見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

旅のパートナー/北海道道路地図(昭文社)、日本鉄道旅行地図帳(新潮社)

2014-08-31 11:48:33 | 読んだもの(書籍)
■昭文社編『ライトマップル 北海道道路地図』 昭文社 2014.3(3版)

 地図を2点紹介する。今回、5泊6日のオホーツク海沿岸旅行に持っていったのがこの地図。ほかに北海道の初心者向け観光ガイドブックも1冊持っていったのだが、このエリアは、網走と稚内を除き、ほとんど記述がなかったので、とりあえず地図だけ携帯していくことにした。A4判で全40ページ。値段は1,000円。薄くて軽くて、旅のパートナーとして、本当にありがたかった。いまはスマホがあるので、現在地周辺の詳細地図が見たいときは、グーグルマップを利用するが、長距離旅行の場合、こういう地図帳があるほうが、自分の位置感覚や移動距離をつかみやすい。

 初日の札幌→網走の鉄道旅行が、どれだけ大移動か、そして、網走まで、旭川・北見を経由していくということが、当日まで分かっていなくて、地図を見ながら驚いていた。道央を突っ切るには、大雪山(山系)を迂回しなければならないので、やや北に寄ったルートになるのだな。遠軽駅のスイッチバックも地図を見ながら予想していたら、その通りだった。道内には未踏エリアがたくさんあるので、この地図帳を眺めながら、次の旅行の計画を練りたい。来年の夏まで、まとまった休暇取得は難しいけれど。

■今尾恵介監修『日本鉄道旅行地図帳:全線・全駅・全廃線』1号「北海道」(新潮「旅」ムック) 新潮社 2008.5

 そして、旅行から帰って、どうしても欲しくなったのがこの地図帳である。旅行前は(鉄道が通っていないルートなので)ひたすら路線バスを乗り継ぐ(一部タクシー)とだけ聞いていたが、行ってみたら、バスターミナルの多くが、旧国鉄駅舎をそのまま利用していて、結果的に廃線跡をめぐる旅のようになってしまった。確か全国の「全廃線」を採録した鉄道地図帳があったなと思い出す。私は、それほどの鉄道ファンではないので、「歴史編成」の『朝鮮・台湾』編と『満洲・樺太』編しか買わなかった。しかし、こうなると「北海道編」が欲しい。

 まず、札幌駅近くの紀伊國屋書店に行ってみたが、「鉄道」コーナーにそれらしいものなし。もうずいぶん前に出版されたものだから難しいかな、と思いながら、買い物がてら、ショッピングモール「アリオ札幌」にあるくまざわ書店に行ってみたら、この地図帳が全号揃っていた(はじめ、第1号「北海道」だけ棚にない、と思って落胆したら、目の前に平積みになっていた)。くまざわ書店、えらい! 以前からショッピングモールの書店にしては品揃えの質がいいと思っていたが、これでますます気に入った。

 今回の踏破ルートのうち、もともと興部(おこっぺ)~枝幸(えさし)間は鉄道が敷設されていなかったという友人の情報を「予定線・未成線一覧」で確認。興部~枝幸間は未成線(工事着工したものの開業に至らなかった路線)で、未成線が多いことは北海道の特徴だという。それにしても廃止路線の多さ。この中には、古くは開拓民の生命線だった簡易軌道や、鉱山鉄道(軌道)が多数含まれている。後半の「駅名一覧」(路線一覧)を見ると、殖民軌道・簡易軌道には馬のマークが多くて、ええ?と思ったが、馬力のみだった軌道が圧倒的に多い(一部に馬力・内燃併用も)。いや、驚いちゃいけないんだろうけど、驚いてしまった。

 蒸気機関車資料館のある小樽市総合博物館へはまだ行っていないので、ぜひ今度行ってみよう。車窓絶景100選委員会が選ぶ「北海道の車窓絶景14選」も、私はまだほとんど体験していない。しかし、この絶景ポイント、おすすめコメントが苦笑もの。日高本線:日高門別~東静内の「晴れた日も絶望的な太平洋」って、褒めているんだかいないんだか。根室本線:別当賀~昆布盛の「地の果てがあるとすればこんな風景」も気になるし、同:厚岸~糸魚沢の「別寒辺牛湿原の底知れぬ誘惑」はどういう誘惑なのか、さらに気になる。
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北の考古学/オホーツク街道(司馬遼太郎)

2014-08-31 02:49:45 | 読んだもの(書籍)
○司馬遼太郎『オホーツク街道』(朝日文庫 街道をゆく38) 朝日新聞社 1997.1

 この夏、友人の企画で、網走から稚内までオホーツク海沿岸を旅行した。その結果、本州とは時代区分から異なる北海道の歴史を、ようやく少し頭に入れることができた。最後の稚内で本書を買って、復習のために読んでみることにした。

