見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

総合展示「先史・古代」リニューアル(国立歴史民俗博物館)

2019-08-30 21:29:35 | 行ったもの(美術館・見仏)

国立歴史民俗博物館 総合展示・第1展示室「先史・古代」(2019年3月19日リニューアルオープン)

 特集展示『もののけの夏』を見に行ったついでに、今年3月にリニューアルした「先史・古代」の展示室をようやく見てきた。以前の展示がどのようなものであったか、よく覚えていないのだが、とにかく新しい展示は面白かった。

 総合展示のエントランスホールもあわせてリニューアルされ、楽しく華やかになった。日本の歴史を彩るさまざまなキャラクターが出迎えてくれる。歴博ファンならおなじみ、コノエさん(男性)とサンジョーさん(女性)の姿もある(洛中洛外図屏風・歴博甲本から)。

 「先史・古代」の入口には大きな象。約4万年前の南関東に生息していたナウマンゾウである。ちょっと北海道博物館を思い出した。調べたら、ナウマンゾウの化石は、明治時代に横須賀で発見されたほか、浜名湖畔、野尻湖畔、東京各地、北海道湧別町、千葉県印旛村でも見つかっているそうだ。

 3万7千年前に日本列島に人類が出現する。この時期を「最終氷期」(約11万〜1万2千年前)と呼ぶのだな。私が子供の頃の教科書には、なかった言葉だと思う。人々は移動性が高い狩猟採集の生活を営んでいた。ということで、まるで明治期の活人形みたいにリアルな人形でその様子を再現。落とし穴に落ちた獲物を狙っているところ。身にまとっているのは獣のなめし皮だが、身体にフィットして動きやすそうな衣服に仕立てている。

  この二人は、朴葉(?)に包んだ鶏肉や木の実を蒸し焼きにして調理中。杭州名物「乞食鶏」みたいだ。隣のモニタには、当時の調理方法を再現した実験の映像が流れていて、美味しそうだった。

 縄文時代には、環境の違いに応じて、各地に多様な生活様式や社会、精神文化が形成された。近年の『縄文』展や『国宝』展で話題をさらった火炎土器や国宝「土偶」のよくできたレプリカが集合している。東博の『縄文』展で見た「縄文ポシェット」(樹皮を編んだ小さい籠)や、歴博の『URUSHIふしぎ物語』展を思い出す漆製品(のレプリカ)もあった。

 紀元前10世紀ごろに九州北部で始まった水田稲作は、ゆっくりと日本列島各地に広がっていく。「縄文時代」の次は「弥生時代」というのが、私の習った日本の歴史だったが、ここでは「縄文」以降に「北海道(続縄文)」「弥生時代(本州東部/本州西部)」「南島」という3つないし4つの道があったことをきちんと示す。一時期、北海道に住んで、本州と異なる時代区分に驚いた経験がある者としては、とても満足である。

 続いて「倭」の登場と「日本」への成長(古墳時代、飛鳥時代)は、東アジア世界との交流を強く意識しながら構成されている。九州国立博物館の文化交流展示を思い出す感じで、私はとても好き。正倉院文書の複製(クラウドファンディングで資金調達したものか?)や、『日本の素朴絵』展にも出ていた墨書人面土器のレプリカもあって、古代の人々を身近に感じることができる。「沖ノ島」のコーナーには祭場の実物大模型があったが、あれもどこかの特別展で使ったものだったかしら?違うかな。

 また次回も新たな発見があるに違いない。再訪を楽しみにしている。

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世界帝国の純愛カップル/楊貴妃(村山吉廣)

2019-08-27 23:16:47 | 読んだもの(書籍)

〇村山吉廣『楊貴妃:大唐帝国の栄華と滅亡』(講談社学術文庫) 講談社 2019.5

 ドラマ『長安十二時辰』の影響で、個人的に唐代ブームが来ている。むかしは私も人並みに、中国といえばシルクロード、シルクロードといえば唐代が興味の中心だった時期もあった。その後、漢、宋、明、清、さらには近現代まで、順不同でさまざまな時代に関心が広がると、唐代にはあまり魅力を見出せなくなっていた。

 それが、何十年ぶりかで唐代熱が高まり、1冊ならず関連書を買い求めてきた。1冊目は、比較的薄くて読みやすそうだった本書。今年5月の新刊だが、内容は1997年に中公新書に収められたもの。長らく絶版状態となり、古書店の棚でも見かけなくなっていたが、このたび学術文庫で新たに刊行されることになったという。そういえば、2018年公開の中国映画『空海 KU-KAI』にも楊貴妃は登場していた。「小さな楊貴妃ブーム」はつねに繰り返しあるのだろうな。

 本書は、玄宗の祖父である高宗の治世から始まり、則天武后による権力奪取、中宗の復位、后の専横など、玄宗登場に先立つ政治の混乱ぶりが簡単に紹介される。太平公主、安楽公主など、頭がよくて権力欲の強い女性がたくさんいて、はじめてこの時代の歴史を読んだときは、中国すげ~と口をあけて驚いたものだ。

 混乱のさなかに強い意志をもって即位したのが玄宗で、帝位についた手始めに叔母の太平公主一味を武力で制圧すると、有能な人材を重用し、山積していた政治課題に取り組み、制度改革によって社会を安定させ、国威を伸長させる。「開元の治」は単に空気の明るさをいうのでないことをあらためて認識する。勤勉で豪邁な天子であった玄宗だが、多能多芸で音律・暦象の学に通じていたというのが面白い。趣味に溺れる素地はあったのかもしれない。

