見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

ワシントンDC写真だより(3)

2010-01-28 11:40:06 | なごみ写真帖
帰国前夜。

出張の主目的である、女性政策研究所(Center for Women Policy Studies)とアメリカ国立科学財団 (National Science Foundation, NSF)訪問も無事に終わった。

天候に恵まれ、会う人に恵まれ、食事はハズレなし。

フードコートでの朝食。


レストランVidalia(ヴィダリア)のレモンパイ。


できれば空き時間に、30分でもいいからフリーア美術館を覗いてみたかったんだけど…叶わず。今回は仕事の旅なので仕方ない。将来の楽しみに取っておく。
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ワシントンDC写真だより(2)

2010-01-27 13:46:27 | なごみ写真帖
アメリカ議会図書館。パブリックツアーに参加して見学。


壮麗な内部装飾。


大閲覧室の展望バルコニーに出る階段の壁画(ミネルヴァ像)。


たぶん15年くらい前にも一度来たことがある。あれから、デジタル技術の進歩によって、図書館の機能は激変したと思うのだけど、ビジターツアーで案内してくれるところは、貴重書(インキュナブラ)の展示とか、建築意匠的な見どころが主で、旧態依然の印象だった。いいのか、それで。
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ワシントンDC写真だより(1)

2010-01-26 21:35:42 | なごみ写真帖
アメリカ国立公文書館。


国家の威信と公文書館の責任を示す壮麗な展示と、


さわって楽しめる、アトラクティブな展示が同居する。

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進々堂カフェ・御池店の朝食

2010-01-24 23:59:04 | 食べたもの(銘菓・名産)
明日(1/25)より3泊5日でワシントンDCに出張に行ってきます。帰国は1/29です。

ノートPCを持っていくので、もしかしたら、向こうからブログ更新ができるかもしれませんが、未定。

とりあえず、先週の京都旅行で立ち寄った進々堂カフェの写真を貼っておきます。



あつあつのクロックムッシュのチーズが美味しかった~。
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母と娘と/渋江抽斎(森鴎外)

2010-01-23 22:36:16 | 読んだもの(書籍)
○森鴎外『渋江抽斎』(中公文庫) 中央公論新社 1988.11

 「渋江抽斎」といえば、鴎外の史伝小説の代表作、というのは、とりあえず文学史で習うところだ。史伝小説とは、著者の憶測や虚飾を排し、客観的な事実を積み上げて歴史を記述するスタイルのことと言われている。渋江抽斎(1805-1858)は、幕末の弘前藩の医官である。武鑑を蒐集していた鴎外が、しばしば抽斎の蔵書印に出会ったことから、その人物に興味を持ち、克明な調査を重ねて本書が生まれた、というのも有名なエピソードだ。しかし、抽斎の人生には、特にめざましい事件も、ロマンチックなドラマもない。山も谷もない平凡な人生が、史料の引用から窺い知れるだけだ…と思っていた。史伝小説なんて、絶対、読むまいと思っていたのだ。

 その私が、本書を買うに至ったのは、前にも書いたとおり(→記事)、丸善・丸の内本店の「松丸本舗」で、髷を結った半裸の女性が描かれた表紙が目についてしまったためである。え?こんな場面が登場する小説だなんて、聞いてなかったぞ、と思いながら、騙されたと思って読み始めた。

 物語は、鴎外が抽斎の蔵書印に出会い、抽斎の子である保さんと知り合うところから説き起こされる。渋江氏の祖先を語り、「その十」に至って、ようやく抽斎の父が登場する。それから、抽斎の師となり、年長の友人となる学者・文人たちのことが語られ、ようやく抽斎が叙述の中心に登場するのは「その二十四」くらいからである。しかし、思ったほど退屈ではない。儒者の安積艮斎(あさかごんさい)、医者の多紀茝庭(たきさいてい)、画家の文晁、雑学者(?)の豊芥子など、どこかで聞いた名前の有名人たちが、抽斎のまわりを取り巻いていたことが分かって、興味深かった。

