見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

江南2019【3日目】揚州→南京→揚州

2019-04-30 22:22:09 | ■中国・台湾旅行

 3日目は晩めの出発だったので、朝食後、ホテルの隣りの公園やその向かいの大きなスーパーマーケット(朝8時開店)をぶらつく。公園には、目つきの鋭い男の先生を囲んで太極拳をする女性グループ。スーパーは食品も日用品も豊富で楽しかった。

 面白かったのは、出勤・登校する人々の姿。まだ肌寒い季節、8~9割の人が、バイクや電動自転車の前面に「掻い巻き」のような防寒具を取り付けている。あまりカッコいいとは言えないが実に合理的。

 今日の予定は南京へ日帰り観光。揚州から南京は車で1時間半。ガイドさんの話では、江蘇省の「南京は大阪、揚州は京都、鎮江は奈良」みたいな関係で、この3都市をまとめて観光することは多いそうだ。途中、龍池のサービスエリアでトイレ休憩。個室の壁に「来也匆匆、去也冲冲」というステッカーが貼ってあるのを見て噴き出してしまった。「来也匆匆、去也匆匆」のもじりなんだけど巧い。そして頭の中では当然のように「刀剣如夢」の軽快なメロディが再生される。

 と思ったら、トイレを出て立ち寄ったコンビニでは、ちょうど「刀剣如夢」(ドラマ『倚天屠龍記』のOP曲)が流れていて、ひそかにテンションが上がった。なお、「来也匆匆、去也冲冲」(入るときは素早く、出るときは流す)という標語は、中国のあちこちのトイレで使われていることに、今回、初めて気づいた。

 南京ではまず中山陵を観光。とにかく人が多い。

 

 次に明王朝の初代皇帝朱元璋の陵墓である明孝陵。朱元璋は、ドラマ『大明帝国 朱元璋』を見て以来、胡軍の顔でしか思い浮かべられなくなった。いま見ている『倚天屠龍記』にも登場するんだよなあ、とにやにやする。ここも何度か来ているが、石積みの土台の上の建物は近年の増築だというから、前回はなかったかもしれない。

 明孝陵の印象は、むしろ人や動物の石像の立ち並ぶ「神道」のほうが強い。しかし、今回は電動カートに乗せられて、全長600メートルほどの神道と並行する道を一直線。揺れるカートの上から撮れた写真は獅子(?)のお尻のみ。疲れないし、時間の節約になるのだろうけど残念だった。

 最後に宋美齢ゆかりの美齢宮を観光して、揚州のホテルに戻った。

(5/7記)

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江南2019【2日目】上海→鎮江→揚州

2019-04-29 00:19:05 | ■中国・台湾旅行

 2日目は半日かけて上海から鎮江まで一気に移動。専用車(大型バス)の運転手の施さんは年配客に親切な若者だった。上海からスルーガイドの陸さん(男性)が同行。なお、江蘇省の鎮江、揚州、南京では、それぞれローカルガイドさんが加わった。鎮江までの中間地点、常州のサービスエリアでトイレ休憩。ここは近くに「中華恐竜園」というテーマパークがあるので、サービスエリアも全体にジュラシックパーク仕様。

 鎮江では小雨のパラつく中、金山寺へ。小高い丘(金山)の上に立つ慈寿塔に向かって、黄色い壁に囲まれた巡路を登っていくと、前回来訪の記憶がよみがえる。私は2004年にも、今回とだいたい同じ江南の各都市を訪ねているのだ。なお2004年の江南旅行の記録は、最近まで別のサイトに公開していたが、今年4月にそのサイト(geocities)が終了になったので、このブログ内に取り込んである。

 金山寺が「白蛇伝」の舞台であることは、鎮江のローカルガイドさんが何度も強調していた。むかしから物語の梗概は知っていたけど、2016年に見た京劇公演を思い出して、感慨深かった。それから、前回の記憶にない発見もいろいろあった。これは境内の堂宇内にあった読書室(読経室)。静かに書物を開いているおばあさんがいた。

 昼食後は古西津渡街(宋街)を散策。長江に面した、むかしの港(渡し場)の跡で、平地から小高い丘の中腹に向かって石造りの街並みがきれいに整備されている。レストランやホテルが並ぶ平地一帯は、ガイドさんによれば「もとは工場の敷地でした」とのこと。当地の開発については「鎮江市西津渡街における観光開発に関する一考察」(張彗娟)という論文(日本語)をネット上で読むことができ、興味深い。左右の観光商店をのぞきながら石段をしばらく上がると、T字型に交差した細道が、丘の中腹に張り付くようにうねうねと続いている。突然、視界に入ったのは、石積みのアーチの上の白塔。「昭関」の文字が見える。

