見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

美を身近に/季節をめぐり、自然と遊ぶ(大倉集古館)

2022-02-28 17:32:43 | 行ったもの(美術館・見仏)

大倉集古館 企画展『季節をめぐり、自然と遊ぶ~花鳥・山水の世界~』(2022年1月18日~3月27日)

 花鳥や山水など自然の姿を写した和漢の絵画・書跡・工芸品を取り上げる展覧会。そう聞いても、具体的にどんな作品が出ているのかイメージが湧かなくて、あまり期待せずに見に行った。そうしたら、意外と面白かった。

 はじめに日本の絵画・工芸を、春と秋に分けて紹介する。春の部に出ていた『桜に杉図屏風』(桃山時代・16世紀)と、秋の部に出ていた『網代に葡萄図屏風』(江戸時代・17世紀)が、とても個性的で目を惹いた。どちらも六曲一双。前者は、金地にモコモコと黒っぽい杉と白い桜を描く。樹高を屏風の縦の長さに揃え、桜の樹形が杉とそっくりの円錐形なのは、繰り返しのデザイン的効果をねらった構図である。桜と葉桜、金の霞や土堤が、適度な変化を添えているのもよい。後者は、深緑色の夕闇を背景に、金色の網代垣と霞、そして蔓葡萄の枝。葡萄の実は白っぽい水色。元来の色は違ったのかもしれないが、抽象画のようで収まりがよい。図様のひとつひとつが大きいので、屏風自体が大きく感じられた。日本間ではなく中国の大邸宅に映えそうな感じ。

 大倉集古館、しばらく休館もあって来ていなかったので、こんな美品を持っていることをすっかり忘れていた。自分のブログを検索したら、『桜に杉図屏風』は2006年の『館蔵日本美術による Gold』で見ている。そうか、大倉喜八郎、金(Gold)の工芸品が好きそうだものなあ。『網代に葡萄図屏風』は2015年に東博の常設展で見ていた。

 『吉野山蒔絵五重硯箱』(江戸~明治時代)や『秋草蒔絵文台』(明治時代)は、やっぱり感覚的に新しいのだろうか。文化財としての美しさというより、叶うことなら自分の手元に置きたいと思った。蒔絵や彩色画の描かれた乱箱にも心が動いた。いま私は、浅い段ボール箱の蓋を切り取ったものを手回り品の整理に使っているのだが、これって乱箱だな、と思った。

 春の部に出ていた『四季若草図巻』(江戸時代)は、豊かな色彩で四季の行事や農作業の様子を描いたもの。草花や畑の作物がことさら目立つように描かれていて、絵本のようでかわいい。武士と農民という異なる身分の絵が交互に描かれている点が珍しいのだそうだ。

 後半は、中国・朝鮮絵画と日本の漢画・水墨画に描かれた花鳥山水を紹介。『清朝名人便面集珍』は扇面画16面のコレクションで、本展では4面を展示。これがとてもいい! いずれも金地に濃彩で花鳥を描く。写実的な筆致だが、扇面にどう収めるか、構図の妙も意識されている。中国の扇面は、日本のものより横長である気がした。中骨の部分が長いのだろうか? 伝・王冕筆『墨梅図』は、横長の画面に太い枝が横たわり、あまり人工的でなり、自然な枝ぶりが気に入った。

 水墨山水画は、夏景と冬景を対比させることが多いという。水墨という技法と冬の雪景色の相性がよいためではないかと思う。中国・明時代の『夏景・雪景山水図』(朝鮮絵画の可能性もあるとか)、 朝鮮時代の『残雪山水図』、江戸時代・菅井梅関の『寒光雪峰図』が並んでいて、どれもよかった。あと、狩野探幽とか谷文晁は確かに巧いが、私は『夏景山水図』(室町時代)が気に入った。大きな屋敷に隣り合う、柳の植わった土手道を農夫が歩いていく。こういう、なんでもない風景を描いた水墨画って、かえって珍しいのではないかと思う。

 最後に粟生屋窯の『山水図硯箱』(江戸時代)も魅力的だった。粟生屋窯(あおやがま?)だから、加賀の九谷でいいのかな? 白地の四角い硯箱にカラフルな釉薬で夢のような山水が描かれている。蓋の上は、たぶん西湖の風景。四方の側面にもどこかの山水が描かれる。これも欲しい。文化財としての評価とは別に、とにかく心を掴まれる作品の多い展覧会だった。

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門前仲町グルメ散歩:2022チョコパフェ

2022-02-27 21:58:07 | 食べたもの(銘菓・名産)

