見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

家族、厄介なもの/中華ドラマ『都挺好』

2019-06-30 17:58:18 | 見たもの(Webサイト・TV)

〇『都挺好』(2019年、東陽正午陽光影視有限公司)

 古装ドラマ好きの私だが、評判を聞いて、久しぶりに現代劇を見てみた。舞台は2017年の蘇州。めざましい経済発展を背景に、高層ビルと古い家並み、豊かな自然が併存する都市。蘇州の古い集合住宅に、定年後の蘇大強(倪大紅)は妻の趙美蘭と暮らしていた。アメリカに暮らす長男・蘇明哲は、父からの電話で母の急死を告げられ、急遽帰国する。母の葬式に集まった兄妹三人。

 長男の明哲(高鑫)は子供の頃から成績が良く、一家の期待を担って米国に留学し、現地で就職、結婚して、いまは一児の父となっている。気弱で心優しいが、長男の面子にこだわり、自分の経済力も顧みず、妻の菲菲に相談もせず、父に豪華なマンションを買ってやろうとして、妻から激しい叱責を浴びる。

 次男の明成(郭京飛)は妻の朱麗と共稼ぎの二人暮らし。幼い頃から母親のお気に入りで、欲しいものは何でも買ってもらい、甘やかされて育ったため、子供っぽさが抜けない。幼稚で粗暴。しかし妻と母親への愛情は本物で、妻や母親を侮辱されることは断じて許せない。そのため、とんでもない事件を引き起こす。

 末の妹の明玉(姚晨)は、母親が明成ばかりをひいきにして、自分を大事にしてくれないことに不公平感を抱いて育った。大学受験を前に家出して、全く家に寄りついていない。アルバイトで学費と生活費を稼いで大学を卒業し、その後は「師父」と慕う敏腕経営者・蒙志遠(張晨光)の下で腕を磨き、蒙志遠が理事長をつとめる衆誠集団(グループ企業)の経営の一端を任され、豊かな財産も手に入れたが、ライバル会社との戦いで心の休まらない日々を送っている。あるとき、小さなレストラン「食葷者」の経営者兼料理人の石天冬に出会い、その素朴で暖かい人柄に惹かれる。

 この三人兄妹とその配偶者・恋人の間で、老いた父親の面倒を誰がどのように見るかをめぐって、いざこざが起こり、それが次々に波及していく。父親・蘇大強も弱気なわりに頑固で、子供たちが考える「これが最善」という提案に載らない。言い放題のわがままを言い(特に長男の明哲に対して)、各種の詐欺にコロリと引っかかって、明玉たちに何度も尻ぬぐいをさせる。ちなみに一人っ子政策世代の彼らが三人兄妹であることには、明玉の出生によって、蘇家が莫大な罰金を支払ったという描写がある。

 とにかく蘇家の人々は誰も彼も性格が悪い。しかし、その性格の悪さが、だんだん愛おしくなってくるのだから不思議なドラマだ。あるとき、蘇大強の身勝手な行動で怒りに火のついた明玉は、毒々しい呪いの言葉を父親に浴びせる。蘇大強は青ざめて「お前は趙美蘭だ」と叫んで昏倒してしまう。あれほど憎んでいた母親にそっくりの言動を自分がしていると知って、困惑と絶望に打ちひしがれる明玉。石天冬は明玉を抱きしめて、鄭の荘公の話を語ってきかせる(母を憎んで黄泉の世界=死後でなければ二度と会わないと誓ったが、後悔して改める話)。中国のドラマって、現代劇であっても、こういう古典の挿入があって好きだ。自分の欠点、不完全さを受け入れたとき、人は他人の欠点にも優しくなれるのかもしれない。

 明成は、暴力沙汰で警察の世話になるわ、投資に失敗して全財産を失い、愛妻・朱麗と離婚に至るわ、クズ同然だったが、最後に明玉に謝罪し、自分の成長と再起のため、アフリカへ旅立っていく。泣けた。

 さて妻の死から約1年。蘇大強は次第に物忘れが激しくなり、アルツハイマー症と診断される。明玉は衆誠集団を離職し(いつでも戻ってこいという蒙志遠の男気)、石天冬のレストランを手伝いながら、父を見守り続けた。日常生活にはまだ支障がなさそうに見えた蘇大強だったが、旧正月の大晦日、二人が目を離した隙に姿を消してしまう。明玉が、かつての住まいの近くで父親を見つけたとき、彼は明玉のことを「お嬢さん(姑娘)」と呼び、誰だか分からなくなっていたのだが、娘への愛情は健在だった。この最終話のエピソード(敢えて詳細は書かない)は、冒頭で蘇家の人間関係を説明するのに使われたエピソードと照応していて、見事だった。

 その晩、蘇州の明玉、蘇大強、石天冬とアメリカの明哲一家、アフリカの明成は、スマホの画面三分割でチャットしながら、新年好、過年好を楽しげに言い合う。痴呆の始まった父に寄り添いながら、明玉はしみじみ「こんな幸せな新年は初めて」という。都挺好(All is well)だ。その少し前の場面で明玉は「有家好」ともつぶやいていた。家があることは、家族がいることはいい。単純だが、この言葉に胸を打たれる現代中国人が多いのだろう。たぶん日本でも放映されたら話題になると思う。私自身も高齢の両親と離れて暮らしているので、身につまされ、考えることが多かった。

