見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

5月のバラ

2018-05-31 23:51:52 | なごみ写真帖
5月の花といえば、藤、菖蒲。少し遅れて咲き出すのがバラ。

近所のショッピングモールの庭で見事なバラが咲いていた。







今週はちょっと仕事が立て込んでいたので、あまり記事が書けなかった。しかし、昨年度に比べれば、まだまだ余裕。

家に帰ると、相変わらず中国古装ドラマの視聴にハマっている。『三国機密』があと少し。
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たばこ、石鹸、チョコレート/モボ・モガが見たトーキョー(たばこと塩の博物館)

2018-05-28 23:31:57 | 行ったもの(美術館・見仏)
たばこと塩の博物館 特別展『モボ・モガが見たトーキョー~モノでたどる日本の生活・文化~』(2018年4月21日~7月8日)

 大正末期から昭和初期の日本は、産業化が急速に進み、洋風のライフスタイルが一般化し、サラリーマンや職業婦人など新しい働き方が生まれ、多くの企業がモダンデザインにこだわった商品や広告を打ち出すようになった。大衆消費時代の始まりである。それから、昭和恐慌、満州事変、そして太平洋戦争開戦、終戦、戦後の復興と進む激動の時代を、石鹸、時計、鉄道、郵便、煙草、お菓子など、身近な「モノ」で振り返る。

 本展は「すみだ企業博物館連携協議会」に参加している5つの博物館の協力で開催された。花王株式会社の花王ミュージアム、セイコーホールディングスのセイコーミュージアム、東武鉄道の東武博物館、公益財団法人通信文化協会が運営する郵政博物館(もと逓信総合博物館)、そして、日本たばこ産業株式会社のたばこと塩の博物館である。あれ?お菓子関係の資料はどこから?と思ったら、さらに森永製菓株式会社が協力していた。

 1923年(大正12年)の関東大震災の後、帝都復興事業によって東京はモダン都市へと変貌を遂げる。街を歩くのは、おしゃれなモダンボーイとモダンガールたち。1930年代(昭和初期)には、生活のあらゆる面に変化が広がる。大衆の必需品となる、廉価で高品質な新装「花王石鹸」が発売されたのが1931年。1932年には、洗髪を楽にする「花王シャンプー」が発売された(固形らしい)。花王社長(二代目)の長瀬富郎は、1934年に長瀬家事研究所を設立して主婦のために家事諸般の啓蒙活動を行ったり、機関誌『家事の科学』を発刊したりした。面白いなあ。このひとのこと、調べたい。

 森永製菓が国産(カカオ豆からの製造ライン)のミルクチョコレートの販売を開始したのは1918年。1930年代には、毎年のように新商品を発売した。当時の多様なチョコレート製品が展示されていたが、現在の一般的なチョコレートより小さめの板型またはカマボコ型で、横文字の目立つ、カラフルでおしゃれな包装紙を使っている。今でもある外国のチョコレートによく似ている。その中でも、ミルクチョコレートとミルクキャラメルは、現在とパッケージが全く変わっていないのがすごい。また、森永製菓は、全国の小売店から希望者を募って「森永ベルトラインストアー」という系列店化を進めた。ベルトラインストアーには、店内設備の改善や接客術の指導、さらにイベントガール「スイートガール」が派遣された。「広告の森永」という呼び名もあったそうで、その一端は同社のデジタルミュージアムで見ることもできる。楽しい。

 たばこは、1931年に元売捌人制度が廃止され、販売・流通を大蔵省専売局が直接担うことになった。中央集権化で商売人が委縮するかと思いきや、専売局は小売店の店頭装飾についても積極的に指導し、アールデコ調のモダンなたばこ屋が街角に出現するようになったという。1930年代には、専売局が各地のデパートで「たばこ関連の美術品」(?)を展示し、記念たばこの販売を行うたばこ展覧会が開かれた。喫煙者がすっかり嫌悪されるようになった現代から見ると、信じられないような話だが、社会の価値観は変わるものだ。1931年には東武浅草駅が開業。同駅には浅草松屋(デパート)が入り、東京に本格的な近代ターミナルが出現した。関西とどちらが早いのだろうか。

 そして、あっという間に戦争の時代がやってくる。戦地の兵士たちの士気を高めるため、慰問用にデザインされたたばこ、キャラメル。東武鉄道は1940年代に入っても「日帰り行楽」パンフレットを作成しているが、「心身壮健」や「武運長久祈願」のためという理由が付けられている。セイコー腕時計の文字盤に「SEIKO」ではなくカタカナで「セイコー」と刻まれていたのも戦争中。「日独伊親善ミルクチョコレート」にも驚く。

 戦後、東武鉄道では、1949年に行楽特急「フライング・トージョー」(東上線、池袋-長瀞)が登場。全ての菓子類の価格統制が撤廃されたのは1950年で、森永製菓は、ミルクキャラメル、ミルクチョコレートを復活させた。たばこ「ピース」のデザイン試作品は1951年。わずか100年の、なんという激動の時代か。そして、生活の色や香りや手触りを、そのまま保存してくれている企業ミュージアムや企業アーカイブズの活動にすごく感謝したいと思った。
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ホームカミングデイ2018

