見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

鎌倉あじさい散歩2018

2018-06-29 23:13:07 | なごみ写真帖
先週末、鎌倉散歩に行ってきた。アジサイの季節には少し遅かったようで、心配したほど混んではいなかった。

鎌倉駅周辺をうろうろしたが、昨年と同じで、井上蒲鉾店前の歩道のアジサイにいちばん心惹かれた。









昨年は「花嫁のブーケになりそう」なんて書いたけれど、むしろティアラのようだ。

昨年と同じく豊島屋2階のカフェに寄って、小町通りで服を買って、おのぼりさんの鎌倉を楽しんできた。鎌倉国宝館と金沢文庫のレポートはあらためて。
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雍正帝の華夷一家/清朝の興亡と中華のゆくえ(岡本隆司)

2018-06-27 23:01:57 | 読んだもの(書籍)
〇岡本隆司『清朝の興亡と中華のゆくえ:朝鮮出兵から日露戦争へ』(叢書 東アジアの近現代史:第1巻) 講談社 2017.3

 岡本隆司さんの本は、2006年の『属国と自主のあいだ』以来、愛読している。先日、久しぶりに『袁世凱』(岩波新書、2015)を読んだら、やっぱり面白かったので、気になっていた本書も読んでみることにした。本書は、16世紀後半の明朝を中心とする東アジア秩序の動揺に始まり、「大清国(ダイチン・グルン)の建国、入関、明朝滅亡、清朝の盛世、衰退、清末の動乱、1911年の辛亥革命までを記述する。

 清朝の歴史は大好きなので、何度読んでも楽しい。だいたい知っていることをなぞり直す感じだったが、初めて知ったこともある。ひとつは「康熙・乾隆」と並び称される最盛期、17世紀後半の康熙時代はデフレ不況で、18世紀後半の乾隆時代はインフレ好況だったという分析。康熙の不況の一因は日中貿易の衰退である。しかし17世紀末に、日本に代わって西洋諸国から銀が流入し始め、好況に転じたのである。なお、二つの時代の間にある、雍正帝による引き締め・改革を、著者は高く評価している。だいたい中国史の研究者には、雍正帝好きが多いように思う。

 康熙帝も稀代の英主であるが、一面では漢人読書人への「迎合」であると著者は冷徹な評価を下している。満洲人皇帝は、漢人世界の「入り婿」であり、名君であることが清朝皇帝の宿命だった。その「迎合」を断ち切ったのが雍正帝である。雍正帝が『大義覚迷録』で用いた「華夷一家」という言葉は、元来、明の永楽帝が言い始めたフレーズで、華(漢人)と夷(異民族)を「差別隔絶した上で、一つにする」ものだった。それに対し、雍正帝は漢人と異民族を差別しないところから出発した。そう、同じフレーズでも、時代により使用者により、意味が全く変わるのだ。雍正帝の思想と行動は画期的である。しかし、新しい秩序も「華」と「夷」で形づくられている以上、もとの華夷秩序に回帰する運命にあった、と著者は用心深く付け加えている。

 乾隆帝はもとより暗君ではなかったが、その名実は虚栄誇大に費やされている、と著者の評価は厳しい。まあ仕方ないな。でも「バブル世代の旗手・贅沢の権化」の乾隆帝がいなかったら、清朝の歴史はずいぶん寂しかったと思う。続く嘉慶帝・道光帝は「盛世のあとしまつ」に追われたが、二帝とも聡明かつ良心的で「真摯という点なら、乾隆帝をはるかに凌駕するだろう」という評価は嬉しい。しかし、すでに清朝の社会は巨大化・複雑化し、皇帝独裁では処理しきれない状態になっていた。たとえ雍正帝が生まれ変わっても無理だったろう、という記述に、感慨深く納得する。いよいよ清末。曽国藩、李鴻章、袁世凱らの活躍にもかかわらず、清朝の「解体」は進み、終焉を迎える。

