見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

虚構の果ての廃墟/夢の原子力(吉見俊哉)

2012-08-30 23:59:43 | 読んだもの(書籍)
○吉見俊哉『夢の原子力:Atoms for Dream』(ちくま新書) 筑摩書房 2012.8

 本書を見つけたときは、吉見先生、相変わらずチャレンジングだな~!と思った。議論百出のこのテーマ(原子力)に、いったい、どういう角度から斬り込んでいくのか、興味津々で、すぐに本書を買って、詠み通した。

 全体としては「歴史」を主とした叙述になっているので、福島第一原発事故の責任者探しとか、今後の原発推進是か非か、という類の問題設定に、早急な回答を求めている読者には向かない。あとがきに言うように、「昨年3月11日以来、1年余の間にこの国で起きていることを、過去60年、ないしは約1世紀の歴史の歴史のなかに位置づけること」を著者は「本書の使命」と考えており、「この社会がこれからどの方向に進むにせよ、そうした歴史的想像力をもって歩んでいってほしいと思う」と説く。

 したがって、第1章は、一気に歴史を遡行して、18世紀末から1世紀に及ぶ「初期電気技術」の発展期から始まる。発見されたばかりの電力は、魔術と科学の間にあって、人々を魅了し、熱狂させていた。電力は革命であり、資本であった。あるときは帝国主義と、あるときは共産主義、また民主主義とも結びつく政治性を有していた。このように、一見、牧歌的に見える「原子力以前」の「電力」そのものに、現在の「原子力」と通底する問題が潜んでいたことが指摘される。

 第2章は、いよいよ原子力の登場。第二次世界大戦において、脅威の「原爆」として人類の前に現れた原子力が、いかにして「夢の原子力」(平和利用)に焼き直されたかが、本章の課題となる。主体となったのは、もちろんアメリカ。そして、ターゲットとなったのが日本である。二度の原爆投下に加え、第五福竜丸という三度目の被爆を体験した日本であればこそ、その国民が原子力の平和利用を受け入れることは、国際世論に大きな影響を与えると考えられた。

 ちなみに本書の副題「Atoms for Dream」は、1953年12月、アイゼンハワー米大統領が国連総会で行った歴史的演説「Atoms for Peace」に依っている。「Atoms for Peace」とは、原子力の平和利用と核兵器の世界配備の両面作戦で、覇権を打ちたてようとするアメリカの世界戦略の別名でもあった。

 というわけで、第2章で紹介されるのは、1950年代の日本で繰り広げられた、核アレルギー払拭と「夢の原子力」イメージ構築のための様々な試み。原子力博覧会、原子力広報映画。真面目に学習し、反応する復興期の日本国民。ある意味、それはアメリカの「思う壺」だったわけだが…。

 さらに第3章は、ポップミュージック、マンガ、テレビドラマなどの大衆文化における「原水爆イメージの日常化(時には崇高化)」を扱う。この章がいちばん面白かったな~。強い酒、セクシーな女性を歌った「アトミック・カフェ」「アトミック・ベイビー」、原爆オリエンタリズムむき出しの「フジヤマ・ママ」など、脳天気な歌詞のポップソングの数々(楽曲も同様らしい)。かなり呆れながら読んだ。

 私は水着の「ビキニ」が、ビキニ環礁での水爆実験をもとに、その(セクシーな)破壊力から名づけられた、ということを初めて知った(ちなみにWikiでは、ビキニ型水着の考案のほうが早いということからこの説を否定しているが、本書によれば、1940年代末、その種の水着は、もっと直接に「アトム」と呼ばれていたという)。

 50年代のアメリカでは、原水爆によって太古の恐竜がよみがえったり、昆虫等が巨大化する映画が次々につくられた。しかし、これらとは全く異なる位相から生まれた『ゴジラ』は、戦後日本を代表する名作映画となる。私は、1960年代以降、急速に「カワイイ」化し、人気を失った「ゴジラ」映画を見て育った世代なので、初代『ゴジラ』は、よく知らない。むしろ私は『鉄腕アトム』で育った世代である。アトムは、電子脳と原子炉を内蔵したロボット、つまりコンピュータと原子力の結合したシステムが、いかに人類の平和と発展に寄与しうるかを表象する存在であった。ちなみにドラえもんもガンダムも原子力ロボットであると読んで、あらためて日本の戦後大衆文化と原子力(の平和利用)が不可分なものであったことに気づかされた。

