見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

書画工芸、妖怪ばなしで涼む/清涼消暑の美(五島美術館)

2021-06-28 20:55:18 | 行ったもの(美術館・見仏)

五島美術館 館蔵・夏の優品展『清涼消暑の美』(2021年6月26日~8月1日)

 「涼」をテーマに絵画、書跡、陶芸など、さまざまなジャンルの優品約50点を展観。こういうテーマ設定は、同館ではちょっと珍しいのではないかと思う。

 冒頭は書跡。書跡で「涼」と言っても難しいだろうと思ったが、一山一寧『園林消暑』など、それらしいものを選んである。これは晩年の書で、薄墨の草書、1行4~5文字の大きな文字が、のびのびと躍っている。後半は「言う莫れ人世炎蒸甚しと/馳求(ちぐ)を歇得(けっとく)すれば心自ら凉し」とあり、「心頭滅却すれば火もまた涼し」みたいな意味か。

 絵画は、過去現在絵因果経断簡(松永家本)『尼蓮禅河水浴図』が出ているのが珍しかった。お釈迦様が苦行を止めて沐浴し、スジャータから乳粥の供養を受ける場面。暑くて水浴びをしているわけではないが、涼しそうではある。お釈迦様、下着は赤ふんで、髪は丫頭(おだんご二つ)なのだな。室町時代の『山水図屏風』六曲一隻は、中国を舞台とし、山水を背景に高士や貴人の姿を描く。最近の中華ファンタジーの世界とあまり変わらない。

 本展には近代絵画も多数出ていて、小川芋銭が目立った。河童と狐(?)を描いた墨画『慈悲薬王』が好き。寺崎広業『夏のひととき』は、夏草の庭の竹のベンチに、白っぽい着物姿の女性が腰かけている。大正時代の女性像らしいさわやかな気品。橋本関雪『高士看瀑図』は色彩がきれいだった。斉白石の『群蝦図』『蝦図』もあり。陶芸は、青花、白磁、青磁など。

 面白かったのは「十返舎一九の妖怪ばなし」の特集で『信有奇怪会』『化物見越松』『河童尻子玉』などシリーズになっている。十返舎一九自身が描いた挿絵も楽しいが、添えられた粗筋を読んで、あんまりバカバカしいので、マスクの下で笑いを嚙み殺していた。

 なお、上述の作品は、このサイトでも閲覧できる。→※十返舎一九(天竺老人のホームページ)。翻刻はないが、画像が鮮明で、眺めるだけでも楽しい。こんな労作を作成・管理していらっしゃる方がいることに驚いた。画像の多くは帝国図書館の蔵書印があるので、原本は国会図書館の蔵書だろうか。

 第2展示室は漆芸。照明を落とした暗い展示室なので、螺鈿や蒔絵の輝きが目立って美しかった。『青貝布袋香合』の女の子みたいに可憐な布袋さんが好き。

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週末散歩(2)本郷菊坂ランチ+門前仲町呑み

2021-06-27 22:20:07 | 食べたもの(銘菓・名産)

土曜日の続き。下谷神社のあと、本郷三丁目に出て、菊坂のフレンチレストラン「プティット メゾン ド アリー(Petite maison de Harry)」で久しぶりに友人とランチ。

サラダをひとくち食べて、美味しさに驚く。考えてみれば、緊急事態宣言中は、平日も休日も、ひとりでぼそぼそ食べる食事ばかりで、美味しいものを楽しむ機会が全くなかった。この1年間、かなり人生を損している。

そして夕方からは、別の友人と門前仲町の日本酒バー「華蔵」で呑み。開店早々に入ったのだが、どんどんお客さんが来て、小さなお店はいっぱいになってしまった。みんな楽しみにしていたんだなあ。なお感染防止のため、いわゆるマスク会食を実行。

しかし東京都の感染者数は予断を許さない様子。完全な日常が戻るのはいつのことだろうか。

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週末散歩(1)2021夏越の祓

2021-06-27 21:54:47 | なごみ写真帖

今週土曜日は珍しく予定の詰まった1日だった。

朝は上野・稲荷町のかかりつけ医のところへ生活習慣病の薬をもらいに行く。近傍の下谷神社に、夏越の祓に向けて茅の輪が設置されているのを見かけたので、参拝していくことにした。

説明書に従い、くぐって左へまわり、右、また左と三回くぐる。昨年、京都の八坂神社で見たものと同じ方式(あ、でも「蘇民将来の子孫也と唱えながら」という指示はなかった)。

こんな青々した茅(ちがや)でつくった茅の輪は初めてだったので、画像検索をかけてみたら、いろいろなタイプの茅の輪があることが分かった。京都・北野天満宮の茅の輪とか、長野・諏訪大社の茅の輪とか、植物の生命力があふれたタイプ、くぐってみたい。疫病退散。