 これ!2004年にも確実に見た白塔である。↓下は2004年の写真。あまり変わっていない。もっとも上の写真は、観光客のいない一瞬の隙をねらって撮ったもので、実際は、ひっきりなしに観光客の波に襲われていた。

  さらに進むと、鎮江博物館の商店があり、鎮江名産の黒酢に加え、こじゃれたミュージアムグッズなどを置いていた。道の突き当りの右側には鎮江博物館の本体が。2004年には大々的な改修工事中だった建物である。懐かしい。

  そして、2004年にはこの細道「小碼頭街」をずっと歩いたことを思い出した。来た方向に戻っていくと、うねうねと続いている。かつてはもっと生活感にあふれた通りだったと思うが、現在は観光客相手の商店が左右に軒を連ね、古い外観にもかかわらず、バッグや洋服など、現代的な高級品を置いている店もあった。

 中にはこんな店も。「江南一絶 洪七公叫花鶏」。それは杭州名物だろ!なんて、かたいことは言わない。

 さらに三国志ゆかりの北固山へ。孫権の妹・尚香と劉備の婚儀にちなむ古甘露寺がある。また孫権と劉備が刀で切ったとされる試剣石が入口にあったと記憶していたが、今回は立ち寄らず。山上の楼閣から焦山(今回は観光に含まれず)とその塔を遠望する。またいつか来られるといいなあ。

 これで鎮江の観光を終え、揚子江を北岸へ渡って、今夜の宿泊地である揚州へ。夕食後、オプショナルツアーである「春江花月夜ショー」鑑賞に参加する。このツアーには揚州と杭州で2回のオプショナルツアーが用意されていて、どちらか1回は行ってみようと思っていたのだが、参加者の中に中国のエンターテイメント大好きなおじさんがいて「それは両方行くべきだ!」と強く勧められ、2つとも行くことにしてしまった。今夜のショーは痩西湖公園の野外劇場で行われる。専用車で劇場へ向かう途中、いくつか気になる建造物を車窓から眺めた。いずれも2004年の旅行で見た記憶のあるもの。

 道路の中央分離帯にある石塔。確か唐代のもの。

 文昌閣。これは別の日の写真。

 たぶん四望亭。前回はオーダーメイドツアーだったが、今回は旅行社企画ツアーなので、ちょっと寄り道して!というような気楽な注文はできない。史跡の存在を車窓から確認できただけでも幸運とする。

 さて「春江花月夜ショー」は、揚州の歴史や文学を題材にしたもので、まあまあ面白かったが、この日は小雨のパラつく肌寒い日で、野外劇場はお客も少なく寂しかった。苦笑したのは、大運河を開削した隋の煬帝がずいぶん晴れがましくカッコよく描かれていたこと。いいのかそれは。

 あと「揚州十日」で清軍の非道ぶりを糾弾するのに、そのあと臆面もなく清代の揚州の繁栄を描くのも、歴史に忠実で面白かった。

(5/6記)

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江南2019【初日】羽田→上海

2019-04-28 21:57:12 | ■中国・台湾旅行

 平成から令和にかけての改元10連休。年始めの時点では、自分がどこの職場に配属されているか未定だったのだが、カレンダー通り休めることに賭けて、海外旅行に出かける計画を立てた。1週間以上の中国・アジアツアーを探した結果、クラブツーリズム社の「揚子江が潤す美しき奥江南のゆったり旅7日間」に参加することにした。

 参加者は14名。日本から添乗員も同行する、私にとっては久しぶりの本格的なツアー旅行である。やはりリタイア世代が目立つが、母娘ペアも2組いて、平均年齢は思ったより若かった。昼過ぎに羽田空港を発ち、上海・虹橋空港着。夕食後は黄浦江のナイトクルーズを楽しむ。緑の屋根は和平飯店。

 幸い、雨は落ちてこなかったが、灰色の雲が重たく垂れこめ、東方明珠タワーは先端が雲の中に隠れていた。真っ赤にライトアップされた姿は、敵意ある宇宙人のロケットのようで禍々しかった。

  水上を行き交う船の中には、隋の煬帝や清の乾隆帝が江南巡行に使用した「龍舟」を思わせるものも。

  このドギツさ、中国に来たなあという感じで嫌いじゃない。

(5/6記)

