見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

琳派いろいろ/神坂雪佳(パナソニック汐留美術館)

2022-10-30 22:50:31 | 行ったもの(美術館・見仏)

パナソニック汐留美術館 『つながる琳派スピリット 神坂雪佳』(2022年10月29日~12月18日)

 2003年4月に開館した美術館だというが、初訪問である。過去の展覧会を見ると、西欧の近代絵画や工芸をテーマにしたものが多いので、なかなか食指が動かなかったようだ。今回は、明治から昭和にかけて活躍した図案家・画家の神坂雪佳(1866-1942)を取り上げ、さらに雪佳が手本とした、江戸期の琳派の作品も紹介する展覧会と聞いて見に行った。

 はじめは雪佳が手本にした、江戸期の琳派から。光悦、宗達、光琳、乾山らの作品が並ぶ。京都の細見美術館所蔵の作品が多いのを見て、この展覧会が、今年5月に細見美術館で見た琳派展22『つながる琳派スピリット 神坂雪佳』の巡回展であることに気づいた。なんだ、そうだったのか。しかし宗達の『双犬図』(白犬が黒犬にじゃれついて首筋を抑えている)や光琳の『柳図香包』など、確実に見た記憶があるものもあれば、全くないものもある。

 乾山の『唐子図筆筒』は、ずん胴の筒の側面に、素朴な筆致で花唐草と腹掛け一枚の唐子を描く。渋い赤色に緑を少し使っている。細見美術館には何度も行っているが、これは初めて見たように思う。また「成乙」印(光琳の弟子らしいが未詳)の『秋草図団扇』は、彩色で細やかな秋草を描いた団扇を表装して軸物に仕立てている。団扇のまわり(中回し?)に使われているのは、金銀の摺りで秋草をシンプルに表現した料紙。団扇の中の秋草に比べて格段に大きな秋の花(桔梗?)が、一瞬、蝶に見えた。これも初見のような気がする。

 細見美術館の『神坂雪佳』展の出品リストがネットに残っていたので比べてみたら、第一章「あこがれの琳派」は、実は東京展の半分強しか出ていなかった。逆に考えれば、東京展はとてもお得である。

 この美術館、展示ケースの奥行が浅くて、作品に接近できるのも嬉しい。酒井抱一の『桜に小禽図』は、桜の幹や枝の微妙な色合いに唸り、鈴木其一の『藤花図』は藤の花房の透明感に見とれた。どちらも絹本の美しさを最大限に活かしていると思う。其一の『春秋草花図屏風』は小さい作品だが、根津美術館の『夏秋渓流図屏風』に通じる雰囲気がある。特に左隻。中村芳中の『白梅小禽図屏風』はやっぱり可愛い。この白頭の小禽は何なのかなあ。

 本題の神坂雪佳は、おなじみ『百々世草』『金魚玉』に京都でも見た『光悦村図』『天平美人図壁掛』など。初期の作品である『滑稽図案』に「ねこしゃくし形」と題して、黄色地に赤い杓子と黒猫を配した図案があって、笑ってしまった。『蝶千種』は黒い紙の切絵かステンドグラスのようで、エキゾチックで妖艶な図案。多様な作品があることを知る。

 細見美術館のおかげで、関西では、わりと定期的に見る機会のある雪佳だが、東京でまとめて作品が展示されるのは珍しいのではないか。本展を機に新しいファンが増えるとうれしい。

 また、パナソニック汐留美術館の近くには、旧新橋停車場駅舎が再現されており、館内の鉄道歴史展示室では『鉄道開業150年記念 新橋停車場、開業!』(2022年7月20日~11月6日)が開催されていたので、ついでに見てきた。常設展コーナーに、発掘された遺稿や遺物が展示されており、洋食器や土瓶(崎陽軒の文字あり!)もあって面白かった。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『五馬図巻』完全公開/中国書画精華(東京国立博物館)

2022-10-24 22:00:49 | 行ったもの(美術館・見仏)

東京国立博物館・東洋館8室 日中国交正常化50周年・東京国立博物館150周年・特集『中国書画精華-宋代書画とその広がり-』(2022年9月21日~11月13日)