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データベース作りの情熱/茶入と茶碗(根津美術館)

2021-06-25 19:18:04 | 行ったもの(美術館・見仏)

根津美術館 企画展『茶入と茶碗:「大正名器鑑」の世界』(2021年6月1日~7月11日)

 高橋義雄(1861-1937、箒庵)が編纂した『大正名器鑑(たいしょうめいきかん)』(大正10/1921年~昭和2/1927年刊)の刊行開始百年を記念し、同書の成立過程を概観し、同書に掲載された名品を展観するともに、編者・箒庵と初代根津嘉一郎(1860-1940)の友情を紹介する。

 冒頭には『大正名器鑑』全9編11冊の初版本セットが立派な木箱とともに展示されている。茶人で実業家の高橋箒庵は、自宅に「大正名器鑑編纂所」を設け、プロジェクトチームを率いて編纂に取り組んだ(Wikiによれば、実業界を引退したあとの仕事なのだな)。個人蔵の『大正名器鑑稿本』も展示されていたが、図版ページにどのように図版を収めるか、試行錯誤したあとが分かって面白かった。同書は、掲載した茶入と茶碗すべてに写真図版を付し、名品には着色の木版図版も付した。このように記録されたことにより、大正12(1923)年の関東大震災で被災した茶器の姿を偲ぶことができている。

 箒庵は、過去の文献から茶器の評判・解説などの抜き書き帳をつくり(解説資料)、所持者リストを作成し(名物茶入茶碗所持者台帳)、最終的には自らの目で実物を確かめている(茶器実見記、以上の資料は全て慶応大学所蔵)。文化財調査のお手本のような周到さだが、箒庵の茶人としての名声がなかったら、実物を見るところまでたどりつけなかっただろう。

 『大正名器鑑』は、掲載を茶入と茶碗に限る方針を立てた。茶入はともかく、茶碗が重視されるようになったのは江戸後期からだというのに驚く。伝統的には、茶壷、掛軸、花入、水指、香炉などが鑑賞の対象だった。

 そして『大正名器鑑』に掲載された名品を見る。当時から根津嘉一郎の所蔵だったものもあるが、当時は雲州松平家など諸家の所蔵だったもので、現在は根津美術館の所蔵になったものも多い。私が好きなのは、加賀前田家旧蔵の小ぶりな曜変天目。かすかな青みが控えめでよい。

 全編刊行が終結した後、根津嘉一郎が中心となり、大正名器鑑告成会および箒庵翁慰労会が開催された。この慰労会だったと思うが、嘉一郎所蔵の「銘:寿老人」をはじめ、関係者所蔵の伊賀花入5点が陳列された写真があって、壮観だった。

 展示室3(仏像)は、めずらしく中国朝鮮の銅造鍍金仏が並んでいた。唐の五尊仏像は薄い銅板を叩きのばして、仏菩薩や狛犬が5センチくらい浮き出すようにしたもの。抑揚のある表現に驚かされる。展示室5は「茶人たちの手紙」で、桃山時代の利休や織部から、近代の益田鈍翁、松永耳庵までがズラリ一堂に会する。展示室6「梅雨時の茶」は雨や水にちなんだ道具を取り合わせていた。

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王政復古の混乱を経て/氏名の誕生(尾崎秀和)

2021-06-24 21:32:00 | 読んだもの(書籍)

〇尾崎秀和『氏名の誕生:江戸時代の名前はなぜ消えたのか』(ちくま新書) 筑摩書房 2021.6

 SNSで評判を見て読んでみた。評判どおり面白い上に分かりやすくて、いろいろなことが腑に落ちた。われわれ現代日本人は、人名とは「氏」と「名」で構成されるものだと思っている。実はこの「常識」は、約150年前、明治新政府によって創られた。本書は、江戸時代(18世紀後半以降)から明治初期にかけての人名(男性名)の変化を詳述する。

 江戸時代の下の「名前」は、(1)正式な官名 (2)擬似官名 (3)一般通称に分類できる。(3)一般通称は何種類かのお決まりの”お尻”を持つ。〇衛門、〇兵衛、〇蔵などだ。社会的な慣習として、幼名には幼名らしい、隠居には隠居らしい名前が用いられた。(1)正式な官名(武家官位)は、武家では大名と一部の旗本にのみ許されていた。これは本人が選択して申請し、将軍の許可を得て名乗った(幕府は定期的にまとめて朝廷に位階と官を申請していた。なんという空疎な慣習!)。なお、武家にとって「〇〇守」等の官名を得ることは「改名」と認識されていた点に注意が必要である。