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2019黄金週スタート

2019-04-27 22:56:51 | 食べたもの(銘菓・名産)

4月異動の新しい職場にまだよくなじめないまま、ゴールデンウィークに突入した。今年はカレンダーどおりの10連休を利用して、明日から1週間、中国・江南ツアーに出かけてくる。

視聴中の連続ドラマ、読み終わっただけで感想を書いていない本、仕事上の懸案、部屋の掃除・衣替えなど、全て思い切って棚上げ。

しばらくブログの更新はないので、門前仲町の「由はら(ゆはら)」のクリームあんみつの写真を置いていく。

帰国したときは、平成ではなく令和の時代になっているわけだが、こういう自然な代替わりは、昭和→平成のときよりずっといいと思う。

それにしても、この数日、暖房が欲しくなるほど寒い。平成の終わりは寒かったと語り継がれるのではないだろうか。

 

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帰れない故郷/硫黄島(石原俊)

2019-04-25 23:17:05 | 読んだもの(書籍)

〇石原俊『硫黄島(いおうとう):国策に翻弄された130年』(中公新書) 中央公論新社 2019.1

 日本の歴史には、まだまだ私の知らない事実があるものだと思って感慨深かった。もちろん太平洋戦争の激戦地として「硫黄島(いおうとう、英語圏ではIwo-jima)」という名前は知っていた。本書でも触れられているが、2006年の映画『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』も記憶に新しい(見てはいない)。しかし、しみじみ地図を眺めたことはなかった。硫黄列島(火山列島)は北硫黄島・硫黄島・南硫黄島から成り、中心の硫黄島は、東京都心から南方に約1,250キロメートル、小笠原群島の南、北回帰線のすぐ北側に位置する。

 そして、戦地のイメージが強いこの島に生活者がいたことを、著者はゆっくり解説していく。1880年代の日本では南進論が隆盛し、小笠原群島以外の「南洋」(北大西洋)の島々が次々と入植・開発のターゲットになっていく(これに少し先立つ小笠原群島の領有・開発史も面白いが省略)。はじめは硫黄採掘が期待されたが、採掘可能な鉱区に限界があることが分かり、プランテーション経営のサトウキビ栽培、コカ栽培が営まれ、入植者は拓殖会社の圧倒的な支配の下で小作労働に従事した。やがて蔬菜や果実類の栽培、トビウオ漁(本土の漁船に買い上げてもらう)も行われた。1944年4月時点で、硫黄島の総人口は1,100人を超えている。

 ところが戦争が始まる。1944年に入ると米軍は反撃に転じ、「大本営は本土の南方の離島群を地上戦またはその兵站(後方支援基地)として利用するための、体系的な作戦を立てはじめた」。これは本文中にさらっと書かれていることの抜き書きだが、ぞっとする。あるとき、自分の住んでいる土地が「地上戦」想定地に決められてしまうのだ。それも本土決戦までの時間を稼ぐために。

 1944年6月、小笠原群島・硫黄列島民に対して本土への引揚(強制疎開)命令が下る。多くの島民が全ての財産を放棄し、着のみ着のまま疎開船に乗り込んだ。その一方、16~59歳の男性は多くが軍属として残留させられた。中には徴用令状もないまま、会社に呼び出されて島に残され、地上戦で命を落とした人々もいる。

 硫黄島の住民にとって、それは住み慣れた故郷で起きた「地上戦」だった。しかし、戦後日本では「沖縄=唯一の地上戦(あるいは、住民を巻き込んだ唯一の地上戦)」という、やや不用意な言説が定着してしまい、硫黄島民の経験は見逃されがちであった。なお著者は、硫黄島の戦いを「もう一つの地上戦」と呼ぶことにも慎重である。なぜなら、現在の日本の国境外を見わたせば、さきの大戦で多数の住民を死に至らせた「地上戦」はいくらでもあるからだ。

 さて、戦後を生きる私たちが目をそむけてはならないのは、むしろここからである。サンフランシスコ講和条約の締結によって日本は主権を回復したが、沖縄・奄美・大東の「南西諸島」と小笠原・硫黄列島の「南方諸島」の施政権は、引き続き米国が行使することが認められた。長期化する離島生活。補助金の打ち切り。「難民」状態の旧島民は困窮化し、生活苦による自殺や一家心中も多かった。