 『国宝展』で賑わう東博だが、私が待っていたのはこちら。毎秋恒例の中国書画の名品展である。開館150周年にあたる本年は、コレクションの白眉といえる宋代書画に注目。後期(10/18-)には『五馬図巻』(李公麟筆、北宋時代・11世紀)が登場した。2019年の特別展『顔真卿』に突如姿を現したあと、東博の所蔵に帰したが、しばらく公開の機会がなかったのは、修理に入っていたためだという。

 嬉しかったのは、修理で不要になった旧箱や旧包裂(つつみぎれ)なども一緒に展示されていたこと。この旧包裂は清朝宮廷製だという。『五馬図巻』は、宣統帝溥儀の教育係だった陳宝琛が持ち出して日本に渡ったというので(芸術新潮の記事)、そのときからの包裂ではないか。

 巻頭には乾隆帝の題辞があり、5頭の馬が、その綱を引く人物とともに描かれている。馬の毛並みが違うように、綱を引く人物の服装・顔つきにも特徴がある。全て撮影OKなのはさすが東博!!

 第1馬・鳳頭驄(ほうとうそう)の引手は、とがった帽子、茶色い髭の胡人風。丈の長いコートのような上衣は左衽の打合せに見える。第1馬~第4馬には、画の後に馬の来歴、名前、体格等が簡潔に記されている。この馬は「右一匹元祐元年十二月十六日左麒麟院収于闐国進到鳳頭驄八歳五尺四寸」。元祐元年(1086)は北宋・哲宗の治世。シルクロードの于闐国(ホータン)からやって来たのだな。左麒麟院というのは北宋の皇家馬厩のひとつらしいが、よく分からない。

 第2馬・錦膊驄(きんぱくそう)は、吐蕃(チベット)系の董氈(とうせん)から献じられた。引手は痩身で、メキシカンハットみたいな帽子を被り、丸首の衿と合わせ目に赤を配した白い衣を着る。ちょっとマニ教を思い出したが違うかな。写真は東博の1089ブログ(2022/10/14)で見ることができる。

 第3馬・好頭赤(こうとうせき)は精悍な赤馬。秦馬、すなわち秦州(甘粛省天水一帯)の馬だという。引手は半裸・裸足で、手に円形のブラシを持っている。

 第4馬・照夜白(しょうやはく)は、吐蕃系の温渓心(おんけいしん)から献じられた白馬。まるまると肉付きがいい。引手の漢人風の男もやや小太り。

 第5馬は説明が欠落しているが、元時代・13世紀には馬名等の説明があったことが記録に残っているそうだ。毛並みの美しい斑馬(ぶちうま)で、名前は満川花(まんせんか)という。ということを、わざわざ書き足しているのは乾隆帝で、第5馬は李公鱗の筆でなく、後人の補筆ではないかと疑っているようだ。なお、引手は漢人風。

 いろいろ調べていて「馬政」(軍馬の調達、飼育等の政策)という言葉があることを知った。そして「唐代の馬政」「明代の馬政」「清代の馬政」については、ネットで参考文献を見つけたが、肝腎の宋代がない。曽我部静雄「宋代の馬政」(東北大学文学部研究年報10号、1959年?)、東一夫「馬政上より見たる北宋の西北辺経営」(史海6号、1959年)という論文があることは分かったのだが、本文は探せなかった。こういうの、もっとオープンにしてほしい。大室智人「明朝洪武帝期の琉球馬獲得とその背景」(東洋大学、アジア文化研究所年報54号)には、少し宋代の事情が書かれており、西北馬の調達が困難→軍馬不足→歩兵の大幅増員→軍事費増→国家財政圧迫を招いたという。ほんとかなと思いながら、おもしろい。

 あと、いまさらだが『五馬図巻』が中国文化圏でも非常に注目されており、さまざまな記事が書かれていることを知った。簡体字の記事も繁体字の記事もあり。

新浪收藏:传世名画李公麟《五马图》为何会流失日本(2019/1/18)

壹讀:宋畫第一!李公麟《五馬圖》高清全圖賞析(2019/1/23)

 なんというか、自国の文化を代表するような名品が海外の美術館・博物館にあるというのは嬉しくないものだが(日本美術についても経験あり)、1089ブログに「今後もさまざまな展示に登場していく予定です」とあるので、ご寛恕たまわりたい。中国や台湾での展示も実現するといいな。そのためには東アジアの平和が絶対に必要である。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