2月最後の週末、すっかり春のような陽気になったので、冷たいものが食べたくなって、深川伊勢屋の喫茶室へ。久しぶりのチョコレートパフェ。

いまどきのおしゃれパフェではなく、昭和の記憶に忠実な味と盛り付けが好き。

ただねえ、去年の夏の店内改装とメニュー見直しから、少し盛り付けが変わって、生のフルーツでなくバナナチップが乗るようになってしまったのが残念。営業時間も短くなってしまったし。

コロナ禍でお店も大変なのだろうと思う。引き続き、ひいきにします。

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家族・学校・地域/日本人のしつけは衰退したか(広田照幸)

2022-02-25 18:08:56 | 読んだもの(書籍)

〇広田照幸『日本人のしつけは衰退したか:「教育する家族」のゆくえ』(講談社現代新書) 講談社 1999.4

 少し古い本だが、SNSで「これは名著」というお薦めを見たので読んでみた。刊行は1999年。1997年の酒鬼薔薇事件など青少年による凶悪事件が相次ぎ、「家庭の教育力が低下している」という見方が常識となっていた時期だ。しかしこのイメージは本当に正しいのか? 本書は、戦前から今日までの、学校、家庭(家族)、地域の役割の変容とともに、検証していく。

 明治~昭和初年の農漁村や庶民の家庭では、家業=生産に直結した「労働のしつけ」は厳しかったが、「基本的生活習慣」や「行儀作法」は厳しくしつけられていなかった。学校教育と「村のしつけ」は全く別物で、両者はさまざまな軋轢を生んだ。ともかく子供が学校へ通う慣行が定着すると、親たちは子供を学校に預けっぱなしにして、学校教育の内容にはあまり関心を払わなかった。

 大正期(1910年代)になると都市部に新中間層が出現する。彼らは核家族が多く、地域との関わりは薄く、子供の教育は母親が担った。また彼らは学校が子供の将来に決定的に重要であることを自覚し、学校の教育方針に沿って家庭教育を行おうとした。新中間層の教育意識の特徴として挙げられているのが、童心主義・厳格主義・学歴主義で、彼らはこの矛盾する三者をすべて達成しようとして、パーフェクト・マザーを目指した。

 戦後も、しばらくは戦前の家族のあり方が存続していたが、1950年代後半から高度経済成長が始まると、経済構造の急激な変動が、旧来の家族を根底からこわしていく。特に農村においては、青少年の都市流出・農家の兼業化・離農によって地域共同体が崩壊し、「家族」という単位がサバイバルしていくには、子供の教育がかつてないほど重要になった。この章段には、各種統計とともに、北海道の開拓農家に育った後藤竜二(児童文学者)の自伝小説『故郷』が紹介されていて、興味深い。

 そして高度成長期の終わり頃(70年代初頭)には、ほとんどの子供たちが、卒業後、組織に雇用されて働くようになった。高度成長期には、農村を含め、あらゆる社会層が学歴競争に巻き込まれたが、学校は子供の将来の進路を具体的に保証してくれる装置でもあった。著者はここに「学校の黄金期」という小見出しをつけている。

 1970年代に入る頃から新たな動きが表面化する。家族と学校の力関係において、家庭のほうが優勢になってきたのだ。多くの親が、自分たちこそ子供の教育の最終責任者であるという意識を持ち、学校に批判の眼差しを向けるようになる。その象徴が、1972年から数年間にわたって朝日新聞に連載された「いま学校で」だという。私はまさに当時の小学生から中学生で、あまり問題のない学校に通っていたので、世の中にはこんな学校もあるのかあと思って読んでいたことを覚えている。

 著者はいう。明治から戦後の高度成長期まで、学校は「遅れた」地域社会を文化的に向上させるための「進歩と啓蒙の装置」だった。ところが、未曾有の経済成長によって、誰でも最低限の生活が満たされるようになると、学校の生活指導や集団訓練は、時代から半歩遅れた存在になっていく。学歴競争は誰かが勝てば誰かが負けるゼロサムゲームになり、学校は恒常的に一定量の「敗者」を作り出す装置になってしまった。一方、子供の教育に強い関心を持つ親たち(父親を含めたパーフェクト・ペアレンツ)は、多様で矛盾した要求を学校に突きつけ、学校と争うようになった。学校不信の時代の到来である。