2018-05-26 21:10:19 | 日常生活
この週末は、旧交をあたためる機会が2つ。

金曜日は、10年くらい前に一緒に働いていた友人の集まりがあった。

今日、土曜日は母校のホームカミングデイに行ってきた。

図書館の玄関脇をねぐらにしているにゃんこたち。6年ぶりに再会できて嬉しかった。







相当なおじいちゃん?おばあちゃん?のはずだが、よく太って幸せそう。長生きしてほしい。
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蜀の姜維、奮戦す/京劇・鉄籠山(新潮劇院)

2018-05-24 23:58:06 | 行ったもの2(講演・公演)
新潮劇院 張宝華追悼京劇公演 三国志『鉄籠山』(2018年5月20日、成城ホール)

 中国の古典劇が好きなので、時々ネットで公演情報を探している。よく活用しているのは、加藤徹先生が主宰する「京劇城」で、確かこの講演も「京劇城」で見つけて、申し込んだ。「鉄籠山」という演目は全く知らなかったが、調べたら「蜀の姜維と魏の司馬師の戦い」を描いたものだという。姜維!?司馬師!? 私はそんなに「三国志」に詳しくないので、1年前なら食指が動かなかったかもしれないが、昨年、夢中になった中華ドラマ『軍師聯盟』『虎嘯龍吟』で、すっかり馴染んだキャラクターである。これは見に行くしかない、と思った。

 新潮劇院は、1996年、北京京劇院出身の京劇役者・張春祥氏が東京都・世田谷区に設立した在日京劇団だそうだ。主要キャストは中国人名だったが、激しい立ち回りを見せる兵士役は、ほぼ日本人がつとめていた。今回の公演は、張春祥氏の父で、京劇の師であり、劇団の芸術顧問でもあった張宝華氏(1930-2017、中国国家一級芸術家)の追悼を意識したものである。どうでもいいことのようだが、この芝居が、諸葛孔明亡きあと、師の遺志を受け継いで奮戦する姜維の物語であること、張春祥さんが「鉄籠山」を選んだ意味を考えあわせると、他人ながら感慨深いものがある。

 そんなに混まないだろうとタカをくくって行ったら、約400名収容のホールがいっぱいになっていた。当日券を求めるお客さんが多くて、対応が追いつかず、開演が10分ほど遅れた。私は京劇だけのつもりで行ったら、加藤徹先生がいらしていて、冒頭に30分ほど京劇レクチャーがあって、とてもよかった。まず「鉄籠山」が、演じられることの少ない、非常にレアな演目だというお話があった。なぜなら「三国志」は絶対に前半のほうが華やかで面白い。ところが、劉備・関羽・張飛らが死に、諸葛孔明が死んだあとは、閉塞感がきわまり、人気がない。吉川英治の『三国志』も、孔明の死後は「篇外余録」というエッセイでお茶を濁しているのだそうだ。

 最近の大学の先生は、ふだんの講義も面白いんだろうなあ。京劇の演出上の約束事や、登場人物の解説も(マンガやゲームの絵柄との比較で会場を笑わせる)分かりやすくてためになった。魏と蜀に加えて異民族「羌」の武将たちが入り乱れるので、最低限、誰と誰がチームかを衣装と隈取で把握しておくと、劇の進行も分かりやすくなる。三国志は、魏・呉・蜀のほかに羌族を加えた実質「四国志」だという話も面白かった。主人公・姜維は忠義の赤心を表す赤い隈取、額に太極図を描くのは術者の証だという。司馬師は陰険そうな白面。冠に上向きの霊獣の首をつける。司馬師にしか使わない装飾で、加藤先生が「ウナギイヌみたい」と解説していたのに笑った。魏の将軍・郭淮、陳泰、蜀の将軍・馬岱、夏侯覇、さらに羌族の王・迷当。全員が4本の三角旗を背負っており、華やかな立ち回りの連続である。

 物語は蜀漢の延熙16年(253)、北伐に向かった姜維は、魏の司馬師を鉄籠山に追いつめ、羌族の王・迷当の援軍を得て、一気に勝負を決しようとしていたが、魏の陳泰は迷当を口説いて寝返らせる(小早川秀秋である、と加藤先生)。一転して、窮地に至る蜀軍。前半で、堂々とした軍服・冠姿だった姜維は、後半、なんとそれらを脱ぎ捨て(剥ぎ取られ?)、ナイトキャップのような帽子から長い髪を振り乱し、よろよろと登場する。京劇で、武将のこんな姿を見たのは初めてだった。

 敵の追撃を振り切り、馬岱に助けられる姜維だが、四十五万の蜀軍がわずか七人と五騎しか残っていないと聞かされ、「軍師!武侯!(孔明のこと)」と天を仰ぎ、再起を期して去っていく。えええ、これで終わり!?とびっくりした。まるで救いようがないではないか。これでは人気の演目にならないだろうなあと思った。

 しかし、バッドエンドの苦々しさを噛み締めるのも大人の愉しみで、張春祥さんの姜維は、敗残の将となっても威厳と品格があって、とてもよかった。『虎嘯龍吟』の姜維(白海涛)が年齢を重ねたら、こんなふうになるだろうと思った。あまりアクロバティックな立ち回りはなかったが、特別出演の石山雄太さん、兵士の一人をやっていて、さすが動きにキレがあった。楽しめる芝居だったが、「唱」が少なかったのが物足りない。終演後は、カーテンコールで張春祥さんから挨拶があり、アットホームな舞台だった。

