見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

名画とナンセンスコメディ/奇想の国の麗人たち(弥生美術館)

2021-01-31 20:43:24 | 行ったもの(美術館・見仏)

弥生美術館 『奇想の国の麗人たち~絵で見る日本のあやしい話~』(2020年10月31日~2021年1月31日)

 会期最後の週末にすべり込みで鑑賞。時代を超えて受け継がれた、あやしい物語とあやしい絵を堪能した。はじめに「あやしい物語」を裾模様に染めた留袖が展示されていて面白かった。黒留袖というものだと思うから、格式の高い着物だと思うのだが、裾模様が「狐の嫁入り」(これ刺繍かな?)だったり、「葛の葉狐」だったり「舌切り雀」だったり。1920~30年代のファッションは自由で斬新だ。私もこんな留袖なら着てみたい。

 安珍清姫(道成寺縁起)の物語は、国会図書館デジタルライブラリーで公開されている、古い縁起絵巻の画像に、橘小夢(たちばな さゆめ、1892-1970)が描いた、ビアズリー風の『安珍と清姫』が添えられていた。現代作家、加藤美紀(1973-)さんの『日高川』も。古い物語が、繰り返し芸術家を刺激し、新たな絵画作品を生み出し続けているのを興味深く感じた。

 蛇といえば上田秋成の『雨月物語』の一編『蛇性の淫』も怖い物語である。展示されていた彩色の絵と白黒の絵、特に白黒の、きれいな女性の背後で、影の頭髪が蛇になり、鎌首をもたげている図に見覚えがあった。展示ケースの中を見たら、小学館の少年少女世界の名作文学全集(1966年刊)が。私が子供の頃、熱烈に愛読した全集である。この挿絵を描いたのは、玉井徳太郎(1902-1986)という画家だったことを知る。別の巻で『耳なし芳一』の箇所も展示されていて、美男僧の芳一を描いていたのは伊藤彦造だった。この全集、記録を振り返ると、かなり「あやしい物語」偏向の採録基準で、かつ、大正や昭和前期の美意識を反映した挿絵が多かった(監修・川端康成だし)。いわゆる「名作児童文学」の埒外の作品に出会わせてくれたこの全集には、本当に感謝している。

 このほか絵画は、前述の橘小夢の作品が多数展示されていた。切り絵のような、黒と白で描かれた(版画らしい)『牡丹燈籠画譜』が素晴らしくよかった。生ける人間と幽鬼の境を曖昧にするような、はかなく華奢な登場人物たち。私は小夢の作品、モノクロのほうが好きかもしれない。『紫式部妄語地獄』(彩色屏風)は、不道徳な物語を創作したために鬼に苛まれる紫式部の図だが、こんな妖艶なイメージの紫式部、なかなかないと思う。高畠華宵が、日本の歴史や伝説に取材した小品のシリーズでは、この画家が好んで描く妖艶で凛々しい少年が、諸星大二郎の絵に似ていると感じた。谷崎純一郎『人魚の嘆き』の挿絵を描いたのは水島爾保布。この人魚は、日本人から見た西洋の女性を思わせるような堂々とした肉感(豊かな長い髪と長い長い魚の尾)が印象的である。

 しかし、これら芸術性の高い絵画の印象を吹き飛ばしてしまったのが、NDLデジタルライブラリーからの転載でパネル展示されていた、山東京伝の黄表紙『箱入娘面屋人魚(はこいりむすめめんやにんぎょう)』。浦島太郎が妻の乙姫の目を盗んで鯉と浮気した結果、人魚(首から下が魚)が生まれる。浦島は娘を海に捨ててしまうが、あるとき、猟師の平次の船に、成人した人魚が飛び込んでくる。人魚は貧乏な平次を助けるため、遊女になって稼ごうとする…というナンセンスコメディ。最後はそれなりのハッピーエンドで、北尾重政(たぶん)が、すっとぼけた挿絵を描いている。江戸人の文化的センス、恐るべし。私は知らなかったが、近年、映画になってもいる。こういう面白い作品を掘り出す嗅覚を持った人がいるのもすごい。

・国立国会図書館デジタルライブラリー『箱入娘面屋人魚

・映画.com『箱入娘面屋人魚

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戦うユートピア運動/太平天国(菊池秀明)