 1968年には小笠原群島・硫黄列島の施政権返還が実現する。しかし帰還が認められたのは小笠原群島民だけだった。1980年頃から自衛隊施設の整備・拡充が本格化し、硫黄島は日米共同利用の訓練施設となり、暗黙裡に有事の際の作戦(戦闘)基地と目されるようになった。戦後70有余年の2018年現在、島民とその子孫は、年1、2回の訪島・墓参だけを許されている。日本政府は、島民一世が全員この世からいなくなるのを待つ方針である、と著者は厳しく指摘しているが、そのとおりであろう。

 そして、これは硫黄島の人々だけに起きたことではない。多くの自然災害、各地の戦争、あるいは福島原発事故でも、同じことが起きているように思う。運悪く辺境に生まれた人間は、「本土」の幸せのための犠牲にされがち。でも本当にそれでいいのか。あなたが辺境に生まれたら、その不公平を恨まずにいられるだろうか。まずは、近代日本の(日本だけじゃないけど)政治権力が、離島や辺境の住民に何を強いてきたかをしっかり記憶しておきたい。

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2019年3-4月@東京近郊展覧会拾遺

2019-04-24 23:18:46 | 行ったもの(美術館・見仏)

府中市美術館 企画展『へそまがり日本美術 禅画からヘタウマまで』(後期:4月16日~5月12日)

 前期にも行った展覧会だが、後期が始まったので、さっそく見てきた。前期チケットの半券で後期は半額というリピーターサービスもありがたい。前期は冒頭が仙厓義梵の『豊干禅師・寒山拾得図屏風』だったが、後期は妙心寺麟祥院の海北友雪筆『雲龍図』。左右一対の龍だが、本展には、ビーグル犬みたいに二本の角が垂れた龍図のみ出品。ただ、この作品は、所蔵先の麟祥院で見たときのほうがインパクトがあった。天井が低くて狭い空間なので、ぬっと現れる巨大な龍のオトボケ顔に意表をつかれるのだ。

 春叢紹珠の黒い『三番叟図』はカッコよかった。風外本高のゆるすぎる『涅槃図』には笑った。前期の『南泉斬猫図』の人だな。遠藤曰人の『「杉苗や」句自画賛』は、並んだフラガールみたいな三羽の鶴。冨田渓仙の『石峰寺』も吹いた。若冲もびっくりだろう。「いくら仏の国でも足を踏み入れたくない」とか、本展は解説のツッコミが楽しい。この日(4/17)は金子信久先生の20分スライドレクチャーを聞くこともできた。金子先生、「ヘタウマの展覧会」と呼ばれてしまうことには、ややご不満の様子だった。確かに、むしろ「ヘタウマとは?」と真顔で問い直したくなる展覧会だと思う。

東京都美術館『奇想の系譜展:江戸絵画ミラクルワールド』(後期:2019年3月12日~4月7日)

 年度末の繁忙の合間に、前期に続いて、後期も見に行った。お目当ては、新出の伝・岩佐又兵衛筆『妖怪退治図屏風』だったが、意外とゆっくり見ることができた。八曲一双。高さ75.1cmなのであまり大きくない。左隻の騎馬武者の一行が、又兵衛ふうの特徴的な顔立ち(豊頬長頤)と言われればそうだが、古い絵巻の武者顔という気もする。右隻には黒い海に浮かぶ、目がチカチカするような色とりどりの妖怪たち。顔が大きくて、着ぐるみがアニメのキャラクターを思わせる。

 後期最大の収穫は曽我蕭白のエリア。原色の毒々しい(褒めている)文化庁の『群仙図屏風』、淡彩の東京藝大『群仙図屏風』に加え、初めて見る個人蔵の『仙人図』。輪郭の定かでないふわふわした描線で描かれた三仙人は、洋物のドワーフかゴブリンみたいでもあった。

サントリー美術館 『河鍋暁斎 その手に描けぬものなし』(2019年2月6日~3月31日)

 河鍋暁斎は、何でも描ける画家すぎて、私は少し苦手だった。2008年に京博の『絵画の冒険者 暁斎 Kyosai』展を見たときの感想にも、そんなことを書いている。2015年の三菱一号館美術館『画鬼・暁斎』や2000年の東武美術館『河鍋暁斎・暁翠展』も見ているはずだが、不思議なことに今回が一番面白かった。暁斎の「巧さ」に心から惚れ惚れすることができた。たぶん正統派の巧い絵ばかりではなく、どこか「変」な作品(奇想、滑稽、へそまがり)が、意識的に集められていたためではないかと思う。衝撃だったのは『処刑場跡描絵羽織』(京都文化博物館管理)。羽織裏に強烈な血みどろ絵。2008年の京博展にも出ていたようだ。知らなかった。幽霊図も好き。極彩色の奇想が炸裂する画帖(小品集)も好き。

