見もの・読みもの日記

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戦場のリアリズム/長州戦争(野口武彦)

2006-05-08 23:26:33 | 読んだもの(書籍)
○野口武彦『長州戦争:幕府瓦解への岐路』(中公新書)中央公論新社 2006.3

 このところ、島崎藤村の『夜明け前』を読みながら、ずっと横目で本書を見ていた。さて、復習のつもりで、同じ時代を描いた本書を続けて読むことにした。

 そうすると、ああ、このとき、青山半蔵は馬籠の宿で幕府軍を見送っているんだよな、などと言外の光景に思いを馳せたりするわけだが、登場人物の印象は、かなり異なる。『夜明け前』の主人公は平田派の門人であるが、尾張の殿様・徳川慶勝には、長年の恩顧に対する感謝と尊敬の情を失っていない。さまざまな誤解を受けながら、武家の世に幕を引く役を買って出た徳川慶喜にも、深い同情を寄せている。

 ところが、野口武彦さんの慶喜評はきびしい。優位に立つとカサにかかって権力欲をむき出しにするが、一度つまづくと、無責任に全て投げ出してしまう。うーん。こっちのほうが本当かもなあ。いちばん困った上司のタイプである。そのほか、幕閣官僚は、ダラシないのが多い。尾張の徳川慶勝も、紀州公もダメ。孝明天皇も、個人的な長州嫌いのために、政局を大きく誤らせてしまった。

 その結果、起きてしまったのが長州戦争である。著者は『防長回天史』『藤岡屋日記』など、臨場感にあふれる当時の資料を縦横に引いて、戦争のありさまを生々しく再現している。特に、幕府の敗北を決定づけた第二次征長(1866=慶応2年)。著者の言うとおり、「これはもう近代戦なのである」。その一言が全てを言い尽くしている。

 銃器が主体の近代戦では、派手な軍装はもってのほか。槍や刀は無用の長物。敏捷さが生死を分け、銃の性能が全てを決する。一度でも戦闘をかいくぐった連中は、西洋流が好きの嫌いのと言っている余地はなくなる。兵士たちは、父祖の教えも伝統もかなぐり捨てて、できる限りの情報を、瞬時に学習した。近代は知識人の書斎から始まるのではない、戦場から始まるのだ。そんな気がした。本書に引かれた文献資料は、もちろん文語体(候文)なのだけど、無駄な文飾がなく、達意第一なので、読みやすい。こうして「近代の散文」は、いやおうなしに始まったのだ、と思った。

 長州戦争の詳しい経緯は初めて知った。石州口では、紀州兵が先鋒隊を務めていたが、総崩れになる。浜田藩の藩主夫妻は松江兵の軍艦に乗って亡命してしまう。残された藩兵は、浜田城を自焼せざるを得なかった。小倉口では、軍艦を温存したい幕府海軍が本気で戦闘に加わらない。これを見た肥後兵はじめ諸藩の援軍も退却してしまう。万策尽きた小倉藩は、やはり自焼の策に決する。結局、災厄を被るのは、不幸にして戦場になった小藩である。

 本書の最後には、慶応2年11月に芝の増上寺で行われた長州戦争戦死者の合同法要の場面が描かれている。前代未聞の盛大な葬礼に、人々は「お国のために戦って死んだ兵士だからこそ、こんな立派な法要をしてもらえると口々に語り合った」という。これは「幕府の靖国神社」である。「やらなきゃよかった」と「きちんとやっときゃよかった」の両極を揺れる戦後の心情も、「あの戦争」の物語に重なる。ちょっとうがち過ぎと言われるかもしれないけど、読みものとしては、非常に面白い。
コメント
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