見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

堂々赤天狗/たばこと塩の博物館

2006-01-30 23:57:23 | 行ったもの(美術館・見仏)
○たばこと塩の博物館 特別展『広告の親玉 赤天狗参上! ~明治のたばこ王 岩谷松平~』

http://www.jti.co.jp/Culture/museum/WelcomeJ.html

 とりあえず、上記のUIRLをクリックして、気合の入った公式サイトを見ていただきたい。赤い軍服に身を包み、奇想天外な広告商法を繰り広げた、明治のたばこ王、岩谷松平(いわやまつへい)(1849-1920)の特別展である。「たばこと塩の博物館」としては、実に、満を持しての企画と言っていいだろう。当時のポスター、看板、パッケージはもちろん、煙草そのものまで、ちゃんと残っているのには驚嘆した。

 私が岩谷松平の名前を知ったのは、1980~90年代の荒俣宏氏の著作による。この頃の蔵書は、いま、手元にないので確かめられないが、検索してみた結果では『黄金伝説』(集英社, 1990.4)がそれらしい。「好敵手物語・ニッポン宣伝事始-たばこ王・岩谷松平、村井吉兵衛篇」と題した一編がある。

 岩谷が国内のタバコ産業振興を主張し、「国益の親玉」を名乗ったのに対し、村井はアメリカ産のタバコ葉を取り入れ、ネーミングも「ヒーロー」「サンライス」など洋風にした。ポスターやパッケージを見ても、正直なところ、村井のほうが、格段にセンスがいい。

 一方の岩谷商会の煙草は、「金天狗」「銀天狗」「愛国天狗」「陸軍天狗」「日英同盟天狗」(!?)と天狗で統一。銀座三丁目(現在の松屋あたり)に構えた本店の写真が残っているのだが、なんというか...恥も外聞もない外観である。モノクロ写真しか残っていないが、実際は店全体が赤塗りだったというのだから(しかも大きな天狗の面がシンボル)、さらにすごい。これに比べたら、いまどきのドン・キホーテやビック・カメラなんて上品なものだ。

 この展示会には、明治30年代の銀座の古写真が何枚か出ているが、祭礼でも式典でもない、何気ない日常風景が映っていて興味深い。無防備な姿勢で街路を行き交う普通の人々、自転車を止めて宣伝活動を行う岩谷の姿を、ビルの2階の窓に腰をかけて眺めている人の姿などを認めることができる。

 さて、先ごろ読んだ紀田順一郎の『カネが邪魔でしょうがない』によれば、本店の2階は岩谷の私邸になっており、妻のほか、20人の愛人が生活していたという。彼女たちは昼は店先で女子店員として働き、夜は愛人として岩谷の相手をつとめた。この展示会、岩谷の私生活には、あまり触れていなかったけど、少し遠慮したのかなあ。

 しかし、紀田順一郎氏も書いているとおり、岩谷松平というのは、あまり憎めない男である。村井吉兵衛は、瀟洒な別荘、長楽館を今日に残した。一方、岩谷の残した文化遺産や産業遺産はこれといってない(らしい)。儲けた金をきれいに使って、駆け抜けるようにこの世を去っていった。いや、53人の実子を除いては。煙草の専売が開始されて以後、岩谷は養豚業に乗り出して「豚天狗」を名乗り、「岩谷らしく、それなりに楽しい」晩年を過ごした、と伝えている。
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決定版!古筆ガイド/ひらがなの謎を解く(芸術新潮)

2006-01-28 20:54:05 | 読んだもの(書籍)
○「特集・古今和歌集1100年 ひらがなの謎を解く」芸術新潮2006年2月号

 昨年から今年にかけて、『書の至宝』『歌仙の饗宴』などの展覧会で、古筆(仮名)の魅力に目覚めた人は多いと思う。私も、以前から控えめに古筆好きを表明していたとはいえ、短期間で、これだけ多数の名品を見たのは初めてのことだった。正直なところ、ちょっと飽和状態で、見たものの整理が追いつかずにいた。