 著者は「むすび」に「清朝は使命をもって生まれ、それを果たし、役割を終えると消えていった」と記す。こういうダイナミズムは、日本史ではなかなか味わえない感覚ではないかと思う。清朝の使命とは16世紀東アジアの混沌を収めることで、明朝がつくりあげた「朝貢一元体制」(華夷秩序)が機能しなくなった状態を、それぞれの地域に適応した関係を個別に選択することで収拾し、平和と繁栄を築き上げた。清朝は、在地在来の政治体制(モンゴルにはモンゴルの秩序、チベットにはチベットの秩序、等々)を尊重し、多元的な共存体制を構築した。それゆえ、「清朝が新たに創造したものは少ない」と言われるけれど、私はこの王朝が好きである。

 その後の東アジアは、明治日本が先鞭をつけた「国民国家」という名の一元支配が通例となって現在に至る。むろん中国も例外ではない。上下関係の固定化した封建社会よりは、民主的な近代社会のほうが生きやすいのは間違いない。しかし、旧社会の多元性に対する肯定には、少し郷愁を誘われ、学ぶべきところもあるように思う。
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醜くて魅力的/あやしい美人画(松嶋雅人)

2018-06-26 23:55:56 | 読んだもの(書籍)
〇松嶋雅人『あやしい美人画』 東京美術 2017.6

 千葉市美術館の『岡本神草の時代展』を見たあと、ミュージアムショップで、図録を買おうかどうしようか、しばらく悩んで、隣りにあった本書を買っていくことにした。ハンディなムックで、表題どおり「あやしい美人画」の詰め合わせである。

 「はじめに」にいう。多くの美人画は、見る人をうっとりさせ、心地よい印象をもたらす。しかし美人画の中には、女性の姿形が醜く歪んで描かれ、恐ろしさを感じさせるものもある。醜い美人画って、語義矛盾だが、そうとしか言いようのない絵画が確かにある。醜く恐ろしいのに「同時にそれらは一度目にすれば、心を奪われ、魅了されてしまうあやしい力をやどした」作品が。

 著者によれば、特に大正時代の日本画壇では「あやしい美人画」が華開いたという。理由はいろいろ考えられるが、『岡本神草の時代展』を思い出すと納得できる。文学史でも、自然主義と反自然主義の双方で、さまざまな「あやしい女性像」が書かれた時代と言えるのではないかな。

 興味深いのは、本書がこの時代の美人画を「京都」「大阪」「東京」に分けて紹介していることだ。京都では、特にあやしさを前面に打ち出した作品があらわれた。しばしば舞妓や芸妓をモデルとし、異様で醜く、奇怪な女性像が描かれた。その一番手は甲斐庄楠音(かいのしょうただおと)。表紙の中央を飾っているのは楠音の『幻覚』である。ぞっとする微笑みの『横櫛』も好き。岡本神草も、もちろん取り上げられている。稲垣仲静、祇園井特も。これら「デロリ」系に比べると、上村松園の『花がたみ』『焔』なんてきれいすぎる。

 大都市・大阪には世紀末の退廃と虚無的な官能。北村恒富の『淀君』は美人画じゃないと思うが怖い。女性画家の島成園もいいなあ。そして「福富太郎コレクション」がいい作品を持っていることを知る。

 東京の美人画は、京都や大阪ほど情念的にならず、象徴性あるいは抽象性を堅持したものが多い、と解説にいう。とはいえ、鏑木清方の『妖魚』などは、清潔な象徴性を食い破るような情念を感じる。岩の上の人魚は手の中に小魚をつかまえているのか。喰われるか捨てられるか、というキャプションが怖い。松岡映丘の『伊香保の沼』も好きな作品なので、ここに取り上げてもらえて嬉しい。あとは小村雪岱に橘小夢。最近、リバイバル中の画家だ。