■日本橋三越本店 『生誕130年 佐藤玄々(朝山)展』(2019年3月6日~12日)

 彫刻家・佐藤玄々(1888-1963)の回顧展。代表作『天女(まごころ)像』を囲むように30点余りの作品が展示された。ネズミや鳩やウサギなど小動物作品、それから観音、西王母など、宗教的・神話的な人物像が目についた。案内係のお姉さんに「6階の美術工芸サロンにも1点だけあるんですよ」と教えてもらったので見に行ったら、別世界のような売り値がついていた。

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巨大な文化体系/東アジア仏教史(岩波書店)

2019-04-22 22:54:32 | 読んだもの(書籍)

〇石井公成『東アジア仏教史』(岩波新書) 岩波書店 2019.2

 インドで誕生した仏教は、シルクロードを経て東アジアに伝えられ、相互交流を繰り返しながら各地で花ひらいた。その二千年にわたる歩みをダイナミックにとらえた通史である。「東アジア」とは、日本、中国、朝鮮、ベトナム。そして、西域~北アジアに興亡した多様な遊牧民族国家にも触れる。

 そもそも仏教は、当時のインドの宗教と共通する要素とともに、インド的でない面を最初から持っていた。だからこそ、その新しさと普遍性によって、アジア諸国に広がっていく一方、インドでは消えていったという。普遍宗教とはそういうものかもしれない。釈迦の入滅後、インドの仏教は様々な潮流を生み出したが、5世紀頃からヒンドゥー教に押されて衰退に向かう。

 一方、インドの西北地域に広がっていった仏教は、ソグディアナ(ソグド人の土地)の手前で東に転じ、西域北道・南道あるいは天山北路を通って中国に伝わった。中央アジアの(土着の信仰や文化と結びついた)仏教が、中国に与えた影響は大きく、たとえば死者を極楽に導く引路菩薩には、死者の道案内をするマニ教の女神の影響が指摘されるという。こういう文化の混淆性、大好き。また、近年はインド、スリランカ、東南アジア、ベトナム、中国南部を結ぶ「海のシルクロード」も仏教伝播の道として注目を集めているそうだ。

 中国への仏教伝来は紀元前後。貴族層の関心を集め、儒教と一致する面があると考えられたり、老子に結びつけられたり、呪術的な力を期待されたり、廃仏と復興が繰り返されるのだが、仏教経典には若い男女の恋愛話や性的な描写がしばしば見られ、これが中国で恋愛文学が発展する一因となったというのは、思ってもみなかった指摘でびっくりした。

 廃仏のたび、反省から新たな思想・運動が起こり、インドや西域の外国僧を開祖としない集団が複数生まれたことも興味深い。禅宗は達磨を始祖とするが、実質的には慧可の果たした役割が大きいという。末法思想に基づく「三階教」、天台思想、中国浄土教などが生まれ、周辺諸国へ展開していく。

 日本では厩戸皇子(聖徳太子)が大きな役割を果たす。著者によれば、仏教史が釈尊のイメージの変遷史であるように、日本の仏教史は聖徳太子のイメージの変遷と見ることができるとのこと。さて唐代は中国仏教の全盛期で、東インド出身の善無畏、ソグド系の不空などが活躍し、日本、新羅などから多くの僧侶が入唐した。このグローバルできらびやかな「盛世」の記述は、読んでいてうっとりするが、唐末の乱世を背景に広がった禅宗も好きだ。禅宗こそ「東アジアの仏教」だと近年思うようになった。

 北宋・南宋ではさらに禅宗が盛んになり、日本では多様な鎌倉仏教が隆盛する。この時期、高麗やベトナムでも新しい仏教の動きが起きていて興味深い。近世以降については省略するが、仏教の伝播は、西から東へという一方通行ばかりでなく、時には逆に向かう影響関係もあることが面白かった。また、仏教は「宗教」の範疇にとどまらず、東アジアの文化・思想を広い範囲で支えているをことを感じた。それと、敢えて書かないが、高僧説話には実に興味深いものが多かった。

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国宝 曜変天目ふたたび/大徳寺龍光院(MIHOミュージアム)

2019-04-21 11:51:44 | 行ったもの(美術館・見仏)

MIHOミュージアム 春季特別展『大徳寺龍光院 国宝 曜変天目と破草鞋(はそうあい)』(2019年3月21日~5月19日)

