見もの・読みもの日記

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朝日カルチャー・憲法問題を考える(姜尚中)

2006-05-10 23:31:03 | 行ったもの(美術館・見仏)
○朝日カルチャー講座 姜尚中『憲法問題を考える』

 6、7年前に朝日カルチャーで姜尚中氏の連続講座を聴いてから、いつも案内が来る。のんびり構えていると、すぐ満員になってしまう人気講座だが、今回は会場も広そうなので、久しぶりに聴きに行った。

 これまで受講した姜先生の講座は、大学教授(あるいは東大教授)らしく、あまり時間や構成に縛られずに喋って、しかし聴衆には、豊かな満足を残してくれた。本来、アカデミズムとは、そんなふうに、ゆったりした時間とともにあるものだと思う。しかし、この日の姜氏は、定刻どおりに現れ、時間配分を気にしながら、きびきびとレジュメどおりに話を進められた。「今日は憲法問題という、カタい題目なので、やわらかい恰好で来ました」とおっしゃって、服装だけはカジュアルだったけれど、なんだか形式的だなあ、と少し物足りなく感じた。

 話がつまらなかったわけではない。むしろ逆だ。内容は、おおよそ姜氏の最近の著作である、吉田司氏との対談『そして、憲法九条は』(晶文社 2006.2)や、『姜尚中の政治学入門』(集英社新書 2006.2)に重なるところが多かった。『姜尚中の政治学入門』では、「干物の知」(→有効性を失っていない古典知)としてホッブスの国家論を挙げていたが、この日は、カール・シュミットの憲法論を参照軸とし、最も生々しい話題、自民党の新憲法草案に及んだ。

 現行憲法の9条2項は、有名無実化していると言われる。しかし自衛隊のイラク派遣が、とにかく「非戦闘地域」の線で留まったのは、9条2項が首の皮一枚で生きていたためである。もし、新憲法草案のように、自衛隊の容認(あるいは「自衛軍」への改編)が行われれば、我々は、自衛隊が他国の人々を殺戮し、あるいは殺戮されるという場面に曝されなければならない。我々は、その厳しい現実を「我が事」として受け入れる覚悟はできているのだろうか。

 そこまで語って、姜氏は「日本が30年前の韓国のようになってどうするんですか?」と発した。問いかけるというより、言い放つような強い口調だった。どこかで同氏は、韓国の社会が、民主主義の異物である「軍隊」を制御可能な状態に飼いならすまで、どれだけ途方もない犠牲を払い、長い歳月を費やしたかを、語っていたと記憶する。続けて、韓国の前大統領・金大中氏の言葉を引いた。「姜君、日本人は、民主主義を水のように考えているのではないかね。我々の民主主義は血で購われたものだよ」と。これもまた、私は、胸に刃を突きつけられたように感じた。

 姜尚中氏の発言を、韓半島という「外部から日本を見る」と評する論者がいる(好意的な意味で)。しかし、そうだろうか。私には、同氏が日本社会の内部にあればこそ、こんなにも絶望的な苛立ちを隠せないのではないかと感じた。「戦後70年は、たぶんないだろう」とも、おっしゃった。これは『そして、憲法九条は』の中にもあった発言である。生まれてこのかた、「永遠の戦後」が続くと、安直に信じてきた私は、目を剥くほど驚いたのであるが。

 「戦後」が終わって始まるもの、姜氏は、それを「第三次国民国家」と呼ぶ。明治維新に始まる第一次国民国家、敗戦後の第二次国民国家。どちらも、実は多大な犠牲の上に成り立ったものだ。次は、我々はどんな犠牲を捧げ、どんな国家を招来しようというのだろうか。

 これ以上、書いていると気が滅入るので、最後に松岡正剛さんの『千夜千冊』の中の、姜尚中著『ナショナリズム』(岩波書店 2001)へのリンクを貼っておく。最後の段落でひそかに紹介されている、姜氏が美輪明宏に”好意”を告白するエピソードは出色であると思うからだ。私も松岡正剛さんと同様、美輪明宏と童謡やアリランをめぐって座談にふける姜尚中氏が見たいと思うのだが、日本の現実は、そんな優雅なひとときを、当分の間、彼に許しそうにない。
コメント (2)
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