 また、ドラマの登場人物たちの未来についてもいろいろ想像した。明成が帰国するまで朱麗は待っていてくれるか。蘇大強が大往生したら、明玉は再び経営の仕事に戻るのか。そのとき石天冬との関係は?など。続編は望まないが、みんな幸せになってほしい。

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唯一無二の「古典中国」/漢帝国(渡邉義浩)

2019-06-28 20:40:03 | 読んだもの(書籍)

○渡邉義浩『漢帝国:400年の興亡』(中公新書) 中央公論新社 2019.5

 中国の歴代王朝には、好きな王朝と、あまり興味のない王朝がある。漢帝国は、むかしから「好きな王朝」のひとつだと思ってきたが、自分の知識が偏っていて、知らない側面がたくさんあることを実感した。本書は、秦末の動乱に始まり、漢の建国、帝国の確立から、新の建国、光武帝による後漢復興、そして三国志の始まりまで、山あり谷ありの400年の歴史を、わかりやすく魅力たっぷりに叙述する。

 やはり心が躍るのは漢帝国の前半の歴史だ。しかし、項羽と劉邦の戦いも、始皇帝の秦(中央集権的な郡県制の採用)→項羽の楚(恣意的な封建制の復活)→劉邦の漢(郡国制=郡県制と封建制の折衷)と整理してみると、英雄叙事詩とは異なる側面が見えてくる。影の薄い皇帝だと思っていた文帝の寛容な治が、民力の休養と経済復興を実現し、次代の繁栄の基礎となったことも興味深い。

 漢の武帝は大好き。特に対外拡張政策にかかわった衛青、霍去病、李陵、蘇武、張騫らの逸話は何度読んでも楽しい。また武帝期は、氏族制の解体が完了した時代でもある。武帝以前に儒教経典として最初に権力に接近したのは『春秋公羊伝』(公羊学派)だったが、武帝の曾孫・宣帝は、自分の即位を正統化する根拠として『春秋穀梁伝』(穀梁学派)を重用した。その子・元帝はさらに儒教にのめりこみ、漢帝国が「儒教国家」となり、のちに「古典中国」と仰がれていく内実が、この時期に定まる。その同じベクトルの先に、『周礼』に基づく国家を目指す王莽が現れる。なるほど、王莽の新は、漢帝国に反旗を翻したというよりは、儒教的理想主義を究極まで推し進めた結果なのだな。このへんは、全然、私の知識が足りていなかったので勉強になった。

 渡辺信一郎による「古典的国制」の指標をここに書き留めておく。(1)洛陽遷都、(2)機内制度、(3)三公設置、(4)十二州牧設置、(5)南北郊祀、(6)迎気、(7)七廟合祀、(8)官稷(社稷。土地神と穀物神)、(9)辟雍(教育機関)、(10)学官、(11)二王の後、(12)孔子の子孫、(13)楽制改革、(14)天下の号(国家名)。最近の中国ドラマに多い架空の王朝も、こういうのを参照しているのだろうか。もっとコンパクトに、儒教に基づく国家支配の三本の柱は「封建」「井田」「学校」であるというまとめ方も面白かった。「学校」は重要なのだなあ。

 王莽の新が財政上の失政から豪族の蜂起(赤眉の乱)を招いて滅亡すると、光武帝・劉秀が後漢を建国する。劉秀も面白いなあ。中国歴代国家の建国者の中でも一二を争う教養人で、自ら軍を率い先頭に立って戦うタイプではないという。しかし、即位後も功臣を殺さず、軍備を縮小し、二百年の太平の礎を築いて、三国志の英雄たちに大きな影響を与えた異色の名君である。光武帝の子の明帝の時代に班超が活躍するのだな。私は、台北の龍山寺で班超のおみくじを引いたことがあるにもかかわらず、このひとの事績をよく知らなかったので興味深く読んだ。

 明帝の子・章帝は白虎観会議を主宰し、「古典中国」すなわち「儒教国家」を完成させる。これまで私は、前漢武帝期に儒教の国教化がおこなわれたという定説を信じてきたが、認識を改めた。そして、後漢の班固が著した『漢書』は「古典中国」としてあるべき前漢の姿(聖漢)を描く。『史記』と異なり、史実をゆがめても「正しい」規範を後世に伝えようとする、歴史修正主義の源流のような思想が、すでにこの時期の中国にあることも興味深かった。

 やがて漢は動揺し、「古典中国」の限界をあらわにする。三国志の時代は、単に圧政への抵抗ではなく、「漢に代わるもの」を求める動きであったと考えると、新鮮な視点を得られたように思った。

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2019岡山ミニ旅行:金田一耕助の小径

2019-06-24 23:17:15 | 行ったもの(美術館・見仏)

 岡山に行く機会があったら、一度訪ねてみたい場所があった。倉敷市真備町にある横溝正史旧宅である。倉敷観光WEB(公式観光サイト)には、JR伯備線の清音駅を起点とし、横溝正史と金田一耕助にまつわる見所をめぐる「金田一耕助の小径」というウォーキングコースが掲載されている。毎年11月には「巡・金田一耕助の小径」と題した横溝正史ファンの集いが行われてることも承知で、ずっと気になっていた。何しろ私は、小学生からの(まだ角川映画がブームをつくる前からの)横溝正史&金田一耕助ファンなのだから。