 そんなとき、昨日、本屋で見つけたのが『芸術新潮』の最新号! 「ひらがな」は、いつ、どのようにして生まれたのか、名品の見どころは、中世以降の展開は、などの問題を、書家の石川九楊氏が、編集部のインタビューに答える形式で、分かりやすく解説している。

 私は、中国の書についても、『芸術新潮』1998年10月号「本当は誰もが知りたい王羲之はなぜ”書聖”なのか――どこがすごいか知らないけれど誰もがみんな知っている”まことの王羲之”を書家・石川九楊が突きとめた!」で基本を学び、今でもこれを愛蔵している。なので、信頼する石川九楊氏が、今度は、日本のひらがなについて語ってくれたことは、バンザイしたいくらい嬉しい。昨日は『芸術新潮』を抱きしめるようにして家に帰ってきた。これはぜひ、多くの人に勧めたいので、私の展覧会記事にコメントをくれた人たちのブログにTB付けに行っちゃおうと思う(めったにしないんだが)。

 圧倒的な読みどころは、「高野切」「針切」「紙撚切」などの名品について、1行目の「れ」の撥ね上げとか、3行目の「わ」の回転部とかいう調子で、ピンポイントの見どころを解説している段。写真図版で確認しながら読むと、だんだん霧が晴れるように古筆のすごさが分かってきて、興奮を抑えられない。

 贅沢な料紙に一級の書き手が筆をふるった美本には、なぜか脱字が多い。これまでは、字は上手くても和歌の教養に乏しい人間が書いたから、という説明がなされてきた。しかし、それは違うのではないか。和歌に「掛詞」があるように、書には「掛字」があったのではないか。「掛字」という発想は、石川氏の独創であるらしい。まだネット上にも解説はないので、ぜひ本文を読まれたし。

 小松英雄氏(筑波大学・日本語学)は、石川九楊氏との対談で、美本に多い異文の存在について、不注意な写し間違いではなく、「書き手が自分の書にあわせて、意図的に書き改めている」可能性を指摘している。さらに、言葉の意味と文字の書きぶりが一体であったことの証明として、「かくる(隠る)」を薄く消え入りそうに書いたり、「したよりおふる(下より生ふる)」を下から生えているように伸ばして書いたりした例を挙げている。子供だましのようだが、なんだ~古筆ってこんなふうに素直に味わえばいいのか~と微笑が湧いてくる。

 私の学生時代、国文学研究は、作品を作家論から切り離し、純粋な(抽象的な)テキストとして解読しようという態度が主流だった。しかし、視覚的な美しさを備えた作品が、これだけ多く残っていることを思うと、「書かれた和歌」「見られた和歌」という視点も、もっと重要視されていいと思う。

 ひらがなの誕生についても、俗説を正した点がいくつかある。女手は「意外なほど短期間で一気に成立した」もので、その触媒になったのは唐代の「狂草」(連綿体の草書)ではないか、という説は興味深い。その根拠になっているのが、醍醐天皇筆の『白氏文集』。御物だそうだ。これ、見てないと思うんだが...ちょっと自信がない。とりあえず、記憶に留めておいて、いつかは見たい。
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1月の小特集いくつか/東京国立博物館

2006-01-27 22:51:29 | 行ったもの(美術館・見仏)
○東京国立博物館

http://www.tnm.jp/

■本館・歴史資料室 特集陳列『博物館誕生』

 毎度、ひいきにしている「日本の博物学シリーズ」の新企画である。昨年、『博物館の誕生:町田久成と東京帝室博物館』という本を読んだ。東京帝室博物館(東京国立博物館の前身)の創設者、町田久成の生涯を描いたものである。伊藤圭介、田中芳男、岩倉具視など、アクの強い明治男たちのドラマが、めちゃくちゃ面白かった。野望、謀略、雌伏、大逆転あり。『小説吉田学校』とか『異形の将軍(田中角栄)』の世界である。