 さて、抽斎は医官として出仕し、家族を増やし(何度か妻の死別、離別を経て、四度目の妻・五百(いお)を得)、趣味の観劇を楽しんでいたが、安政5年、虎列拉(コレラ)に罹患し、急逝してしまう(その五十三)。ええ~厚さを見ると、まだ文庫本の半分にしか来ていない。このあと、どうするつもりなんだ?という読者の心配をよそに、「抽斎没後の第○年」という数え方とともに、残された家族と友人たちの物語が、生前の抽斎の思い出話をおりまぜながら、語られていく。

 物語後半の実質的な主人公として立ち現われてくるのは、抽斎より十一歳若かった未亡人の五百である。「その六十」に語られるのは、たぶん安政3年頃の話で、抽斎が某貴人に奉るため、大金を用意したことを聞きつけた不審な侍三人が、その金を強奪しようとしたのを、沐浴中の五百が気配を察し、腰巻ひとつに懐剣をくわえて現れ、夫の危急を救ったという。本書の表紙は、実はこの場面なのであった(羽石光志画)。抽斎の人生は、およそ平凡な事実の連なりであるが、五百の人生は、けっこう起伏に富み、まるで小説のためにつくったかと思われるような印象的なエピソードが多い。明治元年には江戸を引き上げ、まだ物騒な中、一家で弘前に至った。その後、再び江戸に戻り、息子の保に従って、浦和や浜松、愛知県にも移り住み、明治17年、69歳で没する(その百五)。晩年、息子に教わって、英書を読んでいたというのも驚きだった。

 物語はまだ続く。最後の十数章の主人公となるのは、抽斎と五百の娘の陸(くが)である。陸は矢川文一郎に嫁し、本所で砂糖店を営んでいたが、離婚(「分離」とある)の後は、長唄師匠・勝久として自立した。鴎外は、抽斎の伝記を書くというのは言い訳で、本当は二人の女性の物語が書きたかったのではないか。そう勘ぐりたくなるくらい、後半の鴎外の筆は生彩に富み、愛情と敬意にあふれている。史伝小説→事実の重視→無味乾燥…という文学史的常識が、全くの思い込みであったことがよく分かった。まあ、本書を楽しむためには、幕末~明治の時代背景や登場人物に、多少の予備知識は要るけれど。

 抽斎の嗣子・渋江保という人も学識者であり、彼のまわりにも、明治以降、福沢諭吉、フルベック、モオレエ、山路愛山、中江兆民など、意外な人物が往来している。ただ、如何せん、本書は母と娘の物語で、父と息子は影が薄いのである(笑)。
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外国あってこその日本/父が子に語る近現代史(小島毅)

2010-01-22 23:41:22 | 読んだもの(書籍)
○小島毅『父が子に語る近現代史』 トランスビュー 2009.11

 そもそも、インド初代首相のネルー氏が書いた『父が子に語る世界歴史』という本があって、それを念頭に、著者は『父が子に語る日本史』(2008.10)を執筆し、さらに続編として書かれたのが本書である。私は読んでいないが、前作は江戸時代で終わっているという。

 本書が扱う近現代史はかなり近世に寄っており、1701年の江戸城松の廊下の傷害事件(忠臣蔵の発端)から始まる。「忠義」に支えられた体制の固定化、これを覆そうとした改革の試みから、18世紀後半、全国に「教育熱」が普及し、19世紀の新しい国づくりを担った、魅力的な人材が輩出する下地となった。そして、明治、大正、昭和と進み、第二次世界大戦の終結までをやや詳しく論じたあと、激動の「1968年」に、特に独立の1章が設けられている。

 著者も述べているように、本書は「あらゆる事象にバランスよく配慮して過不足なく事項を列記」した歴史の教科書ではない。「枝葉をそぎ落とし、話の筋をわかりやすくして、自分が高校生なら読んでみたいと思う内容をまとめてみた」もので、「本書とはまったく異なる観点から近現代史を語る方法は、ほかにも無数に存在する」だろう。「歴史は基本的に文学だ」(おお、この発言はかなり大胆)ということを認識するには、いいテキストだと思う。