 家族のみが子供の教育の最終責任を持つようになったことで、二種類の問題が起きていると著者は指摘する。一つは、貧困や病気、家族の離別などで「教育する家族」の責任を負い切れない家族の問題だ。もう一つは「家族としての機能の過剰」が、虐待や家庭内暴力を生む問題である。振り返って思うと、本書の書かれた90年代末は、後者の問題のほうが大きかったのではないか。現在は、前者の問題が深刻化しているが、同時に、古い地域共同体にも学校にも拠らない、新しい処方箋も少しずつ試みられているように思う。

 最後に、子供のしつけには、はっきり世代差・階層差・個人差があるのに、「社会全体のモラルの低下」に短絡するには誤りであるという指摘も納得できた。本書の刊行から20年、相変わらず「日本人のしつけは衰退した」と言いたがる論者は多いが、そもそも前提が間違っているので、「家庭の教育力を高めることが、さまざまな問題の解決手段になる」という主張は無視してよいことがよく分かった。

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手芸の楽しみ/ニッポン国おかんアート村(渋谷公園通りギャラリー)

2022-02-24 20:21:24 | 行ったもの(美術館・見仏)

東京都渋谷公園通りギャラリー 『Museum of Mom's Art ニッポン国おかんアート村』(2022年1月22日~4月10日)

 展覧会概要によれば、作家・編集者・写真家である都築響一ほかのゲストキュレーターにより、2000年代初頭から「おかんアート」と呼ばれて密かに注目されてきた、「母」たちのつくる手芸作品の数々、1,000点以上を紹介する展覧会だという。私は、都築響一さんのお名前も、「おかんアート」という言葉も初耳だった。「おかんアート」という名称に、ジェンダーの視点から批判(というほどではないが不満やざわつき)が表明されていることは知った上で見に行ったが、民族学や歴史民俗学の展示(それも現代・近過去の)が大好きな人間としては、とても楽しませてもらった。

 会場内のパネルに、おかんアートと民芸を比較して、民芸は風土が生み出すものだが、おかんアートには地域性がない、北海道から鹿児島まで、さらに世界でも「みんなが同じものをつくってる」という記述があった。だから「作り手のセンスがすべて」であると同時に、「全国・全世界、どこでも『おかん』は『おかん』である」という結論に結びつくのだが、どうなんだろう?

 実は会場を見ていて、あ~これ知ってる!と思うものと、全く初めて見るタイプの展示物があることに気づいた。私(1960年代生まれ、東京育ち)がなつかしく思ったのは、まず折り紙やチラシを使った紙細工で、うちの母親はやらなかったが、親戚や友達の家に行くと、たいてい無造作に飾られていた。

手編みのドレスを着たキューピーにも既視感があったが、我が家にはなかった気がする。

半透明のリボンを使ったエンゼルフィッシュは我が家にあった。友達の家で見て、母親にねだって作ってもらった。

二枚貝に布を張った根付(ストラップ)は、自分でつくるものという認識はなかったが、観光地の土産物屋で売られているのは見たことがある。こんなキラキラしたものではなく和柄の布が多くて、私より年配の女性がよく身に着けていたように思う。

この編みぐるみは初めて見た。用途はトイレットペーパーカバーで、ロールちゃんという名前があることも初めて知った。

このメガネ置きも初めて見て、ちょっと欲しくなったもの。特に名前はないようである。

 全国各地で同じ「アート」がつくられた背景には、もちろん情報の広汎な共有がある。今ならインターネットだが、1970~80年代には、本(ムック)や雑誌がその役割を果たしていた。会場に展示された手芸本の中に、自分の記憶とつながるものを見つけたときは驚いた。私は中学生の頃、この本を見ながら、表紙のような人形をつくったことがある。しかし1回限りで、それ以上はハマらなかった。

 当時は、必要な材料がパッケージになった手芸セットも市販されていた。会場にはむかしの(?)手芸セットも展示されていて懐かしかったが、今でもあるのだろうか? そういえば、洋服を手作りするためのパターンセット(ジャノメ・フィットパターン)も売られていたことを思い出した。手芸は、豊かな生活を実現するための、ある程度実用的な技術だったのだ。

 個人的には、この「おかんアート」について、もう少し丁寧な検証を加えた展示が見てみたい。地域性は本当にないのか。それから、短いスパンでの流行というか、時代性は大いにあると思う。

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美人さん勢ぞろい/上村松園・松篁(山種美術館)

2022-02-22 21:34:14 | 行ったもの(美術館・見仏)

山種美術館 開館55周年記念特別展『上村松園・松篁-美人画と花鳥画の世界-』(2022年2月5日~4月17日)

 美人画の名手として知られる女性画家・上村松園(1875-1949)と、その長男で花鳥画を得意とした上村松篁(1902-2001)に焦点を当てた特別展。さらに松篁の長男である上村淳之の作品、同時代の画家による美人画と花鳥画など、63件が展示されている。