 なお、新潮劇院のホームページで故張宝華氏の紹介を読んだら、6歳から舞台に上がり、22歳で劇団長となり、文化大革命以前は年間700以上の舞台に立っていたが、文革中は「封建主義者」の罪で舞台を追われ、1972年の名誉回復で団長の座に戻ったという。映画『さらば、わが愛/覇王別姫』を思い出すような閲歴である。いや、加藤徹先生の『京劇:「政治の国」の俳優群像』には、文革中に同様の経験をした京劇俳優たちのつらい話がたくさんあったなあ、と思い出す。
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2018年5月@関西:猿楽と面(MIHOミュージアム)他

2018-05-23 20:48:18 | 行ったもの(美術館・見仏)
MIHOミュージアム 2018年春季特別展『猿楽と面-大和・近江および白山の周辺から-』(2018年3月10日~6月3日)

 土曜日は京都・奈良を周遊して、滋賀県の石山に落宿。翌朝、石山駅前からMIHOミュージアム行きの始発バスに乗った。前日と一転して、強めの雨が降っていたが、今日はあまり歩かないので問題ない。MIHOミュージアムは久しぶりだなと思ったら、2016年3月以来だった。去年は来る機会がなかったようだ。雨雲の下、地方都市~里山~山の中、と変化するバスの車窓を楽しむ。

 本展が取り上げる猿楽とは、能と狂言で構成される能楽の古い呼び名である。有力な猿楽師は社寺に所属して「座」を形成し、祭礼や法会の儀式の一部や余興を担っていた。本展は、興福寺や春日大社を有する「大和」、延暦寺や日吉大社を有する「近江」、そして霊峰「白山」周辺に着目し、祭礼で使われた面(おもて)を幅広く展観する。ネットの評判では、次はいつ見られるか分からない秘蔵古面も多数出陳、空前の規模、と聞こえていたものの、私は能楽には知識がないし、能面にあまり魅力を感じたことがないので、この展覧会はどうしようかな、と迷っていた。しかし来てよかった。

 始まりは、猿楽の源流と考えられる伎楽面・追儺面から。私は、洗練された能楽よりも、原初的な伎楽・舞楽のほうが好きなので、急にテンションが上がった。追儺(ついな)あるいは修正会で使われる悪鬼の面は、悪疫や災難を具現化したもので、恐ろしくも神々しい。私が見ることができたのは、大分・富貴寺の追儺面(平安時代、12世紀!)や滋賀・石山寺のもの(鎌倉~南北朝時代)など。「大和・近江および白山の周辺」をサブタイトルにしているけど、もっと広範囲に全国各地から出品されているのだな、ということに現地で初めて気づく。岩手・中尊寺の「翁」(南北朝時代)、京都・阿須須伎神社の「翁」「父尉」(室町時代)、京都・浦嶋神社の「癋見」(室町時代)「悪尉」(安土桃山時代)など、次第に種類が増え、カテゴリーが整えられて、現代の能面のあり方に近づいていく様子がうかがえる。

 しかし、擦り減ったり、欠けたり、色が剥げたりした古い面は、どうしてこんなに魅力的なんだろう。近世や近代のきれいな能面に関して、こんなふうに魅入られたことは一度もなかったのに。展示環境(照明)がいいのかな、とも思った。面は基本的に傾斜台に寝かされ(角度は大小ある)、照明で陰影を加えて人間らしさを演出しているが、面の品格を失うほどではない。この塩梅がちょうどいいのである。それから、私は能面といえば女面(小面)か般若を思い浮かべてきたが、今回、やっぱり能面を代表するのは「翁」だなあと感じた。特に黒い翁の「三番叟」が好き。

 導入部以降は「大和」「近江」「白山」に関して、それぞれの地域での猿楽のありかたを紹介しながら、面を展示する。「大和」は談山神社、「近江」は琵琶湖、「白山」の霊峰というように各地域を代表する風景の大きな写真バナーもあって、自然と人々の暮らしと宗教、祭礼、そして芸能のつながりを感じさせる構成になっている。「大和」には、和歌山・九度山町の丹生神社や奈良・吉野山中の天河神社に伝わる猿楽面もあった。なぜか、高知・土佐神社に室町時代や安土桃山時代の面が伝来していることも初めて知った。

 MIHOミュージアムの地元「近江」は、長浜八幡宮、長福寺(近江八幡)、多賀神社など。「白山周辺」は、福井、石川、岐阜3県にわたる。こんな多様な古面を一度に見たのは初めての体験だが、図録を見ると展示替えで見逃してしまった面がたくさんあって、いまさらながら残念に思う。最後に、近江北部で面打(仮面つくり)の技術を継承してきた井関家の作面、狂言の面を取り上げる。狂言の面は、数は少なかったけれど、ひとつひとつ個性的で面白かった。

 猿楽の絵画資料や文書資料、衣装、鼓胴も適度な味付けになっていた。『信西古楽図』(芸大所蔵)の全図(?)がパネルで展示されていたのは嬉しかった。能をどう演じるべきか(舞・歌の二曲と老体・女体・軍体の三体をいかに習得するか)を記した世阿弥の伝書『二曲三体人形図』も面白かった。巧いと言えない挿絵だが、雰囲気は伝わる。