 なので、今回の特集には非常に期待していたのだが、行ってみたら、拍子抜けするほどアッサリとしていた。激しく対立した(はずの)博覧会資料も博物館資料も平等に扱っているし。やっぱり当の博物館では、先人たちの確執はオモテに出せないか。残念だなあ...と思って、異能の人、町田久成による篆書体(※)『博物館』の大きな板額をしみじみ眺めやった。

※篆書体チェック!(一心堂印房)←これは楽しい!
http://www.is-hanko.co.jp/shachi/tensho_check.html

 華やかな色刷り資料が数ある中で、最も興味深かったのは、明治5年湯島聖堂で行われた博覧会の広告と観覧券(実物は広告のほうが縦がちょっと小さい)。手書きなのか~?



■東洋館 新春特集陳列『吉祥-歳寒三友を中心に-』

 東洋館第8室(中国絵画・書跡)で行われている特集陳列。絵画では、『梅花双雀図』(南宋・伝馬麟筆)が”たおやめぶり”の逸品。一方、墨の濃淡だけで奥深い世界を描いた『墨竹図』(清・呉宏筆)もいい。等伯の『松林図』と見比べてみるのも一興。

 それから、扇面図がたくさんあって、これも日本の(たとえば琳派の)扇面図を思い出しながら見ると面白い。宗達や光琳の扇面図では、地平線が、自由自在に曲がったり傾いたりするので、めまいに似た感覚が楽しめるのだが、中国の扇面図では、そういうことはないみたい。常に平衡が保たれている。

■東洋館 特集陳列『小林斗盦(とあん)氏寄贈中国印譜』

 「印譜」という類の書物があることは、知らないわけではなかったが、こんなに多数を一度に見たのは初めてである。何という文字を刻んだものか、ちゃんと解説が付いているので、見比べていると、頻出する「之」「印」の字形くらいは覚えられる。これを見てから『書の至宝』を見に行くと、面白さ倍増!

 多くは自分の姓名を刻んだ印だが、ときどき、変なキャッチフレーズみたいな印があって面白い。あと、たまたま自分の姓と同じ古代の印を手に入れて、その印を使いたいがために、名前を変えてしまったという人がいた。天晴れである。
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しなやかなメディア/和本入門(橋口侯之介)

2006-01-26 08:28:08 | 読んだもの(書籍)
○橋口侯之介『和本入門:千年生きる書物の世界』 平凡社 2005.10

 仕事の関係で、最近、和本に触れる機会が多くなった。面白くてありがたいが、分からないことが多い。初心者にも読めて実用的な案内書はないものか、と思っていたとき、新刊書の棚で本書を見つけた。著者は神田神保町の古書専門店、誠心堂書店の店主で、先代のもとで三十年あまり、商品としての和本の扱いを学んできた。この「店主と商品」という距離感がいい。近すぎず、遠すぎず、初心者が読む「和本入門」として最適である。

 もちろん、和本に対する深い愛情、貴重な文化遺産を次の世代に伝えるという責任感はあるけれど、そのことにガチガチになりすぎない。本を正しく保管するために、最も大切なことは、本に愛着を持つことである。愛があれば、ダンボールに詰めたままということはあり得ない。そして、もし愛着がなくなったら、次の所有者にバトンタッチすべきである。「古書店に売却すれば、必ず次の希望者がいるものである」(そのために古書市場がある)とサラリと言ってのける。この淡白さが好きだ。書誌学の専門家や、愛書家による入門書だと(あと、多くの図書館員も)、「愛着がなくなったら、売り払えばいい」なんて、死んでも言わないだろう。そういう、本に対する過度の思い入れが、時によると、初学者にはうっとおしい。