はたらくふね(浚渫船)@江東区大横川

2022-10-21 20:20:36 | 日常生活

我が家の窓の外を流れているのは大横川。

先週末、ふと外を見たら、浚渫船が止まっていた。我が家の前を通り過ぎていくのは何度か見たことがあるが、止まった状態は初めて見た。

そして火曜~水曜に、少し場所を移動して、我が家の前で川底の土砂を掬い取る作業をしている様子を見ることができた。

札幌に暮らしていたとき、除雪車が珍しくて、作業の場に出会うたびに興奮していたことを思い出した。私たち人間の暮らしを守るため、働くくるまやふねは、いつもカッコいい。

あと、この船(たぶん)クレーンを作動するときに、機械音に混じって神楽の笛のような哀愁のある音を出すのだ。それがとても好き。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

源氏物語絵巻もチェック/大蒔絵展(三井記念美術館)

2022-10-20 21:47:11 | 行ったもの(美術館・見仏)

三井記念美術館 特別展『大蒔絵展-漆と金の千年物語』(2022年10月1日~11月13日)

 この春、MOA美術館で開催された展覧会の共同開催展。このあと、2023年春の徳川美術館を加え、3会場で国宝25件、重要文化財51件を含む計188件を展示する企画である。三井記念美術館での展示件数は(蒔絵以外も含め)188件だが、けっこう展示替えがある。

 私は『源氏物語絵巻・宿木一』が見たかったので、最初の週に出かけた。東京にいると、徳川美術館所蔵の巻はなかなか見る機会がないのだ。引き違いの障子で隔てられた右側の部屋(朝餉間=あさがれいのま)で男性二人が碁盤を間に向き合っている。今上帝(朱雀帝の皇子)と薫である。右側の部屋には女官が二人、隣室の様子を気にしているようだ。実はこの画面、現存『源氏物語絵巻』で唯一内裏の建物内部を描いたものだという。調度品など、細部まで描き込みが多くて、とてもおもしろい。一昨年、中国ドラマ『棋魂』(原作はマンガ『ヒカルの碁』)にハマったこともあって、碁盤のマス目が、ぼんやりでなくきちんと描かれているのに感心した。年長っぽい奥の男性(今上帝?)が黒石を使っているのも気になったが、ネットで見つけた解説によると、上位の者が黒石を使うことになっていたそうだ(※このサイトが詳しい)。

 古筆は、定信筆の『石山切』と『継色紙』(どちらもMOA美術館)を見ることができて満足。『継色紙』は「わたつみのかざしにさせるしろたへの なみもてゆへるあはぢしま山」で、春にMOA美術館でも見たが、私が一番好きなもの。実は本展、三井記念美術館の所蔵品は10件もなくて、他はMOA美術館、徳川美術館、東博、京博、根津、サントリーなど、各館からの出品である。仁和寺や高台寺、春日大社や和歌山の金剛峯寺からの出品もあって、リストを眺めるだけでも興味深い。

 蒔絵作品では、素朴な図柄の『蓮池蒔絵経箱』(文化庁、平安時代)に目が留まった。根津美術館で見たもの(鎌倉時代)とよく似ていた。『形輪車蒔絵螺鈿手箱』(東博、平安時代)は、波間に金銀の形輪車が浮かぶ文様。仏教の寓意に由来するという説明を読んで感心していたが、車輪が乾燥して割れるのを防ぐため水に漬けた情景という見方もあるそうだ。

 私は、明快で大胆な意匠が好きなので、『日月蒔絵硯箱』(仁和寺、桃山時代)はとても好きだ。『秋草蒔絵歌書箪笥』(高台寺、桃山時代)も、秋草と露というモチーフは優美だけど、色とかたちを単純化したデザインは大胆だと思う。西洋と出会った蒔絵(南蛮漆器)も大好き。なお、この時代を想像するのにぴったりの『聚楽第図屏風』(桃山時代、三井記念美術館)が出ていたのは嬉しかった。

 尾形光琳の『八橋蒔絵螺鈿硯箱』(東博)は、ちょっとやりすぎで、うるさすぎの感じがする(でも欲しいけど)。小川破笠、原羊遊斎、柴田是真、さらに現代の人間国宝の作品もあり、楽しめた。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年も美術の秋/2022東美アートフェア