 そして玄宗56歳のとき、22歳の楊貴妃に出会い、政務をなおざりにするようになる。しかし「愛欲に溺れて」というけれど、伝わっているのは、少年少女のような「ラブラブ」エピソードばかり。思わず著者が「勝手にしろ」と書いているのが可笑しかった。身分にも年齢にも不相応な「純愛」の悲劇が、大詩人・白楽天の心を動かし、今なお人々の関心と同情を誘うのだろう。あと、60歳近くなって、そろそろ役割に倦み疲れて、私生活に逃避したくなる気持ちは分かる。

 安禄山の素性(父はソグド人、母は突厥族の巫女なのか)、性格、乱の経緯も詳しく紹介されている。大乱勃発後、玄宗と別行動をとった粛宗が、現在の寧夏回族自治区霊武県を本拠とし、ウイグル族など西域諸民族の援兵を得て、長安・洛陽を回復したことは知らなかった。安史の乱を異民族の反乱みたいにいうことがあるが、そもそも唐王朝自体が多民族を基盤にしていることを見失ってはならない。

 李林甫、高力士、張九齢など、玄宗周辺の人々については、それぞれの人柄を彷彿とさせるエピソードが紹介されていた、特に高力士はむかしから好きだったので嬉しい。また本書は、盛唐時代の歴史・文化・社会を綿密に描こうとしたと著者がいうとおり、長安市街図、興慶宮の図(宋代の石刻図による)もあって、想像の助けになる。

 なお、巻末に楊貴妃に関する様々な情報がまとめてあって、その中に「日本渡来伝説」があるのには苦笑してしまった。日本海に面した山口県長門市には「楊貴妃の墓」があるそうだ。『曽我物語』には、玄宗の脅威から日本国を救うため、熱田明神は楊貴妃に、住吉明神は安禄山に、熊野権現は陽国忠に生まれ変わって唐土に渡ったという伝説もあるそうである。なぜ熱田?と思ったら、熱田大神は草薙神剣を神体とする天照大神を指すらしい。この伝説を知らないと、江戸の川柳「玄宗は尾張詞にたらされる」は分からないなあ。

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リアル?虚構?/三国志(東京国立博物館)

2019-08-26 00:22:07 | 行ったもの(美術館・見仏)

東京国立博物館 日中文化交流協定締結40周年記念特別展『三国志』(2019年7月9日~9月16日)

 「本展は『リアル三国志』を合言葉に、漢から三国の時代の文物を最新の成果によって読み解きます」という宣言を読んで、すごく期待していたのだが、結局「リアル」と「虚構」のどっちつかずの印象が残った。展示作品リストに掲載されている文物は160点余り。全て中国各地の博物館の所蔵品である。1箇所や2箇所でなくて非常に多くの博物館、省級以上と思われるところだけでも、上海、内蒙古、天津、山東、甘粛省、雲南省、遼寧省、武漢、南京など中国全土に及び、かなり力の入った企画であることは分かる。

 ただ、やはり日本人の(だけではないかも)観客の「親しみやすさ」を重視したのか、展示は明清代の壁画や図巻や塑像によって「伝説のなかの三国志」を提示するところから始まる。写真は河南省・新郷市の関羽像(明、15~16世紀)。「16世紀以降顕著となる武神としての神格表現はまだ認められない」という。神格表現が顕著でない段階で、何のためにこんな「美関羽」を造像したのだろう。不思議だ。

 あと展示室の要所要所には、横山光輝のマンガ『三国志』の原画や、NHKの人形劇『三国志』で使われた川本喜八郎の人形も飾られていた。写真は曹丕なのだが、なぜ海老柄のエプロンみたいなものを付けているのだろう。

 私は横山光輝のマンガもNHK人形劇も素通りして今日に至っているので、これらを見ても、う~ん何だか余計なものを、という感想しか持たなかった。

 印象に残った展示品は、まず「弩」。時代は違うけど、ちょうど「長安十二時辰」を見終わったばかりだったので。呉の出土品(弓は復元)である。

 鉤鑲(こうじょう)。盾の一種で、戟に対して効果を発揮したが、戟が主要な武器でなくなる南北朝以降、姿を消す。曹丕は一対の鉤鑲を両手で扱う武芸を学んだと解説にあり、そんな描写あったかしら?と最近見た中国の古装劇を思い出している。

 私は曹操・曹丕びいきなので、2008年から2009年にかけて発掘された曹操高陵(西高穴二号墓、河南省安陽市)に関する展示はたいへん興味深く見た。白磁の罐(貯蔵用の器)の美しさよ。白磁の誕生は6世紀後半(隋代)と言われているが、突発的にこうした器が生まれてもおかしくないという。奇跡のようなものだろうなあ。

 そしてこれが、曹操墓の決め手となった石牌。「魏武王常所用挌虎大戟」と刻まれているのだ。いや~まさか日本にいながらにして、これを拝めるとは!!