 知らないことはたくさんあった。1冊の本の板木は、板元を転売されながら百年、二百年単位で増刷されるものであり、「和本にとっては百年はなんでもない歳月である」なんてことに、素朴に驚いてしまう。中国では清朝が「四庫全書」を作ったが、江戸幕府は二百点程度の官版しか作らなかった(ほとんどが漢籍の翻刻)。しかし、その分、日本では民間の書肆ががんばったが、中国では民衆本のジャンルはあまり育たなかった、とか。江戸時代には自費出版が良く行われた。宣長の『古事記伝』も初めは自費出版だったし、塙保己一の『群書類従』も壮大な自費出版だった、とか。

 書物のことを端的に「本」というのは、確実なのは江戸時代からだそうだ。日葡辞書にある「Monono fon(物之本)」って、響きがかわいくて、楽器の名前みたいだ。次のブログのタイトルにしてみたい。

 和本の保存方法(防虫対策)について述べた段に、本をラップでくるみ、電子レンジでチンする(ただし最大50秒を超えないこと)という方法が紹介されている。中野三敏氏が実践しているそうだが、ほんとに大丈夫なんだろうか!?(『江戸文化評判記』中公新書)

 それから、「著者表記の決まり」の解説に関連して、大田南畝の『寝惚先生文集初編』の巻頭が図版で掲載されていて、笑った。これ、全文読んでみたい!
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丸善のハヤシオムライス

2006-01-25 08:28:52 | なごみ写真帖
丸善本店の4階「MC Cafe」では、ハヤシライスが人気メニュー。
丸善の創業者、早矢仕有的(はやし・ゆうてき)が考案したと言われているそうだ。

↓ハヤシオムライスは、白いご飯にふんわり卵が載っている。
ソースは見た目よりさっぱりした味で、美味い。

あと、ガラス越しに本棚を見ながら食事ができるロケーションがいいんだなあ。幸せ。



早矢仕有的 - Wikipedia
”早矢仕はハヤシライスの考案者とも言われるが、真偽の程は不明である。”
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福沢諭吉と論語/慶應義塾図書館貴重書展

2006-01-24 00:01:26 | 行ったもの(美術館・見仏)
○丸善本店 慶應義塾図書館貴重書展『論語の世界-現代に生きる論語-』

http://www.maruzen.co.jp/home/tenpo/keio/keio_top.html

 会期の短い展覧会なので、取り急ぎ、書いておこう。慶應義塾図書館が所蔵する貴重図書を、丸善のギャラリーで展示する展覧会である。「論語」の、日本で最も古い写本(鎌倉時代)と最も古い刊本(天文版)を含む70点余りの資料を見ることができる。会場はさほど広くないが、なかなか見応えがある。初日に、斯道文庫(しどうぶんこ)の高橋智先生の講演「慶應義塾の論語蒐集について」を聴いてきた。

 論語は、もちろん日本人に最もよく知られた中国の古典である。しかし、各地の図書館や文庫の蔵書を調べてみると、残っている善本は意外に少ない。それは、論語があまりにもありふれた書物だったので、あえて善本を求めようという愛書家が少なかったためであろう。そんな中で、慶應の論語コレクションは、突出した水準を誇る。今回の展覧会では、全貌の10分の1も紹介できていない、と高橋先生は言う。

 しかし、なぜ慶應に論語なのか? 講演に先立って、慶應義塾図書館の館長先生が演台に立ち、「皆さんは、なぜ慶應に論語なのか、と不思議に思われることでしょう」と述べ、「本日は、そのあたりをよく聞いていただきたい」という前振りをした。このとき、私は、ぼんやり感じていた疑問を明確に意識した。そうだ、福沢諭吉は「脱亜入欧」を唱えた洋学者ではなかったか。正月に読んだ松永昌三の『『福沢諭吉と中江兆民』でも、福沢は(兆民と違って)漢学嫌いで通していたはずだ。

 高橋先生は言う。福沢先生は、形式に縛られた俗流儒者を嫌ったのであって、孔子の思想を否定していたわけではない。むしろ、福沢にしろ、勝海舟にしろ、明治維新を成し遂げた人々の思想的バックボーンには、正しく理解された「論語」の思想があった。慶應義塾図書館の論語コレクションには、福沢の弟子たちの旧蔵書が多く流れ込んでいる。「義塾」という名称も、「ただで学べる塾」の意味で、中国に由来するものだ。だから、福沢と慶應社中の人々の思想は、東洋文明を排除するものではない。