2021-01-30 22:36:56 | 読んだもの(書籍)

〇菊池秀明『太平天国:皇帝なき中国の挫折』(岩波新書) 岩波書店 2020.12

 太平天国は、19世紀半ばに中国で発生した民衆運動である。下級の読書人だった洪秀全を指導者とし、土着的な理解によるキリスト教を奉じて、清朝の打倒を目指したが、指導部の内紛などもあって、最後には鎮圧された。というのが、私の基本認識だ。清末の歴史は好きな方だが、乱を契機に歴史の表舞台に登場する曽国藩や李鴻章に思い入れがあるので、太平天国については、無知な民衆の反乱で鎮圧されて当然、という程度の認識しかなかった。本書は、そうした後世の価値判断を控えて、太平天国という運動が持っていた可能性をフラットに評価しようという試みで、興味深かった。約20年にわたる太平天国(上帝会)の転戦の軌跡を読みながら、中国を旅行したとき、さまざまな地方で太平天国の史跡や文物に出会って、影響範囲の意外な広さに驚いたことを思い出した。

 洪秀全(1814-1864)は広州生まれの客家人で、科挙の試験に失敗したあと、夢で「志尊の老人」に会い、のちにキリスト教の伝道パンフレットを読んで、夢で出会った老人がヤハウエであったと確信する。この話は、高校の世界史の授業で聞いたことを覚えている。あと、志尊の老人が「金髪に黒服姿」だったというのが、最近の中国ドラマ『将夜』の夫子っぽいなあと余計なことを考えてしまった。

 洪秀全は、キリスト教信仰は中国古代の理想(大同の世)への回帰であると考えた。広州でアメリカ人宣教師に洗礼を求めたが拒絶され、上帝会を創始して、広西・広東で勢力を拡大していく。信徒の大部分が客家(貧しい下層民)だったことは注意しなければならない。やがて客家人の楊秀清が加わり「天父下凡」(神がかり)を見せる。広西には降僮(ジャントン)と呼ばれる南方系のシャーマニズムの伝統があったとのこと。

 1851年頃から、彼らは太平天国を名乗り、清朝と本格的な戦闘を開始する。北上して武漢を占拠、次に南京を陥落させた。南京では多くの旗人が虐殺され、洪秀全らの入城後は天京と改称された。太平天国は、財産や食糧の公有制による「大同」世界の実現を目指したが、実際は不平等を解消することはできず、貧しい人々は、誰か諸王の庇護の下で生きることしかできなかった。これ、なんとなく、いまの共産主義中国を彷彿とさせる。それから、この復古主義的な擬似家族ユートピアは、華南の貧しい農民には歓迎されたが、格差を前提に繁栄を享受してきた江南(南京を含む)の人々には受け入れがたいものだったというのも興味深い。

 次に太平天国は北京攻略を目指し、天津郊外に到達するが、北伐は失敗に終わる。同時進行で行われた西征では曽国藩の湘軍と激闘を繰り返す。九江とか田家鎮とか、長江および鄱陽湖における水上の戦い。このへんは軍記物語として無責任に面白い。太平軍の石達開もなかなかの名将で、著者は太平軍と湘軍が「中国の次の時代を担う後継者の座をかけて争った」と見ている。

 1856年9月、洪秀全が楊秀清を殺害し、その一味を粛清する「天京事変」が起こる。清朝の皇帝を否定した洪秀全は、結局、自らも専制君主の不安と猜疑心から逃れることができなかった。この後、太平天国は、イギリスやフランスの傭兵部隊や湘軍に次第に追いつめられ、首都・天京を包囲され、洪秀全の病死とともに滅亡する。しかし運動の末期にも、洪仁玕、李秀成など、注目すべき人材がかかわっていたことを本書で知った。彼らが、もし湘軍の側にいたら、中国近代史にもっと大きな名を残しただろう。

 太平天国は、矛盾と混乱に満ちた運動だが、中国社会の伝統的な、そして今なお未解決の課題を浮き彫りにしているところがある。権力の分散とか、異質な者への寛容の難しさ。「中国は常に強大な権力によって統一されていなければいけない」という強迫観念から人々を解放するには、中国社会がもっていた可能性を検証していく必要があると著者は説いている。