 図録には河南省文物局外事処の陳彦堂氏による解説「曹操高陵の考古発見と研究」が収録されており、それによれば、副葬品の修復作業は現在も続けられているそうである。将来的にはさらなる発見があるかもしれないというのが嬉しい。あと斜め読みしているだけだが、中国社会科学院考古研究所の朱岩石氏の「近年における三国時代考古学の新発見」も興味深い。三国時代の考古学の発見はこれからも続くだろうとのこと。長生きして見守らなければ。

 ひとつ言っておくと、司馬氏への言及がほぼなかったことは大いに不満。最後は「晋平呉天下太平」の文字のある磚(南京市博物館)でうまく幕を閉じていたけれど、司馬氏関係の考古文物をもう少し見たかった(単独で日本で見られる機会はないだろうと思うので)。

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2019年夏@東京展覧会拾遺:円山応挙(藝大)、原三渓(横浜)ほか

2019-08-25 21:32:24 | 行ったもの(美術館・見仏)

※この「展覧会拾遺」のカテゴリーは5月以来、書いていなかった。とりあえず、「書いていない」ことを覚えている展覧会だけ記録しておく。最近行ったものから。

国立歴史民俗博物館 特集展示『もののけの夏―江戸文化の中の幽霊・妖怪―』(2019年7月30日~9月8日)

 中世絵巻物の模写本、玩具絵、歌舞伎、盛り場(見世物や寄席)、武者絵、世相風刺画など江戸文化の中の妖怪を紹介する。 会場入口のディスプレイで、歴博所蔵の狩野洞雲益信筆『百鬼夜行図』の全体画像を右から左へスクロール式で流しており、絵巻物鑑賞そのままのようで楽しい。真珠庵本と同じく最後に太陽らしきものが登場するのだが、その直前に、真珠庵本にはいない、ヘンな火の鳥のようなものが飛んでいる。妖怪絵といえば国芳か芳年と思ってたが、豊国もいいと見直した。化け猫の絵がよかった。一緒に見てきた総合展示「先史・古代」リニューアルの話題は別稿で。

東京藝大大学美術館 『円山応挙から近代京都画壇へ』(2019年8月3日~9月29日)

 あーまた円山応挙をやるのか、くらいに思っていたら、なかなか大変な展覧会だった。まず兵庫県香美町の応挙寺こと大乗寺の襖絵の主要なものが再現展示される。東京と京都で半分ずつだが、広くて天井も高い会場の中央に金地に墨画の応挙筆『松に孔雀図』8面が悠然と飾られたところは見栄えがしてとてもよかった。隣りに応挙っぽい孔雀の彩色画があったが、なんかヘンと思ったら芦雪の作品だった。この展覧会、応挙に連なる円山派・四条派の画家の作品がたくさん出ているだけでなく、近代の竹内栖鳳、山元春挙、上村松園までその水脈をたどる構成になっている。ああ、「奇想」もいいけど、やっぱり円山四条派は居心地がいいなあ、と感じてしまった。

根津美術館 企画展『優しいほとけ・怖いほとけ』(2019年7月25日~8月25日)

 飛鳥時代から江戸時代に至る仏教絵画・彫刻の優品約35件を展示し、ほとけの表情を「おごそか」「やさしい」「きびしい」「おそろしい」に分類してその意味を考える。銅造観音菩薩立像(飛鳥時代と奈良時代)、増長天立像(平安時代)、愛染明王坐像(江戸時代)など、立体もの(全て同館コレクション)が珍しく多かった。愛染明王は、左(向かって右)第三手の持ちものによって、何を目的とする祈祷に使われたかが分かるのだそうだ。拳にしておくと何でも使えるというのも合理的で面白かった。

横浜美術館 横浜美術館開館30周年記念、生誕150年・没後80年記念企画展『原三溪の美術 伝説の大コレクション』(2019年7月13日〜9月1日)

 横浜において生糸貿易や製糸業などで財をなし、三渓園に名前を残す実業家・原三溪(富太郎、1868-1939)の文化人としての業績を「コレクター」「茶人」「アーティスト」「パトロン」の四つの面から探りながら、三溪旧蔵の美術品や茶道具約150件を過去最大規模で展観する。始まって早々に見に行ったのだが、ちょっとガッカリした。展示室の環境がよくないのだ。せっかく国宝・重文級の書画が集まっているのに、展示ケースのガラスが反射して見えにくかったり、平台のケースに天井の照明が映っていたりする。横浜で開催することに意味があるのは分かるのだけど、別の会場を選んだほうがよかったのではないか。

日本民藝館 特別展『食の器』(2019年6月25日~9月1日)

 特別展といっても、特にいつもの展示との違いが分からなかったが、大展示室は柳宗悦が実際に使用していた器を中心に構成しているとのことだった。日常の使用品とコレクションの間に差がないのが面白い。特集のうち「朝鮮の膳」は、一時期、本気で欲しいと思っていたもの。でも最近は椅子とテーブル生活に慣れて探すことをやめてしまった。「諸国の土瓶」は個性豊かで面白かったが、そういえば土瓶も、家でも職場でも使わなくなってしまったなあ。

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相克から協調と自律へ/アジア近現代史(岩崎育夫)

2019-08-22 21:29:15 | 読んだもの(書籍)

○岩崎育夫『アジア近現代史:「世界史の誕生」以降の800年』(中公新書) 中央公論新社 2019.4

 お盆の旅先で読む本が切れたので適当な書店に飛び込み、読みたい本が見つからない中で、やむをえず購入したもの。淡々とした文体が、最初はとっつきにくかったが、次第に引き込まれた。あまり類例のないユニークな本だと思う。