 上記の説明の是非はともかくとして、私は、若い高橋先生が、さかんに「福沢先生」という表現を使うのを面白いと思って聞いていた。慶應では、今も昔も福沢だけが「先生」で、あとはみんな、「君」で呼び合う対等な同志であるらしい。(→理念上は。それとも、実際に教員どうしは「先生」って呼び合わないのかな?)

 そのほか、高橋先生の講演では、明治期の東京帝国大学で漢学を講じた根本通明(かなりエキセントリック!)の話、朱子学と古学の対立を超えて江戸期儒学を集大成した安井息軒の話(しかし、そのことが以後の儒学をつまらなくした)に加えて、福沢の「学問のススメ」の版木が、まだ慶應義塾図書館の階段の下に眠っている、などのこぼれ話も興味深かった。

 展示品では、「最近、発見されたばかり」という天文版論語の初刷本が見もの。この版木は、堺の南宗寺(なんしゅうじ)に伝わり、明治大正の頃まで(とおっしゃったような)使われていたらしい。戦争で焼けて、今日には伝わっていないそうだが、版木の寿命って長いんだな~。なお、天文版に継いで古い、正平版論語の版木は東博に現存するそうだ。

 いちばん驚いたのは、室町期以前のおびただしい写本の存在である。「論語の世界」と聞いたとき、私は反射的に、刊本ばかりが並んだ図を思い描いていた。これが本場中国の「漢籍」に限った展覧会なら、当然、そうなるだろう。しかし、日本においては、中世までは、論語といえども写本で伝えられてきたということを、あらためて認識した。

 蛇足。この展示会は「慶應義塾図書館」と「斯道文庫」の蔵書で構成されていることになっているけど、「高橋智蔵」の蔵書印が混じっているのを見つけてしまった。あれは高橋先生の個人蔵では?(笑)

 蛇足その2。斯道文庫は、麻生セメント社長の麻生太賀吉が、東洋の精神文化を研究するために設立した研究所を前身とするのだそうだ。初めて知った。息子の麻生太郎外務大臣が、東アジア関係でトラブっているようでは、お父さん、泣いてないか...
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日米開戦への経緯/近衛時代(松本重治)

2006-01-23 01:08:22 | 読んだもの(書籍)
○松本重治著、蝋山芳郎編集『近衛時代:ジャーナリストの回想』(上下)(中公新書) 中央公論社 1986.1-1987.1

 戦前、同盟通信の上海支社長を務めた松本重治氏の回想録。日中戦争の勃発、上海事変、南京事件を経て、1938(昭和13)年に上海を離れるまでを描いた『上海時代』の、いわば続編である。本書は、日中和平運動の挫折に始まり、日米間の緊張の高まりと開戦、そして終戦までを、著者が身近に接した近衛文麿という政治家を通して描く。

 近衛文麿は、1937(昭和12)年6月、国民的な期待を背に第1次近衛内閣を組織したが、7月、盧溝橋事件が勃発。戦争の不拡大を主張し、著者たちの和平工作に理解と共感を寄せたが、中国側が必須の条件とした「撤兵」の宣言を、陸軍の干渉によって削られてしまう。1940(昭和15)年、第2次近衛内閣を組織し、日独伊三国軍事同盟を締結。翌41年、南進か北進かをめぐって、北進派(対米強硬派)の松岡洋右外相を更迭するため、総辞職。引き続き、第3次近衛内閣を組織し、戦争回避のための対米交渉を続けたが、東條陸相の強い開戦要求に押されて、10月総辞職。12月に太平洋戦争が始まった。