 では、「小島家の本」の歴史観の特徴は何かといえば、「外国あってこその『日本』」がキーワードだと思う。私たちは、これから外国とつきあわざるをえないからこそ、日本の歴史を学ぶ必要がある。だから、著者の語る近現代史は、近隣諸国との関係、戦争責任(軍部だけでなく、常民=普通の人々の)をめぐって、かなり厳しい。

 いわゆる「司馬史観」について、著者は中塚明氏の『司馬遼太郎の歴史観』(高文研、2009)に触発されたことを述べている。曰く、司馬は『韓のくに紀行』で、古代における韓国文化の日本への影響を大きくとりあげていながら、紀行現場のすぐ近くになる東学農民戦争の史跡をまわっていない。まあこれは、『韓のくに紀行』が週刊誌連載だったことを考えると、編集者の意向(読者への配慮)が影響しているかもしれないと思う。司馬が、というより、多くの日本人が、古代の日韓交流には好ましいイメージを持っていても、近代以降には無関心・無頓着で、かなり良心的な場合でも「上から目線」を免れないことには、自省的でいたい。

 それから「教育」に関する指摘も、ところどころ、印象的だった。ひとつは、著者の勤務先である東京大学が、その源流として「幕府天文方」と「種痘所」を挙げているだけで「昌平坂学問所」を無視しているという指摘。何?ほんと?と思って、東大の公式サイトを見たら、確かに「沿革略図」では、実学の源流である「幕府天文方」と「種痘所」からの線は、明治10年設立の東京大学(法理文・医)につながっているのに、「昌平坂学問所」の線は途中で立ち消えている。ええ~。確かに、組織沿革としては、大学校は儒者と国学者の抗争激化の末、潰されたんだったと思う。でも、人文科学の徒である著者が、これに異を唱える気持ちはよく分かる。

 また、柳田民俗学の用語「常民」を用いるにあたって、「人民」「大衆」には「権力者によって不当に虐げられているが、正しい指導者を得て立ち上がることによって、自分たち自身を解放できる存在」というニュアンスが含まれていることを指摘している。「ふつうの人たちというのは、そんなに立派なものではないでしょう」という冷めた認識に、私は大きく共感する。
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新春西国巡礼(3):永観堂、金戒光明寺、知恩院

2010-01-21 23:59:30 | 行ったもの(美術館・見仏)
永観堂 禅林寺(京都市左京区)

 先だって、陳舜臣の『巷談中国近代英傑列伝』という本を読んで、歴史学者の王国維が、京都のどこに住んでいたか知りたいと書いた。そうしたら、まさに京都に向かう朝、携帯でブログの管理画面を開いたら、見ず知らずの行灯さんから「永観堂の方に住んでいたようです」というコメントが入っていた。インターネットの世界って、これだから面白い。

 周辺を歩いて、王国維旧居の碑でもないかと探したが、見つからなかった。あとで調べたら「南禅寺附近に住んでいた」という中国語のサイトもあったので、もう少し南下してみればよかったのかもしれない。のちに王国維が、「永観」「観堂」という号を使うようになったのは、しばしば散策した永観堂の閑寂な趣きを愛したからであろうともいう。なるほど。久しぶりに訪ねた「みかえり阿弥陀堂」は壁画復元中だった。今年の秋には完成とのこと。

紫雲山・くろ谷 金戒光明寺(京都市左京区)

 少し歩いて、「第44回 京の冬の旅」で特別公開中の金戒光明寺に寄る。「冬の旅」パンフレットの表紙を飾っている、伝運慶作の文殊菩薩(渡海文殊形式)が見どころ。金戒光明寺の文殊菩薩と聞いて、私はすぐに思い当たることがあった。2007年に、けっこう長い期間、京博の本館に展示されていたものだ(→記事)。そのときは、ライティングが凝っていて、お~武闘派の美形!と感心していたのだが、今回、お堂で見ると、文殊はともかく、獅子がぽっちゃりして可愛らしすぎる。あれ?この像じゃなかったかしら?と不安を感じた上に、ボランティアっぽい中年女性のガイドさんに「この文殊さんは、京都の博物館で展示なさってませんでしたか?」とお尋ねしたら、「いいえ。お寺の外には出てませんよ」と言下に否定されてしまったのだが、調べてみると、やっぱり、私の記憶どおりらしい。