 本書は、アジアの特定地域や特定テーマについて書かれた研究書とは異なり、「アジアの歴史」を一体的に記述しようとする試みである。特に「内部勢力と外部勢力の相克と協同の観点」を重視する。アジアは、東アジア、東南アジア、南アジアという三つのサブ地域に区分される。各地域、またはその中の小地域(国家)や民族集団を内部勢力と呼び、ヨーロッパやアメリカを外部勢力と呼ぶ。なお、中央アジア勢力と中東勢力は、アジアの外部勢力と考える(ただし中国の北に住むモンゴル人は東アジアの一部として扱う)。

 本書の主たる関心はモンゴル帝国以降の時代であるが、はじめに「アジアの原型」として、三つのサブ地域の自然地理、主要民族、伝統的経済活動、宗教、言語、土着国家の誕生、統一国家(中国とインド)の登場などを概観し、モンゴル帝国(内部勢力)の形成と支配(13~14世紀)に進む。モンゴル帝国は、ユーラシア大陸を征服・支配し、世界的な貿易帝国を創り上げたが、その果実を得る前に崩壊してしまった。モンゴルは軍事帝国であっても文化帝国ではなかったので、征服地の人々に何の文化的・宗教的インパクトも残さなかったという指摘は興味深い。

 ヨーロッパ勢力(外部勢力)の関与は16世紀に始まり、18世紀後半の産業革命によって本格化する。それまで自律的な歴史を展開してきたアジア諸国・諸地域は、植民地化、政治・経済・社会の変容、貧困地域への転落という同じ道を歩むことになる(ただし日本のみ例外)。植民地化は単なる支配ではなく、土着国家の消滅、アジア人官僚の育成、植民都市の建設(特に沿岸部)、プランテーションにともなう資本主義の導入、モノカルチャー経済化、単一民族型社会から多民族型社会への転換など、アジア(特に南アジア、東南アジアの社会)に怒涛のような変化をもたらしたことが分かった。

 次に19世紀末に日本(内部勢力)の軍事進出があった。その目的は、モンゴル人やヨーロッパ勢力と同様、「日本を頂点にする経済圏の創出」にあったが、「モンゴル人が何の文化的痕跡も残さなかったように、文化的影響をほとんど残すことがなかった」という評価はとても腑に落ちた。日本がもたらした戦禍も功績も、世界史基準で見ればこんなものだろう。なお本書は、日本の支配がアジアに残した数少ない実績は、「結果的」にアジアの国々の独立意識を覚醒したことだとも述べている(日本がアジアを解放したという意味ではない)。

 第二次世界大戦後、多くの国が政治的自立を回復して現代国家の構図ができる。しかし、多民族型社会の国家統合と国民統合(民族紛争)や貧困からの脱却にどの国も苦しむ。民族紛争に関しては、インドとパキスタン、スリランカ、マレーシア、カンボジアなどの混乱を、概略ではあるが学ぶことができた。また、アメリカ(外部勢力)の関与によって三つの分断国家が誕生し(ベトナムは解消)、二つの大規模な戦争(朝鮮戦争、ベトナム戦争)も起きた。

 1960年代から70年代には、アジア特有の開発主義国家が登場し(ただし東アジアと東南アジアのみ)、一定の経済発展を遂げた。韓国、インドネシア、マレーシアの例が記述されている。1990年代には後発国も資本主義型開発に転換し、2000年代に中国とインドが飛躍的な発展を遂げる。このあたり、各国史としては多少の知識があったが、横並びの比較の視点を入れると格別に興味深い。

 経済発展により中間層が形成されたアジアでは、1980年代後半に民主化運動が起きた。台湾、ネパールのように、この時期に民主化を達成した国もあれば、中国のように失敗した国もある。また、民主体制に移行したものの、いまだ民主主義の定着が課題の国も少なくない。冷戦終結後はアジアの地域協調に向けた動きも活発化した。かつてはヨーロッパという外部勢力によって一つの「アジア号」たることを強いられたが、今日は自律的な「アジア共同体」を目指す動きがゆっくりとだが始まりつつある。

 難民やイスラーム過激派の動きなどの課題も指摘されているものの、全体として楽観的なムードで結ばれているのは、著者の専門地域の東南アジアでは、地域協調が比較的うまくいっているためではないかと思う。最近の東アジアを見ているともっと未来に悲観的になってしまう。近代日本はアジアの中でかなりユニークな存在だが、そのユニークさが地域協調の仇となっている感じがする。

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華麗で残酷な夢/中華ドラマ『長安十二時辰』

2019-08-20 23:45:26 | 見たもの(Webサイト・TV)

〇『長安十二時辰』全48集(2019年、優酷、娯躍影業他)

 視聴途中でも一度記事を書いたが、6月27日の配信開始から8月12日の全編完結まで夢中で見た。予想外の展開に何度も驚かされた。以下は【ネタバレ】になるが、このドラマ、できれば一切の予備情報なく「ミステリー」として視聴するほうが味わいが深いと思う。