 ふーむ。どうなんだろう、この履歴。見ようによっては、日中戦争から太平洋戦争にかけて、近代日本の進路を誤らせた最大級の責任者である。小堀桂一郎などはそのように考えているらしい。→Wikipedia-東條英機

 一方、著者は、一貫して近衛を「悲劇の宰相」として描く。そもそも明治憲法下では、軍の統帥権が天皇にあり、慣習的に統帥部(陸軍:参謀総長。海軍:軍令部総長)がこれを補弼することとなっていた。従って、責任内閣の長である首相は、統帥部に対して、何の影響も行使することができなかった。軍の暴走を制御するすべのないまま、あえて首相の地位に留まって、できる限りの努力を払い、大逆転をねらって苦悶し続けた人物と見る(ちょっと文革期の周恩来みたいだと思った)。

 近衛は、日中戦争を早期に収拾できなかったことに深く責任を感じていた。それゆえ、日中関係を解決する唯一の途は米国にあると考え、日米交渉に全力を尽くした。終戦後、その米国に戦争犯罪人と呼ばれることを潔しとせず、青酸カリを仰いで服毒自殺した。

 家族や親友の証言を交えて語られる近衛文麿の人物像は、非常に興味深かった。戦前までは、日本にもこういう「高貴な人種」が存在したんだなあ、と感じた。

 また、日米開戦前夜、最後通牒となった「ハル・ノート」が提出されるに至るまでの交渉経過については、初めて知る事実が多くて、これも興味深かった。たとえば、当時の野村吉三郎駐米大使は、あまり英語が堪能でなく、外交家としても素人であったこと。松岡洋右外相は、日米交渉は全て自分が仕切るつもりで、野村大使との意志疎通がうまく行っていなかったこと。民間人のウォルシュ神父とドラウト神父という人物が、結果的には、日米交渉を混乱させる要因となったことなど。外交の現場とは、けっこう人間臭いものだ。

 終戦直後、近衛はマッカーサーに対して、「日本を今日の破局に陥れたものは、軍閥と左翼の結合した勢力であった」と述べたという。一瞬、目を疑ったが、「右翼」ではない。なぜなら、暴走する軍部の核となった職業的士官は、大部分が「農村の中流以下の家庭に属するもの」であったから。そして「皇室を中心とする封建的勢力と財閥」は、むしろ「常に軍閥を抑制するブレーキの役割をつとめた」と証言する。ここには、戦後の「通説」が目を塞いで来た、重要な問題点が提起されていると思う。

↓本書のレファレンスに最適なサイト。どこの運営かと思ったら、下の方に小さく「国立公文書館アジア歴史資料センター」と出ている。

■特別展『公文書に見る日米交渉~開戦への経緯~』
http://www.jacar.go.jp/nichibei/

※追伸。『上海時代』のコメントで、本書を教えてくれたSonicさんに感謝。
 
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凍れる音楽・書の至宝/東京国立博物館

2006-01-22 08:03:17 | 行ったもの(美術館・見仏)
○東京国立博物館 特別展『書の至宝-日本と中国』

http://www.tnm.jp/

 最近、ようやく「書」を見ていても飽きなくなった。「書」を見るには、一瞬の印象も大事だが、筆の運びに表現された緩急を、ゆっくり追体験してみることが大切なのではないか。「書」は、視覚芸術であると同時に、音楽に似ていて、時間の流れを必要とする芸術なのではないかと、素人なりに思うようになった。例の、「凍れる音楽」という修辞を援用してみるのはどうだろう?