 土曜日、大原美術館を参観後、JR伯備線で倉敷の次(しかし駅間は長い)の清音駅で下りた。

 待合室に貼り紙があって、駅前の商店で「金田一耕助の小径ガイドブックを発売中」を書いてあったので寄ってみたら、つれなく「品切れ」と言われてしまった。仕方ないので、スマホで倉敷観光WEBの地図を見ながら歩く。まず高梁川を渡った。予想以上に川幅が広くてビビる。道なりに歩いていくと、川辺本陣跡の碑。向かいに脇本陣跡もある。新しい家の間に、ときどき古い蔵造りの家が混じる。工事をしている家屋が多かったのは、昨年7月の西日本豪雨の影響かもしれない。真備地区は大きな被害を受けた。

 ↓『本陣殺人事件』で三本指の男が一柳家への道を聞き、水を一杯所望したところ。倉敷観光WEBおよびGoogleマップでは「三宅酒店」といって、横溝家御用達だった酒屋があることになっているが、店舗はなかった。昨年の豪雨の影響か、それとも単に代替わりなのか。

 ↓濃茶の祠(こいちゃのほこら)。『八つ墓村』に登場する「濃茶の尼」の名前の由来になったと言われる。ほこらは、岡田藩家老の奥方が宿場で病気になった時、親切に世話をしてくれた茶屋のばあさんを祀ったもの。

 田んぼの中をずんずん進むと、とつぜん正面に現れる、左右に広い白壁の家が横溝正史の疎開宅。昭和20年4月から約3年半、家族とともに暮らし、『本陣殺人事件』『蝶々殺人事件』『獄門島』などの傑作を生み出した。道の向かい側には季節の花いっぱいの花畑があって「金田一畑」の札が立っていた。

 中に入りたいところだが、右手方向に少し歩いて、獄門島に出てくる「千光寺」と同じ名前のお寺があることを確かめる。小説と違って、ゆるやかな坂。

 再び横溝正史疎開宅に戻って、門をくぐる。

 開け放たれた玄関に足を踏み入れると、センサーが反応して音楽が流れた。人の姿のなかった屋内から、小さなおばちゃんが顔を出して迎えてくれた。風のない炎天下を1時間ほど歩いてきた私が汗びっしょりだったので、奥から扇風機を持ってきてくれようとした。大丈夫、大丈夫です、と慌てて固辞したら、冷たい麦茶を出してくれた。ちょうど12時のサイレンが鳴って、お昼はまだでしょ? ええ、という会話をしたら、今度は山盛りの炊き込みごはんを持ってきてくれた。

 お茶碗三杯分くらいありそうな量で、食べられないかもしれない、と申し上げたのだが、美味しくて、結局完食してしまった。床の間に飾られた横溝先生の写真を見ながら、まさかこんなところでこんな歓待を受けるとは、と可笑しく思った。奥の一間にお仲間がいるらしく、会話の声が聞こえるので、あとで御礼に行ったら、ほかにおばさんが二人、おじさんが一人いらした。近所にお住まいの方々だそうで、こうして文化財を守りながら、一緒に食事やおしゃべりをして、楽しく過ごしているのだ。玄関の上り口にしゃれた木製の新しいパーテーションが倒してあって、「イベントの写真をこれに飾ろうと思って」など、運営の工夫もしているみたいだった。

 横溝先生も金田一探偵も愛されていて嬉しい。別のおばさんが、これを、と下さったのは、イベント「巡・金田一耕助の小径」で配られた特製うちわ。うわ~ありがとうございます!

 そして、汗も引いたので、再びウォーキングコースの続きを歩き始める。すると急に雲が多くなり、風が強くなってポツポツ雨が落ちてきた。大池のほとりには『悪魔の手毬唄』の登場人物・おりんの像があるのだが、風雲急を告げる背景がぴったり。なお小さな像である。

 横溝正史疎開宅のおばさんたちには「ふるさと歴史館にも寄っていきなさい」と言われ、はいそうします、と答えていたのだが、本格的に雲行きが怪しくなってきたので駅へ急ぐことにした。折りたたみの日傘(晴雨兼用)を持っていたのは幸い。↓歴史館前の金田一耕助像。

 ↓緑陰にたたずむ『獄門島』の了然和尚像。

 ↓『八つ墓村』の森美也子像。エイリアンみたいで怖い。

 最後は後ろからたたきつけるような雨風で、靴やスカートが濡れてしまい、ほうほうの体で川辺宿駅にたどりついた。駅前にあるはずの『悪霊島』巴御寮人像を見逃してしまったのは残念。そして、清音、倉敷を経て岡山から東京へ帰った。岡山駅でフルーツパフェを食べて帰るつもりだったが、お腹いっぱいだったので、そのまま新幹線に乗ってしまった。パフェはまた次の機会に。

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2019岡山ミニ旅行:大原美術館

2019-06-23 23:41:31 | 行ったもの(美術館・見仏)