 また本書には、近世以前の「あやしい美人画」もいくつか紹介されている。岩佐又兵衛、曽我蕭白、長沢蘆雪、月岡芳年など。どれも私の好きな作品で嬉しい。葛飾応為の『夜桜美人図』もいいなあ。江戸時代の幽霊画も、とびきりお勧めの(とびきり怖い)作品が取り上げられた。噛みちぎった女の生首をぶらさげた『幽霊図』(福岡市博物館)と、腰から下を血に染めた『幽霊之図 うぶめ』。これらを美人図と呼んでいいのか判断が分かれると思うが、「一度目にすれば、心を奪われ、魅了されてしまう」女性像であることは確かである。最後に「現代のあやし」も3点。丸尾末広、さすがだ。

 本書がとてもよかったので、著者の松嶋雅人さんには、紙の上だけでなく、ぜひこれらの作品を一堂に集める展覧会を実際に開催してほしいと思った。でも著者紹介を読んだら、東京国立博物館の平常展調整室長の方だった。東博でこの展示は無理だろうなあ。
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さまざまな美人画/岡本神草の時代(千葉市美術館)

2018-06-25 21:02:11 | 行ったもの(美術館・見仏)
千葉市美術館 『岡本神草の時代展』(2018年5月30日~7月8日)

 岡本神草(おかもとしんそう、1894-1933)は神戸に生まれ、京都市立美術工芸学校・京都市立絵画専門学校で学んだ日本画家である。ほとんど何も知らない名前だった。ポスターの『口紅』に見覚えがある気がしたのは、この展覧会が、昨年、大阪と岡山に巡回している広告を見かけたたけだろう。寡作で、短い生涯に完成させた作品は確か数点(10点に満たない)と説明されていた。そのかわり、本展には素描・下図など資料類約100点、師の菊池契月や共に競い合った画家仲間の作品も展示されている。

 冒頭には、京都市立絵画専門学校の卒業制作である『口紅』。第1回国画創作協会展に入選して、一躍新興美人画家として注目を集めた。竹久夢二ふうの華奢な舞妓が、燭台の前で、化粧の仕上げとして紅筆で口紅をつけている。豪華な着物とかんざしの人工美と無防備な表情、露わな白い二の腕の官能性。妖しげできれいな絵だと思うけれど、私はそんなに好きになれない。

 その後も神草は舞妓や白川女など、和装の女性、女児を描き続ける。小動物や植物の絵もあるけれど、圧倒的に女性。何気ない日常の所作だったり、計算された美の瞬間だったり、豪華な着物をまとっていたり、湯浴みする裸婦だったり、いろいろ。しかし習作は多いが、完成作はなかなかない。完成作が見たかったなあと思ったのは、三味線をつまびく花魁を描いた『春雨のつまびき』。大画面を斜めに横切るような構図が圧巻で、色っぽいというより神々しい。手を合わせて拝みたくなる。『拳を打てる三人の舞妓』は、未完のまま神草の代表作となった作品だが、何点も草稿があり、作者が生真面目に苦しんでいることが分かるので、見ているほうも苦しくなる。初期の妖艶さは消え、三美神ではなく、アルカイックな仏像の三尊図を思わせる。

 昭和に入ると、神草の女性像は柔らかさを取り戻し、静謐ですっきりした美しさへと変化していく。代表作は、二人の女性を描いた『婦女遊戯』だろう。一人は立って紙風船を高く跳ね上げ、一人は膝立ちで床で毬をついている。紙風船で遊ぶ女性の、顎を挙げて上向いた横顔も、毬で遊ぶ女性の、袖口ではなく脇(身八つ口)から大胆に腕を出した姿も、神草が好んで描いてきたものだ。しかし、初期の美人図とはまるで別人のようだった。所蔵者は「株式会社ロイヤルホテル」で、ふだん大阪のリーガロイヤルホテルの1階ラウンジに掛けられているそうだ。確かに『口紅』などと違って、万人に好まれそうな美人画である。

 寡作で短い生涯だった岡本神草。妻の若松緑も画家で、やはり若くして亡くなった。しかし、本展に出品された多くの画稿は妻の実家である若松家に保管され、『婦女遊戯』がリーガロイヤルホテルに飾られることになったのも若松家の縁だと聞くと、よかったねとつぶやきたくなった。