 しかし、日本のマンガやアニメは、原子力の平和利用イメージを蔓延させる一方で、70年代以降、「核戦争後の世界」を執拗に描き続けてきた。古くは手塚の『火の鳥』。『AKIRA』しかり、『ナウシカ』しかり。うむ、そうかもしれない。この国のサブカルチャーは、「Atoms for Peace」という虚構の時代の果てに「何らかの崩壊が起きるであろうことを予見し始めていた」のではないか、と著者は言う。であれば「3.11」以降の私たちは、ようやく虚構の時代を抜け出し、夢から覚めて、現実の中に丸裸で置かれた状態であると思う。これからどちらに向かうべきかについて、本書は明確な答えはくれない。ただ過去を振り返りつつ、各自が答えを出すことが求められている。
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乱世と閑居/方丈記(鴨長明、浅見和彦校訂・訳)

2012-08-28 22:33:46 | 読んだもの(書籍)
○鴨長明;浅見和彦校訂・訳『方丈記』(ちくま学芸文庫) 筑摩書房 2011.11

 数ヶ月前から、鴨長明の「発心集」が読みたいと思っている。学生時代、授業で使ったテキスト(新潮日本古典集成)を今でも持っているはずなのだが、なかなか探し出せない。文庫本でないのかなーと思ったが、ないようだ。こういう作品がすぐに購入できるなら、電子ブック大賛成なんだけど。「方丈記」は何種類か文庫本が出ているので、適当に買って読んでみた。ちょうど、大河ドラマ『平清盛』も福原遷都が近づいているので、その予習のつもりもあった。

 しかし、あらためて福原遷都の前後って多事多端だなあ。しかも悲惨なことばかり…。安元の大火(1177/安元3年:鹿ケ谷の変の年)、治承の辻風(1180/治承4年:以仁王の乱の年)、福原遷都(1180/同上:同じ年、頼朝挙兵)、養和の大飢饉(1181/養和元年:清盛没)、元暦の大地震(1185/文治元年:平家壇ノ浦に滅ぶ)。これをドラマは描くんだろうか。

 「方丈記」の福原京の描写は、量的にさほど多くないが、長明の目のつけどころが鋭く、描写が的確なので、非常に興味深い。「程せばくて、条理を割るに足らず」「波の音、常にかまびすしく、潮風ことにはげし」とか、先だって仕事で神戸に行ってきた記憶に引き比べても、実感が添う。「車に乗るべきは馬に乗り、衣冠、布衣なるべきは多く直垂を着たり。都の手振り、たちまちにあらたまりて、ただ、ひな(鄙)たるもののふ(武士)にことならず」というのも面白い。社会が、まさに音を立てて、武士の世に変わっていくのが目に見えるようだ。

 本書は、冒頭に「方丈記」の校訂済み原文(全文)を掲げ、続いて、一段ずつ「原文+訳+評」を示すという構成を取る。評(釈)部分には、写真や図版もあり、各種文献資料も博引旁証されている。九条兼実の『玉葉』とか、藤原定家の『名月記』とか、この時代は、多くの日記資料が残っているので、あやしげなゴシップ記事もいろいろ読める。

 平家が壇ノ浦に滅んだ三ヶ月後に起きた元暦の大地震(マグニチュード7.4とも)について、『愚管抄』は「平相国、龍になりて振りたると、世には申しき」と記す。養和の飢饉においては、乞食法師が上皇の御所に入り込んで餓死したため、「院中三十日の穢れあり」(玉葉)という事態まで出来した。

 というような騒がしい前半から一転して、後半は、作者晩年の閑寂な草庵生活について記す。これが…ハッとするほど、よかった。むかし、高校生から大学生の頃「方丈記」を読んでも、この良さは分からなかった。「方丈記」後半の、貧乏くさい閑居のありさまを、したり顔で賞賛する中年教師、あるいは評論家とかエッセイストが大嫌いだった。それはそうだろう。高校生くらいから「方丈記」にビビッドに反応するようでは、人生を捨てていると怪しまれても仕方ない。