 1時間ちょっとで特別展を見終えて、久しぶりにコレクション展もゆっくり見た。「永遠の至福を求めて」の部屋に、堂々とした角を戴く『彩漆木彫鹿』(中国・東周時代後期、紀元前4-3世紀)が出ていて、前日の『国宝 春日大社のすべて』で見た神鹿の姿を思い出した。
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2018年5月@関西:春日大社(奈良博)他

2018-05-21 23:08:37 | 行ったもの(美術館・見仏)
興福寺 国宝館

 午前中を京都で過ごし、奈良に着いたのは午後2時頃だった。今回、中金堂落慶記念のお弁当(販売期間:2018年3月3日~10月28日、土日祝日限定)をGETしようと目論んでいたのだが、予定外の龍谷ミュージアムに寄ってきたため、もう「完売」になっていた。仕方がない、秋までにまだ何度か奈良に来る機会があるだろう。

 興福寺では、久しぶりに国宝館に寄った。2017年の1年間に渡る耐震補強工事を終え、今年1月1日にリニューアルオープンして初めての訪問である。全体がきれいになったのは間違いないが、古い国宝館を知る身としては、2010年のリニューアルが衝撃だったのに比べると、今回はプチリニューアルという感じだった。まあしかし、昨年は仮金堂で特別公開されていた阿修羅像も、『運慶展』で見た天燈鬼と龍燈鬼も、やっぱりこの空間で見るのが、一番しっくり来る。

春日大社 国宝殿 春日大社御創建1250年記念展II『聖域 御本殿を飾る美術』(2018年4月1日~8月26日)

 奈良博の裏を素通りして春日大社へ向かう。国宝殿に併設されたカフェ「鹿音(かのん)」で遅い昼食。外国のお客さんの姿が多かった。現在の展示は、春日大社が平成30年(2018)に創建1250年を迎えたことを記念し、平成27年(2015)から28年(2016)に行われた第60次式年造替に伴って、修復・復元されて見ることができるようになった文化財の一部などを展示する。本殿を飾る『御間塀(おあいべい)障壁画』4点「神馬牽引図(第一殿東)」「神馬牽引図(第一・二殿間)」「獅子牡丹図(第二・三殿間)」「神馬牽引図(第三・四殿間)」は、式年造替の特別参拝の際に見た覚えがあるもの。造替で不要になった古い壁画を剥ぎ取り、保存しているのだそうだ。江戸時代につくられた四脚机や、現代の技術で復元された御翠簾(青いすだれ)も面白かった。

奈良国立博物館 創建1250年記念特別展『国宝 春日大社のすべて』(2018年4月14日~6月10日)

 奈良博に入ったのは夕方4時頃。しかし土曜日の特別展は午後7時まで開館しているので余裕である。第1室(東新館)は古神宝類。武具、楽器、鏡、木笏など。藤原頼長が寄進したとされる『金地螺鈿毛抜形太刀』(鞘に雀を捕まえようとするぶち猫の姿)や雅楽で使われる巨大な鼉太鼓も出ていた。私は、2017年に東博で行われた『春日大社 千年の至宝』展も見ているので、このへんまでは予想どおりである。この展覧会は、東博の二番煎じじゃないかと疑っていたが、京博で会った知り合いが「奈良博は、東京でできなかった空間づくりをしようと頑張っている」と言っていたので、少し期待を持つことにした。

 東新館の最後に大鎧2領と胴丸2領が出ていたのには息を呑んだ。特に『赤糸威大鎧(竹虎雀飾)』は美麗。しかしまだ、「東京でできなかった空間づくり」は実感しないまま、西新館に移動する。西新館の冒頭では、春日大社の創建伝説を取り上げ、鹿島神宮、香取神宮とのつながりを紹介する。東国人としてちょっとうれしい。鹿島神宮の『直刀・黒漆平文大刀拵』(国宝)、香取神宮の『海獣葡萄鏡』(国宝)が来ていて驚く。ちなみに、春日神社にも『禽獣葡萄鏡』が伝わっていることを初めて知った。『春日明神影向図』(鎌倉時代)は、車(牛はつながれていない)に乗った明神(黒い束帯姿)が御簾から身を乗り出しているところ。ただし雲で顔は隠れている。鷹司冬平が夢に見た明神の姿だという。藤田美術館の所蔵品だというが、初めて見た。

 続いて、20点近く並んだ春日宮曼荼羅。有名な南市町自治会のものをはじめ、個性的な、各地の名品が大集結しており、ここが一番テンションが上がった。むかしから好きなのだが、実際の春日大社に何度も詣で、まわりの地理を把握することで、ますます好きになってきた。静嘉堂文庫の春日宮曼荼羅(南北朝時代、後期出品)は、画面の上部に神々と本地仏の姿を大きく描く。画面の上半分に補陀落山を描く「春日補陀山落曼荼羅」や、興福寺南円堂本尊を描く「春日南円堂曼荼羅」、講堂諸尊を描く「興福寺講堂曼荼羅」(ちゃんと文殊と維摩居士もいる!)というのもあるそうだ。「鹿曼荼羅」もいろいろ並ぶと可愛い。しかし図録を見ていると、見逃した中にも不思議な作品が多いなあ。