 なお本展には、岡本神草と同時代の画家の作品を(特に女性像を中心に)集めた一室があって面白かった。知っていたのは、師匠の菊池契月(1879-1955)くらいである。契月は歴史画のイメージが強かったのだが、同時代の若い女性を描いた『少女』がとてもよかった。『朱唇』は、衣装風俗から見て桃山時代か江戸初期の美人を描いているのだろうが、リラックスした自然なポーズ、聡明そうな表情、赤い唇からは、はきはきと現代言葉がこぼれてきそうな肖像画である。なんというか、岡本神草より感覚が新しい。

 神草の画家仲間である甲斐庄楠音(かいのしょうただおと、1894-1978)の描く女性は怖い、気持ち悪い、怪しい。しかもWikiを読んだら、いろいろ興味深い人物である。丸岡比呂史、稲垣仲静も変だ。高橋由一の『花魁』を変な絵だと思っていたが、これらデロリ系の女性像に比べたら、全然ふつうに思えてきた。悪酔いしそうな展示室にあって、梶原緋佐子の作品が息抜きになった。手ぬぐいを肩にかけ、格子戸の前で、大きく口を開けて一心に唄う『唄へる女』。大陸の少女だろうか、楽器の弓を膝に置いて、まっすぐ前を見つめる『曲芸師の少女』。すごくよい! これらの作品の多くは京都近美に所蔵されている。関東で見る機会をつくってもらい、ありがたかった。
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森鷗外の筆跡+高野切(東博・常設展示)

2018-06-23 23:46:36 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立博物館・本館15室 特集展示『就任100年 帝室博物館総長森鷗外の筆跡』(2018年5月15日~7月8日)

 久しぶりに東博の常設展を見に行った。見たかったのはこの特集展示である。森鴎外は大正6年(1917)12月末に帝室博物館総長に就任し、翌7年(1918)1月から本格的に執務を始めた。就任100年を記念して、ここ数年来の調査によって判明した、館蔵資料の各所に残された鴎外の筆跡を紹介する。この展示趣旨を読んで、え?何それwと笑いながら行ったら、ほんとに趣旨のとおりだった。

 合議書類の綴りに決裁の書き込みがあるのは分かる。「博物館書目解題」や「博物館蔵書著者略伝」など、未刊に終わった原稿が残されているのも分かる。面白いのはそれ以外に、博物館の蔵書のあちこちに鴎外の自由気ままな書き入れの跡があることだ。自由気ままと言っては失礼で、鴎外は、表題や書目の誤りを見つけると校正せずにはいられなかったようだ。中には、このくらい見逃してもいいじゃん…と思うものもあるのだが、鴎外の几帳面さが感じられて可笑しい。









 東博の研究員の方も、よくこんなに見つけたなあと思うのだが、鴎外の文字は味があるというか自己主張があるというか、付き合っていると、だんだん見分けがつくようになってくる。古人に接近するには、著作を読むとか、写真・肖像画を見る方法もあるが、筆跡から入るのも方法の一であると思う。

■本館特別1室 特集展示『ひらがなの美-高野切-』(2018年5月8日~7月1日)

 知らずに行ったら、こんな素敵な展示をやっていた。「高野切」は『古今和歌集』を書写した現存最古の写本(平安時代、11世紀中頃)で、一部のみ断簡で伝来する。3人の筆者が分担した寄合書(よりあいがき)の作品で、これを第1種、第2種、第3種と呼び分けており、第2種筆者は源兼行(1023-1074)と推定されている。

 展示では、第1種、第2種、第3種を見ることができるのはもちろん、「第1種と同時代」「第2種と同筆」などの分類キャプションつきで、さまざまな筆跡を見ることができる。和漢朗詠集の漢字だけの断簡についても「第〇種と同筆」と分かるのが面白いなあと思った。プロの目から見ると第1種が究極の美品らしいが、私は第3種がわりと好き。現代人の平仮名に近くて、読みやすいのである。タイムマシンがあるなら、ぜひこの第3種の筆者に会ってみたい。東博の前に出光美術館の『歌仙と古筆』に寄って、もう少し古筆が見たいと思っていたので、ちょうどよかった。
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人麻呂と歌人たちの肖像/歌仙と古筆(出光美術館)