 しかし、私も五十の坂を過ぎて、「方丈記」に描かれた草庵生活の魅力が、ようやく理解できるようになった。妻子もなく、官職もない気楽な身。財産は、一丈四方(5.5畳)の運搬自在な住宅(!)と、皮籠(かわご)三合の書物(和歌、管弦、往生要集)、阿弥陀・普賢の絵像、大好きな楽器。

 気ままに読経し、気ままに休み、興を催せば、音楽にしたしむ。人恋しいときは、山守の小童を友として、山中を逍遥する。莫大な富や特権が必要なわけではない。望めば誰でも手に入れられそうで、大多数の凡人は(分かっちゃいるけど)「世のしがらみ」にひきずられ、手に入れることのできない「自由の境地」が、まばゆいばかりの光輝につつまれ、描き出されている。

 いや。私は、絶対、手に入れるぞ。そのときが来たら、わずかな財産、人間関係、知識、名誉欲、前半生の執着の全てを捨てて…。そんな衝動を掻きたてられる古典である。
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2012夏・展覧会備忘録

2012-08-27 21:59:27 | 行ったもの(美術館・見仏)
 中国旅行を挟んで、行ったもの(展覧会)備忘録。後日、まとまった感想がかけたら書きたい。

■出光美術館 やきものに親しむIX『東洋の白いやきもの-純なる世界』併設『仙(せんがい)』(2012年8月4日~10月21日)

 景徳鎮旅行を控えて「予習」で行こうか「復習」にしようか迷ったが、結局「予習」を兼ねて、先に行っておいた。漢民族は、伝統的に「青」を好むのだが、元代、遊牧民族の美意識は「白」を尊び、国家の祭器が、青磁に代わって景徳鎮白磁であつらえられるようになった、という説明が面白かった。

 景徳鎮白磁は、いくぶん青みがかった色合いで、青白磁と呼ばれるものもある。ああ、だから青花が美しいのか。柿右衛門の濃厚なミルクのような白とは、ずいぶん違うな、と思った。

■東京国立博物館・本館特別5室 日中国交正常化40周年 東京国立博物館140周年 特別展『中国山水画の20世紀 中国美術館名品選』(2012年7月31日~8月26日)

 中国旅行前に行って、帰国後にもう一回、見てきた。中国の山水って、本当に不思議だ。なまじ、同じ東アジアだと思っているので、あの奇怪な岩山が「実景」だとは、なかなか信じられないところがある。あの山水を写すために、あの技法が生まれたんだろうな、と思う。好きな作品はたくさんあるが、ひとつ挙げるなら賀天健の『錦繍河山図』。あと、ふだん抽象画は好まないのに、呉冠中『逍遥遊』は、色と線が生き生きしていて、すごく好きだ。

■根津美術館 コレクション展『応挙の藤花図と近世の屏風』(2012年7月28日~8月26日)

 最終日に駆け込み。藤花図は大好きなのだが、そのほかのどの屏風もよかったなー。
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江西・福建2012【11日目/最終日】上海→羽田

2012-08-20 18:45:46 | ■中国・台湾旅行
■上海~羽田

 前日の上海・虹橋空港到着は深夜になってしまったが、幸い、ホテルが国際線ターミナルのすぐそばだったので、朝はきちんと朝食を取って、出発することができた。昨日までの三ツ星ランクのホテルだと、国内旅行客が主体で、朝から戦場状態のところが多かったので、整然とした朝食風景が新鮮。

 昼過ぎ、羽田に帰国。ビールと枝豆で、しみじみ今年の旅行を振り返り、散会した。ところで、中国手配旅行の場合、ガイドとドライバーには1日100元程度のチップを渡すことが、日本の旅行社から求められている。いろいろ問題のあったシャオホワンであるが、もちろん最終日にはチップを渡すつもりで用意していた。しかし、思わぬアクシデントで、渡すこともできず、大量の人民元が手もとに残ってしまった。次回の旅行までの貯金と思えばいいか…。