大原美術館(倉敷市)

 よく晴れた土曜日、朝から大原美術館を参観した。イオニア式の円柱が並ぶ堂々とした本館に入ると、はじめに出会うのが『和服を着たベルギーの少女』。紫地に赤や黒の細かい模様を散らした華やかな振袖、細面の少女の、ほんのり上気した白い肌が印象的だ。背後の棚にも日本人形や日本の茶碗らしきものが飾られている。19世紀ヨーロッパのジャポニズム?と思ったら、作者は児島虎次郎(1881-1929)という日本人だった。

 最初の展示室は、ゴーギャン、ロートレック、モディリアーニ、ルノワールなど、日本人になじみの深い泰西名画が中心。そして、どの作品も一度は画集で見たことがある。私は、1970-80年代に「新潮美術文庫」など、廉価でコンパクトな美術全集を手元に集めて西洋絵画に親しんだ。そのとき、やっぱり日本国内の美術館が所蔵している作品は、掲載しやすかったのではないかと思う。あれもこれも、飽きずに眺めた記憶があって懐かしかった。

 『和服を着たベルギーの少女』の裏側に「この1点」という特集コーナーがあって、絵本のような愛らしい赤レンガの西洋建築が描かれていた。背景が何もないので、砂漠にあらわれた蜃気楼のようでもある。小野元衛(1919-1947)の『市役所』という作品だった。作品の裏面に人の顔のようなスケッチがあり、解説によれば、柳宗悦が画家に贈った木喰観音であるそうだ。全く知らない画家だったが、調べたら、いくつかの作品をネット上で見ることできた。建造物を描いた作品に独特の個性があってとてもよい。2012年に神奈川県立近代美術館鎌倉別館で回顧展が開かれていた。

 開館(1930年)当時の洋館である本館の背後には、景観の邪魔にならないよう、さりげなく新展示棟が付随しており、エル・グレコの『受胎告知』はこちらでゆっくり鑑賞できる。やっぱり一番人気なのかな。さきほどの児島虎次郎の特設コーナーも楽しかった。丁寧な解説を読んで、大原美術館にとっては特別な画家であることを知った。展示作品は、ほぼ全て女性像で、働く日本女性を描いた『里の水車』、美と生命の賛歌のような三枚組の『朝顔』、南欧の夜の舞台を思わせるエキゾチックな『祭りの夜』、白一色のチマチョゴリの『朝鮮の女たち』(意志の強そうな眉)、どれもよかった。ステキだ!

 なお、かつて倉敷アイビースクエア内にあった児島虎次郎記念館は閉館してしまったが、2020年に新美術館をリノベーションオープンの予定だそうである。児島が蒐集したアジア関係の美術品もあわせて展示されるそうだ。リノベ予定地の中国銀行旧倉敷本町出張所というのは、バナーの写真を見たら、昨日、気になってステンドグラスの写真を撮った建物だった。

 続いて工芸館・東洋館へ。白壁土蔵造りの建物(ときどき二階建て)を数珠繋ぎに渡り歩くような展示施設で、天井の太い梁、床に敷きつめたやきものタイル(塼)なども見どころである。「民藝」の濱田庄司、バーナード・リーチ、富本憲吉、河井寛次郎、棟方志功、芹沢介の充実したコレクションが展示されている。え、大原美術館にこんなコレクションがあるなんて、全く知らなかった。棟方志功の作品は必ずしも好きじゃないのだが、ここで見た『門舞神板画柵』10図は気に入った。

 東洋館には、響堂山、龍門、雲崗、天龍山などの石窟に由来する石仏(の頭部)など。北魏の一光三尊形式の大きな石仏が見事だった。面長、細みの体で、中尊の衣が左へなびくような造形だった。あと全身白玉の仏像が複数あり、甲骨文資料や遼三彩など、バラエティに富んだ展示だった。

 最後に分館は日本の近代絵画が主。この作品、ここにあったのかと驚く。特に熊谷守一の『陽の死んだ日』には不意打ちをくらった。それから関根正二『信仰の悲しみ』、小出楢重『Nの家族』。古賀春江の『深海の情景』は、古賀春江らしくてよかった。なぜか江戸時代の画家・長沢芦雪の『群龍図』があったことも書きとめておく。

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2019岡山ミニ旅行:倉敷美観地区

2019-06-22 20:53:52 | 行ったもの(美術館・見仏)

 木・金と仕事で岡山に行ってきた。金曜は仕事のあと、岡山大学の附属図書館を見学して、貴重書展示室を見せてもらった。池田家文庫(旧岡山藩主・池田侯爵家旧蔵資料)の国絵図の軸(複製)を見ながら「本物はもっと大きくて…」という説明を聞いていたら、急に記憶がよみがえってきた。「これ東京の展覧会に出陳したことありませんか?」と聞いたら「あります」という。スマホで自分のブログを検索して、目黒区美術館の『色の博物誌』(2016年)で見ていることを確認した。「本物はめったに展示しないので、千載一遇のチャンスでしたよ」と言われて嬉しかった。