 説明によれば、金戒光明寺の文殊菩薩は、桜井の文殊(安倍文殊院)、切戸の文殊(智恩寺)と並んで「日本三大文殊」に数えられるそうだ。ここのかわりに、山形県の亀岡文殊(大聖寺)を挙げることもある。

 幕末、金戒光明寺には、京都守護職に任命された会津藩の本陣が置かれた。本堂の縁先に上がって振り返ってみると、御所にも粟田口(東海道の発着点)にも近く、さらに大山崎(天王山)附近までが一望できる、絶好のロケーションだったことが分かる。

浄土宗総本山 知恩院(京都市東山区)

 最後に、友人から「ぜひ行ってみて」とすすめられた知恩院へ。「冬の旅」キャンペーンで三門(山門)が公開されている。急な階段を登って、二階の楼閣内部に入ると、真っ暗。文化財(壁画・天井画)保護のため、窓や出入口に暗幕を垂らし、自然光を遮断するかたちでのみ、公開が認められたそうだ。ちょっと戸惑うが、眼が慣れてくると、かえって雰囲気があってよい。

 ここは、おばちゃんガイドの話が非常に上手くて、面白かった。知恩院の諸堂は徳川家康によって造営され、2代秀忠が建てた三門は火災で焼失するが、すぐに3代家光によって再建された。このように徳川三代が深くかかわったのは、平城である二条城に対して、何か事があったときは、この知恩院を本陣として使うことを想定していたためだという。「うぐいす張り(侵入者を防ぐセンサーの役目)が仕掛けられたお寺なんて、ここだけです」という説明に、なるほどと思う。2011年4月には、法然上人の800年大遠忌法要が予定されているが、今から百年前の700年大遠忌には、大勢の人が京都に押し寄せ、京都駅だけでは捌き切れないため、梅小路駅が設けられたのだそうだ。面白いなあ。

 天井画では、寸詰まりのような龍の一種(飛龍?)に注目。永観堂の壁画にもいた。中国か韓国の寺院でも見たような気がする。
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新春西国巡礼(2):岩間寺、石山寺、三井寺再訪

2010-01-19 23:48:01 | 行ったもの(美術館・見仏)
■西国第十二番 岩間山正法寺(岩間寺)(滋賀県大津市)

 岩間寺へは、昨年の10月17日に続く再訪である。というのも、「結縁御開帳」の初日、私は東京の友人と二人でこのお寺を訪ねたのだが、近江六札所で発売されている「土鈴・浄土の鳥」を入手することができなかったのだ(→詳細はこちら)。

 「また来て」とは言われたものの、山深い岩間寺は、臨時バスの運行される毎月17日(観音ご縁日)でなければ参拝することが難しい。まして東京からでは、そう簡単に出かけられるものではない。という泣き言を京都の友人にメールしてみたら、「12月に仕事を休んで、買いに行ってきましょう」と慈悲深い返信。さすが、すでに三十三所巡礼を果たした先達(せんだつ)様。ところが、友人が、念のため、12月初旬に岩間寺に電話してみると「いま品切れです」とのこと。このまま、鳥は永久に手に入らないのではないか…と思っていたら、12月26日(土)の朝、携帯メールに京都の友人から「岩間寺より、浄土の鳥が入荷したとの電話あり」という連絡が入った。なんというクリスマスプレゼント?! これはもう、私も1月に行くしかない!ということで、今回の旅行が決まったのである。

 前日は遅くまで飲んでしまったので、9:20石山駅で待ち合わせ。立ち客もいる満員のバスで、友人と岩間寺に向かう。地上も寒かったが、山上はさらに寒い。お清めの手水場には、ガチガチに厚い氷が張っていた。本堂の前に、顔も体躯も丸々したお坊さん(慈恩大師に似ていたw→画像)が立ちはだかり、参拝客ひとりひとりに、丁寧なお加持を施している。さらに「どこか悪いところはございませんか」と聞いてくださるので「腰がちょっと」とか答えると、その部分に五鈷杵を突き当てて、裂帛の気合いを入れて(?)下さる。