 余談だが、シャオホワンから託された烏龍茶クッキー。会社(サツキトラベル)の同僚か友達のために買ってあったお土産を、私たちにくれたんじゃない?と話していたのだが、包装箱には「上海製」とあった。はあ? やることがいちいち謎である…。



 最後になるが、日本の旅行社(株)GNHトラベル&サービスさんからは「いろいろ変更があったことのお詫び」として、私たちが南昌・九江観光の現地手配代(車代)として支払った一人350元の追加料金(4,500円)を返金するという申し出をいただいたことを付記しておく。

(8/25記)
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江西・福建2012【10日目】武夷山→上海

2012-08-19 17:20:15 | ■中国・台湾旅行
■武夷山(九曲渓~大紅袍~水簾洞)~上海

 九曲渓で筏下り。縦3席×2列の椅子を取り付けた竹製の筏に船頭が二人乗り込む。しかし、ここも観光客殺到で、筏に乗るまでが一騒動だった。むかしの、外国人は別料金・別扱いシステムが、ちょっと懐かしくなる。



 大紅袍風景区。岩壁の間の細い渓谷に、さまざまな種類のお茶が栽培されている。きわめつけは伝説の銘茶「大紅袍」。岩壁の中途の、石垣で囲まれた一角に植わっているのが母木。挿し木で株分けしたものが、その周辺に育っている。大紅袍の木は、赤い花が咲くそうだ。



 水簾洞に寄って、武夷山観光を終了。このあと、ヘイホワンの親戚が経営しているお茶の店に行き、武夷山のお茶を安く分けてもらう。試飲させてもらったが、やっぱり美味い。ただし、半分以上は「入れ方」の問題のような気がする。面倒がっては、駄目。

 夕食。朱さんがいなくなってから、もっぱらシャオホワンが料理の注文を引き受けていたが、ここでまたひと悶着。〆めに注文した湯麺がなかなか来ない。何度かクレームして、ようやく運ばれてきたのは炒麺。「注文したのは湯(タン)だ!」と言って下げさせたら、炒麺にお湯を注いだ湯麺が出てきた。

 本当ならレストランの対応に呆れるところだが、ここに至るまで、翌日の朝食券を渡し忘れたり、チェックアウトしたホテルに忘れ物をして車を引き返させたり、自分の分の筏下りチケットを入手しそこねたり、シャオホワンのダメダメ振りを数々見てきたので、なんとなく、またお前か…の空気。



 夜の町を散策したり、ホテルのロビーで、ヘイホワンの後輩だという高校を卒業したばかりの男子と日本語で会話したりして、時間をつぶす。

 21:30過ぎ、迎えの車が来て、武夷山空港に向かうことになったが、その車中で、ヘイホワンとシャオホワンが、また何かモメている。シャオホワンがあせって探しものをしている様子。大丈夫なのか、コイツ、と思っていたら、空港到着直前、「あった」と言っていたのは、ガイドの身分証らしい。彼に身分証がないと、私たちのチェックイン手続きもしてもらえないので、やれやれ、と思って見ていた。

 ところが、ヘイホワンが帰り、私たちのチェックインが済んでも、なんとなくシャオホワンの様子がおかしい。一緒に荷物を預けないし。「大丈夫なの?」と聞くと「大丈夫、大丈夫」の一点張りで、「お茶でも飲みましょう」と、私たちを空港内のカフェに座らせたが、携帯でオープンチケットがどうこう…と、誰かに長い説明をしている。

 そろそろ搭乗手続きの時間が近づいてくると「私のチケットは、皆さんと種類が違うので、まだ入れないんです。すみませんが、先に入っていてください」というので、三人だけでセキュリティゲートを通る。

 やがてアナウンスがあって、22:50発の上海行きの便は遅れそうだ、ということを把握。まあ、あとは帰国するだけなので、のんびり構えていた。すると、空港係員の制服を着たおじさんが近づいてきて、慇懃な態度で「ちょっと来てほしい」と私たちを招く。着いていくと、セキュリティゲートの外側にシャオホワンが待っており、もはや観念した表情。三人でゲートを出ることは許されなかったので、代表の友人が一人だけ近寄って、話を聞く。要するに、上海行きのチケットが取れなかったということらしい。「すいません、ほんとにすいませんっ」と平身低頭しながら、トランクを開けて、烏龍茶餅干(クッキー)6箱を取り出して、お詫びのしるしに渡された。