2022-10-18 21:36:26 | 行ったもの(美術館・見仏)

東京美術倶楽部 『2022東美アートフェア』(2022年10月14日~16日)

 恒例の東美アートフェアに行ってきた。印象に残ったお店(ブース)を記録しておこう。

 まず4階、古美術京橋には、角髪(みづら)の木造童子像に「童形若宮」(藤原時代)の札が添えてあった。小さな金銅仏も多数。大塚美術は朝鮮の美術特集で、日本民藝館の所蔵品によく似た桃型の水滴があった。小西大閑堂は蒔絵の名品揃い。今年は、三井記念美術館など蒔絵の展覧会が多いが、量も質も一流美術館に劣らない。それをガラスケース越しでなく、ナマで鑑賞できるのが、このアートフェアの醍醐味である。水戸忠交易の現代蒔絵もよかった。古美術豊後堂は仙厓さん特集でほっこり。尚雅堂は中国美術で、六朝の大理石の石仏(三尊形式と二尊形式)がおそろしく美しかった。

 驚いたのは泰文堂で、刀剣が剥き出しでケースもなく展示されていたこと。ひとまわりして戻ってきたら、お客のおじさんがそのひと振りを握って、目の前にかざして確かめていたので、もっと驚いた。

 また、竹籠と骨董を扱う大口美術店花筥は、吊りタイプの花籠を集めた展示が斬新で目を引いた。お店の方が「こういう展示は初めてですが、毎年出店しているんですよ」とおっしゃっていた。いま思い出したのだが、大口美術店さん、私は2008年のアートフェアで茶籠に惹かれて、名前を覚えたお店だった。店舗は日本橋なのか(休業中)。いつか行ってみたいな。

 3階。浦上蒼穹堂はウサギを描いた中国陶磁器をずらり並べた「兎づくし展 Part 2」を開催。ほとんどが明代の古染付で、ウサギなのかネズミなのかブタなのか、よく分からないゆるかわ絵皿である。遼三彩の小皿、金代の磁州窯緑釉の枕もあった。店主がウサギ年で、趣味で少しずつ集めたものだという。1987年にも店舗のギャラリーで「兎づくし展」を開催したことがあるので、これが「Part 2」なのだそうだ。

 玄海樓は古筆の名品が勢ぞろいで息が止まりそうだった。いや、こんなの、美術館でもなかなか見ない。個人的には藤原教長の「今城切」を見ることができて嬉しかった。ほかに俊頼「粽切」、行成「敦忠集切」、定頼「山城切」など(いずれも伝承筆者)。

 高野至宝堂は大正末期から昭和初期に制作された御殿雛を展示。水屋棚(炊事場)が付属しているのがめずらしい。どこかの美術館か博物館が購入するといいなあ。

 2階は休憩室。

 1階。古美術あさひは薩摩焼が揃う。古美術鼎には、犬追物の大きな屏風がドーンと広げてあった。古美術助川は歌仙絵特集で興味深かった。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

韓国史の内側から見る/韓国併合(森万佑子)

2022-10-17 22:15:46 | 読んだもの(書籍)

〇森万佑子『韓国併合:大韓帝国の成立から崩壊まで』(中公新書) 中央公論新社 2022.8

 本書は、19世紀の東アジアの国際関係の概観から始まる。19世紀の東アジアは中国(清)を中心とする「朝貢体制」にあった。朝鮮は中国の「属国」であったが、内政外交の自主は保たれていた。また、儒教国家・朝鮮にとって、清は崇拝する明を倒した野蛮人の国で、朝鮮こそが明朝中華を継承すると自負する「小中華思想」を強く抱いていた。そんな古い話、と思いがちだが、この経験と認識が、その後の朝鮮(韓国)の運命に大きくかかわっていく。