 今はご開帳期間ではないため、ご本尊の厨子はぴたりと鎖され、扉の前に大きなお前立ち像が据えられている。向かって左には吉祥天、右には婆藪仙人。婆藪仙人は、秋の大津市歴史博物館の『湖都大津 社寺の名宝』からお戻りになったようだ。さて、お守り授受所を覗くと、浄土の鳥(白鳥)発見。友人の分と二羽いただきながら、「うれしい~」と思わず感慨を漏らすと、売り場のおばちゃんが「おねえちゃん(→私)、前にも来はったやろ。覚えてるわ」とおっしゃる。え?!と慌てながら、そういえば、10月もこのおばちゃんだった、とこちらも記憶がよみがえる。実は、あのとき、売り切れと言ったあとで、在庫があったことに気づいて、私と友人を追いかけて、探してくれたのだという。しかし、私たちは、あんまりガッカリしたので、早々に下山してしまったのだ。まあこれも、御縁というもの。観音さんに気に入られて、もう一回おいで、と招かれたものと思いたい。

 この日は、霜柱を踏みながら、奥宮神社まで歩いてみる。途中、崖下に自生するカツラの古木は、分岐したひこばえが育って、ヤマタノオロチのような迫力。

■西国第十三番 石光山石山寺(滋賀県大津市)

 石山駅に戻るバスを途中下車して、石山寺に寄る。「結縁御開帳」は終わっているが、有名寺院なので、そこそこ参拝客の姿が見られる。「多宝塔っていいねー」「岩山、風情あるよね」「水湧いてるよ」などと会話を交わしながら、本堂の縁の下を覗いたり、古い願掛け絵馬を発見したり、気ままに境内を楽しむ。ご開帳期間の参拝は、どうしてもご本尊と納経所に突進することになってしまうが、本来の巡礼は、こういうのんびりした気持ちで行うものだろう。「先達」の友人は、すでに三巡目の巡礼に入っているのが羨ましい。

■西国第十四番 長等山園城寺(三井寺)(滋賀県大津市)

 京阪電車で三井寺に移動。車中、ちょっと体が温まって、ほっと一息つく。三井寺では、南隅の観音堂から拝観を始め(前回はここだけで帰った)、多数の堂宇、塔頭を覗いてみる。朽ちかけた一切経蔵をおそるおそる覗き、閼伽井屋でゴボゴボいう湧き水の音を聴き、生きた孔雀の檻を眺め、微妙寺で「湖国十一面観音第一番」のご朱印をいただき、 金堂で「弥勒仏」のご朱印を、最後に水観寺で「西国薬師第四十八番」のご朱印をいただいた。金堂のご本尊・弥勒仏は絶対秘仏でご開帳されたことがないという(→三井寺の公式サイト)。「ふーん、フェノロサ(境内に墓地がある)でも見られなかったのか」などと話す。

 境内には、慶長年間建立の堂宇が多い。豊臣秀吉は三井寺の堂塔を破壊し、寺領を没収したが、秀吉の死後、北政所により金堂再建が始まり、慶長年間、徳川家康によって、急ピッチで諸堂の再建が図られた(新造ではなく、あちこちから移築している)。というようなことも、『三井寺展』のときに学んだはずなんだけれど、現地を歩いて、あらためて頭に入った。

※「土鈴・浄土の鳥」コレクション完成記念(獲得時の記事にリンク)

↑左端より時計まわりに、迦陵頻伽(長命寺)、鸚鵡(園城寺=三井寺)、孔雀(石山寺)、共命之鳥(観音正寺)、舎利(宝厳寺=竹生島)、白鳥(岩間寺)。
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新春西国巡礼(1):若冲の虎とニワトリ

2010-01-18 23:57:11 | 行ったもの(美術館・見仏)
 振替出勤の関係で、この週末も3連休になったのを幸い、また西国巡礼に行ってきた。初日はひとりで京都の博物館めぐり。

高麗美術館 新春特別展『朝鮮 虎展』(2010年1月9日~2月14日)