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冬は麺食で温まる

2021-01-25 21:21:49 | 食べたもの(銘菓・名産)

 温かい麺がうれしい季節。久しぶりの在宅勤務日に近所の「たぐり庵」でランチ。出汁の効いた温かいおそばが東京風で好み。

 週末も寒かったので、神保町の「馬子禄(マーズールー)」に蘭州ラーメンを食べに行ってきた。香菜は追加の大盛り。ラー油は別の容器で貰って、自分の好みで少しずつ足していく。一時期のような行列はできなくなったけど、それなりにお客が入っていてよかった。中国系の大家族グループも来ていた。

 ビャンビャン麺の「西安麺莊 秦唐記」は、神保町と新川のお店には行ったことがあるのだが、我が家にさらに近いところに開店した永代総本店に、ようやく行ってみることができた。神保町と新川で食べたことのある油泼麺(ヨウポー麺)の中辛を頼んだら、記憶より辛くて口の中がヒリヒリした。でも、モチモチの麺はやっぱり美味しかった~。

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新春を寿ぐ/東山魁夷と四季の日本画(山種美術館)

2021-01-24 21:55:28 | 行ったもの(美術館・見仏)

山種美術館 特別展『東山魁夷と四季の日本画』(2020年11月21日~2021年1月24日)

 新型コロナの影響で会期が後ろ倒しになった展覧会だが、年末年始に開催されて、ちょうどよかったのではないかと思う。見どころのひとつは東山魁夷の連作「京洛四季」4点が、4年ぶりに一挙公開されたこと。

 実は私も、深山の桜一本を描いた「春静」と雪の降り積む洛中の屋根「年暮る」は記憶にあったが、「緑潤う」と「秋彩」をまとめて見るのは初めてではないかと思った。ブルーグリーンの色調で豊かな水面と水際の樹々を描いた「緑潤う」は、宇治川?それとも嵐山?と考え込んだが、解説によれば修学院離宮の庭園だという。なるほど、まだ私が見たことない風景だ。「年暮る」は当時の京都ホテル、現在の京都ホテルオークラ(本能寺の近く)から見た風景だという。

 あとは、東山魁夷『満ち来る潮』や上村松篁『日本の花・日本の鳥』など、格調高く国土の恵みを寿ぐ定番作品が並んでいて、正月気分にマッチしていた。

 一方で、そんな祝祭気分をほんのり裏切られたように思ったのは、東山魁夷の『白い壁』。重く沈んだブルーの背景に白壁の蔵が建っている。深淵につながるような黒い小窓がちょっと怖い。奥田元宋の『松島暮色』は雪を頂いた小島を描いたもので、写生なのに幻想的。

 初めて聞く画家の作品で印象的だった作品もある。加藤栄三の『流離の灯』は、海上の打ち上げ花火を浜辺から眺めたところ。山田申吾の『宙(おおぞら)』は、青空に浮かぶ、ボールのようにまんまるの、あるいは火の玉みたいに細長い雲の切れ端。真っ白なものもあり、ピンクに染まったものもある。川崎小虎は人物画のイメージが強かったので『草花絵巻』とか『金風(黍に雀)』がやや意外で、面白かった。

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疾風怒濤の時代/中華ドラマ『大江大河2』

2021-01-23 20:06:49 | 見たもの(Webサイト・TV)

〇『大江大河』第2部:全39集(東陽正午陽光影視、2021年)

 2019-2020年に放映された第1部の続編。登場人物と俳優は全て前作を受け継いでいる(よかった)。第1部は1978年から1988年頃までの物語で、中国南方の農村に育った青年・宋運輝は、都会の大学に進学し、卒業後、金州市の化学工場の技師として次第に頭角を現す。宋運輝の姉・萍萍と結婚した雷東宝は、故郷の小雷家村を豊かにするため、人々を励まし、指導し、奔走する。宋運輝を兄と慕う少年・楊巡は商売人を志し、金州市で小さな日用品市場を経営するに至る。第1部は、知識人で技術者の宋運輝、農民の雷東宝、商売人の楊巡という、異なる生き方を選んだ三人をめぐって物語が進行する。