 上海・虹橋空港には、シャオホワンの会社(上海サツキトラベル)から迎えが来てくれたので実害はなし。しかし、そこで初めて航空会社のオーバーブッキングによる事故という説明を聞いたが、ほんとなのかね。仮に本当だとしても、夕食後に十分時間があったのだから、早めに空港に行っていたら回避できたトラブルではないか。危機管理意識、なさすぎ。

 とにかく、もう深夜なので、最低限の洗濯だけして寝る。

(8/25記)
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江西・福建2012【9日目】武夷山

2012-08-18 14:46:26 | ■中国・台湾旅行
■武夷山(天遊峰~一線天~虎嘯岩)

 武夷山風景区では専用車は使わず、観光用の路線バスを使用。現地ガイドは、スルーガイドのシャオホワン(小黄)と同じ黄さんなので、日焼けした精悍な風貌にあわせて、こっそり黒黄(ヘイホワン)と愛称することにする。



 最初に向かったのは、天遊峰。峻険な岩壁に、よく見るときちんと手すりつきの石段が設けられている。昨年の崋山と同じだ。それにしても目の眩む高低差に、これ、ほんとに登るの…と気持ちがへこむ。

 しかし、幸いなことに、朝から押しかけた観光客で細い桟道はスシ詰め状態。ジリジリとしか進みようがないので、なんとか脱落せずについていくことができた。



 渓流沿いの地平から登ってきて、この眺めである。帰りは山の裏側を下りる。



 昼食後は、一線天。洞窟の中に入っていくと、二つの巨岩に挟まれた僅かな空間に道が続いている。最終的には幅40センチまですぼまる。



 ここも観光客で大行列だったが、ガタイのいい兄ちゃんたちは、暗闇の中で「通不了(とおれない~)」と大騒ぎ。はるか頭上には、細い線となった外光が見える。シャオホワンも興奮し過ぎでうるさい。



 続いて、もう1ヶ所、虎嘯岩という風景区へ。天遊峰ほど急峻ではないが、上りの石段が続く。途中、急傾斜の近道か、比較的なだらかな回り道かを選ぶ場面があったが、友人は迷わず前者を選択。そっちか、と思ったが、あとで考えると正かったようだ。

 というのも、次第に雲行きがあやしくなり、ドロドロと雷鳴が聞こえ始めた。急傾斜の石段を登り終わった頃から、降り出した雨。シャオホワンは「傘、傘、持ってますか?」と慌てる。持っているけど、この局面(山中の雷雨)で差していいものなのか、登山に不慣れなので、よく分からない。

 武夷山ガイドの黄さんの案内で、とりあえず、雨の避けられる休憩所に逃げ込む。同じように雨宿りする観光客がたくさんいた。そのまま、小1時間ほども過ごしただろうか。小降りになってきたところで、出発するという。

 置いていかれても困るので、傘を差し、岩壁にへばりついた階段を、滑らないように下る。足元に神経を集中しているので、まわりの景色を見る余裕なし。なんとか無事に下山できたものの、どこが虎嘯岩だったのか、全然記憶になし。修行みたいな1日だった。

(8/25記)
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江西・福建2012【8日目】ぶげん→武夷山

2012-08-17 20:43:01 | ■中国・台湾旅行
■婺源県(上暁起村~汪口村~江湾村)~三清山~福建省・武夷山

 引き続き、婺源(ぶげん)古鎮遊。はじめに訪ねたのは、上暁起村。樟樹(くすのき)の巨木が多く、豊かな水と緑にめぐまれた村。村内には木工芸の店も多い。防虫剤になるというクスノキの木材チップ、買えばよかった~。