 私は、ふつうの美人画はあまり好みでないので、名手といわれる上村松園にも関心がなかったが、よい機会なので見てきた。松園の美人画は18件。大正時代の『蛍』から最晩年の『杜鵑を聴く』まで、全て日本髪に着物姿の女性を描いたものだが、よく見ると、年齢や装いは多様である。あだな女盛りだったり、初々しい少女だったり。

 色っぽさでは、団扇を口元に当て、蚊帳の間から半身を覗かせる女性を描いた『新蛍』が随一だろう。青地の着物が涼しげで、ストンとまっすぐに垂れた蚊帳の直線が、女性の曲線を引き立てており、ちょっと小村雪岱を思わせる。若い女性を描いた作品では、時代劇に出てくるような黒の掛け衿姿で針仕事にいそしむ『娘』が好き。『庭の雪』の横顔にも初々しさが残る。髪型は若い舞妓さんが結う「お染髷」で、髷と帯に鹿の子絞りがあしらわれている。衿の後ろから帯にかけての覆い布は、衿袈裟(えりけさ)といって着物に髪の油がつくのを防ぐためのもので、京阪独特の風俗だったそうだ。上品なフリルがついているのが可愛い。

 同館は薄型の展示ケースが多いので、作品に肉薄して細部まで眺めることができる。帯や着物の描き分けも素晴らしいが、やはり女性の肉体の美しさの追求にときめく。髪の生え際のぼやかし、指先や耳の赤み、小さくはっきり点じられた瞳など。『蛍』は夜着姿の女性の、紅とは違う、自然な唇の赤みが印象的だった。また、松園は表具にこだわりのある画家のひとりだったということで、作品の表装にも注意を払いたい。松園と親交のあった岡墨光堂には、松園が用いた裂地が残っているそうだ。

 松園とは同世代の、伊藤小坡、鏑木清方の美人画も展示されていた。鏑木清方、梶田半古については、いま話題の(!)木版口絵作品も出ている。さらに小倉遊亀、伊東深水らの美人画が続く。伊東深水は伝統的な美人画も描くが、バタ臭い洋風顔の美人画がよい。眼差しの強さにドキドキする。胸元の大きく開いた洋装の女性が微笑む『婦人像』、モデルは女優の木暮実千代さんなのだそうだ。そして深水の『吉野太夫』を見ると、扮装は古典的でも、しっかりした顎のあたり、近代女性を念頭に描いているように思われる。

 小倉遊亀の『舞う(舞妓・芸者)』2幅対は、人工的なゲームキャラみたいにカッコよくて、とても可愛い。料亭・大市の女将をモデルにした『涼』は、老女のたおやかさと凛とした気品にあふれている。こういう顔の老女になりたかったが、もう無理かなあ。橋本明治が舞妓について、伝統によって鍛えられ練り上げられた「没個性の美」だと語っているのが興味深かった。

 それから、上村松篁の花鳥画へ。このひとは、あまり巧く描こうとしていないところがよい。『閑鷺』とか、鳥を描いた作品が好きだ。同じ系統では、福田平八郎のドタリと投げ出されたような『鯉』とか、加倉井和夫の野鳥と植物を描いた『秋粛』も好みである。

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パネルで楽しむ/湖北・長浜に息づく観音文化(浅草文化観光センター)

2022-02-20 23:53:14 | 行ったもの(美術館・見仏)

浅草文化観光センター 第3回【パネル展・講演会】『湖北・長浜に息づく観音文化~ホトケと祈りの姿~』(2022年2月15日~3月6日)

 東京長浜観音堂に千手千足観音立像を見に行ったら、いま浅草でパネル展示もやっています、と聞いたので、さっそく見てきた。湖北・長浜の観音像17件がパネルで紹介されていた。必ず正面全身の白黒写真なのが、展覧会の図録っぽい。様式、伝来、見どころなど丁寧な解説が加えられている。また保有施設(お寺、公民館など)の小さな写真パネルと、管理状況(〇〇町内会で管理など)、年中行事、ご開帳日なども添えられていた。