 大唐天保三歳の上元節(正月十五日)の朝、長安城の開門とともにドラマは始まる。長安の治安を守る靖安司では、西域のテロ集団「狼衛」の一味が城内に潜入しているとの情報を掴み、殲滅を謀るが失敗。靖安司の若き司丞・李必は、死刑囚の張小敬を出獄させ、捜査を命じる。張小敬は、かつて辺境で突厥と戦った安西鉄軍第八団の生き残りである。退役後は長安の不良帥("不良人"を統率して犯罪捜査にあたる役職)をしていたが、戦友・聞無忌の仇討ちで熊火幫のゴロツキ三十数人を殺害し、死刑囚となっていた。張小敬が、あと一歩で捉え損ねた狼衛の生き残りは「闕勒霍多(que lei huo duo)」という謎の言葉を残す。西域の言葉で火劫すなわち猛火。彼らは密かに大量の石油を運び込んでおり、無数の灯火が街を彩る上元節のこの日、長安城を焼き尽くす計画であるらしい。

 靖安司と張小敬は、数々の犠牲を払いながら、狼衛の攻撃部隊を撃破する。しかしその背後には、より深い陰謀が渦巻いていた。当時、宮廷で圧倒的な権力を掌握していたのは右相・林九郎。太子李璵と、その師匠であり靖安司の総責任者でもある何執正、相弟子の李必らは、林九郎に敵対する側にいた。何執正の養子・何孚は、かつて実父を林九郎に殺されており、復讐のため、狼衛と結託して林九郎を襲撃するが、失敗する。何孚を捕らえた林九郎は、これを利用して何執正と太子の罪をでっち上げようとし、靖安司を接収する。

 夜が訪れ、華やかな灯火が長安城を包む。張小敬は、影の首謀者と疑われる西域商人・龍波の足跡を追って、聖人(皇帝)の夜宴が開かれる興慶宮に建てられた大灯楼に至る。龍波は、工匠・毛順の力を借り、まさに聖人出御の瞬間に大灯楼が爆発し、炎上する仕掛けを作り上げていた。そして龍波の正体が、第八団の生き残り、旗手の蕭規であることを知る。蕭規は、塞外の地で死んでいった仲間の恨みを晴らすため、宮廷の腐敗の頂点に立つ聖人を屠ろうとし、「兵とは誰かを護るもの」を信条とする張小敬は、長安の民衆に災厄が及ぶことを恐れ、爆発前に大灯楼を破壊し、炎上を最小限に食い止める。

 蕭規は聖人を拉致し、張小敬と檀棋(李必に仕える女奴隷)とともに興慶宮から姿を消す。聖人の失踪を好機と考える腹黒い人々は、深夜、長安の下町に現れた張小敬らのもとに兵を差し向ける。争いに巻き込まれて命を落とす無辜の庶民たち。怒りを発する聖人。その聖人を助けようとして、矢を受ける蕭規。瀕死の蕭規は「これが長安だ。どこに護る価値があるのか」と嘲笑し、張小敬は憮然として「長安は我が家だ。捨てるわけにはいかない」と答える。この残酷な世界観がとてもよい。

 隙を見て逃げおおせた聖人を迎えたのは靖安司の主事・徐賓だった。靖安司に集まる情報をもとに「大案牘術」というデータ解析術を極めた彼は、この壮大な筋書きを仕組み、聖人に近づいて宰相になることを目論んだ。しかしその当ては外れ、徐賓は射殺されて一件落着する。結局、張小敬が追ってきた首謀者は「巨悪」でも「異邦人」でもなく、八品官の小役人だった。それどころか、張小敬のよき理解者であり友人でもあった。しかし徐賓は、卑賤な身分にもかかわらず、自分こそ大唐の政治腐敗を正し、宰相となるべき人材と自負していた。最後に秘めた野望を吐露するときの気弱な涙目が、恐ろしくも哀れでもあった。ただ、本当に徐賓の背後に誰もいなかったのかどうかは、中国のネット上で議論があるようだ。

 このドラマは『九州・海上牧雲記』と同じ曹盾監督の作品で、共通する出演者が多かった。しかし、徐賓役の趙魏、崔器役の蔡鷺、姚汝能役の蘆芳生、すべて圧倒的に本作の役柄のほうがよいと思う。主人公・張小敬役の雷佳音はそんなに若くないと思うのだが、アクションにキレがあって見事だった。李必役の易烊千璽(Jackson Yee)はTFBOYSというアイドルグループの一員で、撮影当時、まだ17歳だったというが、若き天才の役にうってつけで、所作もきれいだった。あと貧民窟の領袖・葛老役や景教僧・伊斯役で黒人や西洋人が活躍したり、阿倍仲麻呂の従者だったという刀匠(日本人?)が登場するのも、国際都市・長安らしくてよかった。

 設定の天保三歳は、史実の天宝三歳であり、人名もモデルを踏まえて少しずつ変えている。林九郎は李林甫であり、何執正は賀知章という具合。詩人の岑参をモデルにした程參は終盤で意外な活躍を見せる。ちなみに張小敬という人名は「開元天宝遺事 安禄山事蹟」(姚汝能撰)に、楊国忠を射殺する騎士として登場する。このことを知っていると、ドラマの最後、旅立つ張小敬の「長安に何かあればまた戻ってくるさ」というセリフに、さまざまな空想が広がる。檀棋のいう「長安の太陽」は、一夜の夢の終わりを告げる、きれいな終わり方だった。

