書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

溝口雄三 『方法としての中国』

2005年08月12日 | 東洋史
 再読。
 抜き書き。

“中国の公・私においては(原文傍点)が公平・公正に対する偏私・姦邪として歴史的に否定されつづけてきたのに対し、日本の(原文傍点)は政治・社会的な公的領域に対する家内的な私的領域として容認されてきており、この場合、公的領域は表向きにはつねに私的領域に優越的で、そのためしばしば私的領域を侵害するという性質をもつものの、しかし中国と違って(原文傍点)が原理的に否定されるということはなかった。日本では(原文傍点)の否定はそのまま家族・個人の否定となってしまうのであり、元来、道徳悪・社会悪として否定されてきた中国の私(原文傍点)とは異なるのである” (Ⅰ「〈中国の近代〉をみる視点」 本書21頁)

“昨今(引用者注・本書の初版は1989年)、日本の近代化の成功の秘訣を学ぶと称して、中国から研究者や留学生はぞくぞくと渡来してくるようになった。しかもその近代化とは彼らの意識ではまぎれもなくヨーロッパ化を指して言う。そういう彼らの多くは、彼ら中国自身(原文傍点)、わたくしのいわゆる歴史的基体を客観的に認識していないため、自己の近代についてはまるごとに否定的であり、反面、日本の近代に憧憬的である。彼らに対ヨーロッパ、対日本の「異」意識はない、ということである。
 そのため、彼らの日本近代研究は徹頭徹尾、主観的なものとなり、自己中心的という意味で主体的である。たとえば、彼らのなかには、日本がいち早く伝統をすてて欧化に奔った明治、またすばやくアメリカ文化をうけいれた戦後のその変わり身の早さこそを、学ぶべき「日本の近代」だとする者さえおり、まさに竹内好氏の裏返し、なのである。
 一般的に言って、彼らの関心は、日本の近代過程を客観的に知ることにあるのではなく、自国の「現代化」の未達成および阻害要因と思われるものを批判することにあり、結局、彼らの日本近代研究は動機や目的のすべてが自己の「現代化」のなかに置かれたものだ、と知ることができる。極論すれば、日本の近代過程の実態がどうであるかは彼らの関心の外にあり、彼らの日本近代化論とは要するに中国「現代化」論であるにすぎない。
 しかし、ひるがえって考えると、いま「裏返し」といった竹内氏の中国論も、動機や目的を日本の「近代化」批判のなかに置いていた点で、また中国の近代過程の実態に関心が向いていなかった点で、要するに日本論だったのであり、それもまた自己中心的であるという意味で主体的なものであった。
 つまりわれわれ日本と中国の主体は、おたがいに相手を一つの客体として認識しない、だから自己の客体性が客観化できない、そういう自己一元的なものだったのであり、それはいわばインターナショナルな交流がもてない内向きの、ひとりよがりの主体であった” (Ⅰ「〈中国の近代〉をみる視点」付記 本書32-33頁)

 さてこの文章が書かれて10余年を経た今は?

(東京大学出版会 1994年3月3刷)