 朝鮮といえば虎、虎といえば朝鮮である(これは私のイメージ)。朝鮮半島の虎は、古来人々と深く関わり、虎を題材とする民話や美術工芸品を伝えてきた。そこで、今年の干支にちなんで、新春特別展は、ズバリ『朝鮮 虎展』。あまり大きくない展示室に入ると、確かに部屋中、トラだらけである。19世紀後半に初めて生きた虎を実見した日本人と違って、身近に虎の生息する朝鮮半島の人々が描く虎は、さすがに写実的…かというと、そうでもない。皿を嵌め込んだような目の玉の大きさ・手(掌)のフカフカした大きさ・尻尾の長さが強調されているように思う。手塚治虫のマンガみたい。

 朝鮮以外に、日本人、中国人の描いた虎の絵も出品されている。なんと言っても嬉しいのは、正伝寺蔵の伝李公麟筆『虎図』(虎だけ彩色、背景は水墨、朝鮮、16世紀後半)と全く同じ構図の伊藤若冲の『竹虎図』(水墨、18世紀末)が並んでいること。2007年の暮れに、前者は京博の常設展で、後者は承天閣美術館で、同時期に公開されていたことがあるが、こんなふうにくっつき合って並ぶのは、めったにないことだと思う。もう1点、写真パネルで、プライスコレクションの若冲『虎図』も掲げてある。見比べてみると、プライスコレクションの『虎図』では、お手本の虎の縞模様を精密に写していた若冲だが、水墨の『竹虎図』では、けっこう自由に省略(特に顔のあたり)を加えていることが分かる。なお、正伝寺蔵『虎図』は、表具にも虎モチーフが使われているのをお見逃しなく!

 京博でおなじみの光琳の『竹虎図』も来ていた。かわいいなー。参考写真によれば、大坂市立美術館所蔵の「小西家旧蔵尾形光琳関係資料」には、写真の裏焼きみたいな、よく似たポーズの虎図があるそうだ。17世紀初頭の朝鮮の画家、李禎(イ・ジョン)の絹本墨画淡彩(ほとんど色は見えない)『龍虎図』は生彩に富む。この『龍図』を狩野探幽が実見したことが、探幽縮図の一『筆園逸遊』によって分かるそうだ。しかし、李禎の作品は日本の高麗美術館に伝わり、探幽の模写図がベルリン国立アジア美術館にあるというのは、なんとも感慨深い。

 美術館を出て、上賀茂神社に参拝。続いて、下鴨神社に向かおうとして、バスを乗り間違える。しかたないので、予定を変更して、相国寺の承天閣美術館に寄る。

承天閣美術館 『世界遺産 金閣・銀閣 寺宝展-墨蹟・絵画・茶道具の名品-』(2009年12月13日~2010年3月22日)

 金閣寺と銀閣寺の歴史と文化を紹介する展覧会。まあ名品展である。宣伝ではあまり強調されていないが、やはりこの美術館で若冲を忘れるわけにはいかない。ということで、例の『動植綵絵』と一緒に奉納された『釈迦三尊像』を久しぶりに見る。『牡丹百合図』は、この間、MIHOミュージアムでも見たかな。若書きの『厖児戯帚図』(ホウキにじゃれる仔犬、彩色)、「七十五歳画」のサインのある『中鶏左右梅図』、奇想の巨大な『玉熨斗図』。そして『群鶏蔬菜図押絵貼屏風』。うわーこれ、いいなあ。若冲には、同類の屏風がたくさんあるが、これはピカ一ではないかと思う。右隻(右から)3番目の蕪を咥えたニワトリ、4番目のセサミストリートのビッグバードみたいにぬぼーとしたニワトリ、左隻5番目の両の翼の間から顔を出すニワトリ(大根の上に立っている)。どれも個性的で、チャーミングすぎる。

 ほか、絵画では室町時代の『妙音弁才天像』が、現実味のある美人で、ふくよかな白い肌が色っぽい。工芸品では、旧金閣閣上の金銅鳳凰。あまりカッコよくないけど。劣化が激しく、明治37年に降ろされたため、昭和25年に焼失を免れたというのが、奇縁である。「唐物」の茶碗、花入には名品多し。相阿弥の『君台観左右帳記』に七宝の記録があるというのは初めて知った。「大食窯」あるいは「鬼国窯」と称されたそうだ。大食(ペルシャ)はともかく、鬼国ってすごいなあ。