 「週刊朝日」への連載は1992年4月~12月。1971年から書き継がれた「街道をゆく」シリーズでは、かなり晩年の作に属する。エッセイの後半に、突然、画家の安野光雅氏が登場するので、あれっ?と思ったが、須田剋太氏の没後、桑野博利氏に続き、1991年8月から安野光雅氏が挿絵を担当していた。そうだった。当時、母が購読していた「週刊朝日」を借りて拾い読みしていたが、司馬さんのこのエッセイは、日本史の知識の乏しい私には難しくて読めなかったことを思い出す。

 はじめに、日本列島の古代史について、著者の大きな見取り図が示される。縄文文化は、一時期、北は南千島、南は沖縄に達していた。縄文文化において北海道は本州から孤立した地域ではなかった。しかし、中国の春秋戦国時代の末期(紀元前8~3世紀)東シナ海を越えてきた越人の一派が、日本列島に稲作をもたらす。稲作(弥生文化)は東北地方までを覆い尽くすが、稲作に不向きな北海道には、ながく縄文人が残った。やがて彼らは、13世紀の鎌倉時代に「アイヌ文化」に変化する。その触媒となったのが「オホーツク文化」である。

 さらに「オホーツク文化」発見の地である網走の「モヨロ貝塚」と、大正時代にこれを発見した在野の考古学者・米村喜男衛(よねむら きおえ、1892-1981)を紹介する。ここまでが、まず、北海道考古学になじみのない読者のための前段。

 それから著者の旅が始まる。基本的には、1991年9月と1992年正月の2回の旅をもとにしているらしい。最初の旅は、札幌から女満別空港に飛び、網走に滞在した。女満別の豊里遺跡、モヨロ貝塚、常呂町などを訪ね、網走に住むウィルタ(サハリン先住民族、旧称・オロッコ)の北川アイ子さんに会いに行っている。

 1992年正月、再び北海道へ。このときは、札幌から鉄道で6時間かけて稚内へ。オンコロマナイ遺跡、宗谷岬などを見学。それから、枝幸、浜頓別、目梨泊、興部、紋別と南下し、網走を再訪する。網走では天都山の北方民族博物館(最初の訪問の時に見学したと書かれている)を紹介する。ここに「大林太良博士が館長である」と書いてあって、そうだったのか、と私は驚いた。さらに知床半島の斜里町まで行って、旅を終える。

 記述の対象は、旅の範囲を超えて、さまざまに広がる。北海道の遺跡をめぐる学者、あるいは学者でない人々の交流。「日本で最初に高等教育をうけたアイヌ」の知里真志保が、恩師・金田一京助に根底で抱いていた敬意。戦争中、海軍施設の建設のために破壊されかけたモヨロ貝塚を守った米村喜男衛。このとき、文部省保存課の若き技官だったのが、のちに東大教授となる斎藤忠だった。一方、常呂貝塚を発見した大西信武さんは、小学校もろくに行かず、鳶職や土工を転々としていたが、常呂川の港湾施設の工事をしていたとき、貝塚を発見する。たまたま常呂に投宿していた東大教授(言語学)の服部四郎博士のところにそれを知らせにいくのだが、博士は「何をゆすりに来たのだろう」と思ったという(笑)。

 さらに、間宮林蔵、松浦武四郎のこと。幕末に斜里町で病没した津軽藩士のこと。日露戦争中、宗谷岬の望楼で、ロシア海軍の動きを見張っていた兵士たちのこと。

 最も興味深かったのは、著者が「ちょっと一服」とか「私の道楽」とことわった上で語っている、古代民族に関する考察だった。「蝦夷(えぞ、えみし)」とは何か。『日本書紀』に登場する「粛真(みしはせ)」とは何者か。著者は「この稿で仮称している”オホーツク人”こそ、ミシハセではないか」と述べ、また別の箇所で「ニブヒ(旧称・ギリヤーク)こそ、私どもが考えている”オホーツク人”にいちばんちかいのではないか」とも述べている。ただし「証拠はない」と書き添えることを忘れない。

 分かっていないことを分かっているかのように語るのは罪深い。だが「ソースは」とぎりぎり詰め寄って、推論に基づく発言を封じ込める最近の風潮も、私はつまらないと思う。多くの文献を読み、人の話を聞き、調べられるまで調べ尽くしたあとに「ただ、私の気分だけである」とうそぶいて、こういう発言ができる司馬さんの精神の闊達さは、やっぱりいい。大人の風格というものだ。
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2014年8月@東京:ジャポニズム(世田谷美術館)、日本SF展(世田谷文学館)、オルセー(国立新美術館)