2018-06-22 22:32:56 | 行ったもの(美術館・見仏)
出光美術館 人麿影供900年『歌仙と古筆』(2018年6月16日~7月22日)

 「人麻呂影供900年」と聞いて、そんな記録が残っているのかと感心した。元永元年(1118)、藤原顕季が、源俊頼、藤原顕仲らを招き、歌聖・柿本人麻呂の像を懸けて歌会を行ったのが始まりだという。今年はそれから900年に当たることから、人麻呂像と多数の歌仙絵、歌仙の名歌を記した名筆を展示する。

 「歌仙(絵)」と「古筆」の比重は半々くらいかと思ったら、意外と歌仙絵が多かった。冒頭に佐竹本三十六歌仙絵の「柿本人麻呂」(出光美術館所蔵)と「山辺赤人」(個人蔵)。どちらも特定のモデルがいたのじゃないかと思われる、なかなか個性的な肖像である。人麻呂のほうが福々しい老人像で、赤人は皺が多く骨ばった顔立ちである。ポーズは違うが、どちらも筆と紙を持っている。佐竹本はもう1点「僧正遍照」も。贅沢そうなオレンジ色の衣に埋もれ、同色の袈裟をつけている。手には数珠と大きな五鈷杵。赤い唇が若々しい。

 人麻呂像は、少し上体を反らせて斜め上を仰ぐような佐竹本のポーズが、少しずつバリエーションを加えながら、基本的には近世まで受け継がれていく。ずらり並んだ人麻呂像を見比べるのは、とても面白かった。出光美術館は、以前も人麻呂像の特集をしたことがあった。2006年の『古今和歌集1100年記念祭-歌仙の饗宴』ではないかと思う。

 屏風も多数。伝・宗達筆『扇面散図屏風』は「単調」「ダイナミックさに欠ける」と評判がよくないが、扇面の中に歌仙絵らしきものが8面あり、明らかに人麻呂像を意識した男性像もある。というか、王朝装束の男女を単独で描くと、基本「歌仙絵」に見えてしまうのだな。

 伝・岩佐又兵衛筆『三十六歌仙・和漢故事説話図屏風』は久しぶりに見た。遡ってみたら、2010年の出光美術館『屏風の世界』展の感想に『三十六歌仙屏風』の名前でメモを書いている。画面の上の方、長い上げ畳(?)に三十六歌仙が一列に並んで座っているのが面白いと思っていたが、屏風の中央、金雲と藍色を背景に団扇のような楕円形が散らしてあり、それぞれに「和漢故事説話図」が描かれている。「和」は源氏物語や平家物語、「漢」は仏教説話や史書の一場面らしいものが見える。又兵衛の工房作らしいが、実にバリエーション豊かな引き出しを持っていたんだなあと感じる。後半にも伝・岩佐又兵衛筆『三十六歌仙図屏風』あり。金地の屏風に36人の歌人を群像的に配置し、和歌色紙を貼る。歌人の顔立ちに又兵衛ふうの特徴は薄い。なお、なぜか斎宮女御が重複していて、小野小町がいない。

 あと面白かったのは、白描の『時代不同歌合絵』の「藤原顕季」と「九条兼実」。顕季は恰幅がいいなあ。横顔の兼実は線が細そうな感じ。同じく白描『中殿御会図』(室町時代)も面白い。出光美術館で何度か見ているが、忘れていた。今回は冷泉為恭による模写本も並べて展示。『西行物語絵巻』(江戸時代、宗達筆)は、さりげなく西行(1118-1190)生誕900年を記念して(※つまり西行の生年と人麻呂影供の開始年は同じ)第1巻をほぼ全面的に開いている。出家に至るまでの物語だが、解説も丁寧でしみじみ味わい深い。