 汪口村・江湾村へは、昨日、ホテルでの聞き込みで、通行止め区間の手前から観光客用の乗り合い中型バスが運行していることが分かったので、これに乗り換える。

 汪口村(汪口鎮)は、豊かな水流の大河(日本人の感覚では)に臨む。河岸の農地にも路地にも、気ままにうろつくニワトリの姿が目立つ。清・乾隆年間創建の愈氏宗祠を見学。文人や政治家を輩出した名家である。科挙合格→官界で稼ぎ、蓄財する→故郷に錦を飾るって、中央と地方の富の再分配システムだったんだなあ、と考える。



 江湾村(江湾鎮)。江沢民の出身地として、急速に発展中の古鎮。ただしWikiでは「江蘇省揚州市生まれ」となっているから、家系的なルーツの意味だろう。反日教育の江沢民の祖先に、倭寇の制圧で名を成した政治家がいるらしい、というのが可笑しかった。倭寇=日本人ではないのは分かってますが。



 本屋ではありません…が、本も売っていた。婺源古鎮遊のガイド本を買う。



 それにしても、廬山を下りてからの江西省はとにかく暑かった。男性は上半身、裸が基本。女性は下半身、(年齢問わず)超ミニのホットパンツが基本。日本に帰ってから、どうしてみんな、こんなに服着てるんだろう…と思った。

 昼食後、再び専用車に乗り換え、福建省の武夷山へ向かう。途中、江西省の名山のひとつ、三清山を超える。今日が最後となるガイドの朱さんは、山道ドライブの最中も、車の中で器用にコーヒーを入れて、私たちにふるまってくれた。

 夕方、武夷山市のホテルに到着。ここから現地ガイドは交代となるため、お世話になった朱さんと運転手さんにはお別れ。二人は南昌まで7時間かけて戻るという。さて、いよいよ…というときに、スルーガイドのシャオホアンが「すいません!」と慌て出す。「ホテルを間違えてましたっ!」って…どういうこと? 日本の旅行社からもらった手配確認書には、このホテル(茶苑大酒店)の名前が記載されているんだけど…。なんだか混乱した事態に、帰るに帰れない朱さんたち。

 そこに到着した福建省の現地ガイドさん(シャオホアンと同年輩の若い男性)。正しくは香馨大酒店というホテルに予約が入っていることが分かったが、移動手段がないため、江西省の車に、下ろした荷物をもう一度積み込み、正しいホテルにまわってもらう。なんだかなあ。もうチップも渡し済みだったのに。

(8/25記)
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江西・福建2012【7日目】景徳鎮→ぶげん

2012-08-16 23:40:45 | ■中国・台湾旅行
■景徳鎮~婺源県(清花鎮~黄村~思渓延村~李坑村~紫陽鎮)

 結局、景徳鎮では、期待したほどの名品には出会えなかった。ホテルの回廊に飾ってあった出土品の大皿が、いちばん印象的だったかもしれない。



 今日から観光の舞台は婺源(ぶげん)県。「中国で最も美しい村」と言われる農村で古鎮遊を愉しむ。境を接する安徽省と同じ、白い壁と黒色の瓦を特徴とする「徽州建築」の宝庫。

 清華鎮の見どころは、屋根つきの彩虹橋。宋代の創建。現存する中国最古の橋ともいう。すぐ下流に、飛び石を並べた石橋が並行しているのだが、直近の台風の影響で、こちらは寸断していた。



 川辺の村、黄村の百柱宗祠(経義堂)は清・康煕年間の建築。百本の柱を用いた広壮な建築であることから、こう呼ばれる。

 思渓延村へは通済橋という屋根つきの木橋を渡って入る。迷路のように入り組んだ村の中に、たくさんの古建築が公開されている。お茶屋や土産物屋を営んでいる邸宅も少数あるが、たいがいは奥の間で普通の暮らしを送りながら、表の広間は開けっ放しで、観光客が入り込むままに任せている。時を刻む置き時計の音が、かえって止まった時間を感じさせる。