2014-08-30 23:26:40 | 行ったもの(美術館・見仏)
世田谷美術館 『ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展』(2014年6月28日~9月15日)

 たまには西洋絵画も見てみようと思い、久しぶりに世田谷美術館へ。用賀駅から美術館へ直通バス(100円)が運行されていて、ありがたいと思ったが、この展覧会の会期中だけのことらしい。歩くとちょっと遠いんだよな。

 本展は、19世紀後半から20世紀初頭の西洋で流行した「ジャポニスム」を様々な角度から検証する。ロートレックやゴッホの作品と並んで、広重や歌麿の浮世絵も展示されていたので、国内の美術館から借りてきた参考展示か?と思ったら、ちゃんとボストン美術館から持ってきた「ビゲロー・コレクション」の一部だった。西洋絵画が、生活する女性の姿(本を読んだり、子どもをあやしたり)を描き始めるのも、実は日本の浮世絵の影響なのかしら、と考えたりした。

 呼びものは、モネの『ラ・ジャポネーズ』。直訳すると「日本女性」なのかな? 私は、中学生の頃『着物を着たカミーユ』のタイトルで覚えた作品である。モデルの金髪と赤い打掛け、たぶん金糸を用いた華やかな刺繍が響きあって、祝祭的な美しさを感じさせる。誇らかな表情を浮かべた白い顔に、隣りの扇の白い半弧が輝きを添えている。

 それにしても、何度か図版を見ていたわりには、打掛けの裾に、奇妙に立体的な武者の姿が縫い取りされていることを全く記憶していなかった。二本差しの髭武者は烏帽子のようなものを被っている。いくぶん髪を振り乱し、二の腕をむき出しにして、まさに抜刀する寸前である。会場の解説では、紅葉狩の平維茂ではないかとのこと。なるほど。私は、武者の着ているものが唐風なので、国姓爺の鄭成功じゃないか?と疑ったが、画像を調べてみると帽子を被った図があまりない。やっぱり、武者にはめずらしい烏帽子がポイントとすれば、平維茂かも。

世田谷文学館 企画展『日本SF展・SFの国』(2014年7月19日~9月28日)

 同じ世田谷区内で、気になる展示をもうひとつ。「かつて、日本にSFを育てようと集った若き作家たちがいました」という紹介に胸が熱くなる。星新一(1926-1997)、小松左京(1931-2011)、手塚治虫(1928-1989)、筒井康隆(1934-)、真鍋博(1932-2000)ら、日本SFの第一世代と呼ばれる作家の活動を中心に紹介。

 1930年前後の生まれである彼らが本格的な執筆活動を始めるのは1960年代。1959年、早川書房の雑誌「SFマガジン」が創刊され、1963年に「日本SF作家クラブ」設立、同年「創元SF文庫」創刊、1970年に「ハヤカワ文庫SF」が創刊された。展覧会趣旨に「やがて彼らの作品は、子どもや若者を中心に熱狂的に受け入れられ」とある、私は、その「子どもや若者」だった世代である。

 小説とマンガ・アニメには少しタイムラグがあって、手塚治虫のテレビアニメには、ほとんど物心ついたときから親しんできた。マンガ作品を貪り読んだのは小学生時代。会場に展示された手塚の原稿を数ページ見ると、どの作品も前後のストーリーが怒濤のようによみがえってくる。マンガでも小説でも、子どもの頃にいい作品に出会っておくことは、本当に大事。

 SF小説を読み始めたのは、中学生以降だと思う。星新一も筒井康隆も好きだったが、私の好みは小松左京だったなあと思う。ぞくっとする怖い短編も好きだったし、『日本沈没』『復活の日』などの重厚な長編小説もあらためて読んでみたい。もっぱら文庫で読みまくった海外SFも懐かしかった。『渚にて』とか、今読んだらどんな感じを持つだろう。当時は核兵器、核戦争の恐怖が想定されていたが、「原子力の平和利用」がこんな事態を引き起こしている今…。

 会場には「日本SF作家クラブ」の会報など、部外者はめったに見ることのできないお宝が目白押し。また、パネルに掲げられている作家たちの「言葉」には、新しいジャンルを切り拓いた先駆者の苦闘と快感が込められていて、胸を打つものがある。特に、第一世代の「生き残り」である筒井康隆氏の述懐が胸に沁みた。

 それから、私が息を呑んだのは、大阪万博の「太陽の塔」の塔内(生命の樹)および地下展示の写真。私、行ったんだよー。というか、東京から1泊2日で行って、この「太陽の塔」しか見られなかった(入場できなかった)んじゃなかったかな。写真を見るとハリボテ感満載のちゃちな展示で、苦笑を誘われるが、当時は、少なくともガッカリした記憶はない。