 19世紀後半には、西洋列強が持ち込んだ「条約体制」が東アジアに浸透していく。日本の近代化に学んだ官僚・知識人たちは、朝鮮の自主独立を志向するが、清との関係を基軸と考える政権中枢の支持は得られなかった。しかし、日清戦争に日本が勝利したことで清に気兼ねなく政治が行えるようになると、国王高宗は「明朝中華の系譜を継ぐ朝鮮中華主義」の実現のため、皇帝に即位する(1897年、大韓帝国の成立)。日本の明治維新では、天皇はほぼお飾りで、明治天皇の国家構想など誰も気にしないのだが、韓国の近代化は違うみたいだ。各種勢力を調整しながらも、基本的に儒教宗主としての専制君主を目指した高宗。近代的な国家と国民の創出を求める知識人たちの独立協会。そこに介入する外国勢力、ロシアと日本。

 やがて大韓帝国をめぐる日露の対立が決定的となり、開戦必至の状況で、日韓密約交渉が行われ、1904年2月、日本がロシアへの軍事行動を開始した直後に「日韓議定書」が結ばれ、同年8月に「第一次日韓協約」が結ばれる。そして日本が日露戦争に勝利した後、1905年11月に「第二次日韓協約」(乙巳保護条約)が結ばれ、日本は大韓帝国の外交・内政全般を支配することになった。この保護条約を高宗に強要したのが伊藤博文かあ…。著者によれば、高宗は、中華帝国のなかで中国の「属国」であっても外交内政の自由を保ってきた経験から、日本に対し、大韓帝国の独立国家としての形式だけは残してほしいと強く希望した。しかし伊藤は譲歩しなかった。

 伊藤は、万機すべて皇帝が決するという大韓帝国の制度を逆手にとって高宗に決断を迫った。見方によっては、この政治力、交渉力は大したものである。しかし韓国民衆の恨みを買っても仕方ないなあと思う。高宗は、日本の暴挙を国際社会に訴えて、大韓帝国に対する諸外国の支援を得ようとしたが、目的は果たせなかった(ハーグ密使事件)。日本は、かえってこの機に韓国内政に関する全権を掌握することを目指し、1907年7月、高宗を強制的に譲位させた(純宗即位)。「第三次日韓協約」の締結により、日本の支配はさらに強化されていく。

 統監の伊藤博文は、司法改革、地方行政改革、教育の普及などに取り組み、民心を懐柔するため、純宗皇帝の南北巡幸をおこなった。同行した伊藤は、各地で抗日運動を目の当たりにする。日本政府は統監府統治の失敗を認識し、韓国併合を実行することとし、伊藤もこれを容認した。感謝されると思った政策が、かえって民衆の不満や抵抗を掻き立てたことへの困惑。伊藤博文のこの点、少し袁世凱に重なるところがある。伊藤の暗殺を経て、1910年8月、「韓国併合条約」が調印される。

 これに先立ち、首相の李完用は、国号に「韓国」を残し、皇帝には「王」の尊号を与えることを願い出ている。かつて「清国に隷属」していた時代にも国王の称号はあったというのがその理由だ。結局、日本政府は、大韓帝国の皇族を日本の皇族に入れることはせず、「王公族」という身分を創出し、純宗は「李王」として日本の天皇より冊封された。冊封! 前例として、1872年に天皇が琉球国王を冊封し、7年後に琉球藩を廃して沖縄県を設置した事例があるという。琉球処分にしろ、韓国併合にしろ、その過程で古代以来の「冊封」が行われていたなんて、思いもよらなかった。もちろん「冊封」の実態は古代や中世とは大きく異なる。朝鮮国王は中国皇帝に冊封されていても、内政外交の「自主」は保たれてきた。しかし帝国主義の時代、大日本帝国の支配は一切の自由を許さないものとなる。

 本書を読んで感じたのは、近代化の初期、朝鮮の王族や官僚が、古い「属国自主」や「小中華」の思想に囚われていて、全く適切な対応ができていないことだ。だから日本が、保護国化するという理屈は成り立たないだろう。しかし、韓国に内在した混乱・停滞の種もきちんと見ておくことが必要だと思う。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

復活!川越祭り2022

2022-10-15 22:38:15 | 行ったもの(美術館・見仏)

川越祭りに行ってきた。3年ぶりの開催だというが、私は2015年に見に行ったのが最後らしいので、7年ぶりになる。今年は川越市市制施行100周年にあたることから、29台の山車すべてが巡行する盛大な祭りを予定していたが、新型コロナ感染防止のため、大声での会話を控え、対面での「曳っかわせ」も行わないなど苦心したようだ。

