書籍之海 漂流記

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姜在彦 『朝鮮の開化思想』 Ⅱ 「朝鮮近代の変革運動」

2005年08月23日 | 東洋史
 今月8日、姜在彦『朝鮮儒教の二千年』から続く。

DVD-ROM 平凡社『世界大百科事典』(第二版)より

甲申政変
こうしんせいへん

朝鮮で1884年(甲申の年)12月4~6日,守旧派政権に対するクーデタによって開化派が奪権を企図した政変。守旧派は清国との伝統的な事大=宗属関係によって旧体制を固執したことから事大党といい,開化派は清国との事大=宗属関係からの独立によって国政の革新をはかったことから独立党ともいう。封建制度を残したまま資本主義列強に開国した(1876)朝鮮にとって,国内体制の近代的改革は焦眉の問題となった。1884年8月にインドシナ問題をめぐる清仏戦争が起こり,開化派は一挙に守旧派から奪権すべく日本公使竹添進一郎の協力を求め,同年12月4日洪英植を総弁とする郵政局開設宴に参席した守旧派に対するクーデタをのろしとして行動を開始した。金玉均,洪英植,朴泳孝らは,士官学生や壮士を指揮して国王高宗と王妃の閔妃(びんひ)を守旧派から隔離させ,日本軍の出動を求めて護衛した。5日には開化派を軸とする新政府をつくり,6日には新しい政綱を発表したが,袁世凱が1500名の清軍を率いて武力介入すると日本軍は引き揚げ,孤立無援の開化派は,金玉均,朴泳孝,徐光範ら9名が日本,アメリカに亡命したほか,殺害または処刑された。甲申政変は,開化思想がまだ大衆を把握するまえの,開明的な少数エリートによる突出したクーデタに終わり,日本軍の出動を求めて国王を護衛したため,むしろ大衆の反日感情を爆発させた。この政変は朝鮮開化運動史上の初期的段階といえる。 (姜在彦)


“甲申政変そのものは、開化派の権力を武力で自立防衛する準備がととのう前に、圧倒的な清軍の武力干渉と日本軍の引揚げによって「三日天下」におわってしまった。しかしその政変に反映され貫徹された開化思想は、(略)一八六八年の時点における明治維新の思想、十九世紀末期の清国における康有為らの変法思想にくらべても、けっして遜色のない、立憲的君主政体の形成をめざした近代的革新思想であった” (第二章「開化思想・開化派・甲申事変」 本書115-116頁)

“甲申事変にたいする性格規定にはいろいろあって、極端な例としてはたんなる「外国勢力と結託した政権奪取の陰謀」という他律論的評価は論外としても、北朝鮮の歴史学界では「一八八四年ブルジョア革命」というはねあがった評価がある。しかし(甲申事変においては)、少数エリートの開化思想は、まだ広汎な民衆のなかに根をおろすまでに至らず、甲申事変は変法的開化派が君側から閔氏一族を中心とする守旧派を除去し、君権変法による「上」からのブルジョア改革を志向したクーデターである。それはブルジョア民主主義運動の視点からみれば初期的な未熟さ、不徹底の故に、近代開化運動史の第一段階を画するものであり、それで完結するものではない” (同、116頁)

 以下も抜き書き。

“開化派はその権力を自衛する準備がととのうまで、たとえ短期的、過渡的な措置であったにせよ、一五〇名の日本軍に依存する傾向がつよかった。ここに日本軍にたいする過大評価、清軍にたいする過小評価がある。しかもその日本軍は、武力衝突の決定的段階で約束を裏切って引揚げてしまった。さらに開化思想の本質と意図をしらない広汎な民衆の目には、開化派が日本侵略勢力と「結託」して政府を転覆したと目され、その反撃を受けたのである” (同、118頁)

 当時の日本人と日本政府にとって、この裏切りは恥ずべき行いだった。そして私を含む今日の日本人と日本政府にとって、この裏切りこそ忘れるべきでない歴史の一事実ではなかろうか。

(明石書店 1996年4月)