国立新美術館 『オルセー美術館展 印象派の誕生-描くことの自由-』(2014年7月9日~10月20日)

 パリ・オルセー美術館から来日した作品84点を展示。印象派好きの日本人には、なじみ深い作品が多い。マネの『笛を吹く少年』は、私の場合、家にあった「少年少女世界文学全集」の装丁に使われていた記憶がある。いやー黒がきれいだなあ。ドガの踊り子(バレエの舞台稽古)、セザンヌの静物、ルノワールの女性像、ピサロの風景画、どれもよかった。

 モネの大作『草上の食卓』は、不思議な形状の2枚組で現存している。解説によれば、家賃代として大家に取り上げられ、画家が取り戻した時には画面の損傷が著しく、一部を切り捨てざるを得なかったという。えええ~非道い話。でも、一部を切り取ってでも「四角形+四角形」にしないと、絵画として収まりがつかないと思ったのだろうか。そのへんは西洋の近代精神の不思議なところ。
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2014年8月@東京:江戸妖怪大図鑑・幽霊(太田記念)、宗像大社(出光)

2014-08-29 21:02:51 | 行ったもの(美術館・見仏)
太田記念美術館 特別展『江戸妖怪大図鑑』(2014年7月1日~9月25日)第2部:幽霊(8月1日~8月26日)

 第1部:化け物(7月1日~7月27日)を見に行って、全作品収録の展示図録を買ってしまったのが運の尽き。見たい!どうしても!と思って、無理くり上京の日程をつくって、来てしまった。1階のお座敷の展示ケースに葛飾北斎の百物語5枚組が勢ぞろい。「お岩さん」「さらやしき」「こはだ小平次」「笑ひはんにゃ」「しうねん」が並ぶ。それから、累(かさね)、お岩、お菊、朝倉当吾(佐倉惣五郎)などの著名な幽霊が、それぞれ集められている。上から垂れ落ちるように現れる幽霊の姿が多い。むかし、服部幸雄氏の『さかさまの幽霊』という論考を読んだ記憶があり、視点の斬新さは印象に残っているのだが、歌舞伎の基礎知識がなかったので、内容は十分に理解できなかった。ちょっと読み返してみたくなった。

 1階が「世話物」幽霊中心だとすると、2階は時代物。崇徳院の「怨霊」も、申し訳ないが「幽霊」扱いされている。「平清盛と亡霊」にこんなにバリエーションがあるのは知らなかった。月岡芳年が2作品を描いているが、明治の強権的な藩閥政治家の姿が、清盛に重なっていたのだろうか。大物浦で源氏の船を取り囲む平家の亡霊たちも多数描かれている。船上の義経主従を主役にしたものと(八嶋壇ノ浦の海底の図を含め)平家の亡霊たちにフォーカスしたものがあり、どちらも名作揃い。

 錦絵新聞がたくさん出ていたのも面白かった。明治のジャーナリズムは怪力乱神を語ってばっかり。月岡芳年描く清玄もとい、岩倉の宗玄は私の好きな作品だが、今回の展示に桜姫を描いたものがあって、その眩しいほどの色っぽさ。「ふるいつきたくなる美女」って、こういうときに使うんだろうな。

出光美術館 『宗像大社国宝展-神の島・沖ノ島と大社の神宝』(2014年8月16日~10月13日)

 「海の正倉院」とも呼ばれる沖ノ島の出土品(約8万点・一括国宝指定)の中から、4世紀の古墳時代から9世紀の平安時代におよぶ多様な奉献品62件を展示公開。サイトの解説によれば、37年前、昭和52年(1977)にも同館で『宗像 沖ノ島展』が開催されたというが、残念ながら、私に前回の記憶はない。ただ、2013年の東博『国宝 大神社展』で見たような気がする神宝はいくつかあった。

 私は沖ノ島の位置がよく分かっていなかったので、会場の地図を見て、本州の西端・九州・壱岐・対馬が半円弧を描くちょうど中心点に島があることを知って、感嘆してしまった。岩上祭祀(4世紀後半~5世紀)→岩陰祭祀(5世紀後半~7世紀)→半岩陰・半露天祭祀(7世紀後半~8世紀前半)→露天祭祀(8~9世紀)という変化もよく分かった。見事な三角縁神獣鏡が多数。午前中に東博の考古展示室で、三神三獣、四神四獣などの諸類型を学んできたのが、すぐに役立った。玉、瑪瑙、ガラス玉、滑石製の子持勾玉などもあったが、金の指輪、金銅製の馬具は、見るからに朝鮮半島由来だと感じさせる。異なる文化と民族が行き交う海域だったんだろうな。

