見もの・読みもの日記

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東アジアの共有財産/漢文の素養(加藤徹)

2006-05-13 21:40:56 | 読んだもの(書籍)
○加藤徹『漢文の素養:誰が日本文化をつくったのか?』(光文社新書) 光文社 2006.2

 今朝、たまたま、ネットを開けたら、次のような記事が上がっていた。

■台湾、止まらぬ「簡体字」浸透 中国の“文化侵攻”に危機感も(産経新聞)
http://www.sankei.co.jp/news/060513/kok006.htm

 3年前に台北市内に簡体字の専門書店が出現したのがきっかけで、中国で使われる「簡体字」が、台湾にじわじわと浸透している、というものだ。だが、世論調査によれば、77%の台湾人が簡体字の使用拡大に否定的で、「選挙を控えて与野党の攻防が激しさを増す立法院(国会)でも、簡体字問題では党を超えて『拡大反対』で一致している」と、中共嫌いの産経らしく結んでいる。

 ふーむ。何年か前、村松伸さんの本だったか、いや、武田雅哉さんの本だったかな。逆に中国では、繁体字がカッコいいと思われて、どんどん増殖している、という記事を読んだことがある。どっちも本当なのだろう。便利なもの、カッコいいものに手を伸ばすのは人情である。お役所は余計なことを心配せずにほうっておけばいいのだと思う。

 今朝の「2ちゃんねる」では、この記事をマクラに、日本語における漢字・漢語の使用について、さまざまな意見がとびかっていた。私は、ちょうど本書を読み始めていたので、非常に興味深くそれらを読んだ。稚拙な意見や事実誤認もあったけれど、全体として真面目な書き込みが多くて感心した。

 本書は、日本における漢文の歴史を、遠い古代から今日まで、通史的に著述したものである。読みはじめは、ちょっと抵抗感があった。著者の専門は中国文学(演劇史)のはずである。『京劇』も『西太后』も面白く読んだ。しかし、卑弥呼や聖徳太子を語らせて大丈夫か?という不安があったのだ(失礼)。これは無用の心配。以下、各時代について、興味深いと思ったエピソードを挙げていこう。

 日本には、遅くとも二千年前までに漢字を書いたものが伝来していた。しかし、古代ヤマト民族は、漢字(文字)の使用に対して抑制的だった。伝承によれば、日本で本格的な漢字文化が始まるのは、応神天皇の時代(4世紀末~5世紀初?)、百済の王仁が『論語』『千字文』をもたらしたことによる。ここで著者は、古事記の記述の謙虚さに注目する。『千字文』といえば、子供向けの学習教材である。それを政府間レベルで輸入したなどと歴史書で公言している国は、日本くらいである、という。なるほど。

 奈良~平安は、漢文の黄金時代と言える。血筋や門閥が重視された日本では、科挙制度は成り立たなかった。しかし、政治家たるものは、漢文の素養を持たなければならない、という意識は、日本の貴族社会にも根付いた。

 中世の日本社会では、公家・寺家・武家という3つの権門が、統治権をめぐって、五百年もの間、争い続けた。このような国は(東アジアでは)日本だけだった、と著者はいう。中国や朝鮮では、純正漢文のリテラシーを独占した士大夫階級が早々と階級闘争の勝利者となり、そのまま近代を迎えた。日本では、長期にわたる階級闘争の副産物として、「充実した中級実務階級」が形成された。この中級実務階級が、のちに日本の近代化を支える国力となった、と著者は見るのである。中世から近代の始まりまでを、一息に把握するような考え方で、長いスパンで歴史を見ることに慣れた、中国研究者らしい発想だと思った。

 具体的なエピソードでは、懐良親王が明の洪武帝に書き送った漢文とか、武田信玄の抒情的な漢詩が収録されている。赤穂浪士の討入りが幕府に対する思想闘争の意味を持っていたこと、朝鮮の対日外交の機微を書いた柳成龍の著作や、中国では国家機密に属する「実録」もの(皇帝の事蹟記録)が、日本では堂々と出版されて一般書店で売られていた、というのも興味深い。

 近代に入ると、日本で作られた新漢語(西洋の思想や文物を漢訳したもの)が、多数、中国に逆輸出された。その結果、現代中国語の「高級語彙」は、半分以上が日本漢語であるという(この比率は、今後、落ちていくだろう。現代中国語の旺盛な造語力を見ていると)。一方、近代日本語の標準は、漢文訓読調を基本にして作られた。こうして振り返ると、なるほど「漢語・漢文」というのは、特定の国民の財産ではなくして、東アジア諸地域の人々が、共に作り上げてきた智恵の集積であるということを感じる。しかし、日本人の「漢文の素養」は、大正に入ると急速に衰え、今日に至る。

 最後に著者は、「東洋人のための教養」「生産財としての教養」「中産実務階級の教養」の3点から、漢字漢文の再評価を提唱している。「漢字漢文はコメのようなものだ。それが美味しくて、栄養になるなら、(好きなように料理して)食べればよい」というように。
コメント
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