 第2部では、新たな任務を与えられ、沿海部の東海市に派遣された宋運輝の苦闘が物語の中心となる。東海化工の設立にあたり、宋運輝は最高水準の設備を海外企業から購入しようとするが、突然の輸入禁止措置により挫折。ドラマの中では描かれないが、1989年の天安門事件と、その余波としての国際関係の緊張が理由であることは、中国人なら分かるのだろう。その後、1992年の南巡講話に始まる開放政策を追い風に(この点はドラマで言及あり)、宋運輝は東海化工の第2期整備においてアメリカの洛達(ローダー)社との提携を目論む。ローダー社の交渉代表としてやって来たのは、かつて宋運輝の生徒だった、アメリカ育ちのバリキャリの美少女・梁思申。宋運輝と梁思申は、厳しい交渉を繰り返しながら、祖国の発展を願う気持ちを共有する。

 しかし宋運輝の妻・程開顔は、仕事一筋な夫に不安を感じ始め、そんな娘を心配する程工場長(いまは退職)は、頑固な娘婿に愛想を尽かし、宋運輝と梁思申が怪しからぬ関係にあるという申立て書を党に提出してしまう。宋運輝は田舎の工場に左遷されることになり、妻の開顔とは離婚。

 怒る梁思申は、事実が明らかになるまで業務提携の交渉を停止すると主張。宋運輝は、そんな梁思申を自分の生まれ故郷に連れていき、中国の大半の農村がまだまだ貧しく、教育を受けられない若者が多数いること、個人の名誉よりも祖国の発展が重要であることを語る。説き伏せられた梁思申が交渉の席に戻ることで第2部は終わる。

 一方、雷東宝は韋春紅と再婚し、新たな幸せを手に入れたかに見えたが、小雷家村の事業が大きくなればなるほど、資金繰りが綱渡りとなる。県の役人に見返りの便宜を図ったことから収賄罪で投獄されてしまい、東宝を失った小雷家村は、迷走・停滞する。第2部の最終話でようやく出獄した東宝は小雷家村の人々の気持ちをまとめて再起を誓う。

 楊巡は、自転車操業で乏しい資金をまわしながら、東海市に大きな批発市場(卸売市場)を開設する。偶然、梁思申と知り合って、上海の高級ホテルやアメリカの超級市場の話を聞き、さらなる事業拡張の夢を抱くが、実母が癌の末期患者であることを知り、心折れる。楊巡については、あまりにも中途半端な第2部の結末で、第3部をつくってくれないと納得できない。あと、かつては宋運輝のルームメイトで、その後、楊巡の相棒(年上の親友)となった尋健祥(大尋)も。このドラマでは、祖国の発展と個人の(さまざまな意味での)ステップアップが、ほぼ無条件に「善」とされている中で、進歩や変化に関心のない大尋の存在が、一種のバランサーになっている感じがする。彼にも相応の幸せな結末を与えてほしいものだ。

 また、宋運輝の両親が、息子の離婚と左遷を知って、深い悲しみに暮れながら、せめて自分たちは息子の負担にならないように、気強くいようと決心するシーンにも泣けた。この二人は、たぶん抗日戦争、大躍進、文革など、ドラマの外で数々の辛酸を舐めてきた世代のはずである。せめて最後は落ち着いた老後を得てほしい。続編が待たれる。

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知られざる名品も/琳派と印象派(アーティゾン美術館)

2021-01-20 21:52:53 | 行ったもの(美術館・見仏)

アーティゾン美術館 『琳派と印象派 東⻄都市文化が生んだ美術』(2020年11月14日~2021年1月24日)

 去年くらいから、聞いたことのない美術館の展覧会が話題になっているなと思っていたら、2015年5月から休館していたブリヂストン美術館が、2020年1月に「アーティゾン美術館」として開館していた。

 本展は、京都の町人文化として生まれ、江戸(現在の東京)に引き継がれた琳派と、19世紀後半のフランス・パリに誕生した印象派、東⻄の都市文化が生んだ天才画家たちの作品を通して、大都市ならではの洗練された美意識の到達点を比較しつつ見渡そうとする試みである。

