書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

「中国社会科学院日本研究所30周年、北京で記念式典」 を読んで

2011年05月28日 | 思考の断片
▲「CRI Online(日本語)」2011-05-18 21:42:22。
 〈http://jp1.chinabroadcast.cn/881/2011/05/18/163s175138.htm

 これまで中国社会科学院とくに日本研究所のことを「幇間の府」だの、そこの日本研究者のことを「太鼓持ち」だのとひどく批判してきたが、このごろ、日本の学界とくに中国研究界については、似たようなものではないかと思うようになった。個人としてはちゃんとした、学問の研鑽と真実の探求を旨とする研究者はもちろん少なからずいるのだが、彼らが集う社会となると、そうではない。プレーヤーもギャラリーも自分たちの世界だけでやっている、各自の名声と利益とを目指すゲームの場なのである。そしてそれは個々人の責任ではなく、彼らの属する社会の伝統もしくは原理なのだろう。個人の資質の問題ではないのである。批判しても仕方がないし、またすべきものでもないのである。価値判断すべき対象ではない。個々人だけを視るべきである。そういったことが、最近、いまさらながらに、頓悟に近い感覚で、“わかった”のである。
 中国では古来、こういう、庶民以外の大なり小なり「官」(=体制)に関わっている(という自覚のある)人間の集団としての公共心の欠如を、「官場の習気」と呼んだ。だが日本では学界は通念として「官」ではない。よって「学場の習気」とでも称するべきではないか。とすれば、そこにいる人々は、「政客」ならぬ「学客」といったところであろうか。
 さらにここまで書いてきて想いだしたが、伝統中国の場合、「官」とは、西洋でいうところの public sector に当てはめて理解することができるのではないか。そして、「官」が public sector に比較するとき極めて肥大しているのは third sector までを含んでいるからではないか。きわめて粗雑な類推だが。