 (1)と(3)の間にあって、上級武士など、一般通称よりは偉そうだが、正式な官名を名乗るほどではない場合に用いられたのが(2)擬似官名で、京百官・東百官と呼ばれる種類がある。国名も、〇〇守の「守」等を省いたという意味でこの一群に入る。そうか、弾正とか修理は京百官で、左膳とか求馬は東百官なのか。歌舞伎や文楽、時代劇に登場する人名をいろいろ思い出して納得した。

 武家には(通常)漢字二字の「名乗」も設定されていたが、これは「名乗書判」というサインにのみ用いるものだった(町人も名乗を設定しておくことは自由)。名乗は本姓(源平藤橘など)と接続する。一方、いわゆる通称(下の名前)と接続するのが苗字だった。町人や百姓の場合、普段は通称だけを用いたが、証文の宛名などに苗字を使うこともあり、苗字でなく屋号を通称の上に接続することもある。

 朝廷社会にも「苗字」らしきもの(称号:近衛、九条など)があり、官名を名前に用いる場合もあった。しかし彼らは、武家や町人の常識と真逆で「姓名」こそが人名だと考えていた。朝廷方式の人名表記には、さらに細かい規定があり、位階によっては官または位に名前をつける(参議篁)、もっと偉いと遠慮して姓名を記さない(河原左大臣)など、小倉百人一首を見ると分かるという。公家は実名を呼び合っていたというのもおもしろい。

 さて、王政復古が実現すると、ただの名前と化した「官名」の始末が問題になった。江戸時代にも伊勢貞丈など、実を伴わない官名を名前とすることの誤謬を指摘した学者はいたが、彼らは敢えて現状を変えようとはしなかった。しかし明治新政府は、真面目に「名」と「実」を一致させようとして大混乱を招く。

 まずは新たな職名-官等による秩序を設定したが、(旧官制では)無位無官の高官の下に、大納言とか将監とか仰々しい官名の部下が並ぶことになって格好がつかない。次に徴士(無位の人材)に位階を与えて通称に用いさせようとするが、辞退者が続出してうまくゆかない。明治2年7月には、旧来の官制・官名を全廃し、官員名簿は「位・姓・尸(カバネ=朝臣など)・名」で書くことになった。政府は官員の「姓名」を把握する必要が生じたが、人々は名乗るべき自分の名前が分からずに大混乱。結局、「苗字+実名」という人名の新たな表記方法が創出され、通称と実名の同質化が進んだ。ついに明治5年(1872)「一人一名」が布告され、現在の「氏名」という形が成立したのである。

 いや~学校制度や暦もそうだが、とにかく明治初年はあれもこれも大混乱だったことが分かる。本書は『武鑑』『雲上名鑑』『館員録』など、名簿の実例が写真図版で多数掲載されていて分かりやすい。ずっと通称で登場する後藤象二郎とか、清々しいなあと思った。

 なお、平民については、明治3年に「苗字自由令」が発せられたが、苗字を設定する者は多くなく、明治8年にあらためて「苗字強制令」が布告された。端的には徴兵令に基づく兵籍調査を徹底するためだった。百姓たちは先祖代々の苗字を用いたが、都市部の裏長屋の住人など、新たに自己設定した者も多かったという。そして、効率的な国民管理の都合から、改名や複数本名も原則禁止となり、現在の「常識」が形成されていく。

 な~んだ、そうだったのか、というスッキリした読後感。でもこの、現在の常識を相対化する視点はとても大事だと思う。細かい、もっと面白い話題がたくさんあるので、ぜひ全文を読んでほしい。

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画工たちの仕事/蘭花百姿、他(インターメディアテク)

2021-06-23 16:57:34 | 行ったもの(美術館・見仏)

インターメディアテク 特別展示『蘭花百姿-東京大学植物画コレクションより』(2021年6月19日~9月26日)

 東京大学の学術資源や学術成果を発信するインターメディアテク。上野の科博の『昭和天皇の生物学ご研究』最終日を参観したあと、そうだ『蘭花百姿』が始まっていたと思って、東京駅で寄り道した。なかなか贅沢なハシゴだったと思う。

 明治時代の大学草創期から、植物学研究の傍らでは、その発展を支えるための植物画制作が行われてきた。本展では「蘭」が描かれた植物画を一堂に集めて公開する。ラン科植物は、分類学上、被子植物の中で最も種数が多く、多様な地域と環境に生育することで知られている。さらに歴代の研究者らが収集した標本、図譜等の関連資料を合わせて展示し、蘭の博物誌を楽しむことができる構成とする。