 私は2006年に石橋財団の設立50周年を記念して、旧ブリヂストン美術館が開催した『雪舟からボロックまで』を見ており、西洋美術の美術館だと思っていた同館に、雪舟、応挙などの日本・東洋美術がら所蔵されていることを知って、けっこう驚いた記憶がある。本展では、さらに国内の寺院、美術館、博物館からの出陳を加え、国宝2点、重要文化財7点を含む約100点の作品で構成されている。

 冒頭に展示されていたのは歴博の『江戸図屏風』。赤い傘に顔を隠した家光らしき人物が描かれているもの。酒井抱一の『夏図』3幅(十二ヶ月図のうち)は笹に巻き付いた麦藁の蛇がかわいい。伝・宗達筆の伊勢物語色紙のうち、鹿皮の行縢(むかばき)をつけた狩装束(頭は立烏帽子)の貴公子が黒馬にまたがる「初冠」は個人蔵。縁側に座った男が、簾の中の女と対峙する「彦星」(アーティゾン美術館蔵)はどんな物語だったかしら。

 相国寺の『蔦の細道図屏風』や根津美術館の『白楽天図屏風』も来ていて、なんだかとても得をした気分になった。極めつけは宗達の『風神雷神図屏風』(建仁寺所蔵、12/22-1/24展示)だろう。新年からこんな名宝を見られるなんて、大幸運だと思った。屏風の前にドガ作の小さな踊り子の彫像が2点並べてあったのは、風神雷神と躍動感を競わせようとしているみたいで面白かった。

 アーティゾン美術館の所蔵品で印象的だったのは、光琳の『孔雀立葵図屏風』。金地で左隻は紅白の立葵、右隻は金地に墨画(淡彩?)で雌雄の孔雀を描く。わざと彩色を避けた右隻が豪華で上品。伊年印『源氏物語図 浮舟、夢浮橋』は小さな画面に山・川・船・車・紅葉などが装飾的に配置されている。しかし船の中の男女、これ物語的にはかなり緊張のシーンのはず。視覚的な美しさによって物語の残酷さが増す。

 とても気になったのは宗達工房の『保元平治物語絵扇絵』3面。1枚目は青い衣の男が、横たわる白い衣の男の肩を抱えて(袖で頭を隠すようにして)泣いているのである。あとで自分のブログを読んだら、2006年の『雪舟からボロックまで』のときも、私はこの扇面絵に反応していた。好みは変わらないものだな。

 いま買ってきた図録を見ながら記事を書いているのだが、図録は、琳派作品と印象派作品が交互に登場する構成になっている。会場は、残念ながら、それほど混淆的でなく、前半は琳派の間に、たまに印象派が混じる程度、後半はほぼ全て印象派だった。やはり画材が違うと適切な環境も違うだろうから、混ぜて展示は難しいのかなと思う。

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可愛いから渋カッコイイへ/和装男子(太田記念美術館)

2021-01-17 20:51:50 | 行ったもの(美術館・見仏)

太田記念美術館 『和装男子-江戸の粋と色気』(2021年1月6日~1月28日)

 浮世絵に描かれた男性ファッションに焦点をあてる展覧会。この数年、同館の企画は目のつけどころが面白いので、浮世絵にあまり興味がなかった私も、気がつけば、ほぼ毎回通うようになってしまった。

 ざっくり江戸時代の男性観を語ると、初期は女性と見紛う美少年が好まれたが、時代が下ると活発で「いなせ」な男性が理想像となる。江戸後期の『守貞謾稿』には「今も処女は美少年を愛すべけれども、娼妓および市民・武家の婦女ともに美にして侠気あるを好みとす」とあるそうだ。しかしこれも、処女(若い女性)だけは、いつの時代も美少年好きというのが分かって面白い。あと、戦国時代に近い江戸初期が優美な美少年好みで、戦乱を離れるにつれて、侠気(おとこぎ)が価値を持ってくるというのも。

