書籍之海 漂流記

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「『琉球取り戻せ』 菅首相“沖縄独立”発言を中国ネット絶賛」 から

2010年10月19日 | 抜き書き
▲「msn 産経ニュース」2010.10.19 21:12。(部分)
 〈http://sankei.jp.msn.com/world/china/101019/chn1010192113008-n1.htm

 中国の大規模反日デモは18日で3日連続の発生となったが、なんと成都市のデモでは「収回琉球、解放沖縄」と大書した赤い横断幕が登場した。「琉球を取り戻し、沖縄を解放しよう」との意味で、かつて中国の属国だった琉球を独立させ、沖縄本島を支配下に組み入れようというのだ。その下地になっているのが、菅直人首相(64)が昨年9月に行った「沖縄は独立すればいい」との売国発言。中国のネット上では「菅氏はいいことを言う」ともちきりだ。(夕刊フジ)

 沖縄、朝鮮、ベトナムについては、清朝時代は三大属国とされていた。中国は将来、この三地域については、そのための状況が揃えば「収回」「解放」にのりだす可能性がある。
 がんらい中国では藩部と属国(藩属国・朝貢国)の区別はほとんど無かった。藩部を中国という自国内の領土、属国=朝貢国を外国として区別するようになるのは、19世紀も終わりにさしかかってからである。具体的には、ヤークーブ・ベクの反乱に端を発する新疆(東トルキスタン)の新疆省化(1884年)、さらには翌1885年の曽紀沢の上奏を画期とする。それまではどちらも“版図”として捉えられていた。
 しかし19世紀半ば以降、いわゆる列強の侵略に苦しむ清朝は、最終的には近代国際法上の領土の概念に沿って、藩属国(朝貢国)を外国として切り離し、藩部を自国領土として維持することに決した。 
 ヤークーブ・ベクの反乱に乗じてロシアがイリ地方を不法占拠した事態に危機感を感じた清朝官僚の左宗棠(1812-1885。漢人)は、乱の平定後、内地並みの直轄支配を時の皇帝に進言した。その結果として東トルキスタンは1884年、南部の現地イスラム有力者が現地官僚として任命されるベク官人制と、北部の満洲人のイリ将軍による軍政が放棄されて、省・府・州・県制が施行されると同時に、漢人の巡撫(省の長官)によって統治されることになった。これは同時に、清朝の伝統的な王朝国家から近代的な国民国家への再編の第一歩でもあった。
 そして曽紀沢(1839-1890。曽国藩の子)による翌1885年の上奏は、そのための理論的な根拠を与えるものであった。

 西洋の各大国は、最近もっぱら中華の属国の侵奪に従事しており、彼らの口実は「中国の属国への対応は、その国内政治には不問で、しかも外交についても不問であるとしている以上、結局真の属国ではない」というものである。しかし、チベットとモンゴルは中国の属地であり、属国ではない。もっとも、我(清)がチベットを管轄するのは、西洋の属国管理に比べれば寛であるものの、そのために西洋はチベットを単に中華の属国とのみ称し、内地の省とは違った存在として見ている。もし我がいま大権を総覧して天下に明示しなければ、将来は属地がいよいよ属国と称され、その結果「属国は真の属国ではない」と見なされて侵奪される虞がある。 (平野聡 『清帝国とチベット問題 多民族統合の成立と瓦解』名古屋大学出版会 2004年7月、「第五章 英国認識とチベット認識のあいだ」、250頁から引用)

 曽は、伝統中国の「属国」のあり方は西洋の近代国際法の尺度からすれば「従属国」とは到底見なしがたいことを理解していたと思われる。だから彼はそれについては争わない。そのかわり、藩部の確保に集中した。彼は藩部を「属地」として捉え直し、それにふさわしく再編成することを提言した。
 だから、国力の増大にともない、伝統的な中国式思考・行動様式が国際社会で通せると見なすや、実行に移すかどうかは別として、また政府の指導部についてもその去就は別として、民間の愛国人士や党政府内の対外強硬派が、中国式の誇張をこきまぜて例えば「沖縄(あるいは朝鮮、あるいはベトナム)は、中国の歴史的に不可分の一部である」と主張しはじめたとしても、不思議ではないと、私は思う。