 1泊だけ自主的に延泊して、観光して帰ろうと思っていたので、金曜は倉敷に出た。美術館や博物館は閉まる時間だったが、まだ外が明るかったので、美観地区をぶらぶら散歩した。倉敷は、30年くらい前に一度来たことがあるはずだが、もうほとんど記憶はなかった。水路(倉敷川)には遊覧船。

 白壁土蔵造りの建物が並ぶ。どのくらい当時の風情を残しているのかはよく分からない。きれいに整備しているなあと思う。

 遠目にもすぐ分かる、大原美術館の本館。参観は翌日にした。

 倉敷川を挟んで、大原美術館の斜向かいにあったお屋敷。中華風の瑠璃瓦みたいな、黄色~緑の釉薬瓦がびっしり屋根に載っている。

 あとで調べたら、有隣荘と言って、大原家の別邸だそうだ。設計は、大原美術館や中国銀行の設計を手がけた薬師寺主計と明治神宮や築地本願寺の造営で知られる伊藤忠太(おお!)、 内外装デザインは児島虎次郎、庭園は近代日本庭園の先駆者であり 平安神宮や山県有朋邸などの名庭を手がけた京都植冶の七代目小川治兵衞だそうである(※くらしき観光.com)。道を隔てた本邸(旧大原家住宅)が、白壁土蔵造りの街並みに溶け込んでいるのに比べると、かなり異質で楽しい。なお、近年は春秋2回公開されているそうで、これはいつか中を見たい。

 細い道を気まぐれに進んでいくと、落ち着いたステンドグラスで飾られた西洋建築に出会った。がっしりした石造りに縦長の窓。旧・北海道拓殖銀行の建物を思い出して、これは銀行だなと思ったら、想像のとおり、中国銀行の旧・倉敷本町出張所だった。現在は営業しておらず、国の有形文化財に登録されている。

 大原美術館見学の記は別稿で。

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描かれた高低差/江戸の凹凸(太田記念美術館)

2019-06-19 21:19:24 | 行ったもの(美術館・見仏)

〇太田記念美術館 『江戸の凹凸-高低差を歩く』(2019年6月1日~6月26日)

 浮世絵に描かれた江戸の凸凹(おうとつ)-地形の高低差に焦点を当てる展覧会。浮世絵の楽しみ方にもいろいろあって、有名人や歴史的事件を描いたもの、怪奇や悪人、芝居と芸能、女性のファッションや化粧に注目する楽しみもある。しかし「高低差」に注目するという発想はなかった。もちろんブラタモリ人気の今だからこそできる企画だが、学芸員さんGJ!

 私は東京東部の生まれなので、幼い頃は平たい低地だけで暮らしていた。中学、高校と山手線内に通うことになり、大学時代に東京西部に引っ越して、行動範囲が広がるにつれて、だんだん東京の高低差を知るようになった。江戸の浮世絵を眺めていると、描かれた高低差に「納得」するものがけっこうある。代表例は御茶ノ水付近。学生時代はずっと総武線・中央線を使っていたので、JR御茶ノ水駅のホームから、深い谷底の神田川を見下ろす風景は目に焼き付いている。歌川広重の『名所江戸百景 昌平橋聖堂神田川』などは、緑に覆われた崖もそのままだ。あと、神田上水を掛樋のかたちで神田川を渡らせた「水道橋」を描いた浮世絵はたくさんあるんだな。これまで見落としていた。神田明神、湯島天神の参道の坂を描いたものも多い。江戸の聖地は高いところにあるもので、参詣の楽しみは眺望とセットだったようだ。芝の愛宕山(愛宕神社)、増上寺、王子稲荷なども。

 本展は、東京スリバチ学会会長の皆川典久氏とのコラボで、皆川氏作成の地形図「御茶ノ水・神田」「王子・飛鳥山」「愛宕山・芝」「目黒」「品川・御殿山」「上野」等々が掲示されている。このへんは、地形図的にも、描かれた浮世絵からも、凹凸がせめぎあっているエリアだというのがよく分かる。いま、私が住んでいる東京東部はやっぱりないか、と思っていたら、最後に「浅草(向島を含む)」「日比谷・日本橋」「佃島・築地」「深川・木場」もあって嬉しかった。

 ああ、墨堤の桜って徳川吉宗が植えたのか、とか、江戸時代の築地本願寺は普通の木造建築であることを知る(現在のインド風建築のイメージが強すぎるので)。広重が描いた、情緒豊かな雪景色が『名所江戸百景 深川木場』であることに驚く。今回、展示九割以上は広重の作品だった。東京の名所だけでこんなに描いているとは知らなかった。

 永代橋東南の深川新地(私の現在の住所にかなり近い)について、一時は繁華な遊興の地だったが、全て取り壊され(移転させられ?)たあとの光景を描いたのが『東都名所 永代橋深川新地』(天保末期頃)という解説があったように思う(※訂正補記)。同じ江戸時代のうちでも、風景って大きく変化してるんだなあと感慨深く思った。いま、調べても確かめられないのだが書き止めておく。『名所江戸百景 深川三十三間堂』は浅草から移ってきたもの。すぐ向かいが海でびっくりしたが、実際は水路(大横川)だったらしい。『名所江戸百景 五百羅漢さゞゐ堂』は、現在の江東区大島にあった。まわりが低地だから、三階建ての三匝堂(さんそうどう)の眺めはよかっただろうなあ。五百羅漢寺は明治になって目黒へ移転している。