 17世紀の『風俗画帖』には振袖姿の若衆(美少年)が描かれていて興味深く眺めた。私は、やっぱり江戸中期以降の男性ファッションが好き。『冥途の飛脚』の忠兵衛や『心中天の網島』の紙屋治兵衛を思い出す、シックな縞柄の着物がよい。本展のメインビジュアルになっている勝川春潮『橋上の行交』も、黒い襟巻(と思ったら頭巾を巻いているのだそうだ)、紫の長羽織の下は黒い縞の小袖。帯と鼻緒の赤が差し色になっているというのは、言われるまで気づかなかった。なるほどお洒落。しかし髻(もとどり)に何か、畳んだ懐紙のようなものを付けていると思ったら、亀戸天神境内にある妙義社で授けられた雷除けのお守りだそうだ。調べたら、現在でも初卯祭が行われていて「卯の神札(うのおふだ)」と「卯槌(うづち)」が授与されることが分かった。卯槌!「枕草子」に出てきたやつだ。来年、覚えていたら貰いに行きたい。

 長羽織は天明頃に流行したもの。黒い着物に緋博多の帯は腹切帯と言われたとか、細かい流行の解説が面白かった。男性のズボン型下着について、江戸では縮緬や絹のものをパッチと言い、木綿のものを股引と呼んだ(守貞謾稿)という区別も初めて知った。ゆとりのあるものが好まれた時期もあったそうだ。虚無僧スタイルが流行したというのにも笑ってしまった(コスプレか!)。

 江戸後期に描かれたヒーローたち、物語や伝説、歌舞伎の登場人物は、とにかく人目を驚かす、奇抜で大胆なファッションを競う。髑髏とか龍とか猛獣とか、気味の悪い動物(蛸とか蟹)とか、ヤンキー文化の源泉だなあ、と思う。こういうのも大好き。歌川国貞(三代豊国)の『東海道五十三次ノ内 小田原箱根間 曽我の里 鯰坊主』は、B級映画に出てくる謎の中国人みたいで笑った。

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鮑貝の赤と緑/きらきらでん(螺鈿)(根津美術館)

2021-01-15 22:32:04 | 行ったもの(美術館・見仏)

根津美術館 企画展『きらきらでん(螺鈿)』(2021年1月9日~2月14日)

 日本における螺鈿技術の受容と展開の歴史をたどりながら、中国大陸・朝鮮半島・日本・琉球の螺鈿の魅力を紹介する。この数年、根津美術館は絵画や工芸の「技」に注目する展覧会を開催していて、毎回、楽しませてもらっている。

 冒頭には螺鈿の材料となる夜光貝、白蝶貝、鮑貝がごろりと並べてあった。日本の螺鈿は、主に夜光貝を使う「厚貝の螺鈿」で、その精巧さは中国にも知られ、北宋の方勺の著書『泊宅編』には「螺鈿器はもと倭国に出ず」という記述があるそうだ。文化庁所管『桜螺鈿鞍』(鎌倉時代)は初めて見た。正面(前輪)の表面にびっしりと満開の桜が螺鈿で表現されている。定型化された図案でなく、写実的な桜で埋め尽くされているのが豪華。

 『春日大盆』(鎌倉時代)は、根来の展覧会などでよく見る朱の大盆(直径50cmくらい?)だが、今回は、ふつう見ることのできない裏面が展示されている。そこには十字を背負ったような花が5つ(中心と上下左右)螺鈿で嵌め込まれていた。輝きを失いかけているのは、擦り切れてしまったためではないかと思うが、なぜわざわざ裏面にこのような装飾を入れたのか、よく分からない。日本の螺鈿は夜光貝が主流だが、これは鮑貝を用いた早い例でもあるとのこと。『朱漆螺鈿足付盥』(江戸時代)は、名前のとおり低い三本足のついた盥で、側面に「龍」「光」「院」の三文字を螺鈿で表す。龍光院は高野山の真言宗別格本山とのこと。

 中国では絵画的な「薄貝の螺鈿」が南宋~元・明と発達し、輸入品が日本でも愛玩されたが、日本の螺鈿技術に影響は与えなかった。箱や合子、机などが並んでいたが、最も贅を尽くした蓋や盤面よりも、側面や机の脚の文様のほうが、視点の移動に従って、赤(薔薇色)や緑(青に近い)の色変わりがよく分かって美しかった。螺鈿の貝色の基本は赤と緑なのだが、間に仇英筆『十八学士登瀛図巻』が展示されていて、中国絵画の(中国建築の?)基本色と同じであることが面白かった。