 宗像神社に残る南宋交易の跡も面白かった。狛犬一対は、見るからに中国顔である。阿弥陀経石の拓本に仙が阿弥陀仏像を描き入れたものも面白かった。ほかに特別出陳として、なぜか伊勢神宮の昭和の神宝、宗像大宮司家の文書、狩野安信の三十六歌仙扁額など。

 それにしてもなぜ出光美術館が?という疑問は最後まで氷解しなかったのだが、創業者の出光佐三が福岡県宗像郡の出身だと分かって、ようやく納得。しかも、作家・百田尚樹の『海賊とよばれた男』の主人公は出光佐三であるという、余計な情報まで手に入れてしまった。
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2014年8月@東京:台北 國立故宮博物院展(東京国立博物館)後期ほか

2014-08-28 20:35:20 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立博物館 特別展『台北 國立故宮博物院-神品至宝-』(2014年6月24日~9月15日)

 7月に「翠玉白菜」を見に来た展覧会であるが、わずかながら展示替えがあるので、後期も見に行った。息苦しいような混雑は緩和されたが、それでも思ったより人の姿が多い。序盤は王羲之の書が1件減っているだけで、大きな動きはなし。

 南宋絵画のあたりから変化が出始める。『折檻図軸』は引っ込んで、代わりに馬麟の『静聴松風図軸』。地を這うような松の枝に腰を下ろした文人の流し目があやしい。額の透ける帽子を被っている。『擣衣図巻』は、官女たち(たぶん)が布を織り、きぬたで打ち、裁断・縫製する一部始終を白描で描く。白描だけど「影」をつけて立体感を出そうとするあたりが、線に対するこだわりの強い日本絵画との違いだろうか。

 元代文人絵画では『赤壁図巻』が新出。色のない紙本墨画。料紙を縦長に切り継いでいるらしく(※『当麻曼荼羅縁起絵巻』みたいに)画面が広い。その縦幅いっぱいに切り立った崖が描かれ(細身の白菜みたいに見える)、下を小舟が通り過ぎていく。あれ?崖に「赤壁」って刻まれていない、と思ったが、当たり前か。横長の展示ケースに軸物がダーッと広げてあったので、長軸の絵巻なのか?と思って近寄ったら、絵画は冒頭の1場面だけで、後には「追和坡仙赤壁詞韻」と題した詩(らしきもの)が書かれている。1行4~5字をおさめる大文字の書。豪快で勢いがあって、見ていて気持ちがいい。

 ほかの作品は再見だったが、元代の絵画は、江戸の文人絵画の祖先だなあと感じるものがあった。呉鎮筆『漁父図軸』のやわらかな山容、倪瓉(げいさん)筆『紫芝山房図』の空漠。そこに皇帝の印がある孤高の哀しさが何ともよい。

 会場後半の玉器や青銅器は、前回、あまり印象に残っていなかった(そろそろ疲れていた)ので、あらためて鑑賞。足つき洗面器みたいな、殷時代の『蟠龍文盤』は、めずらしく盤の内部にとぐろを巻いた龍が鋳造されている。饕餮文(とうてつもん)に似ているが、ちょっと違う。『倗祖丁鼎(ほうそていてい)』は重さ100キロ近く、故宮文物の中でも最重量級だというが、よくぞ台湾まで運んだものだ。

 清朝皇帝のコレクションに至り、『松鶴翠玉挿屏』の濃い緑色に見とれる。翡翠の色味にもいろいろあって、糸魚川産は、白っぽい(もしくは空色っぽい)が、乾隆帝の好みは松のような渋く古風な濃緑色だったのだろうか。『帝鑑図説』は、今の日本のリーダーたちに突き付けたいと思いながら眺めた。このセクションにあるはずの蘇軾筆『行書黄州寒食詩巻』が見つからなくて、会場内をきょろきょろ。案内係のお姉さんに聞いたら、少し先にあるという。

 そして、見つけた! これは書跡もいいが、詩の内容もいい。日本人の私にも読める。「読める」というのは、意味が分かると同時に、中国語初学者の私でも「音」の分かる平易な単語(漢字)しか使っていないのだ。にもかかわらず、内容が深く、込められた感情はシリアスである。 蘇軾の詩の直後に黄庭堅が「東坡此詩似李太白」と評しているのも納得。なお、内藤湖南の跋文には、この詩巻が、かつて日本の関東大震災に遭い、所蔵者だった菊池惺堂が、これと李龍眠の瀟湘巻を煙火の中から救い出したことが語られている。※追記:「李龍眠瀟湘巻」と湖南先生の跋文にあるのだが、現在は「舒城の李という画家」(文化遺産オンライン)ということになっている。
 