メインストリートは大賑わいだったが、すれ違う人はほぼ100%マスクをしていた。久しぶりに外国人の方をたくさん見かけた。日本のお祭りは、笠や手ぬぐいで顔を隠して参加する例もあるので、お囃子連がマスクをしているのは、あまり違和感がなかった。

夕暮れ時も、日が落ちてからも、どちらも風情がある。

川越祭りといえば、私の大好きなおキツネさま(天狐)シリーズ。

はじめに出会ったのが連雀町の太田道灌の山車。悠然と外を眺めながら移動中。ちょっと犬っぽい。

野田五町の八幡太郎の山車。公家風の出で立ち? お囃子に乗って、髪を振り乱し、激しく周囲を威嚇する。

松江町二丁目の浦嶋の山車。裏通りの静かな一角にあって、通りかかったときは、青い着物の囃子方(年齢若め、笛は女性)がハシゴで山車に乗り込むところだった。上下白装束の男性が舞台に上がったあと、帳の奥に消えたので、キツネの扮装で出てくるんじゃないかなと期待して待っていたら、本当にそのとおりだったので、嬉しくなった。口元をカチカチいわせて表情を変えることのできるタイプのキツネ面。

仙波町の仙波二郎安家の山車。仙波二郎安家は頼朝に従った武士なのか。中国語の「安家」(an jia=所帯を持つ)と読めてしまって、笑ったのだけど。上下赤の印象的な装束。

菅原町の菅原道真の山車。本川越駅近くの屋台村(広場)に面して、仙波二郎安家の山車と並んでいた。同じ方向を向いて、並んでパフォーマンスを競うのは、感染防止の配慮だろう。本当なら、額を突き合わせるような「曳っかわせ」が見たかったところ。

おまけ。志多町の弁慶の山車。山車の上にも弁慶が乗っているのに、会所にも人形があって、聞いたら、こちらのほうが古いのだそうだ。「山車に乗っているのはレプリカ」とおじさんが言っていた。

川越まつり、ライブ配信もしているので、明日はYouTubeで様子を見てみようと思う。

※YouTube:川越市市制施行100周年記念「川越まつり」

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

運慶以前と以後も/運慶(神奈川県立金沢文庫)

2022-10-13 21:46:31 | 行ったもの(美術館・見仏)

神奈川県立金沢文庫 運慶800年遠忌記念特別展『運慶 鎌倉幕府と三浦一族』(2022年10月7日~11月27日)

 7~9月に横須賀美術館で行われていた展覧会の巡回展である。全36件(+特別出品・参考出品あり)のうち仏像は20件くらい。金沢文庫だけで展示される仏像も7~8件(数え方による)ので見に行ったが、いちばん見たかった源実朝坐像(甲斐善光寺)が後期(10/25-)展示なのは失敗した。まあ、いいか。

 1階の入口を入ってすぐの展示ケースは、個人蔵の勢至菩薩坐像(平安~鎌倉時代)が展示されていた。宋風に髪を高く結い上げているが、大和座り。短い上衣の裾から膝小僧が見えているように見える。いや、生足ではなく裙(くん)を付けているのだろうけど。これは「特別出品」のため、図録に写真は掲載されていなかった。

 同じく1階には、小さな四天王立像(大仏様)のセットも。甲冑の隙間にのぞく朱色がよく目立っている。「個人蔵」だが、図録を見ると「金沢文庫寄託」の注記があった。画軸『源頼朝像』(江戸時代)は、白面に赤い唇が目立つ。神護寺像を思わせる風貌だが、解説には「むしろ大英博物館が所蔵する源頼朝像と近い」とあった。また、瀬戸神社所蔵の舞楽面2件(抜頭と陵王)は、何度か見たことのあるものだが、社伝では、源頼朝または実朝の所用で、北条政子が寄進したという解説を読んで、ふーむと唸ってしまった。抜頭面は、運慶銘を持つ。

 2階は、大きな仏像がところ狭しと並んでいて壮観だった。特に浄楽寺の不動明王・毘沙門天のケース越しに、奥の展示室に据えられた満願寺の不動・観音・地蔵・地蔵・毘沙門(右から)を眺める構図は素晴らしかった。