 『春日権現験記絵』は第1巻と第6巻を展示。混雑していないので、飽きるまで眺めていられる。仏画の名品はまだまだ続き、仏像は、いつも東博にいる『文殊菩薩及び侍者像』5躯がいらしていた。工芸は『春日龍珠箱』、さまざま舎利厨子など。東博の展示で見たものも多かったが、真剣な観客(数寄者である)が多くて、館内の雰囲気が気持ちよかった。やっぱり来てよかった。

 奈良博大好きなので、プレミアムカード(一般5,000円)を購入してしまった。1年間有効で、同じ特別展に2回まで入ることができる。今回、夏、秋(正倉院展)、来春の特別展に1回ずつ来れば元は取れるし、展覧会によっては2回来ることもありそうな気がして。
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2018年5月@関西:池大雅(京博)+お釈迦さんワールド(龍谷)

2018-05-20 21:47:26 | 行ったもの(美術館・見仏)
京都国立博物館 特別展『池大雅 天衣無縫の旅の画家』(2018年4月7日~5月20日)

 先週末(5/12-13)の関西旅行の記。連休は関西に行けなかったので、この週末で春の展覧会を回って来ようと考えていた。いまの職場は定時帰りできることがまれなので、自由になるのは土日しかない。と思ったら、今年度は少し仕事の負荷が減っており、金曜の夜から出発できそうな気配…。当日の朝まで慎重に様子を見極め、久しぶりに金曜の仕事帰りに出発を決行。京都駅前に1泊し、土曜は朝から京博に向かった。まあ混雑はないだろうと思って、開館少し前に行ったら、すでに開門している。平成知新館の中に入ると、館内に100人くらい行列ができていたのは予想外だった(でも館内で待たせてくれるシステムは大変いい)。

 池大雅(1723-1776)は円山応挙や伊藤若冲など、個性派画家がしのぎを削った江戸時代中期の京都画壇の中心人物の一人。京博にとっては、1995年の応挙展(見てない)、2000年の若冲展(見た)に続き、最後の一人の登場である、という解説が感慨深かった。しかし写実の応挙、奇想の若冲に比べると人気はいまひとつではないか。正直、私もそんなに大雅の作品に魅力を感じたことはなかったのだが、この展覧会で、だいぶ印象が変わった。

 展示は3階から始まる。第1室は大雅の人となりや交友を伝える資料が中心で、混んでいたので後回しにした(画業を見てから戻ってきたら面白かった)。第2室以降は、ほぼ年代順に作品が並ぶ。若い頃からとにかく巧い。上質な中国絵画の筆法を完全に体得している。さらに縦長の画面に斜めに景物を配置する構成は、扇面図にヒントを得たものと考えられている(宗達みたいだ)。中年期の作品を見ると、自分の巧さを打ち破ろうとして、いろいろもがいている感じがする。日本の各地を旅して歩いたのも、そのひとつだろう。

 それが、晩年(40代だけど)になると「巧さ」の束縛がとれて、奇跡のように明るく伸びやかな風景が現れる。いやー好きだ。白黒の『漁楽図』、淡彩の『西湖図』、墨と緑の落ち着いた彩色が美しい『四季山水図』(横長の掛軸)など、どれも好き。巧いかどうか以前に、見る者を絵の中に誘い込む魅力がある。

 池大雅が若冲と同様、黄檗宗・萬福寺の文化圏の人だったということは初めて知った。萬福寺のために描かれた障壁画、『五百羅漢図』は一部見たことがあったが、『西湖図』は初見で、その大きさにびっくりした。売茶翁、木村蒹葭堂、鶴亭などとの交流を示す史料もあり、奥さんの玉瀾の作品もあって楽しかった。全体を通して、やっぱり京都という土地でなければできない回顧展だなあと感じた。

龍谷ミュージアム 春季特別展『お釈迦さんワールド-ブッダになったひと-』(2018年4月21日~6月17日)

 京博のあとは、すぐ奈良に向かう予定だったのだが、池大雅展の会場で知り合いに声をかけられた。向こうは専門家なので、どこの美術館でお会いしても不思議ではない。「時間があれば龍谷ミュージアムに行くといいですよ。滅多に出ない元代の絵が出ている」という耳寄り情報を教えてもらったので、予定になかった龍谷ミュージアムに向かった。

 この展覧会は、仏教の開祖である「お釈迦さん」に焦点をあて、彼が生きた時代、彼の生涯、そして仏教の開祖として超人化・伝説化されていく様子を紹介する。はじめにお釈迦さんの時代(前5世紀頃)の歴史を横断的に理解するため、インドだけでなく、ギリシャやイラン、中国などの考古遺物が並んでいるのは、新鮮に感じられた。次に仏伝図など。愛知・聖徳寺に伝わる『絵因果経断簡』(平安後期)は、めずらしい白描。墨線に迷いがなくて気持ちがいい。