 確か『瀟湘巻(瀟湘臥遊図巻)』も展示中だと聞いていたので、あとで東洋館に見にいこうと思っていたら、本館の国宝室に出ていた。同巻の跋文は何度か目にしたことがあって、関東大震災の煙火から救い出されたことは知っていたが、こちらは『黄州寒食詩巻』への言及がないのだな。

 気のせいか、今月は本館の常設展示に目新しい展示品が多くて面白かった。東博公式サイトの説明によれば、3室(仏教美術)の絵画は「特別展『台北 國立故宮博物院-神品至宝-』に関連させてモチーフや色使いの面で中国美術の影響が顕著な作品」を取り上げているとのことで、そうした配慮が影響しているのかもしれない。東洋館8室(中国書画)では『趙之謙の書画と北魏の書-悲盦没後130年-』(2014年7月29日~9月28日)を開催中だった。

 追記。いつもは素通りしている平成館1階の「日本の考古」を見てみた。掲げられている年表は、私が教科書で習ってきた、なじみ深いものだったが、前日まで北海道のいくつかの博物館で見ていた年表・時代区分が頭に残っているので、なんとなく違和感がある。「日本」の歴史はひとつじゃないということを再認識した。
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沖縄と北海道/殿様は「明治」をどう生きたのか(河合敦)

2014-08-26 23:14:35 | 読んだもの(書籍)
○河合敦『殿様は「明治」をどう生きたのか』(歴史新書) 洋泉社 2014.4

 ずいぶん前に書店で見つけて、いつか読むかもしれないと思って買っておいた本。読んでみたら、安西水丸さんの『ちいさな城下町』(文藝春秋 2014.6)に出てきた請西藩の林忠崇とか、北海道に「木彫りの熊」をもたらした尾張藩の徳川慶勝公などが出てきて、おやおやと思った。

 明治4年(1871)の廃藩置県によって、消滅した藩は260以上。そんなにあったのか。私は日本の近世に対して、かなり大人になるまで古代の「国主」制度そのままのイメージを持っていて、「国」の下位区分の「藩」(1万石以上の領土を保有する大名の所領を言う)がそんなに細分化されているとは思っていなかった。

 その中から、本書には14名の藩主が取り上げられている。精選された結果、私でも知っているような有名な殿様が多い。特に「維新の波に抗った若き藩主たち」「最後の将軍徳川慶喜に翻弄された殿様」の9人は、松平容保(会津藩)、定敬(桑名藩)の兄弟をはじめ、幕末維新史に欠かせぬ主役たちである。あ、尾張の徳川慶勝は、容保、定敬の実兄なのか。あまり認識していなかった。本書の表紙写真(121頁にも掲載)は、明治11年(1878)銀座の写真館で撮影された。中年から壮年の4人の男性は、いずれもゆったりしたフロックコート姿(かな?)。シルクハットを手に持ち、2人は腰かけ、2人は立っている。面長な顔の輪郭に類似点はあるが、まるで合成写真にように各自バラバラの方向に視線を向けている。これは徳川慶勝、一橋茂栄(高須藩)、松平容保、松平定敬の「高須四兄弟」の集合写真で、茨城歴史館に現存するのだそうだ。

 出色なのは、やはり土佐藩の山内容堂公。私には大河ドラマ『龍馬伝』の近藤正臣の印象が強い。あのドラマは坂本龍馬の死で終わってしまったが、その後の容堂は新政府のやりかたが気に食わず、鬱屈を酒と女で韜晦する日々を送ったようだ。こういう人物、大好きだ。中国文化の「佯狂」の伝統に忠実である。わざと「大名といえども酒宴を開き、妓を聘し苦しからず候や」などという伺い書を政府に提出したりしたそうだ。公文書として残っているのかな。見てみたい。

 最後の章「育ちの良さを活かして明治に活躍」の5人は、私の知らないエピソードが多く、面白かった。蜂須賀茂韶(徳島藩)と妻・随子の「肉体関係を持たない」条件つき結婚って何なの? ちょっと調べてみると、美味しい小説のネタがゴロゴロころがっている。実業家・政治家・外交官と多方面で活躍した、多才にして長生きだった浅野長勲(広島藩)。製紙業という目のつけどころが面白い。岡部長職(岸和田藩)は米国留学中にキリスト教に入信し、新島襄に岸和田への布教を依頼したというから、昨年の大河ドラマに出て来たのだろうか。私は見てなかったけれど。