 琉球は夜光貝の産地で、琉球王国には貝摺奉行が置かれ、中国に進貢する漆芸品が制作された。紅漆塗りが特徴で、展示品も赤色が多かったと記憶するが、ネットで「琉球螺鈿」を検索すると、最近は黒漆塗りが多いようだ。

 李朝螺鈿も独特の華やかさと美しさがある。ちょっと驚いたのは朝鮮時代の『螺鈿箱』(個人蔵)で、A4サイズくらいの蓋つきの箱が、びっしり隙間のなく貝片をつなぎ合わせて覆われていた。プラスチックか金属の箱のようだった。このほか江戸の螺鈿と、神坂雪佳、黒田辰秋ら近現代の作品も展示。

 展示室5はこの時期恒例となった『百椿図』。展示室6は『点初め-新年の茶会-』で落ち着きの中にも華やかさを感じた。伝・俵屋宗達筆『老子騎牛図』は干支に合わせたのだと思うが、実直な描き方の老子に比べ、垂らし込みが過ぎて、溶け出した巨神兵みたいになっている墨色の牛が不気味だけど可笑しい。

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西洋に学び、日本の様式へ/日本のたてもの(国立科学博物館)

2021-01-14 21:30:41 | 行ったもの(美術館・見仏)

国立科学博物館 企画展『日本のたてもの-自然素材を活かす伝統の技と知恵』(2020年12月8日~2021年1月11日)

 三連休の同じ日に東博→科博をハシゴした。この順番でよかったと思う。東博展のテーマが「古代から近世、日本建築の成り立ち」であるのに対し、科博展はその続きで「近代の日本、様式と技術の多様化」である。

 明治時代になると、まず日本人棟梁たちによる洋風建築や外国人建築家による建築があり、その後、欧米への留学や近代的な建築工学を学んだ日本人建築家による建築が誕生した。明治6年(1873)に竣工した第一国立銀行は清水喜助が設計施工した擬洋風建築。天守閣か、あるいは軍艦の艦橋のように突出する高い楼閣が印象的。明治の錦絵でおなじみの建築だ。清水喜助は現在の清水建設の創設者の名前であることを、わりと最近、意識する機会があった(東京都写真美術館の『日本初期写真史』展のような気がするが、定かでない)。ただし、江戸の大工棟梁だった初代清水喜助(1783-1859)は幕末に死去。第一国立銀行を手掛けたのは、婿養子の二代目清水喜助(1815-1881)である。

 旧石巻ハリストス正教会教会堂は残念ながら行ったことがない。現存する日本最古の木造協会建築だそうだが、設計者は不明。1978年の宮城沖地震、2011年の東日本大震災と、二度の大災害に遭いながら復元され、地域の文化財として大切にされている。ほかにコンドルの三菱第一号館、片山東熊の迎賓館赤坂離宮などを紹介。

 次第に西洋建築への理解が蓄積され、大正から昭和にかけては欧米の最先端の建築思潮の影響もあって、多種多様な近代建築が模索された。いちばん驚いたのは、フランク・ロイド・ライトの帝国ホテル本館(1923年竣工)がVRで復元されていたこと。これはいい。ぜひ、いろいろな建築で試みてほしい。

※参考:TOPPANプレスリリース「博物館明治村と凸版印刷、帝国ホテル旧本館VRを公開」(2018/3/16)

 旧東京科学博物館本館(1931年竣工)は、まさに国立科学博物館の前身である。改修工事が行われたのが2007年だというから、私が小学生の頃に見ていたのは、この建築だ。飛行機のような平面図に微かな見覚えがある気がした。また、当時の学校や教育関係施設の建設に携わった文部省建築課の職員の写真があり、課長・柴垣鼎太郎、係長・高橋理一郎、担当・糟谷謙三の名前が挙がっていたのも興味深かった。文科省の建築課の役人はえらいのだと、藤森照信先生もおっしゃっていたなあ。

 高島屋東京店が、日本の百貨店建築の中で初めて重要文化財に指定されたというのは知らなかった。展示の建築模型には「いよいよ開店」の垂れ幕を下げ、路面には電柱、路面電車や車、行き交う人々も配した楽しいミニチュア。屋上にケージがあって、鹿(?)のような動物がいる。確かに、むかしのデパートの屋上には、小さな動物園があったりしたなあ、と昭和の記憶を思い出した。パネルの解説によると、高島屋の屋上には、一時期、ゾウ(名前は高子)が飼われていたそうだ。どうやって屋上に上げたのだろう…。