 ブログを書くのが追い付いていないが、先週末4/14(日)の訪問になる。前日は大津に泊まり、朝、石山駅に向かった。MIHOミュージアム行きバスの第1便は9:10発なので、人が多いと座れなくなると思い、8:45頃にバス停に行ってみたら、もう長い列ができていた。外国人も多いが、日本人も多い。バス会社の人が、お客さんの数を数えて、何か話し合っていると思ったら、9:00に臨時便が出ることになり、私はこれに乗ることができた。

 9:50頃、MIHOミュージアム着。レセプション棟の周辺は、すでに自家用車や観光バスで来たお客さんでにぎわっている。すばやくチケットを購入し(前売りを買っておく方がベター)、桜見物を楽しむお客さんの間を縫って、美術館棟に向かう。トンネルを抜けると、美術館棟の入口から、入館待ちの列が吊り橋の上まで伸びていて、呆気にとられた。こんなの初めて!

 10:00になると、人々が美術館の中に吸い込まれ始めた。明確に龍光院の曜変天目を目的に来ているお客さんばかりかというとそうでもないので、エントランスでのんびり眺望を楽しんでいる人たちもいた。私はもちろん特別展の展示室へ直行。冒頭の文書資料や江月宗玩の木像に興味を抱きつつ、場内係員の「曜変天目をご覧になる方はこちらで~す」という控えめな呼びかけを聞いて、先にこれを見てしまうことに決めた。

 MIHOミュージアムの特別展スペースは中庭の三方を囲むコの字型になっている。どうやら最初の巡路の突き当りに曜変天目があるらしく、細長い展示室の中央に待ち列ができていた。左右の壁面の展示ケースには、唐物の漆工芸や羅漢図や襖絵・杉戸絵など、いろいろ気になるものが並んでいたのだが、とりあえず曜変天目を見ることに集中する。15分くいらいで茶碗の前へ。私は2017年に京博『国宝展』でも見ているので、2回目になる。前回、曜変天目にしては青くない印象があったのだが、今回は一目見て、あ、青い!と驚いてしまった。照明の違いだろうか。記憶とは全く別の茶碗のように、全体に青い輝きが満ちていて、華やかだった。

 もう1回、列に並ぼうかどうしようか迷ったが、ほかの展示品を見ることにした。大徳寺龍光院(りょうこういん)は、黒田長政が父・黒田孝高(官兵衛・如水)の菩提を弔うために建立した寺院。開山・春屋宗園はまもなく江月宗玩に代を譲り、実質的な開祖とした。江月宗玩は津田宗及の子で、寛永文化の中心の一人であった。以上のようなことを、私はこの展覧会を通じて初めて知った。

 さて展覧会の冒頭は、江月宗玩の紹介から。多くの自筆文書や木像もさることながら、衣桁に無造作に掛けられた薄黄色の羅紗衣(江月宗玩の所用)に存在感を感じる。払子、数珠、机案など所用の品々は、シンプルで品がよい。遺偈もシンプルに「喝〃〃喝」の四文字だけというのもカッコいいと思った。

 そして天王寺屋津田家に由来する茶道具、墨蹟等の名品。初祖・春屋宗園の書は見たことがなかったが、細やかで好きだ。伝・牧谿の『柿・栗図』2幅は楽しい。特に『柿図』は墨画なのに柿の実の色のバリエーションが見えるようだ。玉澗の『山水図』、銭選の『海棠図』も見ることができたが、中国絵画は後期(4/23-)のほうが面白そうな気がする。なお、MIHOミュージアム所蔵の寸松庵色紙(たつたひめ)が出ていたのは、寸松庵が龍光院の中にあったためだ。

 1時間ほどでひとまわりして、さてもう1回、曜変天目に並ぼうかと思ったら、特別展会場の外側に長い長い列ができている。係員の方に聞いたら「60分待ち」だというので、いさぎよくあきらめた。まあ、そもそも2017年の国宝展の前は、一度見ることができたら本望と思っていたものを二度も見てしまったのだ。長生きしたら三度目があるかもしれない。

 図録は大部だが、ふだん見ることのできない龍光院の建築や四季の風景の写真が多数あり、掛け軸は表具を含めた全体写真が収録されているのが大変うれしい。ぶ厚いわりに開きやすく、壊れにくい造本なのもありがたい。また、龍光院ご住職の小堀月浦氏が一文を寄せて、お寺がどうして美術館のように多くの作品群を収蔵しているのかを考えて、「そうか!心ある人に見てもらうためにお寺に在るんだ」と思い至ったというのは、まことにもったいないことで、その心在る人になりたいと思う。