 上杉茂憲(米沢藩)の維新後の事蹟は意外だった。なんと沖縄県令に就任する。名君・上杉鷹山を敬愛し「民の父母」を目指す茂憲は、沖縄県民の窮状の改善に乗り出し、矢継ぎ早な上申書を提出するが、閉口した高官たちは、茂憲の旧習改変は県令の職権を超えているという言いがかりをつけて、茂憲を解雇・召喚してしまう。このへん、本書のスタンスをどこまで信じていいのかはよく分からない。生活の改善と伝統の破壊は、往々にして裏腹の関係にあるから。日本が旧植民地でおこなった「善政」の評価にも同様の問題点がある。しかし、茂憲の在職中に県費で東京に送られた留学生から、謝花昇らの逸材が育ったことや、茂憲が三女に「於琉」と名づけていたことなどは感慨深い。

 本書に登場する殿様で、沖縄にかかわったのは上杉茂憲ひとりだが、北海道の地名はときどき散見された。たとえば雨竜原野の開拓は蜂須賀家によって行われた。会津藩士の一部も北海道に移住している。明治新政府の支配下において、彼らの生きられる空間が、列島の辺境と、あとは外国にしかなかったことを感じさせる。
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2014夏休み:オホーツク海沿岸の旅+東京

2014-08-23 23:56:40 | 北海道生活
ただいま夏季休暇中。あと1日(日曜日)を残して、札幌の自宅に戻ってきた。

今年も海外旅行はできなかったが、札幌→網走へ一気に移動した後、稚内まで路線バスの旅(一部タクシー)。そして、稚内から東京に飛び、また戻ってきた。いろいろ見聞が広まり、北海道の古代史についての収穫が多くて、満足。



旅の見聞と読書から学んだことは、少しずつレポート(8/16~8/21の日付にUP)予定。お読みいただければ幸い。
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2014オホーツク海沿岸旅行・稚内→東京

2014-08-21 22:05:17 | 北海道生活
 8/21(木)友人は早朝にチェックアウトして、札幌に向かった。私はゆっくり起きて、稚内副港市場にある「天然温泉 港のゆ」で朝湯。施設内は、朝から開いているお土産屋さん、レトロな雰囲気のギャラリーなどもあって楽しい。



 ちょうど読む本が切れていたので、駅へ戻りながら書店を探す。ところが、なかなか見つからない。JR稚内の駅舎が2011年にリニューアルして、22年ぶりに稚内に映画館が戻ってきた、とバスガイドさんがうれしそうに話していたが、書店はどうなんだろうか。結局、稚内駅の少し先で、ようやく見つけた。



 表口は狭いが、中は広い。たとえば首都圏のロードサイド型書店などに比べれば、ずっと質のいい品揃えで嬉しかった。文庫本の棚で、司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズに『オホーツク街道』という巻があるのを見つけた。稚内の書店で購入するにはハマりすぎだけど、これにしよう。その後、東京ショートステイの間に読み終えてしまったので、感想は後日。今のところ、私が買いものをした国内北限の本屋さんはこの「クラーク書店」である。

 そして、稚内から文字どおり「一っ飛び」で真夏の東京へ。10度を超える温度差。実家に里帰りしたのだが「今朝、稚内から来た」と言っても「北海道の地理はよく分からない」と驚いてくれないのが拍子抜けだった。東京で「見たもの」はまた別途。

(8/25記)
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2014オホーツク海沿岸旅行・枝幸・稚内

2014-08-20 21:21:52 | 北海道生活
 8/20(水)枝幸から、旅の最終目的地である稚内へ向かう。朝が早いので、前日、ホテルからバスターミナルまでタクシーを頼んでおいた。バスには制服姿の高校生が数人乗っていた。北海道はもう新学期が始まっているのである。オホーツク海を右手に見て北上すると、高校生の姿は、ポツリポツリと増えていった。この1便に乗り遅れたら遅刻決定だろう。かと言って、吹きさらしの道端でバスを待つのも冬はつらいだろうなあと同情する。

 浜頓別ターミナル到着が8:15頃。トイレに行くひまもなく、すぐに稚内行きのバスがやってきて、乗り換え。引き続き、2時間半乗るのはつらいなと思っていたが、眠くなってウトウト寝てしまった。1時間ほど走って、鬼志別のターミナルだったと思うが、運転手さんが「ちょっとトイレ休憩です」と声をかけて車を下りる。ターミナル常駐の事務員さんとは旧知の仲らしく、しばし談笑。こうしないと運転手さんも眠くなって危ないだろう。



 バスは日本最北端の宗谷岬を通過し、稚内駅に到着。とりあえず防波堤や、国の有形文化財である旧瀬戸邸住宅など、駅周辺の見どころを見て歩き、昼食にする。札幌から同行した友人とはここで別れ、明日、私は飛行機で東京へ。友人は札幌から夜行「はまなす」と新幹線で帰る予定だったが、稚内駅で聞いてみると、寝台特急「北斗星」に空きがあるというので切符を買い替える。そうかー「満席」と言われてもあきらめないで聞いてみると、直前で空きが出ることもあるのだな。