 最大の見どころは手描きの植物画である。標本の代替であって、美術品として制作されたものでないことは百も承知でも、学術的な正確さ・精緻さを究極まで追い求めた結果の、清々しい美しさにほれぼれする。制作者である画工がサインを残すことは少ないが、何人かの名前と閲歴は判明しているようだ。渡部鍬太郎、山田寿雄、加藤竹斎、松井昇、高屋肖哲などの名前を覚えた。加藤竹斎は自分の仕事に「竹斎」という小さな丸印を押しており、藤森照信先生が、明治の学校建築の設計者を推量するのに図面のハンコを手がかりにしていると話していたのを思い出した。解説によれば、画工には、狩野派に学ぶなど江戸絵画の伝統に近い者(加藤竹斎)もいれば、洋画研究に携わった者(松井昇)もいるのが興味深かった。

 彼ら植物学教室の画工について、まとまった情報サイトは見つからなかったのだが、『明治十四年小石川植物園日誌』の全文翻刻という労作を見つけたのでリンクしておく。矢田部良吉や伊藤圭介が登場するのは当然として、事務掛に杉浦重剛の名前があるのに驚く。

 会場には標本や紙資料に加え、派手な色絵の植木鉢なども展示されていて、なんだこれは?と思ったが、解説によれば、小石川の植物園には、江戸や幕末の染付や色絵の植木鉢が残っているのだという。学術資料(民俗資料?)の伝わり方というのはおもしろいものだ。

 その他、現在行われている特集展示。上記と関連が深いのは、特別公開『東大植物学と植物画-牧野富太郎と山田壽雄 vol.3』(2021年6月8日~9月26日)である。「山田壽雄(1882-1941)植物写生図は、2017年冬に東京大学総合研究博物館のバックヤードから発見されました」という、嘘のない報告にちょっと笑ってしまった。ちょっと古い大学の図書館や博物館のバックヤードって、ほんと何が出てくるか分からない…。

 特別展示『仏像工学-追体験と新解釈』(2021年4月27日~9月5日)は、東京藝術大学の文化財保存学保存修復彫刻研究領域において制作された仏像の模刻6点を展示する。東博の日光菩薩像と芸大の月光菩薩像は、どちらも奈良時代の片足踏み下げの乾漆像で、もとは一具と考えられるもの。唐招提寺如来形立像も奈良時代の乾漆像、「唐招提寺のトルソー」と呼ばれ、パワフルで大好き。秋篠寺乾漆心木は記憶になかったが、奈良博に寄託されているらしい。

 東大寺中性院の弥勒菩薩立像、中性院はふだん非公開なので、実物を拝観したこともないかもしれない。鎌倉時代の美麗な仏像で、Wikiによれば「かつては快慶作の可能性が論じられていたが、近年は南都仏師の一派である善派の作品と考えられている」そうだ。山形県・慈恩寺の釈迦如来坐像は平安後期、素朴な印象だが、最初は決まった図面に従って造像されていたところ、途中で頭部・印相などさまざまな改変を行ったことが、模刻によって判明したという。興味深い。

 特別展示『からだのかたち-東大医学解剖学掛図』(2021年3月6日~)、近世近代の解剖図はいろいろ見たことがあるので驚かないだろうと思っていたが、その大きさと量でインパクトのある展示だった。掛図とは、スライドもパワーポイントもない時代、教室の黒板や壁、専用のスタンドなどに吊るされ、講義で指し示すために使われていたもの。したがって、ひとつの図版がかなり大きい。展示場にいると、筋肉組織をむきだしにした巨人に囲まれているような気持ちになる。それと数。「一年を通して歴史的な手描きの掛図を約20点ずつ定期的に入れ替える」計画で、総数は700点を超えるそうだ。

 常設展示も久しぶりにひとまわりした。清掃の方が、ガラスケースや展示台をまわって丁寧に拭いているのを見かけたが、資料の保存・保全に配慮しながらこのエキセントリックな公開方法(露出の標本も多い)を維持するのは大変だろうなあと思った。でも続けてほしい。

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生きもの大好き/昭和天皇の生物学ご研究(国立科学博物館)

2021-06-22 21:42:44 | 行ったもの(美術館・見仏)

国立科学博物館 ご生誕120年記念企画展『昭和天皇の生物学ご研究』(2021年4月20日~6月20日)

 緊急事態宣言で一時中断を余儀なくされた展示だが、最終日に見に行けてよかった。昭和天皇(1901-1989)は、生涯にわたる標本収集と、変形菌類や植物、ヒドロ虫類についての分類学研究などにより生物学の発展に大いに貢献した。本展は生誕120年を記念し、生物学者としての昭和天皇を紹介する。