 なお、歩いていて、よく分からなかったが、思渓・延村は一体化した二つの村。思渓の名前のほうが古く、現在はまとめて延村と呼ばれているらしい。



 李坑村は、村の中を清流が流れ、幾筋もの橋がかかる。観光客向けにかなり整備された豊かな村。



 さらに幹線道路を西へ進むと、江湾村・暁起村・汪口村という見どころ古鎮があるのだが、行ってみると、工事で通行止めになっていることが判明。ガイド二人は「どうしましょう?」と困惑の体。これまでの中国旅行で出会ったガイドさん、運転手さんだと、こういうとき、絶対にあきらめず、現地の人に聞きまわって、道ならぬ道を探し当て(河川敷とか細い農道とか)、口あんぐりしている日本人観光客を、なんとか目的地に連れていってくれるのが常だったので、中国人も軟弱になったなあ、と思う。

 ひとまず今日の宿泊先に向かうことにする。都市化の進んだ紫陽鎮。電飾をほどこされた橋は、市民の夕涼みの場となっていた。



(8/24記)

※参考:個人旅行記だが、写真が多く、読みやすくて参考になったサイト
江西省婺源(2007年3月31日-4月2日)
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江西・福建2012【6日目】景徳鎮

2012-08-15 22:20:13 | ■中国・台湾旅行
■景徳鎮(古窯民俗博覧区~御窯遺址~民窯博物館~浮梁古県衙・紅塔)~楽平古鎮

 古窯民俗博覧区は、陶磁器のつくりかたを実際に見て学べる、文化・観光施設。ものすごく面白かった。あとでスライドショー載せます。

 ただ、実際に作業をしているのは、人間国宝クラスの名人だというのに、大音量のハンドマイクでがなり立てるガイドもいれば、無遠慮に手元を覗き込んだり、カメラを向けたりする観光客もいて、あれではとても仕事にならないだろうと思うとかわいそうだった。ときどき、途方に暮れたような表情をしてたなあ、おじいちゃん。大阪市の橋下市長が主張する、自ら稼ぐ芸術ってこんな感じかな、と思うと、なんだか暗鬱な気持ちになった。



 おかあさんが描いていた大振りの染付け茶碗。景徳鎮というより絵唐津みたいな洒脱な文様で、ちょっと欲しかった。今回、ガイドさんは我々に遠慮したのか、忙しかったのか、お買いもの強要タイムは一切なし。



 次に、三層の楼閣・龍珠閣を訪ねる。内部が官窯博物館になっているという話だったが、ここも修復中で内部に入れず。慌てた朱さんが電話をかけてみると、官窯博物館の展示は、御窯遺址景区の施設で行っているというので、そちらに向かう。通常展示より、かなり規模を縮小しているという話だったが、それなりに面白かった。日本では、ほとんど見ることのない↓この形の容器は、蟋蟀壺(コオロギ入れ)。



 官窯(御窯)の失敗作は、民間に流れ出ることがないよう、粉砕されて廃棄された。そのため、ここで展示されている作品は、発掘された破片をつなぎ合わせて再構築したものばかりである。「黄さん(シャオホワン)が、ここは壊れたものばかりで、いいものがないっていうけど、違うんですよ~」と苦笑する朱さん。

 同館の所蔵品は、日本にも来たことがある。『皇帝の磁器-新発見の景徳鎮官窯-』という展覧会で、1994~1995年頃、東京の出光美術館や大阪市立東洋陶磁美術館を巡回したようだ。私は、当時まだ焼きものには関心がなくて、見てないかなあ…。

 民窯博物館(作業場の遺跡のみ)、浮梁古県衙の見学を終えたのが午後2時頃。いよいよ、行き先の定かでない楽平古鎮に向かう。スルーガイドのシャオホワンはスマホの画面を、朱さんは紙製の地図を眺めながら、運転手さんをナビゲート。そして、夕方4時近く、二人はそわそわと車窓に注意を向ける。やがて、道路の傍らで待っていた男性を見つけて声をかけると、それが迎えにきてくれた楽平古鎮の関係者だった。

 「ここで降ります!」と告げられて、慌てて車を降りる。ちなみに、この看板のちょっと先である。看板には「江西省楽平市双田鎮工業園88号」とあり。



 何のへんてつもない左手の脇道に入ると…



 いきなり現れる明代の巨大な野外劇場の残滓。



 いま復元修理のまっ最中らしい。往時の美観をしのばせる精緻な木彫。「漂亮(ぴゃおりゃ~ん)=美しい!」と、仕事を忘れて大興奮の中国人ガイド二人。



 案内人に一緒に車に乗ってもらい、わずかに離れた別の舞台建築も見に行く。やはり表通りからは一歩奥まったところに建つ。この一帯は「明清時代の地方劇舞台が200箇所も残る、地方劇の故郷」なのだそうだ。