 仏教徒は、季節の行事ごとに釈迦の図像を掛けて開祖を偲んだ。7/15の解夏(げげ)は夏安居の修了式・大反省会で、後代には草座に座った釈迦像が用いることが一般化したが、岩座の釈迦像や釈迦三尊像もあわせて紹介。その中に伝・顔輝筆『釈迦三尊像』3幅(京都・鹿王院、元代)があった。中央のお釈迦さんは、髭を伸ばした四角い顔、赤い衣をワイルドに右肩脱ぎして青い岩に座る。体毛が濃く、頭頂部は剃って(禿げて?)いるが、両肩に垂らした長髪は、よく見るとパンチパーマふうに縮れている。美男子であるべき文殊も禿頭、普賢は頭を剃っていないが、三人とも髭面。なんなんだ、このむさ苦しい三尊図は、と呆然とした。でも見ることができてよかった。

 12/8の成道会には出山釈迦図が用いられた。三重・西来寺には元代の出山釈迦図があるのか。2/15の涅槃会にはむろん涅槃図だが、愛知・中之坊寺には南宋時代の涅槃図(周四郎筆)が伝わる。この時代のものはあまり残っていないそうだ。釈迦を囲むのが人間ばかりで、動物がほとんどいないのが興味深い。
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関東・東海地震の歴史とメカニズム/大地動乱の時代(石橋克彦)

2018-05-19 23:51:02 | 読んだもの(書籍)
〇石橋克彦『大地動乱の時代:地震学者は警告する』(岩波新書) 岩波書店 1994.8

 先日読み終えた『東電原発裁判』(添田孝史、岩波新書 2017)で、地震学の進歩によって分かって来たことというのが面白かったので、もう1冊、地震学の本を読みたいと思い、本書にした。1994年刊行だからちょっと古い。いや、個人的には「ついこの間」くらいの感覚だが、地震に関しては、2011年の東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)も、1995年の阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)も、まだ「未来」に属する時代の著作であり、タイムマシンで歴史をさかのぼるような、紛れ込んだ未来人になったような、読んでいて不思議な気持ちだった。

 著者のいう「大地動乱の時代」とは、幕末に始まる関東・東海地方の大地震活動期のことである。嘉永小田原地震に始まり、東海・南海大地震が続き、安政大地震が江戸を直撃する。そして、明治・大正の地震活動期を経て、ついに大正12年の関東大震災に至る。本書の前半は、これら連続的に発生した大地震の実態を、ひとつひとつ詳しく紹介する。関東大震災はともかく、幕末の大地震といえば、私は安政大地震くらいしか意識していなかったので、非常に興味深かった。

 皮切りは嘉永6年(1853)の嘉永小田原大地震である。小田原城が大破。江戸でも人家がつぶれたり、壁が落ちたり土蔵が痛んだりした。これ以前、江戸は元禄16年(1703)の元禄関東地震で被害を受けて以来、150年間も大地震に見舞われていなかったという事実に驚く(日本列島の他の地域では大地震あり)。大雑把に「日本は地震大国」とか言ってしまうけれど、人が生まれた時代と地域によって、ずいぶん体験に差があるものだ。

 翌年、嘉永7年=安政元年(1854)陰暦11月4日に発生した安政東海地震は、江戸や東海道に被害をもたらしただけでなく、中部・北陸・大阪でも建物損壊や死傷者を出した。さらに最初の巨大地震から30時間後、紀伊半島南部から四国南部を安政南海大地震が襲った。最初の安政東海地震によって、伊豆下田に来航していたロシアのプチャーチンの乗艦ディアナ号が被災した顛末も詳しく語られており、ロシアの水兵たちが村民の医療活動にあたったこと、ディアナ号が沈没した際は村民がロシア人を介抱したことなど、初めて知る話も多かった。幾多の苦難を乗り越えて、日露和親条約が締結された日(陽暦2月7日)が「北方領土の日」となっているというが、もう少し別の視点からこの条約の意味を振り返ることはできないものか。

 そして安政2年(1855)10月に最悪の都市直下型大地震である安政大地震が起きた。この地震は多難な時局の折に国の心臓部を直撃し、経済的損失、人材の損失、幕府の権威低下など、さまざまな影響を引き起こした。しかし「幕府の町方に対する震後措置はなかなか迅速だった」という著者の評価は心に留めておきたい。

 次に私が知っている関東地方の大地震は、大正12年(1923)の関東大震災になるのだが、安政大地震以後、明治に入ってもM6~7程度の地震が数年に1回のペースで続いていたことは初めて知った。大正38年(1905)、東大地震学教室の今村明恒助教授が雑誌『太陽』に「東京は50年以内に大地震に襲われる」という論説を発表し、次第にデマや悪質ないたずらを誘発する騒ぎとなる。地震学研究室の先輩、大森房吉教授は今村説を否定して、ひとまず世上の不安を鎮めた。関東大震災の日、今村はまさに本郷の研究室にいた。大森は外遊中で、シドニーの地震観測所でちょうど地震計の前に立ったとき、描針が動き出して、太平洋の遠方で大地震が発生したことを知る。なんだこの、ドラマみたいな筋書きは!