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2019夏休み旅行:いのりの世界のどうぶつえん(奈良国立博物館)ほか

2019-08-19 00:25:15 | 行ったもの(美術館・見仏)

奈良国立博物館 わくわくびじゅつギャラリー『いのりの世界のどうぶつえん』(2019年7月13日~9月8日)+特集陳列『法徳寺の仏像-近代を旅した仏たち-』(2019年7月13日~9月8日)+名品展

 『いのりの世界のどうぶつえん』は、夏休み企画の子供向け展示だろうとあなどっていたら、展示品がすごいと聞いて、慌てて見に来た。確かに鎌倉時代の『普賢十羅刹女像』(和装の羅刹女)や『春日鹿曼荼羅』など重文クラスがふつうに出ている。平安時代の『一字金輪曼荼羅』はよく見ると画面が獅子だらけで笑ってしまった。

 立体では、鹿形埴輪(浜松市博物館)を初めて見た。文殊菩薩騎獅像(文化庁、平安時代)は、やさしいわんこ顔の獅子で、高知・竹林寺の獅子を思い出した。いつも奈良博の常設展(仏像館)で会うのを楽しみにしている、頭上に動物を載せた十二神将立像(東大寺、平安時代)も出ていて、一部の像はお腹にも動物が表現されていることに初めて気づいた。牛頭天王坐像(松尾神社、平安時代)は、右手に鉾を執り、片足を下ろして岩座に座る。右手には鉾。ほぼ同じ大きさの顔を前後左右の四面持つ尊像である。頭上には>牛の首(細面で馬っぽい)を戴く。

 摩利支天坐像(大阪・高槻市立しろあと歴史館、江戸時代)もめずらしくて面白かった。まるまるした7頭のイノシシの上に座る尊像。しかしイノシシが全て頭を外側に向けて円陣を組んでいるので、これ動き出したらどうなるんだろう?と余計なことを考えてしまう。

 最後に『辟邪絵』の「栴檀乾闥婆」「神虫」「毘沙門天」と『沙門地獄草紙』の「沸屎地獄」。ゆるふわの「どうぶつえん」と思わせて、こんなものを出す根性がすごい。いちおう周囲を囲って別室にしてあったのは、怖い絵を見たくなければ見ないですむよう配慮したのだろうか。

 『法徳寺の仏像』の法徳寺は、奈良市十輪院町に位置する融通念仏宗の寺院だが、本展で紹介するのは、近年ここに寄進された約30躯の仏像で、「かつてひとりの実業家が収集した仏像」とだけ説明されている。飛鳥時代の銅造観音菩薩立像、興福寺千体仏と呼ばれる木造菩薩立像20躯など。平安時代の地蔵菩薩立像は、若々しくおだやかな美形。これも興福寺伝来だという。

 仏像以外は見る機会の少ない名品展も充実していた。絵画では、西大寺の『十二天像』(伊舎那天・日天・月天)を見ることができて満足。と思ったら、8/20-9/23の名品展は「東アジアの宗教絵画」の特集で、マニ教絵画3点(個人蔵)が出ることを把握してしまった。加えて陸信忠に高麗仏画。これは見に行かなければ…。

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2019夏休み旅行:なら燈花会、東大寺ほか

2019-08-18 22:57:25 | 行ったもの(美術館・見仏)

大和文華館 特別企画展『福徳円満を求めて-中国 元・明時代の華やかな工芸-』(2019年7月12日~8月18日)

 MIHOミュージアムのあとは、京都を素通りして奈良へ急ぎ、大和文華館に寄り道。鮮やかな色彩と多種多様な文様に溢れた中国元・明時代の陶磁器・漆器・染織を展示する。神話や戯曲を題材にした人物文が多くて面白かった。最後に、意匠からも技巧からも明清の工芸にしか見えない箪笥があって、江戸時代の『鎌倉彫手箪笥』だというのに驚いた。

 そろそろ夕方、奈良へ出て、ホテルにチェックインし、夕食も済ませて散歩に出る。奈良国立博物館の前庭にたくさんの鹿が寝そべって休んでいる。「鹿だまり」と呼ばれてSNSでも話題になっているもの。初めて見た。

 そして、もう少し暗くなると、鹿たちは起き上がって、三々五々グループになって、大仏前の交差点を渡って、春日野のほうへ消えていく。交差点がカオスになっていて面白かった。

 交差点を斜めに渡った浮雲園地から奈良春日野国際フォーラムあたりが「なら燈花会」の本部会場。南に下って、浮見堂に行ってみる。このあたり、何年ぶりだろう? いつも来てみようと思いながら足が向かずにいた。

 浮見堂から人の流れに従って、猿沢池方面へ向かう。全く歩いた記憶のない道(こんなに奈良に来ているのに)で、暗闇の中できょろきょろしていたら「江戸三」「四季亭」の灯りが見えた。ああ、大人になったらこういう高級旅館に泊まろうと思っていたのに、一向にその機会がないなあ…。

 翌朝(8/13)は東大寺へ。朝の涼しいうちに境内を歩こうと思ったのだが、ぜんぜん涼しくない。久しぶりに大仏殿を拝観する。昨日、MIHOミュージアムで『紫香楽宮と甲賀の神仏』を見てきたので、いろいろ感慨深いものがある。とにかく大仏が造立できてよかったね、と聖武天皇に呼びかける。大仏殿では、8/15の万灯供養会に向けて灯籠の奉納受付けが行われていて、サンプルとして「奈良花子」「平成二郎」と並んで「大佛次郎」という灯籠があったのは笑ってしまった。