 せっかくなので(チラシにも掲載されているが)17件の観音像を転記しておこう。

・向源寺(渡岸寺観音堂) 十一面観音立像
・医王寺 十一面観音立像
・鶏足寺 十一面観音立像
・石道寺 十一面観音立像
・来現寺 聖観音立像
・神照寺 千手観音立像
・知善院 十一面観音坐像
・総持寺 聖観音立像
・充満寺(西野薬師堂) 十一面観音立像
・観音寺(黒田) 伝・十一面観音立像
・善隆寺(和蔵堂) 十一面観音立像
・赤後寺(日吉神社) 千手観音立像
・赤後寺(日吉神社) 菩薩立像(伝・聖観音)
・洞寿院 観音菩薩立像
・山門自治会 馬頭観音坐像
・徳圓寺 馬頭観音坐像
・千手院 千手観音立像(御代仏)

 湖北の観音といえば、やっぱりこれ!と思うのは、向源寺の十一面観音。どこで何度見てもいい。医王寺の十一面観音は、宝冠、瓔珞など華やかな装飾に負けない、気品あるお顔立ちが好き。赤後寺の仏様は2体が取り上げられており、腕先のない千手観音(太い腕の数は十数本)は日本の仏像と思えない迫力で大好きだが、立ち姿にひねりのない、スッキリした菩薩立像もいいと思った。黒田観音寺の伝・千手観音像は、威厳と優しさが同居するお顔と、リズミカルに花が開くような脇手のかたちが好き。「伝」がつくのは、頭上に十一面がないこと、脇手が18臂であること等から、准胝観音との考えられるためである。

 千手院(長浜市川道町)の千手観音も、翼を開いたような脇手が美しかった。私は千手や多臂の観音に強く惹かれるのだ。この仏様、初めて知ったような気がしたが、調べたら2011年に「平成23年新指定重要文化財」として東博で紹介されていた。秘仏本尊の身代わりに祀られている御代仏(ごだいぶつ)で、調べたら本尊並みに古いもの(平安前期)だったという。神照寺の千手観音は、光背に半肉彫で千手を表わす、珍しい造型。石仏かと思ったが、木造だった。

 個性で魅せるのは馬頭観音。山門(やまかど)自治会の馬頭観音、ネットでカラー画像を検索したら全身が黒で頭髪が赤なんだ。カッコいい! 馬頭観音は滋賀県では作例が少なく、多くは湖北に伝来しており、若狭・奥丹後との関係が推定されているが、よく分かっていないとのこと。善隆寺の十一面観音もツンとした簡素で古風なお顔立ちが好き。

 しかし調べてみたら、ほとんどの仏像の画像や解説をネットで探し当てることができた。いい時代になったものである。「長浜・米原を楽しむ観光情報サイト」の充実、ありがとうございます。

 なお、なぜ浅草で湖北・長浜の展示を?というのが不思議だったのだが、2014年と2016年に、台東区の東京芸大美術館で『観音の里の祈りとくらし展』を開催したことが、ひとつのご縁だったようだ。あと、よくよく考えれば、浅草寺は観音さまの聖地なのだ。

 というわけで、久しぶりに浅草寺にもお参りしてきた。南無観世音菩薩。

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千手千足観音立像(東京長浜観音堂)を見る

2022-02-19 21:54:09 | 行ったもの(美術館・見仏)

東京長浜観音堂 『千手千足観音立像(長浜市高月町西野・正妙寺蔵)』(2022年1月12日~2022年2月27日)

 日本橋の長浜観音堂に4回目の訪問。現在の展示は、正妙寺の千手千足観音である。私がこの像を初めて見たのは、2010年に高月・観音の里ふるさとまつりを訪ねたとき。想像もしなかった異形に衝撃を受けた。

 東京では、2016年、芸大美術館の『観音の里の祈りとくらし展II』で紹介され、2019年、びわ湖長浜KANNON HOUSEでも展示されている。その結果、ぜひまた見たいというファンの声に応えて、今回の再登場となったことが、パネルに説明されていた。

 「こういうの…他にあるんですか?」と学芸員の方にお尋ねしてみたら、「いや、ないです」とのこと。ただし鎌倉時代の天台系の儀軌(図像集)『阿沙縛抄』『白宝抄』には「千足観音」の記載があるそうだ。現在の観音像は江戸時代の作だが、もっと古い千足観音像を復興したのではないかという。「でも観音像なのに憤怒像なんですよねえ」と学芸員さんも不思議そうだった。多くの頭(十一面)は過去、多くの手は現在、多くの足は未来の諸仏を表わすという説も紹介してくれたが、初耳である。

 ガラスにかぶりつきで眺めたのだが、けっこう精巧で美しい。宝冠も瓔珞も華やか。憤怒像だというが、笑顔にも見える。

 背面はちょっと笑える。

 現在、東京長浜観音堂では、土日祝日の来館者に湖北の仏像ポストカードをプレゼント中で、今日は円満寺(高月町井口)の十一面観音坐像のカードだった。なかなか美麗な観音様。浅草文化観光センターで開催中のパネル展も教えてもらったので、こちらも行ってみようと思う。

 期間限定の東京長浜観音堂は今月で終了なので、今後のことをお尋ねしたら「いま水面下で…」とだけおっしゃっていた。何かのかたちで観音の里の文化発信が続きますように!