 この展示会は、中国と日本の「書の至宝」を一堂に集めたものである。雪の一日だったので、人出は少ないだろうとタカをくくって出かけたら、意外と混んでいた。ふだんの特別展に比べて、中高年の男性が多いように思った。気に入った名品をじっと見つめながら、空中で運筆を真似ている若者もいた。米芾の書を指して「これ、これ! これ欲しいのよ~」と騒いでいるおばさまもいた(どういう意味?)。

 中国の書を楽しむには、やっぱり少し「歴史」の知識があったほうがいい。私は、この10年くらい、毎年、中国に行くようになり、書家の名前だけは少しずつ覚えた。しかし、書の見かたは、なかなか分からなかった。そんなとき、素人向きの解説書として、私が非常に恩恵を受けたのは、『芸術新潮』1998年10月号の特集「本当は誰もが知りたい王羲之はなぜ”書聖”なのか――どこがすごいか知らないけれど誰もがみんな知っている”まことの王羲之”を書家・石川九楊が突きとめた!」である。いま、『やさしく極める“書聖"王羲之』という題で、新潮社の「とんぼの本」シリーズに入っている。

 たとえばこの展示会には、王羲之作品が多数出ているが、彼の真筆は現存せず、残っているのは模本(臨書)と拓本のみであること、模本によって受ける印象がかなり異なることなどは、知っておくほうがいいだろう。

 中国人は、古来、紙というメディアの永続性にあまり信頼を置かず、後世に伝えたいものは石に刻んだ。さらにその拓本が取られて、珍蔵されてきた。今日、紙の原本はもちろん、石碑さえも損失してしまって、拓本だけが伝わった作品が数多くある。残念ながら、拓本には、白黒のコントラスト情報(デジタルの二値!)しかない。だから、我々は、「拓本」の向こうに「碑文」を、さらにその先に「書」を、想像力で呼び出すしかない。中国古代の書を考えるとき、このことも頭の隅に置いておくほうがいいと思う。

 本展で出会える名品は数々あるが、『喪乱帖』はその一。王羲之の真筆にかなり近いと言われる臨書である。唐の太宗は王羲之の書を愛し、死に臨んで、収集品を全て自分の陵墓に埋めさせたと伝える。『喪乱帖』は、奈良時代に日本に伝わり、聖武天皇の遺愛の品であったそうだが、さすがに聖武は自分の墓まで持っていこうとしなかった。よかった。

 それから、日本の「三蹟」の一人と言われる藤原行成が、延喜式か何かの裏紙に、王羲之の尺牘(せきとく=書簡)を、いくつも臨書したものがあった(中国には伝わらない作品も含まれるそうだ)。これにはちょっと感動してしまった。時代や国境を超えて、天才は天才に学ぼうとしたんだなあ、と思って。

 中国の書では、懐素の『苦筍帖』が楽しい。「めずらしく佳い筍(たけのこ)と茶があるから、すぐにでも来られたし」という、わずか2行の書簡であるが、前後に序やら跋やら何やらが付き、歴代の収蔵者の印が隙間なく押されていて、立派な巻子本になっている。書かれた内容と、外観の仰々しさのギャップに笑える。

 日本の書は、基本的に「書」そのものである。というのは、「拓本」で伝わる名品というのがないので、少し慣れてくると、墨の濃淡から、筆者の呼吸をナマで感じることができる。その分、中国古代の書よりも親しみやすいと思う。

 展示室の入口にある継色紙『よしのかは』は、小野道風の筆も美しいが、色紙の継ぎ方が、パウル・クレーの絵のようだ。全体に万葉集と和漢朗詠集が多いのは、昨年から続く「古今・新古今イヤー」との差別化を図ったためか。『桂宮本万葉集』って、こんなにきれいだったっけ。『古今和歌集巻十三残巻』も、色とりどりの料紙に目を奪われる。

 江戸モノでは、光悦の『摺下絵和歌巻』が長々と広げてあって嬉しかった。この作品、ずっと「美術」として観賞していたけど、光悦は「寛永の三筆」と呼ばれ、能書家と見なされていたというのが、新しい発見だった。
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雪の東京国立博物館

2006-01-21 20:06:43 | なごみ写真帖
東京は、雪の土曜日。

お昼近くに布団を抜け出して、よし、鎌倉の雪景色の写真でも撮りに行くか、と思って新宿に出た。そうしたら、既に湘南新宿ラインは運休中。

そこで、計画を変更し、上野に向かった。だいたい月に1度は来ている東京国立博物館だが、こんな雪の日に来るのは初めて。見慣れた風景が、異国のように新鮮である。東洋館(アジア・ギャラリー)前のしだれ桜にも、きれいに雪が載っていた。分かるかな~。