 古筆は『継色紙』の「むめのかの」と「あめにより」、高野切第1種、石山切(貫之集、伊勢集)、古筆手鑑『見努世友』と、数は少なめだったが名品揃いで満足。最後は鈴木其一のカラフルで祝祭的な『三十六歌仙図』。軸物しか知らなかったが、金地屏風もあるのだな。其一の描く三十六歌仙図はすごく魅力的だ。なにげに注意深く、年齢や性格、武官と文官を描き分けている。男女のごたまぜ感もよい。一人ずつフィギュアにしてくれたら、絶対集めてしまうだろう。

 なお余談だが、藤原顕季(1055-1123、六条修理大夫)が人麻呂影供を行った記録は『十訓抄』(説話集)にあり、元永元年(1118)6月16日のことだという。なんと奇遇なことに、この展覧会の初日、私が見に行った日と同じではないか(もちろん当時は旧暦であるが)。また、元来は藤原兼房(1001-1069、後拾遺歌人)が夢に見た人麻呂の姿を絵師に描かせ、礼拝したもので、兼房臨終に際して、白河院に献上され、「鳥羽の宝蔵」に収められた。その後、顕季がその絵像を借り出して、写し描かせたという。歌人が神様になってしまうというこの国の文化、嫌いじゃない。
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失敗した立憲君主/ヴィルヘルム2世(竹中亨)

2018-06-20 23:43:12 | 読んだもの(書籍)
〇竹中亨『ヴィルヘルム2世:ドイツ帝国と命運を共にした「国民皇帝」』(中公新書) 中央公論新社 2018.5

 ドイツの歴史には全く詳しくないので、ヴィルヘルム? 森鴎外がドイツ留学したときの皇帝かな?と思ったら、それは祖父のヴィルヘルム1世(1797-1888)だった。その程度の予備知識なのだが、先日たいへん面白く読んだ君塚直隆氏の『立憲君主制の現在』には、ドイツの皇帝の話がなかったなあと思い、本書で補完してみることにした。

 ヴィルヘルム2世(1859-1941)は、両端を跳ね上げた「カイゼル髭」の由来となった人物で、筋金入りの硬派、ドイツ至上主義に凝り固まった排外主義者のイメージがある。しかし、その実態は、流布したイメージとはずいぶん異なる人物だったことを本書は徐々に明らかにしていく。プロイセン王太子の父フリッツ(のちフリードヒ3世)とイギリス王女の母ヴィッキーの間に生まれたヴィルヘルムは、母の祖国であるイギリスに、生涯、強い愛着を持っていた。また、生まれたときから左腕に運動障害があったため、母親からあらゆる矯正療法を課せられ、障害が克服できないと分かったあとも、スパルタ式の帝王教育を強いられた。こうした生い立ちの結果、ヴィルヘルムは、自己肯定感が傷つき、「男らしさ」を装うようになったのではないかと著者は推測する。

 1888年3月、老皇帝ヴィルヘルム1世が世を去り、息子のフリードヒ3世が後を継いだが、すでに病状が重く、6月に死去した。即日、ヴィルヘルム2世が即位。ドイツでは1888年を「三皇帝の年」と呼ぶそうだ。ちなみに1884年にドイツに留学した森鴎外がベルリンを発って帰国の途についたのが1888年7月、横浜着が9月である。これは余談。

 即位から2年後、ヴィルヘルム2世は、祖父ヴィルヘルム1世の片腕だった宰相ビスマルクを更迭し、本格的な親政を開始する。しかし、すでに立憲君主制を整えていたドイツ帝国では、内閣や議会を無視して皇帝が権力を揮うことはできなかった。しかもヴィルヘルム2世は気まぐれで自信過剰。地味な実務が大嫌いで、書類への書き込みは「よし!」とか「ナンセンス!」という感嘆詞のみだったという。清朝盛期の勤勉な皇帝とはえらい違いである。一方、積極的にメディアに露出し、統一国民国家のシンボルであろうとした姿は興味深い。大衆の政治参加を基礎に君主権を強めることが目的だったが、当人に確たる政策構想がないので、結局は、世論に流されるだけになってしまう。現代のポピュリスト政権を先取りした感もある。