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差別に抗した人々/全国水平社1922-1942(朝治武)

2022-02-18 19:19:05 | 読んだもの(書籍)

〇朝治武『全国水平社1922-1942:差別と解放の苦悩』(ちくま新書) 筑摩書房新社 2022.2

 全国水平社は、部落差別からの解放を求めて部落民自らが結成した社会運動団体で、創立は1922年、今からちょうど100年前にあたる。本書は、大阪人権歴史資料館の学芸員・館長であった著者が、長年の研究を踏まえ、全国水平社の結成から消滅、そして戦後の部落解放運動への継承までを記述したものである。

 1871(明治4)年の「解放令」によって、建前上、近世的な差別的身分は廃止されたが、その後も部落民衆に対する差別はなくならず、1900年前後には、近代化に対応できない「劣位」な人々に対して「特殊(特種)部落」という新たな差別的呼称が生まれる。同時期に、各地で自主的な部落改善運動が始まるとともに、多様な主体による融和運動(差別をなくす運動)が起こり、部落民による、部落差別に対する抗議行動も行われるようになった。

 著者は近代部落問題の特徴として、第一に近代天皇制との密接な関係を挙げる。部落は、華族、士族、平民という血統主義による身分的階層秩序の最下層に位置づけられていた。第二は朝鮮民族、アイヌ民族、ハンセン病患者などにかかわる、重層的な差別の制度化である。

 1920年に入ると、部落青年による自主的な運動団体が各地で生まれ、全国団結の機運が高まり、1922年3月3日、京都市公会堂(現在の京都市美術館別館)で全国水平社の創立大会が開催された。この背景には、社会主義、西洋的ヒューマニズム、仏教、キリスト教などの思想に加え、国内の大正デモクラシー、国際的な民族自決と人種差別撤廃の動きなどの影響がうかがわれる。

 個人的には、同じ1922年設立の日本共産党とは、同じ時代思潮の申し子のように思っていたのだが、そう単純ではないようだ。多くの社会主義者が水平社の運動に賛辞を寄せたことは確かだが、水平運動と無産階級運動の役割の違いを説く主張も見られる。水平社内でも、普通選挙における政党支持をめぐって、共産主義、無政府主義、保守主義など意見の対立が表面化していく。また、水平運動の全国波及に危機感を抱いた保守政治家と内務省は、天皇を中心とした融和政策の推進を強化するが、水平社の人々は、融和運動の「同情的差別撤廃」に批判的だった。

 水平運動は、差別に対する抗議として「糾弾」という方法を用いた。この言葉の意味が、なかなか分からなかったのだが、「部落差別と糾弾闘争」の章に至って、やっと理解した。徹底的糾弾→社会的糾弾→人民融和的糾弾→挙国一致的糾弾と変容したらしいが、細かい差異はあまり重要ではない。要するに、部落民を差別した者に対して、大人数で交渉に押しかけ、謝罪させる(時には、新聞等に謝罪広告を出させる)ことをいう。暴力ではなく、言論による解決を目指すと規定されているものの、現代の基準から見れば、暴力行為の範疇だろう。なお、差別した者が子供の場合、謝罪の主体は父親、妻の場合は夫、被雇用者の場合は雇用者など、家父長とジェンダーに関する意識が反映されているという指摘も重要である。実は水平運動が、ほぼ男性のみに主導された運動であることは、本書を読んで初めて知った。本書の著者が、そのことに自覚的なのは、大変ありがたかった。

 糾弾の対象になった差別、結婚差別や軍隊内差別の実例はひどいもので、立場の弱い者が抗議の声をあげる際、集団の力を頼み、威嚇的、暴力的になるのは、ある程度やむをえないと私は思う。しかし、相次ぐ騒乱・争闘事件によって、水平社は官憲から危険視されるようになっただけでなく、部落に対する差別意識がかえって強まり、周辺住民から部落が襲撃される事件も起きている。なんというか、現代の反差別運動(BLMやフェミニズム)と反・反差別運動の顛末を見ているような感じがした。

