はないが、通常、これは反訓だとされている。「(面と)向かう」ではなく「顔を背ける」意味だと説かれる。だが、それを唱える『史記集解』の注(張晏と如淳)には論拠がない。
 『漢書』にも項羽の伝がある(「陳勝項籍伝」)。中華書局版の『漢書』を開いてみるとこの書に注釈をつけた顔師古もまた此処に注しているが、反訓に取っている。根拠として「面縛」の面があるではないかとその論拠としている。
 『史記』では「宋微子世家」にこの語の使用例がある。
 しかしこの「面縛」は、二字である。一字語と二字語を一緒くたにしている点でまずおかしくはないか。比較として、果たして妥当といえるかどうか。
 それはさておくとしても、なるほど『史記集解』の「面は背である」という反訓説は、「背く」と「背中」とを字が同じだからいう理由でこれを反訓であるとする顔師古の粗雑な論法よりも説得力はあるだろう。だが、「面縛」とは、「両手を後ろ手に縛って顔をあたりに隠すことなく曝させる」という意味のようなので(『史記索隠』の解釈、例によって根拠はないが私も原文を読んでそう解釈した)、この「面縛」という語はそもそも「面」の反訓の証拠にはならないのではないか。「面と向かって」という意味は「面」本来の語義のうちにあるからだ。