 午後は、定期観光バスに乗車。20人くらいのお客さんがいた。バスガイドは今年4月に入社したばかりという若いお嬢さん。駅前の北防波堤ドームと高台の百年記念塔・稚内公園を見学し、車窓の宗谷丘陵を眺めながら(大地がモコモコと盛り上がるようで独特の雰囲気)宗谷岬へ向かう。放牧されているのは宗谷黒牛。

 宗谷岬に到着すると、駐車場を悠々と徘徊する鹿の群れ。ここは奈良公園か!?



 間宮林蔵の像など、さまざまな種類のモニュメントが林立する。



 お土産屋さんで買える(100円)「日本最北端到達証明」。私は2014年8月20日16時59分に到達しました。



 少し離れたところに、間宮林蔵の「渡樺出港の地」碑あり。車窓から撮影。「渡樺」は多くのサイトで「とかば」と読んでいるが、うーむ、それでいいのか?



 帰り道は、メガソーラーや風力発電装置などを眺め、夕暮れのノシャップ岬に寄る。水平線と垂れ込めた雲の合間に、利尻島・礼文島の島影がなんとか見えていた(しかし、この記事を書いている8月24日、まさか両島が記録的豪雨に襲われようとは)。

(8/24-25記)
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2014オホーツク海沿岸旅行・紋別・枝幸

2014-08-19 23:37:11 | 北海道生活
 8/19(火)朝はゆっくり起きて、徒歩で9:30開館の紋別市立博物館に向かう。少し早めに着いてしまったが、中に入れてくれた。すでに紋別の自然と風土にはだいぶ詳しくなっていたが、展示解説で復習。特別展『ヒーローおもちゃ展2014』も楽しかったが、さらに面白かったのは「収蔵室特別公開」。入口付近は、動物の剥製が中心で、こんな感じ。



 奥に進むと、人文歴史系の資料。収蔵棚は積層式になっており、2階もびっしり。まあ本州と違って、収蔵庫の環境(温度・湿度管理)にあまり厳密に気をつかわなくてよさそうなのは、羨ましい。



 博物館の収蔵品には、こんなタグをつけるんだな(↓)。この顕微鏡は、住友金属(株)の鴻之舞鉱業所にあったものらしい。



 金山の歴史から流氷の科学まで、いろいろ学ばせてもらった(これで私も少しは道民らしくなった?)紋別を後に、再び路線バスの旅に戻る。バスは乳製品で有名な興部(おこっぺ)へ。バスターミナル前の食堂「おこっぺんはうす」でガッツリ系の昼食。雑誌や観光ガイドに混じって、興部町教育委員会が編集した小学校社会科の副読本が置いてあって、かなり面白かった。こういう副読本を全国的に蒐集・保存してある図書館ってあるのだろうか。教科書より大事かもしれない。

 食後のデザートには、道の駅おこっぺでソフトクリームを食し、タクシーで雄武(おうむ)のバスターミナルへ。ここもコープや展望台が隣接していて、かなり立派な施設。枝幸(えさし)行きのバスに乗り換える。枝幸バスターミナルで下りて歩き出すと、薄暗くなった空から雨らしい雨が降り始める。人影のない、道だけが広い住宅街を15分ほど歩いて「オホーツクミュージアムえさし」に到着。



 ここは平成11年(1999)オープンの郷土博物館。平成2~4年、枝幸町の目梨泊遺跡から出土したオホーツク文化期の資料が、平成12年(2000)に一括で国の重要文化財に指定されるのにともない(先駆け)開館したのではないかと思われる。出土品の総点数は約23万点というから、収蔵保管用に大きな施設が必要だったのかもしれないが、展示施設としては、ちょっと大きな箱を作りすぎたのではないか。収蔵品も施設も立派なのに、全体にうらぶれた印象が残った。

 新たに私の関心を引いた情報としては、明治29年(1896)、枝幸が世界の天文学者にとって皆既日食の重要な観測地となったこと。アメリカからやってきたデヴィッド・トッド博士は夫人同伴で、当時の写真が残っている。ミュージアムで見たのと同じ写真を見つけたので、リンクしておく。→国立天文台「アーカイブ室新聞」(2011/5/8, 480号)(PDFファイル)。そうかー「枝幸」といえば、この日食を思い出さなくちゃいけなかったな。

 さらに5分ほど歩いて、今夜の宿、ホテルニュー幸林着。夕食は海鮮御膳で、この日も豪遊気分。



(8/24記)
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