 残念ながら図録はなかったが、雑誌『東京人』2019年7月号「特集・浮世絵で歩く東京の凸凹(でこぼこ)」を受付で売っていたので買って帰った。これから読んで楽しむつもり。

 6/23訂正補記:雑誌『東京人』を読んでいたら、見覚えのある図版が掲載されていた。『浮絵和国景夕中洲新地納涼之図』という。そして、わずか20年で取り潰された幻の歓楽地は「中洲新地」のことだった。いまの箱崎のあたり(隅田川西岸)で「日本橋中洲」の地名が残っている。

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個性派コラボ/夢のちたばし美術館!?(千葉市美術館)

2019-06-17 23:41:27 | 行ったもの(美術館・見仏)

千葉市美術館 板橋区美×千葉市美 日本美術コレクション展『夢のちたばし美術館!?』(2019年6月1日~6月23日)

 東京の板橋区立美術館と千葉市美術館、日本美術、特に江戸絵画に関して、ともに個性的な活動を展開してきた両館のコラボレーション企画と聞いて、わくわくしながら行ってきた。展覧会のセクションは「江戸琳派とその周辺」から始まる。やっぱり江戸絵画といえば、最大公約数的には琳派か。酒井抱一と鈴木其一が充実。しかし、あまり知らない作者の作品もあった。

 立林何帛(かげい)の『扇面貼交屏風』(千葉市美術館)はちょっと中村芳中に似て、もう少しかたちがゆるくて素人っぽい。酒井抱一門下の田中抱二は幕末・明治の画家。古画や草花・玩具などを描き止めた『写生帖』は、近代的なリアリズムが垣間見えて面白かった。個人蔵。中野其玉の『其玉画譜』(千葉市美術館)は中村芳中ふうというか、アールヌーボーふう。ほか、酒井道一、山本光一など、ビッグネームではないけれど、幕末から明治の激動期を生きた画家たちの作品が面白かった。

 「ちたばし個性派選手権」は、やっぱり板橋区美のほうが、「ヘンな絵」を集めることに一日の長があると思った。宋紫山のぬらっとした『鯉図』、とにかくデカい狩野典信の『大黒天図』など。ひっそり混じっていた椿椿山の『浅野梅堂母像』は、透き通るような淡彩のステキな肖像。

 次は「幕末・明治の技巧家」で、特に岡本秋暉、柴田是真、小原古邨を取り上げる。孔雀の画家、岡本秋暉は、孔雀以外の作品も含めて10点以上並んでいて壮観だった。『都鳥図』はかわいくて笑った。『椿に孔雀図』は、やや横長画面の左側の枝の上に孔雀がいて、その長い尾が画面の右に向かって、ゴクラクチョウのようにたなびいている。典型的な孔雀図の構図ではないのが新鮮。さまざまな鳥を写生した『鳥絵手本』(図巻)も面白かった。上記の作品は、全て板橋でも千葉でもなく、摘水軒記念文化振興財団からの出品である(この財団、柏市にあるんだ。沿革を読むと面白い)。

 柴田是真は板橋区美のコレクションが中心。『貝尽図屏風』(紙本漆絵)のような是真らしい作品のほか、映画(アニメ?)の1シーンのような『猫鼠を覗う図』、ゆるふわの『上代雛図』もよかった。小原古邨は千葉市美術館のコレクション。カメラ目線で虚空を横切る『月に木菟』など。

 最後は「江戸の洋風画』。おお、こんな特集まで!? 小田野直武、佐竹曙山、司馬江漢、亜欧堂田善、石川大浪、石川孟高。このセクションの多くは帰空庵(歸空庵)の出品である。小田野直武を5点もまとめて見られる機会は、東京ではめったにないのでとても嬉しかった。『梅屋敷図』は作風から直武の作と推定されているそうだが、長身の人物が亜欧堂を思わせるところもある。直武の、どこか洋風(?)の『恵比須・大黒図』も面白かった。(伝)佐竹曙山の『紅梅水仙之図』は、南蛮画を愛した池長孟氏の旧蔵コレクションで、太いストライプの南洋風の生地で表装されていた。亜欧堂の『蘭医図(ウェインマンの肖像)』は珍しい絹本油彩の人物画(書籍の図版の模写)だった。

 なお、板橋美術館は現在、改修工事のため休館中だが、千葉市美術館も2020年1月から6月まで休館してリニューアルを行うらしい。千葉市の広報記事を見たら、いまの建物が全面的に美術館になるみたいで、たいへん嬉しい。千葉市、大英断! 会場には「不惑のイタビ、脂のってます」「リニューアルだよ!全員集合」のバナーが誇らしげに垂れていた。

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香合を集める/茶席を彩る中国のやきもの(中之島香雪美術館)他

2019-06-16 23:24:53 | 行ったもの(美術館・見仏)

中之島香雪美術館 企画展『茶席を彩る中国のやきもの』(2019年5月25日~8月4日)

 先週の関西週末旅行、東洋陶磁美術館のあとはここに寄った。館蔵コレクションから中国のやきものを展示。多くは、村山龍平が収集し茶会で使った茶器や懐石道具で、古いものには南宋時代の油滴天目や禾目天目、梅花天目などもある。