 第1次世界大戦において外交・軍事に失敗し、英仏露に敗れたヴィルヘルム2世は退位を迫られる。しかし退位を拒否した結果、君主制そのものが倒され、閣僚が一方的に共和国樹立を宣言する事態となる。その力量もないのに、歴史の転換点に立たされてしまった人間の不幸。できすぎたドラマの脚本のようだ。そしてドラマは終わらない。ヴィルヘルムはオランダへ亡命し、物質的には何不自由なく、安楽な晩年を過ごした。ただし、精神的には憤怒と怨恨を抱え、帝国の破滅の原因はユダヤ人にあると考えた。また共和国を憎悪し、帝政復活を望み、一時はナチスに期待をかけた(へええ!)。しかし、党勢拡大の間は旧皇帝の権威を利用していたナチスも、政権を奪取すると、もはや旧皇帝を用済みと見なした。ヴィルヘルムはナチスへの憎悪をもらすようになった。1941年、ナチス・ドイツの敗北を見ることなく、ヴィルヘルムはこの世を去る。

 19世紀後半から20世紀前半のヨーロッパで、多くの人々が体験した辛苦や惨禍に比べれば、ヴィルヘルム2世は「恵まれた人生」だったと著者は総括する。そうかなあ。私は彼の人生に、生い立ちから晩年まで「幸福」を見出すことが全くできない。でも、彼のような失敗例と比較すると、イギリスなど、20世紀を生きのびた「立憲君主制」の君主たちが乗り越えたハードルの高さを感じることができる。
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札幌ショートステイ2018

2018-06-18 21:23:20 | 北海道生活
仕事で札幌に行ってきた。たぶん1年3か月ぶり。夏の札幌は2年ぶりになる。自由時間が少なかったので行動範囲は限られるが、意外と風景が変わっていなくて嬉しかった。

2日目は東京からの同行人に誘われて高級海鮮丼でランチ。札幌の住民だったときは、行ってみようと思ったこともなかったお店。



北大キャンパスの滴る緑、あらためて贅沢な風景だと思う。





札幌といえばカラス!という個人的な思い込み。



そして北海道大学総合博物館は、札幌に来たら必ず寄る、私のお気に入りスポット。
むかしは標本室など、収蔵庫をそのまま見せている感じだったが(それもよかった)、最近はどんな来場者でも楽しめるよう、工夫を凝らした展示になってきたと思う。

最近は「ブラタモリ」の影響で、地質・鉱物の展示にもわくわくするようになった。







大通公園付近で遭遇した「札幌まつり」の山車。屋根の上に乗っているのは日本武尊。



うーん、やっぱり仕事でなく個人旅行で来たい街だ、札幌は。
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陰謀論と偽史・偽科学/オカルト化する日本の教育(原田実)

2018-06-17 18:24:22 | 読んだもの(書籍)
〇原田実『オカルト化する日本の教育:江戸しぐさと親学にひそむナショナリズム』(ちくま新書) 筑摩書房 2018.6

 「江戸しぐさ」と「親学」という、あやしい教育論の噂は聞いていたので、表題から見て批判的な立場にあるらしい本書で、少し知識を仕入れてみようと思った。

 「江戸しぐさ」とは、江戸時代、全国から江戸に集まってきた人たちが、おたがい仲良く平和に暮らしていけるように生み出した生活習慣のことで、具体的な動作として「肩引き」「こぶし浮かせ」「傘かしげ」などがあると言われている。著者の調査によれば、「江戸しぐさ」という語の初出は1981年で、企業の社員研修や経営指導を行っていた芝三光(1928-99)という人物が作り出したものだが、90年代からジャーナリストの越川禮子によって徐々に広まり、2014年には文部科学省が配布した『私たちの道徳 小学五・六年生用』に掲載されるに至った。