 最初の見どころは、いきなり入口に並んだ標本の数々。大きなウミガメ、小さな哺乳動物の剥製(アマミノクロウサギだった)や蝶の標本もあったと記憶するが、壮観なのは、円筒形のガラス容器に入った液浸標本の数々である。魚類、ヒトデ、ホヤなど海の生物が多かった。昭和天皇の標本コレクションは総数6万点を超え、その多くが国立科学博物館に移管されているのだという。

 展示室の中央には、テーブルを覗き込むような高さの年表パネルがあった。5歳(1906年)のとき始めて東京帝室博物館にお成りになり、動物の剥製などをご覧になる。ああ、まだ「帝室博物館」(現在の東博)の収集・公開対象が「美術品や文化財」なのか「博物資料」なのか、はっきりしなかった頃だ。9歳(1910年)のとき、東京高等師範学校附属東京教育博物館(現在の科博)へお成りになる。科博の年表を見ると、湯島聖堂構内にあった時代みたい。

 この年表、8歳のとき、伊香保で憧れの蝶オオムラサキを2匹採集し、嬉しくてちょうちん行列をした(日経新聞 S64.1.7)とか、11歳のとき、学校でトノサマガエルの解剖があり、帰殿(帰宅と言わない)後に自分で解剖を体験し、庭に埋めて「正一位蛙大明神」を授けた(実録 M45.4.27)とか、くすっと笑えるエピソードが多数散りばめられていて、編集者の愛を感じた。

 また会場内の柱には、生物学とのかかわりを感じさせる御製の和歌が掲げられていた。「しほのひく岩間藻のなか石のした 海牛をとる夏の日ざかり」「潮ひきし須崎の浜の岩の面 みどりにしげるうすばあをのり」など。いいなあ、上から下へ堂々とケレンなく読み下す感じが帝王ぶりでよい。「わが国のたちなほり来し年々に あけぼのすぎの木はの​びにけり」は昭和62年(1987)の歌会始の御製である。あけぼのすぎはメタセコイア。私はこの歌を丸谷才一さんのエッセイで知った。

 生物学者としての昭和天皇のライフワークは変形菌類とヒドロ虫類である。これは植物学者・服部廣太郎の助言によるもので、当時日本にその生物を研究する研究者がほとんどいなかったことが理由のひとつだという。昭和天皇ご自身の言葉として「競争する相手がいない分野だったから」という趣旨のことが、会場のどこかに掲げられてた。まあ確かに、一刻も早い発見や研究成果を争うような分野はやりにくいだろうと思う。

 昭和天皇は、1925(大正14)年、赤坂離宮内に生物学御研究室を設け、1928(昭和3)年には吹上御苑に生物学御研究所(ごけんきゅうじょ)を設けている。会場には写真パネルのほか、御研究所で使われていた顕微鏡やプレパラートボックスが展示されていた。標本類のいくつかは、展示説明に「科博所蔵」とあるのに、実物には「御研究所」のラベルがついていたのは、前述のように現在は管理が移管されているためらしい。

 那須や葉山の御用邸が、重要な研究拠点だったことも理解した。葉山では海岸で採集をしたり、船で沖合に出たりもしていたのだな。しかし研究にいそしむ昭和天皇のお写真は、本当にどれもいいお顔をされている。

 海外の博物館には、昭和天皇が海外の研究者へ贈ったヒドロ虫の標本が保管されているという。逆に生物学者天皇に対して、各国の元首からさまざまな標本が献上されることもあった。こういうアカデミックな外交の伝統は、ぜひ末永く続いてもらいたい。

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大宇宙と小宇宙/三体III:死神永生(劉慈欣)

2021-06-19 11:09:41 | 読んだもの(書籍)

〇劉慈欣;大森望、光吉さくら、ワン・チャイ、泊功訳『三体III:死神永生』上下 早川書房 2021.6

 第1部第2部が、基本的に古典的な物語の構成に則っており、【ネタバレ】の急所が分かりやすかったのに比べると、第3部はそうでない。起承転結の「転」が何度もあり、残り20ページくらいになっても、結末が読めない展開だった。

 本格的な物語は危機紀元4年から始まる(第2部の開始とほぼ同時期)。莫大な資産を手に入れたが、不治の病に苦しむ雲天明は、恒星DX3906を購入し、大学時代、淡い思いを寄せていた程心に匿名でプレゼントする。程心は三体世界に人類を送り込む「階梯計画」に従事していた。計画では探査機を極限まで軽量化するため、人間の脳だけを送ることになり、雲天明はこのオファーに応ずる。

 程心が冬眠から目覚めたのは、暗黒森林抑止システムが成立した抑止紀元。三体世界は地球世界に融和的になり、人類の科学技術は飛躍的に発展し、多様な文化芸術が花開いていた。重力波宇宙送信システムの最終制御権を有する執剣者(ソードホルダー)羅輯はすでに百歳を超えており、次の執剣者として程心が選ばれる。