特別展『書の至宝』のレポートは、また後日。

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文化研究への接続/ディスクールの帝国(金子明雄)

2006-01-18 08:29:01 | 読んだもの(書籍)
○金子明雄ほか編『ディスクールの帝国:明治30年代の文化研究』 新曜社 2000.4

 明治30年代の文学と文化事象に関する、12人の論文を集めたもの。取り上げられているテーマは「裸体画論争」「公衆衛生と伝染病研究所」「百貨店の女性」「食道楽マニュアル」「殖民・移民・冒険」などである。

 読後の印象は玉石混交だった。どれも題材は面白い。トリビア的な新知識を、だいぶ仕入れることができた。たとえば、北里柴三郎の伝染病研究所(のち、文部省に取り上げられて、東大附属医科学研究所になる)を設立する際、芝区の住民から激烈な反対運動が起こったが、これに対抗して研究所を擁護したのが、福沢諭吉の時事新報であったこと。

 白木屋(のちの東急百貨店)が、生き人形作家として有名な三世安本亀八に初期のマネキンを作らせていたこと。日本食に比べて「西洋人の食事は、品数が多くて分量が少ない」と語られていたこと(今日の常識とまるで逆!)。明治30年代に歌舞伎座で上演された芝居『食道楽』では、俳優が舞台で調理をしてみせた上に、1、2等の客には舞台上で作られたシュークリームが配られたこと(なんだ、こりゃ!)等々。

 「明治30年代研究会」というグループに属するという、書き手の平均年齢はかなり若いのだろう。率直に言うと、頭でっかちで、ひよわな印象の残る論文もあった。具体的な事象の分析がなおざりで、頭の中で作った「語りの方法」をなぞっているだけに感じられた。また、文体や用語に、カルチュラル・スタディーズ独特の匂いが顕著すぎて、生硬な「パロディ」を読んでるみたいで、ときどき、噴出しそうにもなった。

 しかし、「展望」と題して巻末に付けられた、紅野謙介の「文学研究/文化研究と教育のメソドロジー」は、さすがに読み応えがある。同論文は、本書に先立つ論文集『メディア・表象・イデオロギー』(1997)の「あとがき」を引きながら、1990年代以降の日本文学研究の変容を概括していう。ここ十年(というのは80年代の後半から90年代にかけて)作品論・作家論からテクスト論へという大きなうねりがあったが、その後、テクスト論も、かつての作品論と同じ隘路に陥ってしまった。これを打開するには、テクストを、それを取り巻く社会的、歴史的な言説と関連づけ、テクスト理論の達成を文化研究(カルチュラル・スタディーズ)に接続することが必要である。

 1980年代に大学生だった私から見ると、なるほど、その後の日本文学研究は、こういう方向に流れていたんだ、ということが、あらためて納得できる。もうちょっと遅く生まれて、文化研究としての「日本文学」をやってみたかったなあ、と思わないでもない。

 さらに本書が刊行された2000年、既存の「文学」は、制度的にも市場的にも、一層の弱体化が進んだ。しかし、ノンフィクションや報道、映像媒体において、「文学」の物語構造やレトリックは駆使され続けている。「文学という機械はつねにいまも社会の中で作動している」という指摘は鋭いと思う。

 そのほかでは、高橋修の森田思軒論「『冒険』をめぐる想像力」と、和田敦彦「<立志小説>の行方」が面白かった。資本を欠いた貧乏人(学歴システムに乗ることができない者)が、努力の末に成功を勝ち取るという、殖民・冒険小説の「建て前」が、実社会では、ほとんど実現不可能であったこと、それゆえ、「不安」「辛苦」が露出するにつれ、「冒険」がフィクショナルな物語世界に囲い込まれていく過程を論じたものである。
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