 左端のパジャマ姿みたいなおじさん、一人おいたおじさん、二人おいた右端のお兄さんが、楽平市の方々。これらの舞台建築の復元に力を尽くしている。



 お宅に寄って、縮小模型の復元完成図も見せてもらった。



 何年か先には観光名所になっているかも。頑張ってほしい。

(8/24記)

※参考:帰国してから、中国語Googleで少し調べたら、いくらでも情報が出てくるのだが…。中国国内からだと検索できない? そんなことないと思う。

大江網:楽平農民雕制完美“微型古劇台”(2012/05/08)
楽平新聞網:”国之珍宝”蕴商機(2011/3/18)
楽平在線:楽平古街古村
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江西・福建2012【5日目】九江→景徳鎮

2012-08-14 19:24:36 | ■中国・台湾旅行
■九江(煙水亭)~廬山(白鹿洞書院)~石鐘山~景徳鎮

 朝は、九江市内の甘棠湖に浮かぶ煙水亭を訪ねる。ここは三国志ゆかりの地で、呉の大都督・周瑜が水軍を調練した指揮台(点将台)の跡と伝える。白楽天の『琵琶行』もこの地で詠まれたもの。出だしは「潯陽江頭、夜、客を送る」でしたね。白楽天は、江州(=潯陽、まさにこの九江)の司馬に左遷され、失意のうちにあった。いろいろと歴史と文学の伝統が重層して、感慨深い。



 廬山のふもとに戻って、白鹿洞書院に立ち寄る。創建は唐代にさかのぼるが、南宋の朱熹(朱子)が学を講じたことで有名。同行の友人と、朱熹って田舎学者だったんだね(広瀬淡窓みたいな?)と言い合う。



 さらに石鐘山に登る。ようやく脚の筋肉痛がおさまってきたところで「山」と聞くと、びくびくしてしまうが、なんとかクリア。鄱陽湖(はようこ)と長江の交わる様子が、水の色で遠望できる。突如、歴史は近代に飛んで、曽国藩の立像あり。



 景徳鎮市に到着。まずは、景徳鎮の歴史全般を学ぶことのできる陶磁館に向かう。周辺には高級そうな陶磁器の店がウィンドウをつらね、むかし訪ねた有田の町を思い出す。…ところが、景徳鎮陶磁館は改修工事のため休館中。「いちばん素晴らしい作品は、明日、官窯博物館で見られますから大丈夫です」とガイドの朱さんは言うが、どうも今回の旅行、博物館に関してはツキがない。やや早めにホテルにチェックイン。

 夕食の際、ガイドさんから明日のスケジュールについて相談される。訪問先として「楽平古鎮」というのが入っているが、これはどこのことか、という。何をいまさら…という感じだが、中国の手配旅行のアバウトなこと、かくの如し。企画を立てた友人は、別の旅行社のパッケージツアー(※たとえば、ユーラシア旅行社「仙境物語」)に入っていた見どころをそのまま真似たので、詳しいことはわからない、と答える。「楽平鎮」という町はあるが、景徳鎮市内から往復4時間はかかるので、午前中のスケジュールが、かなり忙しくなる。「どうしましょうか?」と、暗に取りやめたい様子。こちらの企画に対応する見積を出しておいて、それはどうよ、と思うのだが、何しろここは中国である。まあしかし、午前中の見学先だって、今日の博物館みたいに、行ってみたらやっていない、ということもあるので、午前中のスケジュールの消化次第で、とお願いする。

 そのあと、朱さんが、ホテルの中に「楽平鎮」出身の従業員がいることを聞き込み、村(鎮)の有力者に連絡をつけてもらう。先方は歓迎ムードで、見学に来るなら迎えにいく、と言っているそうなので、なんとかなりそうな雰囲気。

(8/24記)
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