 二月堂、三月堂、戒壇院を参拝。戒壇院はあまりいかないのだが、2日前に筑紫戒壇院に行ったので、あわせて参拝してきた。ここの四天王像は大好きな仏像だが、忘れられているようで気がかりである。二月堂の南東、斜面の上にある飯道神社も見つけて参拝した。看板には「飯道神社(いいみちじんじゃ)」とルビが振ってあった。

 最後に東大寺ミュージアムへ。日光菩薩・月光菩薩が、三月堂の不空羂索観音像の脇ではなく、ここにいることには相変わらず慣れない。昨年秋のリニューアルから、聖武天皇の「大仏建立の詔」が映像で紹介されるようになっているのだが、紫香楽宮で建立するつもりだったんでしょ?と心の中でツッコミながら鑑賞する。

 続きの奈良博は別稿で。

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2019夏休み旅行:紫香楽宮と甲賀の神仏(MIHOミュージアム)

2019-08-18 17:48:36 | 行ったもの(美術館・見仏)

MIHOミュージアム 2019年夏期特別展II『紫香楽宮と甲賀の神仏-紫香楽宮・甲賀寺と甲賀の造形-』(2019年7月27日~9月1日)

 8世紀半ば、聖武天皇によって甲賀の地に離宮として営まれ(一時は都となる)、大仏の造像も発願されたが、短期のうちに放棄されるなど、謎の多い紫香楽宮(信楽宮)。本展では、近年の発掘調査の成果と、甲賀の地に伝わった豊かな宗教文化を紹介する。前半が主に考古遺物、後半が仏像・神像など美術工芸品中心だった。

 はじめに紫香楽宮造営に先立つ聖武天皇の行動が地図上に表現されていて、このひとは面白いなあと思ってしみじみ眺めた。天平12年(740)に藤原広嗣の乱が起きると、平城京を抜け出して伊勢行幸に出立し、伊賀、伊勢、不破から琵琶湖の東岸・南岸をまわって1ヶ月余り、ようやく恭仁京に落ち着く。恭仁京の造営と並行して紫香楽宮の造営も進め、かと思うと難波京に移り、4年半にわたる遷都の繰り返しの末、結局、平城京に戻ってくる。ちょっと呆れるが、東アジアの伝統にのっとった古代の帝王らしい振舞いだとも言える。宮城の場所を決めるのは、帝王の大事な仕事なのだから。

 その紫香楽宮跡はMIHOミュージアムから東へ8kmくらいの距離にあり、「内裏野(だいりの)」と呼ばれていた地区が宮跡と考えられていたが、北部(新名神高速道路の北側)の宮町地区で2000年に長大な建物の遺構が見つかり、紫香楽宮の中心部であったことが確定した。

 出土文物の中では一番印象的だったのは、北黄瀬遺跡(内裏野地区の北西、宮町地区の南西)で発見された巨大な井戸枠。一辺2メートルを超える板材(上下2段)を四角形に組み、鉄釘で留めている。あまりに立派なので、復元品?と思ったらホンモノだった。しかも屋根と洗い場が設けられていたとか、地下水を堰き止めて水位を保つ工夫がされていたとか、驚くことばかりだった。鍛冶屋敷遺跡(内裏野地区の北東)出土の梵鐘内型は、一部から全体を「復元」したものらしかったが、高さ180cm、直径130cm以上あり、東大寺の梵鐘に次ぐ規模だという。周辺からは、ほかにも鋳型片や銅塊・鉄塊が出土しており、最新設備の官営工房があったことをうかがわせる。こういう当時の技術水準をうかがわせる出土品は、正倉院文物などの美術工芸品とは、また別のワクワク感があってよい。

 文化史的に超重要な遺物としては「なにはづに/あさかやま」の歌木簡をたぶん初めて見た。1997年に宮町遺跡で出土した「なにはづに」木簡の裏面に「あさかやま」の歌が書かれていることが10年後の再調査で明らかになり、2008年に発表されたもの。展示では「なにはづに」が見えるように置かれていた。途中が切れて2文字ほど欠落した木簡なのだが、これが「なにはづに」の和歌だと分かった研究者はえらいなあ。まして裏側は「あさかや」「るやま」(全て万葉仮名)しか残っていないのに。なお「歌一首」と墨書された土器片もあった。

 紫香楽宮の中心部が宮町地区にあったとして、内裏野地区は何だったのか。礎石の配置から寺院跡であったことは明らかだが、近江国分寺とみるか甲賀寺とみるか。近江国分寺と甲賀寺はどのような関係になるかなど、まだ課題が残されているそうだ。以上は、ミュージアムショップで販売されていた20頁ほどの冊子『天平の都と大仏建立-紫香楽宮と甲賀寺- 改訂版』(200円?)を参考にした。編集発行元の甲賀市教育委員会さん、いいお仕事をされているなあ。感服。

 さて聖武天皇は紫香楽宮で大仏造立の詔を発し、甲賀寺に大仏の「体骨柱」を立てたことが記録に残されている。また紫香楽宮が放棄されたあとも甲賀寺には官営の造仏工房があったと考えられており、その伝統が近江の神仏像に影響したというのが本展後半のメッセージである。