 羅輯から程心へ重力波送信スイッチが引き渡された15分後、3機の水滴(三体世界の小型機)が地球に突入する。程心はスイッチを押すことができず、地球上の重力波送信装置は全て破壊された。暗黒森林抑止の終了。三体世界が地球に送り込んでいた女性型ロボットの智子は、全人類にオーストラリアへの移住を命じ、三体艦隊が地球に向かっていることを告げる。

 その頃、宇宙空間では、かつて地球連合艦隊の崩壊の際に脱出した宇宙船「藍色空間」を「万有引力」が追っていた。「万有引力」に同行していた水滴が、突如「藍色空間」「万有引力」双方に攻撃を仕掛けたが、間一髪で難を逃れる。「藍色空間」は「万有引力を奪取し、両艦の乗員たちは「万有引力」搭載の重力波送信装置によって、三体星系の座標を宇宙に公開した(太陽系の座標も公開されたことになる)。状況を察知した三体艦隊は逃げ出し、地球には平和が戻る。

 重力波送信から3年10ヵ月後、三体星系の破壊が観測された。迫り来る危機を実感する人類。三体人の生き残りに制御されている智子は「雲天明が会いたがっている」と程心に告げる。雲天明と程心の会談は宇宙空間で行われた。三体人の監視の下、人類が知るべきでない情報が話題にのぼったときは程心の宇宙艇は即座に爆破される約束だった。雲天明は三つのおとぎ話を語って去った。

 人類は雲天明のメッセージの解読に取り組み、「掩体計画」「暗黒領域計画」「光速宇宙船プロジェクト」を同時進行で開始する。程心は、「光速船をつくる」と息巻くかつての上司ウェイドに資産全てを託し「人類を危険にさらす可能性が出てきたら私を蘇生させること」という条件をつけて冬眠に入る。60数年後、約束どおり蘇生させられた程心は、光速船開発のため武力蜂起しようとしているウェイドに連邦政府への投降を命じる。

 そして三たび程心が冬眠から目覚めたとき、人類は三体文明とは別の宇宙文明に接触していた。それは宇宙空間に浮かぶ一枚の紙きれ状の物体、二次元平面だった。超絶高度な文明が仕掛けた次元攻撃である。三次元世界はみるみる二次元平面に落ち込んでいく。程心は古い友人の艾AAともに、羅輯に見送られて光速船で太陽系を脱出し、太陽系の破滅を目撃する。

 程心と艾AAは恒星DX3906へ向かい、青色惑星(ブルー・プラネット)に着陸した。そこにいたのは「万有引力」の乗員だった関一帆。あれから「万有引力」「藍色空間」の乗員たちは居住可能な惑星を見つけて開拓し、文明を進化させてきた。1世紀前には光速宇宙船の建造も可能になっていた。

 青色惑星の静止軌道上に残してきた宇宙船から警告メッセージを受けた関一帆は、程心とともに偵察に向かう。そこへ地上の艾AAから「雲天明が来ている」という連絡。しかし二人の乗った宇宙船は光速船の航跡(デス・ライン)に囚われ、一千万年以上未来の青色惑星に帰還することになる。すでに艾AAと雲天明は跡形もなく、雲天明のプレゼントである「小宇宙」の入口だけが残されていた。中には畑と白い家があり、小宇宙#647の管理者だという智子が待っていた。二人は小宇宙でしばし穏やかな日々を過ごす。

 あるとき大宇宙からすべての小宇宙に向けて、緊急メッセージが発信される(数十万種類に及ぶ言語の中には三体言語と地球言語もあった)。小宇宙の質量を直ちに大宇宙に返還してほしい。そうでないと、大宇宙は永遠の膨張の中で死んでしまうというのだ。程心と関一帆は小宇宙での安逸を放棄し、智子とともに宇宙船に乗り込み、大宇宙へ帰還の旅に出立する。

 長い物語の終幕、何度も決断に失敗してきた程心が最後の「責任」を果たそうとすること、三体文明の生き残りである智子の「わたしが生きているかぎり、お二人の身に危険がおよぶことはありません」という力強い言葉は、感慨深かった。程心は、生態球(エコスフィア=水と人工太陽、小魚や青藻を閉じ込めたもの)を小宇宙に残していくが、関一帆も「万有引力」で航行時に未知の知的生命体に出会って交信した際、求められるまま、小さなエコスフィアをプレゼントしている。宇宙の片隅でしか生きられないひ弱な人類と、外へ向かう強い意思の交錯するこの物語において、生態球はシンボリックな存在である。むかし澁澤龍彦のエッセイで読んだ、石の中に住む魚の話を思い出した(※宋・杜綰の『雲林石譜』にあるらしい)。