 戦後建築を代表するのは、霞が関ビルディングと東京都庁舎。安藤忠雄設計の「光の教会」(1989年竣工)の10分の1模型は美しかった。住宅地に囲まれた狭い一角で、厳しい条件だからこそ、このシンプルな名建築が生まれたことが分かった。最後は「日本のたてものを訪ねてみよう」という、旅心を掻き立てる日本地図があって、ああ、早くこうした建築を実際に気軽に見に行ける状態になってほしい、と切に思った。

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模型を楽しむ/日本のたてもの(東京国立博物館)

2021-01-13 23:10:47 | 行ったもの(美術館・見仏)

東京国立博物館・ 表慶館 特別展『日本のたてもの-自然素材を活かす伝統の技と知恵』(2020年12月24日~2021年2月21日)

 建築模型が見どころらしいとは聞いていたが、まさか建築模型ばかりが20件近く集合しているとは知らなかった。文化庁が「模造事業」として製作を行ってきた国宝・重要文化財の木造建造物の模型で、実物の10分の1が基本形。ほとんどが東博か歴博の所蔵である。

 会場に入るとすぐ、一乗寺三重塔、法隆寺五重塔、石山寺多宝塔が並ぶ。一乗寺は「加西市」とあるのを見て、西国第二十六番札所の法華山一乗寺であることを確かめる。しかし現在の三重塔は黒ずんで落ち着いた趣きのはずだが、模型は梁(はり)や柱の丹塗りの色が鮮やか。展示された建築模型の多くは、創建当時の姿で作られているようだった。法隆寺五重塔、石山寺多宝塔は、独特の形から、すぐそれと分かったが、やっぱり黒い瓦(石山寺多宝塔は檜皮葺)・白壁・丹塗りの柱・緑の連子窓で、現在の姿とは、ずいぶん印象が異なる。

 建築模型としての見どころは、やはり屋根を支える垂木や蟇股の構造だろう。現場では簡単に覗き込めない位置の構造も、つぶさに眺めることができる。一方で気になってしまうのは実物への似せ方で、石山寺多宝塔の内部の柱に仏画が描かれていたり、法隆寺五重塔は四方に仏様がいらっしゃったりすると嬉しくなってしまう。

 大徳寺大仙院本堂の模型は、手入れされた植え込みや石庭が添えられ、室内には見覚えのある、狩野元信(?)の襖絵も見える。慈照寺(銀閣寺)東求堂には、違い棚や付書院(窓際の作り付けの机)を備えた四畳半「同仁斎」があり、特別拝観で中に入ったときを思い出す。

 建築模型は約20件だが、他にパネルで紹介されている建築もあった。神社仏閣は、だいたい行ったことのあるものが多くて、東大寺鐘楼や長寿寺本堂(滋賀、湖南三山だ!)など、記憶をたどりながら懐かしく眺めた。春日神社本社本殿は、現在見られるのは丹塗りの社だが、模型は素木のままだった。

 変わり種は、明治天皇即位時の大嘗宮(明治4年造営)の模型(宮内庁所蔵、これだけは撮影禁止だった)。昨年、一般公開された令和の大嘗宮を思い出しながら見た。基本的な構造が変わらないのは当たり前だが、経年劣化のせいか、模型はだいぶ黒ずんで見えた。

 最後に首里城正殿だけは平成館に展示されていて、誰でも見ることができる。首里城正殿も素木作りなので、ずいぶん印象が違う。解説によれば、昭和2~7年に解体修理が行われ、大正14年国宝指定、昭和20年戦災により焼失。展示の模型は解体修理に参加した知念朝栄が昭和28年(1953)に製作したものだという。まわりのパネルには、深紅の壁に黄金の龍が映える、南国の王宮らしい絢爛豪華な首里殿の写真が掲げられていた。これは1992年に再建され、2019年に焼失した、そして私が実際に訪ねた記憶にあるもの。なかなか複雑な歴史があることをあらためて感じた。

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