 石山寺の『塑像金剛蔵王立像心木』は前回どこで見たのだったか。異形すぎる仏像(心木だけだし)だが、とても好きなもの。櫟野寺からは吊り目でキリっとした顔立ちの観音さま2躯、立て衿の地蔵菩薩立像などがいらしていた。堂々と量感のある薬師如来立像(平安時代)は甲賀市の阿弥陀寺から。昨年、櫟野寺のご開帳に行ったとき、足を伸ばしたが、ご住職不在で拝観できなかったお寺だ、と思い出した。粟東市の金勝寺の木造毘沙門天立像は、派手さはないが静かな迫力がにじみ出る巨像。金勝寺からは、地蔵菩薩立像、僧形八幡神坐像、多数の神像も来ていた。金勝寺の名前はずっと気になっているのだが、公共交通の便がよくないので、なかなか訪ねる決心がつかない。

 甲賀市・飯道寺(はんどうじ)の木造十一面観音立像は、たおやかで優美・繊細。12世紀の作だが平安初期の古像をモデルにしたのではないかという推測されている。飯道寺は飯道神社の神宮寺で、飯道神は東大寺別当実忠によって東大寺に勧請されたともいわれる。奈良と近江の結びつきは深いとあらためて感じた。

おまけ:館内でもらえる「聖武天皇 人生スゴロク」(どうしても大仏を造りたかった!)。ときどき笑っていいのか困るコマもある。ゴールは「752年、大仏法要」。

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2019夏休み旅行:観世音寺、大宰府都府楼跡

2019-08-17 01:18:01 | 行ったもの(美術館・見仏)

〇九州国立博物館~太宰府天満宮~観世音寺~戒壇院~大宰府都府楼跡

 九州国立博物館では『室町将軍』に加え、久しぶりに常設展示(文化交流展示室)をゆっくり見た。寄贈の名品紹介の展示で、坂本五郎氏(1923-2016、古美術商「不言堂」の創設者、奈良博の青銅器コレクションの寄贈者)旧蔵コレクションに驚かされた。特に私が気に入ったのは葛飾北斎『日新除魔図』で、晩年の北斎が日課として獅子あるいは獅子舞を描き続けたもの。やんちゃな獅子と獅子舞がかわいい。館蔵名品展『更紗 生命の花咲く布』(2019年7月30日~10月20日)は意外なコレクションだった。

 いくつかの展示物に『新元号記念特別企画「令和」』(2019年4月23日~12月22日足利将軍)と称する企画も行われていて、『万葉集』巻五(江戸時代の版本)が出ているのはいいとして、当時の官人の服装を再現した写真に「60代の大伴旅人」というキャプションをつけられても、それがどうしたという感想しか湧かなかった。

 帰りに大宰府天満宮に寄って御朱印をいただく。ここまではいつもの九博コース。今回は時間があるので、西鉄大宰府駅前からバスに乗って、観世音寺と都府楼跡にも寄っていくことにする。自分のブログを調べたら、2004年の夏に訪ねた記録しかなかった。えええ、本当かな。だとすれば、九州国立博物館ができるより、さらに前の話だ。

 観世音寺のバス停に下りたときは、きれいに整備された参道と駐車場が記憶に残っていなくてとまどった。しかし参道の先の講堂(本堂)、鐘楼、宝蔵などは記憶のとおりだった。宝蔵の仏像は大好きなものばかり。しぶい顔の木造大黒天立像(走り大黒)や、地天女と動きのある二鬼が気になる木造兜跋毘沙門天立像もよいが、なんといっても木造聖観音坐像、木造馬頭観音立像、木造不空羂索観音立像の巨像の並びが素晴らしい。途方もなく巨大で、しかも美的に破綻していないところに唐代のセンスを感じて、視聴中の中国ドラマ『長安十二時辰』を思い出していた。しかし宝蔵の中、あまり空調が効いていなかったが、文化財保存上は大丈夫なのだろうか。

 観世音寺の西の門を出ると戒壇院。天平勝宝5年(753)に来日した鑑真が太宰府を訪れ、この地で初の授戒を行ったことから開山は鑑真。今年は中国・揚州にも行ったし、鑑真とのご縁がまだ続いているようだ。現在は臨済宗の寺院なので、本堂の正面に「生死事大」の板(はん)が掛けてあった。「住職不在のため御朱印はここからお持ち下さい」というメッセージを添えた箱があって、白封筒と先客の残した硬貨が入っていた。幸いにも最後の御朱印をいただくことができた。

 さらに少し歩いて都府楼跡へ。炎天下で耐えられないかと思ったら、意外とよく風が通って、街の中より涼しかった。広々した緑地の真ん中の石碑「都督府古址」の写真を撮る。大宰府の唐名であるが、ほんとに中国風だなあと思って微笑ましく思う。なお、調べたらこの石碑は、明治4年、貴重な文化遺跡の荒廃を案じた乙金村(現在の大野城市乙金)の大庄屋高原善七郎が自費で建立したものだという。えらい!

 これで大宰府滞在を切り上げ、夜、福岡空港から大阪(伊丹)へ飛ぶ。伊丹空港は、ほとんど使ったことがなかったのだが、今年初めて使ってみて、その便利さが分かった。江坂泊。

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