 私は、かつて東京メトロで「江戸しぐさ」を使ったマナー広告を見た記憶がある。洛中洛外図ふうの江戸の町で「傘かしげ」をしてすれ違ったり「こぶし浮かせ」で席をつめる人々が描かれていた。いま調べてみたら、2005年頃の広告で、山口晃さんの絵であるらしい。山口さんの描く江戸は、武士がオートバイに乗っていたり、お城に高速道路が接続していたりする「架空の江戸」である。当然、描かれた「江戸しぐさ」も、マナー啓発のためのフィクション(パロディ)だと思って当時の私は見ていた。私は大学で日本の古典文学を学び、趣味で古典芸能にも親しんできたが、こんなマナーは聞いたこともなかったから、フィクション以外ではあり得なかった。それが、この10年のうちに「歴史」「伝統」に変わりつつあるというのだから、なんとも困惑する事態である。

 「親学」はさらに厄介だ。教育学者の高橋史朗(1950-)が主唱する「親学」とは、親や、これから親になる人に、親になるための教育を提供しようという運動である。これだけなら何の反対もない。しかし、親学が学ばせようとしている内容が、実質不明の「日本の伝統的子育て」で、その実践が、伝統でも何でもない「親守詩(おやもりうた)」(子供が親に感謝を伝える文芸活動)の普及だと聞くと、その恣意性に呆れてしまう。子供が親に対して五七五で呼びかけ、親が子供に七七で応えるって、連歌じゃねえか。

 著者によれば、親学の支持者は、単に自分が理想とする親子関係を「伝統的子育て」に仮託している。したがって、その内容には歴史的根拠がなく、「お父さんの育児参加」「ほめてのばす」など、むしろ開明的な印象を受けるものもあるのが興味深い。しかし、理想の親子関係への信仰から、ついには「日本の伝統的な育児が発達障害を防ぐ(治す)」と表明するに至っては、悪影響を看過できない。これが障害学の知見と相いれないものであることは本書に詳しい。偽史や偽科学が教育行政を動かしている状況は、早急に見直されるべきである。

 本書の後半は「江戸しぐさ」「親学」を支持する右派保守人脈の思想的背景であるGHQ陰謀論について解説する。GHQが占領政策の一環として「戦争についての罪悪感を日本人に植えつけるための宣伝計画」(WGIP/War Guilt Information Program)を行ったというのは、江藤淳の著書で広まり、今も時々話題に上るのを見かける。ざっくり言うと「江戸しぐさ」も「親学」も、WGIPが葬り去ろうとした「日本の伝統」の復権運動と(支持者には)考えられている。

 このような考えを受け入れる下地として、現代日本人の多くは、左右のイデオロギーにかかわらず、アメリカが持ち込んだ悪しきものを否定したいという潜在的な反米感情を持っている、と著者は解説する。これはとても同意できる。また、20世紀から21世紀初頭(00年代)は世界的に陰謀論が流行した時代で、日本も例外ではなかったともいう。へええ!この時代認識はなかった。

 陰謀論的発想になじんだ人々が過去の日本に向き合うと、さまざまな歴史の「真実」が発見されることになる。というわけで、思わぬ本から、呉座勇一先生の『陰謀の日本中世史』を連想させる話になってきた。ただし本書が取り上げているのは、60-80年代の古代史ブームである。まず、敗戦に打ちひしがれていた日本国民の注目を集めたのが、登呂遺跡(静岡)と月の輪遺跡(岡山)。邪馬台国ブーム、梅原猛の法隆寺論などがあり、日本原住民論としての「縄文人」論とその見直しが続く。

 最後は表題から予想もしなかったところに来てしまったが、「江戸しぐさ」「親学」ほど分かりやすくない、偽史・偽科学の罠が私たちのまわりには、たくさん仕掛けられているのだと思う。薄氷を履む如く慎重でありたい。
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門前仲町グルメ散歩:ソフト氷いちご

2018-06-13 23:28:18 | 食べたもの(銘菓・名産)
明日から北国へ1泊2日で出張。気温が低そうなので、着ていくものに悩んでいる。

その前に、喋る準備もあるのだが…。今週は仕事が立て込んで疲れているので、とにかく寝る。

写真は先々週、暑かったので近所の甘味やで食べたソフト氷いちご。

おしゃれフラッペではなく、なつかしい正統派のかき氷を久しぶりに食べた。これだから下町は好き。


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