 目を引いたのは、一角に集められた香合のコレクション。参考資料として安政2年出版の「形物香合相撲番付」を引き伸ばした写真が飾られていた。香合番付としては最も古いもので、日本国内の好事家が所有する名品が、たぶん200種以上、番付方式でランキングされている。※画像→「茶道入門」形物香合相撲番付表

 そして本展には、このうち10件が出品されている。村山龍平、かなり頑張って集めたんだなあと思う。特に目立つのは東の大関(横綱はいない)に位置する『交趾大亀香合』。確かに大きい。よく見ると、この番付、東方は大関から前頭11枚目まで全て「交趾」(実際は漳州窯)で占められており、人気のほどが偲ばれる。西方は、染付・呉州・青磁など多様なやきものを合わせている。交趾焼、そんなにいいかなあ。私は『呉州染付台牛香合』や『古染付荘子香合』(胡蝶の絵)のほうが好き。

 もうひとつ『交趾蓮唐草文香炉』(明末~清)という、変わった作品が出ていた。脚の長い三脚の香炉で、色味がユニークである。解説は、広東の石湾窯か?と推測しながら、検討を待つというスタンスだった。

 あとはやっぱり古染付がよい。どこでもないユートピアを思わせる山水図や楼閣図、『葡萄棚文水指』や『飛馬文水指』が好き。呉州赤絵もゆるふわな趣きに癒された。

湯木美術館 平成31年春季展『「きれい」寛永×「いき」元禄-くらべて見える江戸茶の湯文化-』(2019年4月9日~6月24日)

 まだ時間があったので、もう1箇所寄っていくことにした。ここは2010年に初訪問して以来、二度目の訪問になる。本展は、寛永・元禄の茶の湯文化に注目。寛永年間(1624-44)は、千宗旦、小堀遠州、金森宗和、仁清らが活躍し、瀟洒で洗練された美意識「きれい」を生み出した。元禄年間(1688-1704)は、幕府の政治が安定して経済活動が活発化し、松尾芭蕉、上島鬼貫らによる俳諧がさかんになり、乾山焼が人気を博した。茶の湯は武家町人にも広がり、「いき」の文化が生まれた。という整理なのだが、え?乾山は「いき」なの?「きれい」じゃないの?とか、時々まごついた。

 また、『浪華名所図屏風』(左隻、大阪市指定文化財)を見ることができたのは面白かった。大阪の町の基本的な形が出来上がった元禄期に製作されたものと考えられているそうだ。近松門左衛門筆『鷺図』は、絵も賛も冴えないところが魅力的だった。

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クレオール的創造性/食の実験場アメリカ(鈴木透)

2019-06-13 23:40:59 | 読んだもの(書籍)

〇鈴木透『食の実験場アメリカ:ファーストフード帝国のゆくえ』(中公新書) 中央公論新社 2019.4

 アメリカの食文化なんて、ハンバーガーとフライドポテト、ホットドッグにアップルパイ、あと何がある?というくらいの認識だったが、どんどん認識が覆って、とても面白かった。本書はアメリカの食の歴史を、第一に植民地時代から独立革命期、第二に19世紀後半から20世紀半ばにかけての産業社会の形成・発展期、第三に1960年代以降の産業社会に対する抵抗の時代の3つに区分して解説する。

 まず第一の時代。白人入植者の食を支えたのは、先住インディアンと、プランテーションの労働力としてアフリカから連れてこられた黒人奴隷だった。先住インディアンは、トウモロコシ、カボチャ、豆のスリー・シスターズ(合理的な伝統農法。なるほど!)を栽培しており、これらヨーロッパではなじみのなかった食材を、白人入植者は代用品として受け入れた。そこからコーンブレッドやパンプキンパイが生まれた。ポップコーンも先住インディアン由来だという。

 また、アフリカで米をつくっていた黒人は、サウスカロライナに米作りを持ち込み、白人も米料理を食べていた。バーベキューは西インド諸島から持ち込まれた。フライドチキンは、スパイスをふんだんに用いる点は西アフリカに由来するが、油で揚げる料理法はヨーロッパにある。つまりアメリカの国民食(ソウルフード)はどれも異種混淆的なのだ。そして、植民地時代のアメリカには、全国共通とよべる食習慣は確立していなかった。著者はこれを「ローカルとインターナショナルがナショナルなものを飛び越えて結びつく」と表現している。「ナショナル」志向≒排外主義が強い、最近のアメリカとは異なる国の姿が見えて新鮮である。

 第二の時代。南北戦争以後、アメリカは急速に工業化を進め、ヨーロッパの低開発地域から大量の移民が流入する。移民向けのエスニックフードビジネスは、次第に移民以外の人々もマーケットにして成長していく。ハインツ社のトマトケチャップはその代表例である。トマトケチャップは、西洋世界にとって醤油(調理の最中にも、食べる段階でも使える万能ソース)の代用品であるという説明に、思わず膝を打ってしまった。