 日本の社会は、関東大震災を機にさらなる激動の時代に入って行く。一方、関東地方の地下で70余年間続いた「大地動乱の時代」は、1923年の関東大地震とその余震活動によって幕を閉じ、「大地の平和の時代」に入る。
 
 本書後半は、関東・東海地方の大地震はなぜ起きるのかという解説で、変動帯(地震帯)で囲まれた岩石圏の区画を「プレート」とみなし、球面(地球表面)に敷きつめられたプレート群の運動を数学的に解析する「プレートテクトニクス」から説明されている。フィリピン海プレートとかユーラシアプレートという言葉は聞いたことがあるが、地域別には小規模な「マイクロプレート」を考えることが多く、関東付近のプレートのせめぎ合いの歴史は非常に複雑であることが分かった。余談だが、今年2018年4月、ユネスコ世界ジオパークに認定された伊豆半島についての解説も興味深く読んだ。

 著者は、再び「大地動乱の時代」が迫っていると考える。最悪のシナリオは「今世紀(20世紀)末から来世紀初めにM7クラスの大地震が発生」し、小田原地震に引き金をひかれてM8クラスの東海地震が発生し、その結果、首都圏直下が大地震活動期に入る(以下略)というものだ。要するに、上述の幕末から大正までの体験の繰り返しと考えればよい。

 いま本書を読んで感慨深いのは、「来世紀初めにM7クラスの大地震が発生」が今日まで実現していないということだ。しかし「小田原地震は多少時期が遅れたり規模が小さかったりしても、結局おこる可能性が高い」という。プレートが動いている限り、ひずみの蓄積は続くから、先送りされるほど事態は悪化する、という記述にため息をつく。避けられない「大地動乱」の再来に対し、できる備えをしておこう。
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国益よりも地球益/グローバル化と世界史(羽田正)

2018-05-17 23:08:54 | 読んだもの(書籍)
〇羽田正『グローバル化と世界史』(シリーズ・グローバルヒストリー 1) 東京大学出版会 2018.3

 東大出版会が「シリーズ・グローバルヒストリー」という叢書の刊行を始めたらしい(※シリーズ構成)。本書はその第1巻にあたり、「グローバルヒストリー」とは何かという概念整理が行われている。

 はじめに我が国の人文学・社会科学をとりまく環境について語られる。近年、強い批判にさらされている印象のある人文学・社会科学であるが、早くも2001年には文科省の科学官(有識者)が「人文・社会科学振興のための国際化への対応について」というメモを出している。第5期学術分科会の報告書(2009年)は「人文学・社会科学の国際化」に言及し、第6期学術分科会の下に設けられた「人文学・社会科学の振興に関する委員会」の報告書(2012年)は、はじめて「グローバル化」という概念を用いた。以下、まだまだ続くが、結局のところ、10年以上経っても、文科省が望む「国際化」は進んでいない。

 端的に言って、文科省や学術振興会は、英語で研究成果を発表することを「国際化」と考えている。しかし、これは、西洋中心主義を無意識に受け入れた態度に発している。そもそも人文学・社会科学に国際化は必要なのか、国際化は可能なのか、という問題について、著者は周到な議論を展開する。途中を省略するなら、文系学問は、使用する言語によって異なる暗黙知を前提にしており、翻訳は容易でない。「現代の世界には、異なった言語による異なった立場に立つ知の体系が多数多元的に存在」している。これが文系学問の特徴なのである。もちろん、これからの文系研究者が一つの言語に留まっていいというわけではない。日本語の教養を背景に組み立てた研究を、どのような外国語でも表現できるように自らを鍛えなければならない(高い目標!)。英語での発表はその手始めでしかない。

 また、従来の人文学・社会科学は、国家を基本的な枠組みとして研究を進めることが一般的だった。これは、近代学問としての人文学・社会科学が、19世紀半ば以降の主権国家の形成と発展と歩調を合わせてきたことによる。しかし、現実の人間の営みは必ずしも国家という枠の中でのみ行われているわけではないので、現代世界の諸問題を解決しようとする人文学・社会科学において、国家という枠組みは相対化されるべきである。こうした新しい人文学・社会科学を、著者はグローバル人文学、グローバル社会学と呼ぶ。ああ、羽田先生、相変わらずで嬉しい。かつて感銘を受けた『新しい世界史へ』(2011年)の思想を深化、先鋭化させていらっしゃる。一方で、人文学・社会科学と違って「普遍」に近いはずの理系研究者に、国家・国益という枠組みにとらわれる人が多いのはどうしてなんだろう、と思った。

 後半は、上述のグローバル人文学の一例として「グローバルヒストリー」を考える。はじめに日本語の「世界史」と「グローバルヒストリー」、英語の「global history」「world history」という用語が持つ、微妙なズレが探求されていて面白い。著者は、私たちが目指すべき新しい世界史(グローバルヒストリー)は「地球の住民」(residents of the Earth)のための世界史だという。かつて国民のための歴史叙述(ナショナルヒストリー)が、国家・国民意識の形成に貢献できたとすれば、地球の住民意識の形成に役立つ世界史もあり得るはずだという。この発想は未来志向で、とっても好きだ。

 そして、グローバルヒストリーの具体的なイメージとして、「1700年」「1800年」「1900年」「1960年」という4つの時点における世界の見取り図を提示する。さらに4枚の見取り図を現代と比較することにより、われわれが生きる時代の特徴が明らかになる。しかし、これはあくまでグローバルヒストリーの一例でしかないだろう。著者も終章で述べているように、実際の研究者たちは、もう少し限定的な地域とテーマで、人々の接続と断絶、交流と統合を論じていくことになるのだろう。本シリーズ各巻の内容もそうなるはずだ。しかし「その背後に必ず世界を意識している」という著者の力強い断言が楽しみである。ちなみに本書は、どこをひっくり返しても、シリーズ各巻の内容情報が見当たらないので、おかしいと思ったが、読み終えて書店のカバーを外したら、オビの裏側に掲載されていて、拍子抜けした。