 1930年代、全国水平社は、帝国主義戦争反対、反ファシズム闘争を掲げるが、次第に強まる「挙国一致」の声を受け、戦争に協力することにより天皇の下で部落差別の解消を目指すグループが力を増す。しかし近衛新体制(大政翼賛会)に参加するには至らず、近衛退陣後、アジア・太平洋戦争が始まると、不許可になるであろう結社申請書を出すことも、解散届を出すことも拒み、法律上は自然消滅することになった。最後まで国家権力に抵抗した意味は大きいと著者は評価する。

 現代の目から見れば、運動として稚拙な点、容認できない点も多々あるが、現代の差別問題とその解決方法を考える上で、よくも悪くも参考になる歴史だと感じた。

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戦前から戦後まで/民藝の100年(東京国立近代美術館)

2022-02-16 20:48:48 | 行ったもの(美術館・見仏)

東京国立近代美術館 柳宗悦没後60年記念展『民藝の100年』(2021年10月26日~2022年2月13日)

 先々週見てきたのだが、これは思いのほか難しい展覧会だぞと思って、感想が書けずにいた。「民藝」はおよそ100年前、柳宗悦、濱田庄司、河井寬次郎らが作り出した新しい美の概念である。本展は、出版物、写真、映像などの関連資料を加えると、総点数450点を超える大規模な展覧会だが、その6割以上(工芸品に限ればもっと)は、柳宗悦が設立した日本民藝館の所蔵品だ。

 本展は、おおむね蒐集年代別に構成されており、1910-1920年代初頭/1910年代後半-1920年代に蒐集された朝鮮陶磁、日本蒐集紀行のこぎん(刺し子)や木喰仏、西洋蒐集紀行のスリップウェアやウィンザーチェアは、どれも民藝館でおなじみの品だった。1920-1930年代、柳らの関心は、日本と世界の民家、大津絵、あらゆるフォークアートに広がっていき、蒐集品の美を発信(出版)するために、トリミングや配置など効果的な「編集」が用いられるようになる。1930-1940年代、民藝は出版だけでなく、多様なメディア(民芸館の展示設計、日用品のデザインと販売等)を活用し、人々の生活の中に深く入り込んでいく。日本の「境界」であるアイヌ、沖縄、さらに朝鮮、中国・華北、台湾も取り込み、日本文化の対外発信の一翼を担うようになる。

 最近、私は大塚英志の『「暮し」のファシズム』を読み、戦時下で推奨された生活の工夫や節約、すなわち「ていねいなくらし」とは、国民の「内面」の動員だった、という指摘を共感をもって受け止めた。この本を読みながら、ずっと脳裏に浮かんでいたのは「民藝」の存在だった。そして、この展示を見ている間は、大塚英志の指摘を思い出さずにいられなかった。

 柳らが発見し、創造した民藝は、確かに純粋に美しい。日本民藝館では、展示品をあらゆる文脈から切り離し(時代や産地の解説は極少にとどめて)見せてくれるので、虚心坦懐に美しさに向き合うことができる。一方、本展では、ひとつのアイテムが、どのような時代背景、編集意図につながっていたかが、嫌になるほど分かってしまう。だから、とても悩ましい。

 戦後は日本が国際社会に復帰し、高度経済成長を遂げていく中で、民藝は再び国際文化交流の最前線に立ち、インダストリアルデザインと結びついて、衣食住のトータルデザインを提唱するようになる。このあたりも、花森安治の戦前から戦後の歩みと重なる感じがする。本来的には、民藝のほうがハイソサエティ志向だろう(銀座の「ざくろ」とか)。

 というわけで、私にとっては、やや後味の重たい展覧会だった。あらためて印象に残ったのは、柳宗悦の「編集力」とメディア戦略の巧みさである。柳は、壺や徳利の文字、すなわち伝統や型や技法の制約によって「個性の角」がとれた「非個人的な文字」に注目し、その延長上に拓本(筆記→石刻→風化→墨拓という輪廻を経た文字)を位置づけ、特に六朝の文字を好んだ。この「フォント」へのこだわりも、実は、上述の大塚英志本に出てくる花森安治と共通するのである。

 それから、民藝運動といえば、私が思い浮かべるのは、柳宗悦のほか、日本民藝館に作品を残した創作家のバーナード・リーチ、濱田庄司、河井寛次郎らだが、それ以外にも多数の活動家がいることを認識した。農民美術運動の山本鼎、鳥取民家譜の吉田璋也の名前は記憶に留めておきたい。耳鼻科医の吉田は、鳥取市にたくみ工藝店(今もある!)を開いて地元の工人の作品を販売し、戦地の華北では中国の椅子文化に着目し、日本人の生活に合わせて改良を重ね、人気商品に仕立てたという。おもしろいなあ。このひとの名前を知っただけでも、本展は行った甲斐があった。