 急速な工業化、都市インフラ整備の遅れの中で、人々の健康衛生への関心が高まり、健康食品として、コカ・コーラやドクター・ペッパー、ケロッグ社のシリアルなどが生まれる。20世紀には、少ないメニューと流れ作業、使い捨て食器の活用など、効率性を追求した本格的なファーストフードビジネス、マクドナルドとKFC(ケンタッキーフライドチキン)が生まれる。

 第三の時代。フランチャイズ化されたファーストフードビジネスは人々を画一的な味に囲い込み、食の創造性を衰退させた。1960年代には、環境や健康を意識したヒッピーたちによる食文化革命が起こる。しかし、70年代以降には、スローフードの高級化という皮肉な事態を招いてしまう。一方で、60年代後半から「エスニックフードリバイバル」という動きが高まり、エスニック料理の垣根を超えて、異種混淆的なヘルシー料理の実験が大胆に行われるようになった。有名なスシロール(カリフォルニアロール)のほか、ハワイのポキボウル、ブッダボウルなど。すごい。

 本書を読むと、日本の寿司職人がアメリカ人に「本物の寿司」の作り方を教えに行くというテレビバラエティ(そういう番組があるらしい)が、どんなに的外れなものかよく分かる。料理も芸術もクレオール万歳だな、私は。

 第二の時代(金ぴかの時代)において、独占資本の弊害が最も顕著に見られたのが食肉産業で、現在でもアメリカには、日本でいう小売店としての肉屋はほとんどない、という指摘は驚きだった。考えたこともなかった。寡占化された食肉業界では、安全対策や衛生管理への意識がいちじるしく低下していたという。それから、禁酒運動を担った女性たちは、食の安全にも強い問題意識を持っていたこと、台所の進化がかえって女性たちから社会活動の余裕を奪っていったことも興味深い。

 日本とアメリカの食に関する実体験を踏まえたエッセイふうの「あとがき」も面白いので、尻尾まで餡の詰まったタイヤキを味わうつもりで、最後まで読んで欲しい。

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紀暁嵐先生の硯/文房四宝(大阪市立東洋陶磁美術館)

2019-06-12 23:49:39 | 行ったもの(美術館・見仏)

大阪市立東洋陶磁美術館 特別展『文房四宝-清閑なる時を求めて』(2019年4月1日~6月30日)

 神戸遠征の翌日、大阪で半日だけ遊んでいく計画を立てた。まずは気になっていたこの展覧会。中国の文人を魅了し続けた文房四宝の世界を、明清時代の文房具約150点をもって紹介する特別展なのだが、展示品については「日本有数の文房具コレクションを中心に」とあるだけで、所蔵者を明らかにしていない。誰なんだろう?

 展示会場は、階段を上がってすぐの企画展示室は「朝鮮時代の水滴」という特集展示をやっていた。巡路を進んで展示室Aの入口に「文房四宝」の掲示があったので、ここかと思って入ったら、いつもの朝鮮陶磁しか並んでいなくて、何か違う。奥のロビーにいったん出て、3階展示室Dとその下のE・Fが特別展に当てられている。

 最初の展示室Dは、文房四宝を構成する「筆・墨・硯・紙」の名品をそれぞれ展示。筆は穂先ではなく軸のおしゃれ具合を競う。堆朱や堆黒の具利文装飾は大好きだが、筆としては握りにくそうな気がする。墨は魚符墨や慈姑墨、石鼓墨など、さまざまな形態があって楽しかった。使えば消えてしまう定めなのに、こんなふうに形に凝るのは、小学生の消しゴムコレクターみたいで微笑ましく思った。墨の香を嗅ぎたかったが、年代物は香も飛んでしまうのだろうか。そして中国には「墨匠」という個人または家の職業があったことを思い出す。

 硯は自然な石のかたちを活かしたものが多かったが、紀昀(暁嵐、文達、1724-1805)先生旧蔵の「四直硯」に目が留まった。紀昀は愛硯家として知られ、『紀文建硯譜』の著作もあるという。この硯の裏面には嘉慶9年(1804)正月、紀昀が亡くなる前年の81歳の時に彫った銘文がある。見たいなあと思ったら、ロビーに拓本が展示されていた。

 

 紙は華やかな文様を摺り出した唐紙が各種。2階に戻って展示室E、Fは、諸具(水滴、筆筒、筆洗など)と印材の展示だった。私は「石印材の王者」と呼ばれる田黄が好きで、同じ黄色系統の石だが少し白みの強い黄芙蓉もよい。やっぱり印材は石が一番で、象牙なんか邪道だと思う。

 中国文人の文房四宝愛は、残念ながら日本には伝わらなかった。日本の文化で、これに類するものを探すと茶道具愛ではないかと思う。墨匠や筆匠の歴史は、日本の千家十職みたいなものだろうかと考えた。なお、展示室は、常設展も含めて全て写真撮影OK。最近、青花の皿を見ると、蘭州ラーメンの器にしか見えないことに笑ってしまった。

 最初に戻って、企画展示室の「朝鮮時代の水滴」も覗いたが、大ぶりな水滴ばかりで驚いた。日本民藝館でよく見る朝鮮の水滴は、小型のジャムかヨーグルト瓶程度の容量だったが、今回の展示品は、500mlのペットボトル1本分くらい入りそうなものもあった。まあ何度も汲み足さなくてもいいので実用的と言えるかもしれない。

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