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日本中世の人と自然/国宝一遍聖絵と時宗の名宝(京博)

2019-04-18 23:40:29 | 行ったもの(美術館・見仏)

京都国立博物館 特別展・時宗二祖上人七百年御遠忌記念『国宝一遍聖絵と時宗の名宝』(2019年4月13日~ 6月9日)

 土曜日、関西を目指す新幹線の車中で、おや、今日から京博の『一遍聖絵』展から始まっているんだ、と気づいた。奈良博を早めに切り上げることができたので、夕方から京博に入った(週末旅行者にとって、土曜の夜間開館は本当にありがたい)。

 時宗の宗祖・一遍(1239-1289)の生涯を描いた『一遍聖絵』12巻をまとめて見たことは何度かある。いちばん最近は、2015年に東京と神奈川の4つの博物館で行われた連携展『国宝 一遍聖絵』である。2002年に京都国立博物館と奈良国立博物館で全巻展示が行われたときも見ている。

 展覧会は、平成知新館のほぼ全体を使って行われている。3階は、時宗ゆかりの寺院が所蔵する仏画や仏像などの名宝。藤沢の遊行寺くらいしか知らなかったので、奈良市十輪院の興善寺や和歌山の興国寺、京都の金蓮寺など、意外な名前や初めて聞く名前を興味深く眺めた。熊野信仰にかかわる図が複数あり、座って眠る一遍の夢枕に行者姿の熊野権現が示現する様子を描いた『熊野成道図』(京都・長楽寺)が面白かった。春日明神は明恵さんが大好きだが、熊野権現は一遍さんが好きなんだな。

 2階は全5室を使って『一遍聖絵』12巻のうち11巻を展示。ただし各巻とも一部分だけ広げ、他の場面は近代の模本(武内雅隆筆、京博所蔵)で補うかたちをとっている。たいへん丁寧な模写なので、感興が削がれることはない。私が好きなのは、巻2の岩屋寺の図とか、巻6の富士山とか(しかしこれは入水の場面なのである)。巻7の京の市中で大勢の人を集めての踊り念仏の場面も好き。巻8の海上で龍が昇天する場面もよい。巻8は一遍の臨終よりも、海に身を投げる弟子たちの姿が好き。

 『一遍聖絵』と言いながら、一遍はいつも弟子たちを引き連れ、集団で行動している。その外側には、お布施をしたり賦算を受けたり、踊り念仏を見物したり、時宗集団を見守る人々がいて、さらに外側には、時宗集団に何の関係もなく、畑を耕し、道端にたたずみ、日々の暮らしをおくる人々がいる。そうした小さな人間の営みを全て包み込む、四季の自然。何度見ても味わいの増す絵巻で、小さな登場人物ひとりひとりの表情から、多彩な感情や性格がうかがえる。

 本展は、一遍の諸国遊行に従い、時宗を教団として大きく発展させた二祖・真教上人(他阿、1237-1319)の七百年遠忌を記念する展覧会で、3階には真教の肖像画(撫で肩で、自信なさげにうつむく)が数点、1階には木像も出ていた。神奈川・蓮台寺の真教上人坐像(鎌倉時代)は、晩年、左右非対称にゆがんでしまった容貌を写実的にあらわしている。理想化された高僧像とは異なり、人間らしいリアリティがあって慕わしい。調査によって、没する前年に製作された寿像であると分かったそうだ。

 京都・金蓮寺に伝わる時宗四条派の祖・浄阿真観上人の肖像画もよかった。その金蓮寺所蔵の『阿弥陀浄土変相図』(南宋~元時代)は後期展示なので見られなかったが、図録を見てかなり気になったので書き留めておく。中国絵画だが素朴絵ふうで、かなり変わっている。滋賀・浄信寺の『四天王像』(鎌倉時代、かなり南宋絵画ふう)は見ることができたが、仏画を見るなら後期のほうがいいかもしれない。

 後期(5/14-)には『洛中洛外図屏風』(舟木本)も登場。しかし、あれは何度も見ているので、関東人的には見る機会の少ない『洛中洛外図屏風』(仏教大学附属図書館所蔵、17世紀)を前期に見ることができてよかったと思う。

※なお、見どころなど、京博・公式キャラクターとらリンの「虎ブログ」の解説が分かりやすくておすすめ。

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マニ教絵画と曜変天目/藤田美術館展(奈良国立博物館)

2019-04-16 22:26:56 | 行ったもの(美術館・見仏)