※参考:新しい世界史/グローバル・ヒストリー共同研究拠点の構築(著者の所属先・東大東洋文化研究所による)
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事実と責任/東電原発裁判(添田孝史)

2018-05-16 23:22:45 | 読んだもの(書籍)
〇添田孝史『東電原発裁判:福島原発事故の責任を問う』(岩波新書) 岩波書店 2017.11

 2011年3月に発生した東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)と福島第一原発事故の記憶は、正直なところ、私の中で鮮明さを失いつつある。だが、原発事故に関する国や東電の責任を明らかにしようという住民たちの行動は、やっと始まったばかりだということを本書によって初めて知った。

 著者は、被災者たちが必要としているのは「事実を明らかにすること」「責任を問うこと」「十分な救済」の3つだという。同感である。しかし「救済」には注目と共感が集まっても、「事実」と「責任」がうやむやにされやすいことは、日本の社会の通弊でないかと思う。2012年6月、原発事故の被害者たちは福島原発告訴団を組織し、東電幹部や政府関係者を業務上過失致死傷などの容疑で告訴・告発した。東京地裁の「不起訴決定」を覆し、初公判が開かれたのは、2017年6月のことだった。本書は、主にこの裁判の争点を詳しく解説した内容である。

 指定弁護士側(検察側)の主張は、要約すると「東電は最大15.7メートルの津波を予測できていた」「予測に基づく安全対策を実施する義務があった」「対策が完了するまで原発を停止しておくべきだった」というものである。これに対し、被告人である東電元幹部の勝俣恒久氏、武黒一郎氏、武藤栄氏は「最大15.7メートルの津波は不確実な試算にすぎない」「たとえ15.7メートルの試算にもとづいて対策をしていても事故は防げなかった」と主張している。

 この「最大15.7メートルの津波(ほぼ事故時の津波の高さ)」が「予測できた」とか「試算にすぎない」という意味は、以下のとおりである。

 福島第一原発は、1960年代の地震学の知識に基づいて設計されており、当時想定された津波の高さは最大3メートルだった。しかし、その後の地震学の進歩によって、建設時の想定を超える津波が起きる可能性が高いことや、その場合すぐに炉心損傷に至る脆弱性を持つことが繰り返し指摘されていた。特に、1995年の阪神・淡路大震災を教訓に設置された地震調査研究推進本部(推本)は、全国の主要な活断層やプレート境界(海溝)についての長期評価を発表してきた。2000年代には津波堆積物の調査をもとに「貞観地震」(869年)の研究が進み、関係者の注目を集めるようになった。

 2008年3月、東電設計は、地震学の新しい知見を取り入れて津波計算を行った結果、福島第一に達する最大水位は「15.7メートル」になることが示された。この事実は東電の記録に残されている。しかし、最新の科学的知識に照らして古い原発の安全性を再検討する「バックチェック」の要請に対して、東電はずるずると対応を引き延ばし、2009年6月末までに終えるはずの予定を、2011年の事故当時にも終えていなかった。衝撃である。東電は、15.7メートルの試算が妥当かどうか土木学会に相談中だったと弁明しているが、どう考えても、安全対策コストを節約し、営業収益を優先したとしか思えない。また、国策のプルサーマル推進を滞らせないため、政府が東電に加担したという推測も否定できない。

 ここで対比的に取り上げられているのが、東北電力の女川原発である。東北電力は、2008年に中間報告、2010年に最終報告を提出しており、貞観地震も検討に含まれている。そもそも女川原発も、設計当時(1970年認可)は福島第一と同等の最大3メートルの津波しか想定していなかった。しかし、津波研究の進展に伴って想定を見直し、敷地高さを14.8メートル(福島第一の1.5倍)としていたことから、東日本大震災では大きな被害を免れ、地震翌日には3基の原子炉を全て冷温停止することができたという。この事実は、もっと知られていいのではないか。私は全ての原子力発電に賛成しないが、それとは別に、東電という企業の体質には、大きな問題があると感じられてならない。

 本件のような「科学的不確実さ」に企業はどこまで責任を持つのか、どこまで司法が裁けるか、判断は難しい。しかし、事故によって甚大な影響が生じる原子力防災には、一般防災と次元の異なる責任が課せられるべきだと思う。利根川の堤防は200年に1回の大雨に対応するが、原発は1万年に1回の災害を想定すべき、という著者の言葉に同意する。

 それから、東電が長年にわたって地震の専門家に面談するたびに「技術指導料」(謝礼)を渡していたことの問題点(利益相反、科学の中立性)、福島県に開設が予定されているアーカイブ施設が「原子力災害と復興の記録や教訓の未来への継承・世界への共有」をうたいながら、事故を防ぐことはできなかったのか、なぜできなかったのか、という観点が抜けているという指摘も印象に残った。事実の究明と客観的な責任の追及は、震災以後を生きる私たちの仕事である。
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