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「洋風画」好き必見/はじめまして、かけじくです(板橋区立美術館)

2021-06-17 18:08:26 | 行ったもの(美術館・見仏)

板橋区立美術館 館蔵品展『はじめまして、かけじくです』(2021年6月5日~7月4日)

 いつも新鮮な企画で楽しませてくれる板美(イタビ)。本展は、縦長・横長といった画面の形による表現の違いや、対(セット)で鑑賞する面白さ、作品とともに現代まで伝わる箱や文書など、さまざまな角度から「掛軸」を紹介する。目のつけどころも展覧会のタイトルも楽しくて、遠路にめげず、いそいそと行ってきた。

 展示作品は約50件。館蔵品展だから、だいたい見たことのあるものが主だろうと思っていたら、えっと驚く作品がいくつか混じっていた。実は「歸空庵コレクション」から13件が出品されている。秋田蘭画や初期洋風画で有名な歸空庵(帰空庵)コレクションは板美に寄託されているので、館蔵品展に出ていてもおかしくはないのだが、特別な機会でないと見られないように思っていたので、ちょっと意外だった。

 伝・佐竹曙山筆『蝦蟇仙人図』(↓画像)、小田野直武筆『鷺図』など、この分野に関心のある者なら必ず知っている有名作品が多数。

 司馬江漢の『深川洲崎富士遠望図』は横長の画面、青い海を背景に黒っぽい犬が一匹、無人の浜辺に佇んでいる。水平線上に低く富士の姿が見える。同館が千葉市美術館とコラボした『夢のちたばし美術館!?』展で見て、印象に残った作品だ。司馬江漢は『鉄砲洲富士遠望図』でも海辺のわんこを描いている。海岸線に無造作に積まれた石材(石灯籠もある)の影に、焦茶色のはちわれの犬が二匹、うずくまっている。港には大きな白い帆の帆船。

 作者不詳の『蘭人少年像』は初見ではないかと思う。これだけインパクトの強い作品なので、見たことがあれば覚えているだろう。

 このほかにも、祇園井特のデロリ系美女『納涼美人図』、狩野典信(栄川院)の巨大な『大黒図』など、クセの強い作品が目立つ。河鍋暁斎『骸骨図』双福は、ほぼ等身大で男女の骸骨を描き分けており、それぞれ精子と卵子が書き添えられている。もちろん、江戸絵画らしい華やかな花鳥図や、英一蝶の『投扇図』(鳥居に向かって扇を投げる男たち)など、楽しい風俗図もある。

 そして「はじめまして、かけじくです」と言われていることもあって、いつもより表装が気になる。やっぱり茶系と青系の表具が多いのは、作品鑑賞の邪魔にならないのかなと思う。ときどき、思い切って主張の強い表具があるのも面白い。伝・佐竹曙山『紅梅水仙図』の太い縦縞とか、狩野章信『内裏雛図』の花いっぱいの描き表装とか。参考展示で、戦後、海外へのお土産用につくられた水彩(※訂正→油彩)の肖像画が、掛け軸のかたちをしているのも面白かった。

 展示のナビゲーターをしてくれるのは、市兵衛さんとねこちゃん。初登場は2020年のリニューアルオープン展だったかしら。

 市兵衛さんは、酒井抱一の『大文字屋市兵衛像』から。

 ねこちゃんは、柴田是真の『猫鼠を覗う図』から。

 とても楽しかった。そしてこの充実したコレクション展が【無料】という幸せ。4月からパートタイム雇用になって収入が減り、展覧会めぐりもコストを意識するようになったので、公共サービスの価値が身に沁みる。ありがとう、板橋区。

 備忘メモ。これまで何十年も板美に通っていて、近くに食事のできるところがない(コンビニはあり)のが最大の難点だったが、赤塚溜池公園の前に「いちカフェ」というお店を見つけた。ランチの看板が出ている(ガッツポーズ)! 調べたら2020年10月3日オープンとのこと(※いたばしTimes)。次回は忘れずに寄ってみたい。ぜひ末永く営業を続けてください。

掛け軸 表装シミュレーター(京都表具協同組合):ずっと紹介したいと思っていた無料アプリ。書画作品を選んで好みの裂(きれ)を合わせ、自分だけの掛け軸をデザインしてみるもの。板美の所蔵作品も選べる。

※帰空庵氏については、名前を聞くたびにどういう方なんだろう…と想像するのだが、静嘉堂文庫美術館の饒舌館長こと河野元昭氏のブログ(2017/10/5)に言及があるのを発見したので、ここにメモしておく。