奈良国立博物館 特別展『国宝の殿堂 藤田美術館展:曜変天目茶碗と仏教美術のきらめき』(2019年4月13日~6月9日)

 中之島香雪美術館を出て奈良へ。奈良博へは夕方から入ろうかな、と呑気なことを考えていたが、念のため確認したら(正倉院展以外の)特別展は、土曜夜間開館をやっていないのだった。危ない、危ない。『藤田美術館展』の初日ということで、朝は開館待ちの列もできたようだが、昼過ぎは、特に待たずに入れた。

 会場に入るとすぐ、「曜変天目茶碗はこちらです」という待ち列が見えた。そんなに長くなかったので、とりあえず並ぶ。西新館の中央(お水取りの特集陳列でいつも二月堂の模型が据えられるあたり)に高い壁で囲われた別室ができていて、15分くらいで茶碗の展示ケースに到達した。列に並ぶと、展示ケースの7時の方向くらいから右回りに一周することができる。そんなに混んでいなかったので、列に並ばなくても茶碗の姿を見ることはできるが、やっぱり最前列で覗き込んだほうが曜変天目の醍醐味が分かる。また、覗き込む位置によって、青い輝きの目立つところと目立たないところがあり、たぶん3時の方向くらいに回り込んだときが、一番きれいだった。あと、藤田美術館の展示室では見えにくかった、外側の青い斑点もよく分かった。奈良博の展示技術、さすがである。

 あとは落ち着いて展示を見ていく。第1会場は茶道具、それに茶掛けとなる墨蹟と古筆。藤田伝三郎鍾愛の『交趾大亀香合』ももちろん出ていた。墨蹟では、現存する最古の詩画軸だという『柴門新月図』(15世紀初め)を見られたのが眼福。大燈国師の墨蹟『偈語』もよかった。高野切(第3種)、上畳本三十六歌仙切の大伴家持像もあり。

 続いて物語絵と肖像は、むかしから好きな『阿字義』がたっぷり開いていて、絵だけでなく文章も味わえた。漢字ひらがな混じり(振り仮名はカタカナ)で、平安時代の文章とは思えないほど読みやすい。『玄奘三蔵絵』は巻1,2を展示。旧内山永久寺の障子絵『両部大経感得図』も。あえて感想は描かないが大好きな作品ばかりである。

 東新館に移って最初は仏像。快慶様の地蔵菩薩立像は実に美麗。興福寺伝来の千体聖観音菩薩像の一部は、以前、サントリー美術館の『藤田美術館の至宝』展(2015年)で見たものだ。一本足の怪鳥の背中に乗った『弥勒菩薩交脚坐像』は、藤田美術館の『ザ・コレクション』(2017年)で見て印象深かったもの。

 保存や展示が難しい、大型の資料もいろいろ出ていた。『仏像彩画円柱』8本(鎌倉時代)には驚いた。山城国・東明寺伝来の『四天王像扉絵』(南北朝時代)も初めて見たのではないかと思う。『釈迦文殊普賢像』3幅対(南北朝時代、海龍王寺伝来)もよかったなあ。濃厚に宋風。文殊と普賢が、ゆるいパーマをかけたような髪型をしている。

 しかし、なんといっても私が歓喜したのは『地蔵菩薩像(マニ像)』。行きの新幹線で展覧会の情報を集めていたら、「マニ教の始祖像を初確認 奈良国立博物館で公開」というニュースが流れてきて、驚いていたのだ。作品は、縦が180cmを超える縦長の大幅。赤と白(少し緑が混じる)の華麗な蓮華座に、ゆったりした白衣の人物が座っている。白衣の左右、肩の下と裾近くの計4箇所に赤い四角形が描かれているのがマニの印! 詳しい解説はなかったけれど、すぐに分かって感激した。元~明代(14世紀)の絹本著色である。いま、ドラマ『倚天屠龍記』を視聴中ということもあって、特別に嬉しかった。図録の解説によれば、大和文華館所蔵の六道絵に描かれるマニ像とたいへんよく一致するそうだ。

 法具もたくさん出ていて、特に厨子のコレクションが面白かった。ミニチュア感のある神鹿像を収める『春日厨子』は、背景の御蓋山・春日社景も楽しい。天井に赤龍が描かれているのも見つけた。錦幡は、正倉院宝物で残欠を見たことはあるけど、室町や安土桃山時代のものを見ることは少なくて、興味深かった。

 なお、これで私は昨年購入した「奈良博プレミアムカード」を4展覧会6回使わせてもらった。お値打ち感あり。

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