 手前の展示室には、まず「運慶以前」と題して、大善寺の天王立像。沈鬱な表情で、踊るように両袖を翻す。清雲寺の毘沙門天像は猪首で童子のように無垢な表情をしている。どちらも横須賀の展示で印象深かったものだ。曹源寺の十二神将立像は、ここでも想定に基づく当初の像名で並べられていた。浄楽寺の不動明王・毘沙門天は、ケースに入ってるおかげで、ぎりぎりまで近づいて見ることができるのが、かえってありがたかった。背面が鑑賞できるのもありがたく、毘沙門天の頭髪(巻き髪)の後頭部を興味深く観察した。

 初めて拝見したのは、横須賀市・無量寺の聖観音菩薩坐像(鎌倉時代)。図録では「横須賀のみ」になっており、私が8月に参観したときは、展示期間が終わっていて見逃したものだ。何らかの調整で、金沢文庫にも出展いただけることになったのだろう。嬉しい。頭髪は高く尖がり、ほぼ裸で厚みのない上半身、腰が細くしぼられたプロポーションは、ちょっと東南アジアの仏像を思わせた。また、山北町・常実坊は、明治年間に町田久成の尽力で創建された寺院で、不動明王像及び両脇侍立像(鎌倉時代)は、町田らの関与で運び込まれたものと見られているそうだ。

 「静岡県指定文化財」の阿弥陀如来・両脇侍(観音・地蔵)・毘沙門天像のセット(所蔵:吉田区)も「特別出品」なので図録に掲載されていないが、ふだん上原仏教美術館が預かっている吉田寺(きちでんじ)伝来の仏像のようだ。横須賀の満願寺は、現在、観音・地蔵の巨大な二尊が伝わる(地蔵・毘沙門は後の追加)が、かつては阿弥陀・観音・地蔵の三尊形式(吉田寺と同じ)だったらしい。称名寺聖教の「氏名未詳書状」(室町時代)の紙背に満願寺の本尊が「阿弥陀如来」であったことを示す文字があるのだ。よく見つけたなあ!

 秦野・金剛寺の観音菩薩・勢至菩薩立像(鎌倉時代)は、あまり仏像らしくない、そして理想化も美化もされていない、リアルな人間の表情をしていておもしろかった。このお寺、源実朝の首を埋葬して創建されたという伝承があるそうだ。そうか、首を取られてしまうんだっけ…。南無阿弥陀仏。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大勾玉展(大田区立郷土博物館)ほか

2022-10-11 22:45:47 | 行ったもの(美術館・見仏)

10月三連休に見てきた小さな展覧会をまとめて。

大田区立郷土博物館 特別展『大勾玉展-宝萊山古墳、東京都史跡指定70周年-』(2022年8月2日~10月16日)

 全国各地から約1500点の勾玉を一堂に集めた大勾玉展。大田区には全く土地カンがないので、ネットでアクセスを調べて行ってみた。あまり広くない会場は大賑わいだった。勾玉(まがたま、曲玉)は、Cの字形またはコの字形に湾曲したかたちをしている。勝手に古墳時代のイメージを持っていたが、縄文時代早期に登場するという解説に、まずびっくりした。その後、弥生時代早期から前期にはやや衰退するが、古墳時代に復活し、ヒスイ製の丁子頭勾玉は倭王権の象徴となる。というのは概略で、会場の解説はもっと詳しいので、食い入るように読んでしまった。ヒスイのほかに、瑪瑙(赤茶色)、碧玉(黒っぽい)、滑石、蛇紋岩、土製や青銅製、水晶、ガラス製の勾玉もあるのだな。古代の日本ではガラスを製造することはできなかったが、輸入したガラス玉を勾玉に加工していたようである。

 そして、なぜ大田区で勾玉展なのか全く分かっていなかったが、区内に多数の古墳があることを初めて知った。会場入口の「TOKYO MAGATAMA」のセクションには、大田区、足立区、板橋区、北区、港区、世田谷区などで出土した勾玉が並んでいた。やっぱり江東区や江戸川区はないんだな…と納得した。

 ついでに常設展も参観。郷土博物館の周辺が「馬込文士村」と呼ばれる地域だったことを知る。大正末から昭和初期なので、宇野千代、佐多稲子、村岡花子など女性も多い。小説家だけでなく、小林古径や佐藤朝山も住んでいたのだな。