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追う者、追われる者/中華ドラマ『猟狼者』

2021-06-15 21:25:47 | 見たもの(Webサイト・TV)

〇『猟狼者-Hunter-』全8集(芒果TV、湖南衛視、2021)

 西暦2000年、新疆の高山地帯。雪の岩山で、森林警察の警官である魏疆(秦昊)と趙誠は、密猟団「狼子」と銃撃戦を繰り広げていた。魏疆は狼子のひとりを射殺するも、撃たれて崖下に落下する。狼子に追いつめられた趙誠は、動けないよう脚を撃たれ、雪の中に放置されて凍死した。

 5年後、奇跡的に生き延びた魏疆は、警官の職を辞し、森林保安員として酒浸りの日々を送っていた。あるとき、密猟者を追って山林に入った若い警官が戻ってこない事件が起きる。警官の捜索には賞金がかかっている。魏疆は、旧友・老伊が息子を学校に行かせるため、金銭を必要としていることを知り、賞金稼ぎに山に入り、密猟者たちに捕まっていた若い警官・秦川(尹昉)を助け出す。その密猟者たちは、五年前、彼の同僚・趙誠を奪った狼子の一味だった。

 魏疆は五年前の悪夢を振り払い、狼子の殲滅を決意する。相棒となった秦川。魏疆は老伊(かつて狼子の一味だったが、回心して森の中で幼い息子とひっそり暮らしている)を訪ね、狼子について情報を得ようとする。しかし魏疆が動き出したことを察知した狼子一味は、先回りして老伊を殺害し、魏疆らを待ち伏せていた。以下、銃と火薬、馬と車を使ったアクションの連続。さすが『長安十二時辰』の曹盾監督作品である。

 狼子の大ボス・毒鷂子(鷂=ハイタカ)(尹鋳勝)、三狼・刀子(趙魏)、五狼・狐狸(隋咏良)、六狼・周煬(余皑磊)、七狼・巴図(何晨)は、見事にタイプの違う悪党ヅラが揃っている。四狼は回心した老伊。二狼・薩木は五年前、雪山で魏疆に撃たれて死亡した。その妻である花翻子(沈佳妮)は女狼子として密猟に加担し、夫の仇である魏疆をつけねらう。長い手足、化粧っ気のない無表情で躊躇なくライフル銃をぶっ放す姿がカッコいい。

 狼子集団は一枚岩ではなく、基本的には自分の利益が最優先。スキがあれば仲間を裏切り、命を奪うことも辞さない。その最たるものが六狼である(余皑磊、相変わらず小悪党ぶりが巧い)。大ボスの毒鷂子も、子分思いは見せかけで、自分ひとりが助かればいいと思っている。五年前、二狼・薩木を殺害したのは魏疆ではなく、背後にいた毒鷂子だった。

 そして、死すべきものは死し、捕まるものは捕まり、亡き趙誠の恨みは晴れ、魏疆と秦川の新しい人生が始まることを示唆して、気持ちよくドラマは終わる。基本的には、アクションの撮り方(特殊効果と雄大な自然と俳優さんの身体能力!)に、ふえ~と驚き呆れて楽しめる作品である。その一方、亡き趙誠の妻に偶然再会した趙魏の動揺とか、異動や昇進を避け、狼子逮捕の機会を待ち続ける警官の孫海洋とか、魏疆に協力的な遊牧民の少女・賽娜(黄子星)が幼い頃から姉と慕っていたのが花翻子であるとか、複雑な人間関係と人情がちゃんと盛り込まれているのもよい。警官の理想を愚直に信奉する頑固青年の秦川が、その愚直さで死に際の三狼・刀子の心を動かすところも。原作はなく、オリジナル脚本らしい。

 アクションシーンは、森林地帯、草原、雪山、閉じ込められた小屋の中など、舞台を変え、手を変え品を変えて登場するが、最も印象的だったのは、魏疆と秦川が、砂嵐のロードサイドで狼子たちに遭遇する段。メイキング映像を見たらスタジオで撮影しているのだが、種明かしを見ても衝撃が薄れないくらいすごかった。主演の秦昊、私は『隠秘的角落』→『無証之罪』の順に見てきたのだが、ボサボサ頭の無精ひげにも色気があっていい役者さんだなあ。次回作が楽しみである。

 蛇足。オープニングのアニメーションは、はじめ手抜きのようで気に入らなかったが、回が進むと意味が分かって、だんだん愛着が湧いた。携帯電話を持っている人物が少ないことが不思議だったが、2005年の新疆だとあんなものかな。私は90年代後半にツアーで新疆を旅しており、ロードサイドの荒涼とした風景が懐かしかった。

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