吉田璋也の世界/「吉田璋也デザイン運動の歴史的価値を検証する」委員会

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祝リニューアル/松岡コレクションの真髄(松岡美術館)

2022-02-14 22:19:33 | 行ったもの(美術館・見仏)

松岡美術館 再開記念展『松岡コレクションの真髄』(2022年1月26日~4月17日)

 同館は、貿易・不動産業などで知られる実業家の松岡清次郎(1894-1989)が、長年にわたって蒐集した美術品を展示するため、1975年に設立した美術館である。2020年に港区白金台(松岡の私邸跡地)に移転し、公開を続けていたが、2019年6月から、館蔵品の修復調査と諸設備改修工事のため休館していた。ちょうどコロナ禍と重なるかたちになったが、このたび、無事にリニューアルオープンした。

 私のブログの記録では、2004~05年に陶磁器コレクションを目当てに何度か訪ねているのだが、その後は、気になりながら、ご無沙汰していた。久しぶりの訪問なので、建物の外観には全く記憶がない。中に入ると、右手に巨大な松岡清次郎氏の半身像(作者は伊東傀)があって驚いたが、これも記憶になかった。ただ西洋彫刻の並ぶエントランスホールには覚えがあり、ガラスケースに入ったジャコメッティのブロンズ像『猫の給仕頭』を見つけて、これ、これ!と懐かしく思った。

 1階はヘンリー・ムアやエミリオ・グレコの現代彫刻、古代ギリシア・ローマ彫刻、エジプトの神像や彩色木棺に加え、古代東洋彫刻(中国・ガンダーラ・インド・クメール)のバラエティが圧巻だった。中国彫刻は、隋代の観音菩薩立像(石灰岩)と唐代の如来頭部(大理石)が、かすかに彩色の名残を感じさせて美しかった。遼~金代の如来坐像は、小顔で、胸から腹の肉付きがよく、ちょっと室生寺の釈迦如来坐像に似ていた。ガンダーラ様式の仏像は10件以上。髪を垂らしていたり結っていたり、上半身が裸だったり通肩の着衣だったり、ガンダーラ彫刻と言ってもいろいろであることが分かる。

 インド彫刻は、肉体に漲る生命力に惚れ惚れする。丸々した乳房の女神像が多いが、性的かというと、ちょっと違う気もする。太陽神スーリヤ像は七頭立ての馬車(七頭一身にも見える)に乗っていた。四臂の女神ヨーギニーは鳥に跨り、口元に手を当てて牙を強調する。善神とも邪神とも判断のつかない混沌とした姿がおもしろい。

 2階は陶磁器と日本画。陶磁器は、個人的に、松岡コレクション最大の見ものだと思っている。『青花龍唐草文天球瓶』については、完全無欠な球状、ブルーの発色、描線の躍動感、何も言葉を重ねることができない。この名品を日本に持ってきてくれて、ほんとにありがたかったと思う。1974年のオークションで、いったんはポルトガルの銀行王の代理人に敗れたものの、軍事クーデター(調べた→カーネーション革命というのか)で銀行王が失墜し、松岡の所有に帰したのだという。

 松岡の好みなのか、色彩が明るく華やかで美しい優品が多いように感じた。昭和の子どもの食器のようなおおらかさを感じる『五彩魚藻文壺』(明・嘉靖)とか。これ、同類の品が国内にいくつかあるのだな。『五彩果鳥文鉢』(清・康煕)は妙に写実的なタッチの鳥が、鉢(碗)の側面に大きく描かれている。『釉裏紅花卉文大壺』(明・洪武)は、渋い黒色の描線の下から、滲むような赤が発色しているところに趣きがある。どれも眼福。青花も『青花葡萄文大盤』など、ありそうで、少し変わった文様が多くて楽しかった。

 日本画は、鏑木清方と伊藤小坡の美人画を堪能した。伝・周文筆『竹林閑居図』は後期(3/8-)展示なので、機会があったらまた来よう。

 なお、1階では大きなガラス窓から、緑の多い、よく手入れされた庭園(中庭)を眺めることができる。つくりものの二羽の鶴が置かれているのはご愛敬。ホームページのフロアガイドに「現在、美術館が建つ場所には、松岡清次郎の住まいだった大正時代の2階建て和風建築がありました」という説明があるが、これは、佐野眞一『渋沢家三代』によれば、渋沢篤二が暮らした家なのだろうか。少なくとも場所はここらしいのだが。

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