 と、ゆっくり見ていたら、16:30閉館のアナウンス。17:00閉館だと思っていたので慌てる(※ホームページは17:00閉館になってるんだけど…)。でも、バスに乗り間違えなかったら、下鴨神社→承天閣美術館の予定だったので、幸運だったかもしれない。

 最後に下鴨神社に参拝し、初日を終了。京都在住の友人と落ち合って、四条烏丸で飲みながら明日の西国巡礼の打ち合わせ。今回の巡礼には、大事な「鳥」捕獲ミッションが課せられているのである。詳細は、第2日に続く。

↓捕獲対象の「白鳥」

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博物館に初もうで2010+VR洛中洛外図屏風(東京国立博物館)

2010-01-16 00:17:07 | 行ったもの(美術館・見仏)
TNM&TOPPANミュージアムシアター『洛中洛外図屏風 舟木本』(2010年1月2日~3月28日)

 3連休の週末に博物館に初もうで。お目当てのひとつが、この新作VR(バーチャルリアリティ)上映だった。このVR上映って、どのくらい知られているんだろう? 私はけっこう好きなのである。題材はいろいろ見たけど、やはり、建築物や空間を表現したものが面白いと思う。さて、受付を済ませて、会場入口に並んでいると、今までにないガイダンスを受けた。6つのテーマが用意されているので、入口のタッチパネルでお好きなもの2つを選んでください。最も人気の高かった2つのテーマを上演します、という。

 用意されていたのは「京の風物詩」「京の信仰」「京の名所今昔」「京の豊臣家」「京の異国人」「京の商い」。投票の結果、この回は「京の名所今昔」と「京の異国人」の上演となった。案内役のお姉さんの話では「"京の異国人"は初上演です」とのこと。シアターのホームページに、テーマ(シナリオ)のリクエスト結果が掲載されているが、圧倒的なのが「京の名所今昔」。「京の風物詩」がこれに継ぐ。「京の異国人」は平均2%しかない(1/8~1/11)というから、よく上演に当たったものだ(変わりものの観客の多い回だったのか?)。実は、私もこれをリクエストしたのである。「京の商い」は、ほとんどゼロ。私が見に行った時も、お姉さんが「"京の商い"は、まだ上演の機会がありません。けっこう面白いんですけどね」と残念そうに言っていた。確かに、描かれた店先を覗くのって、とても面白いと思うのに。

 結果としては、「京の異国人」は期待したほどではなかった。船木本には南蛮人しか描かれていないのかあ。私は、朝鮮通信使も出てくるかな?と思ったのに。次回は別のテーマ(シナリオ)を見てみたいけど、自分の好みだけで選べないのは、このリクエストシステム、一長一短のように思う。本館2階の階段ロビーに設置したモニタでも、「船木本」の画像が公開されていて、これは勝手に操作して楽しむことが可能。人物を拡大すると、あー岩佐又兵衛(ふう)の顔だなあ、というのがよく分かる。着物の文様、持ち物や食べ物など、実に細かく描き込まれていることも。なお、リアル船木本の展示は、1/13から始まっているはずである。

■本館特別2室 特新春特別展示『寅之巻』(2010年1月2日~1月31日)

 恒例の「博物館に初もうで」シリーズは『寅之巻』。ポスター、チラシになっていたのが、応挙の『虎図』だったので、ええ~虎といえば、岸駒でしょう、と思っていたら、ちゃんと岸駒の『虎に波図屏風』が並んでいて、嬉しかった。

 現物ではないが、『博物獣譜』から、関根雲停が描いた虎のスケッチ画が写真パネルで飾られていた。文久元年(1861)10月、麹町福寿院の境内で見世物になっていた虎を描いたもので、これが「日本に初めて上陸した生きた虎」の記録であるらしい。調べたら、横浜港から上陸した由。文久元年といえば、勝海舟は…龍馬は…と、誰が虎を見た可能性があるか、気になる。

 なお、この特別展示のほかにも、館内のところどころに「トラ」の姿あり。11室(彫刻)入口の『毘沙門天立像』(旧中川寺十輪院持仏堂所在)も、やはり寅歳に合わせたのだろうな。
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