▲劉宗正氏が胡適について興味深い評価を行っている。

 「胡適是軟骨頭和偽善的自由主義者」
   http://caochangqing.com/gb/newsdisp.php?News_ID=1155
 「胡適昧着良心講話是不是無恥」
   http://caochangqing.com/gb/newsdisp.php?News_ID=1156

    (「曹長青網站」http://www.caochangqing.com より)

 胡適という人は、私にはまだよくわからない。

●DVD-ROM 平凡社『世界大百科事典』(第二版)より

胡適 1891‐1962
こてき Hu Shi

現代中国の学者,思想家。字は適之(てきし)。〈こせき〉とも読まれる。安虐省績渓県出身で上海の生れ。少年期に厳復,梁啓超の著述,とくに《天演論》《新民説》に感激し,新思想の洗礼を受けた。1910年(宣統2),アメリカに留学,最初コーネル大学,ついでコロンビア大学に学び,デューイ哲学から深い影響を受け,《古代中国における論理学的方法の発展》(英文,1917,その漢訳《先秦名学史》を出版)で哲学博士を得た。1917年帰国し北京大学哲学科教授となる。この年発表された《文学改良芻議》は,文学革命の発火点となった。また,従来の儒学を正統とする価値観を脱して論理的思考の発達を考案した《中国哲学史大綱》(上巻,1919刊)を書いて学術界に強い衝撃を与えた。五・四新文化運動において,彼は陳独秀,李大二(りたいしよう)とともに,その有力な指導者として尊敬されたが,運動がマルクス主義的傾向を強くするにともなって,それを批判し,〈問題を多く研究し,主義を論ずることを少なくせよ〉ととなえて改良的立場を鮮明にした。1931年,満州事変がおこると,週刊《独立評論》を創刊し,愛国と侵略非難の筆をふるい,民主立憲を主張した。学術面では《戴東原の哲学》(1925)で,18世紀の戴震の哲学の中に,西欧近代の科学的精神と同質のものを指摘した。1938年,アメリカ大使に任ぜられ,一時は待介石に接近したものの,1949年新中国成立後はアメリカに亡命して,なお自由主義の立場を崩さず,雷震らの《自由中国》創刊に参加,58年台湾に帰り中央研究院院長となったが,なお待介石とは一線を画していた。彼の著述は《胡適文存》第1~4集,《胡適選集》13冊に収められている。 (坂出祥伸)

●フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

胡適
  (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E9%81%A9)

胡適(こ・せき 1891年12月17日~1962年2月24日)は中国近代の学者・思想家。原名は胡嗣穈、字は希疆、後に胡適と改名した。字は適之。「適」は漢音で「せき」だが慣用音が「てき」のため、「こてき」と呼ぶ人もいる。安徽省績渓県の人。

清末、上海中国公学を卒業後、宣統2年(1910年)にアメリカのコーネル大学で農学を学び、次いでコロンビア大学のデューイのもとでプラグマティズムの哲学を学んだ。

1917年(民国6年)、アメリカから雑誌『新青年』に「文学改良芻議」を寄稿し,難解な文語文を廃して口語文にもとづく白話文学を提唱し、理論面で文学革命を後押しした。ただし、彼自身にもいくつかの作品があるが、文学的才能には恵まれなかったようで、実践面は魯迅などによって推進された。同年、北京大学学長だった蔡元培に招かれて帰国、北京大学教授となりプラグマティズムにもとづく近代的学問研究と社会改革を進めた。

1919年、『新青年』が無政府主義・共産主義へと傾いて政治を語るようになると、胡適は李大と「問題と主義」論争を興し、社会主義を空論として批判した。やがて『新青年』を離れて国故整理に向かい、中国伝統の歴史・思想・文学などを研究整理した。

胡適はマルクス・レーニン主義を批判し、1922年、『努力週報』を創刊し改良主義を主張した。満州事変が起こると、1932年、『独立評論』を創刊し、日本の中国侵略を非難している。蒋介石政権に接近し、1938年駐米大使となってアメリカに渡った。1942年に帰国し、1946年には北京大学学長に就任した。1949年、共産党が国共内戦に勝利すると、アメリカに亡命し、1958年から台湾に移り、外交部顧問となった。その後、中央研究院長に就任し、『水経注』や禅宗史の研究に取り組んだ。