日比谷図書文化館 特別展『学年誌100年と玉井力三-描かれた昭和の子ども-』(2022年9月16日~11月15日)

 1922(大正11)年に『小學五年生』と『小學六年生』が創刊されて以来、日本独特の出版文化をつくりあげてきた学年別学習雑誌。その発行部数が最も多かった1950年代から70年代にかけて表紙画を手がけた玉井力三(1908-1982)の表紙画を中心に、学年誌の100年を追いかける。

 おもしろかった! はじめに戦前の学習雑誌が数点展示されており、男児と女児が並ぶスタイルは戦後と同じだが、男児が女児を守る構図が徹底している。それが気持ちよく壊れるのが戦後で、玉井の描く子供たちは、どちらが男児でどちらが女児か、ときどき分からなくなるほど差異が曖昧である。1960年代の学習雑誌は子供の顔が主役で「パーマン」や「オバQ」の文字はあってもそう大きくない。70年代になると、アニメや特撮のキャラクターが表紙に登場し、絵画の領域を圧迫する。そして、いつの間にか、子供の顔は絵画でなく写真が用いられるようになり、やがて子供の顔写真を使わない表紙に変わっていく。

 会場には、完成形の雑誌表紙の写真とともに、玉井の原画(油彩画)がずらりと並んでいて圧巻だった。よくぞ保管してくれたものだ…。私は、玉井の表紙画とともに幼年時代を過ごした世代なので、とても懐かしく、初めてこのひとの名前を知ることができて嬉しかった。応援団長の山下裕二先生に感謝!

■丸善・丸の内本店4階ギャラリー 第34回慶應義塾図書館貴重書展示会『文人の書と書物 -江戸時代の漢詩文に遊ぶ-』(2022年10月5日~10月11日)

 毎年、楽しみにしている慶応大学の貴重書展示会。今年は、江戸時代、儒学と呼ばれる学問を修め、その成果を社会に生かそうと政治や教育に携わる一方、漢詩や書画などの文学/芸術に遊んだ人々=文人の足跡をたどる。

 北條霞亭撰『厳寒堂遺稿3巻附録1巻』は、旧蔵者の浜野知三郎から森鴎外に貸し出され、鴎外の史伝小説『北條霞亭』の主要資料になった。展示は、小さな付箋に「鴎外付箋」の注釈がついていて笑ってしまった。確かに、ちょっと癖のある文字は鴎外の筆だと思う。

 あと『直舎傳記抄』は、渋江抽斎が津軽藩医の宿直日記を抜き書きしたもので、これも鴎外が当時の所蔵者・富士川游から借り受けて小説『渋江抽斎』の材料にしたものだという。図書の来歴はおもしろい。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝鮮半島の小さな国々/加耶(国立歴史民俗博物館)

2022-10-10 22:06:44 | 行ったもの(美術館・見仏)

国立歴史民俗博物館 国際企画展示『加耶-古代東アジアを生きた、ある王国の歴史-』(2022年10月4日~12月11日)

 楽しみにしていた展覧会なので、さっそく見てきた。企画趣旨によれば、加耶(かや)とは、日本列島の古墳時代と同じ頃、朝鮮半島の南部に存在した国々をいう。単数の「国」ではないことに注意したい。本展は、大韓民国国立中央博物館の全面的な協力のもと、約220点の資料を展示し、加耶のなりたちから飛躍、そして滅亡までの歴史を明らかにする。日本国内で加耶の至宝が一堂に会して展示されるのは30年ぶりだという。30年前に何があったのか、調べてみたら、1992年に東博で『伽耶文化展-よみがえる古代王国』(京博、福岡市博を巡回)が開催されていた。いや全然、覚えていない。韓国史には全く興味がなかった頃かな…。

 展示室に入ると、最初に目に飛び込んでくるのは赤茶色の鉄製の短甲(4世紀)。両胸に蕨手(渦巻)の文様を張り付ける。そのほかにも、大刀、冑、馬冑、鐙、鉄斧、鉄鋌など、多様な鉄製品が並ぶ。馬の顔に被せる馬冑は、中国ドラマの古装ファンタジーに登場する鉄騎軍団を思い出させた。気になって中国周辺の騎兵の歴史を調べてみたら、金(女真族)には重装騎兵がいたのだな。それから、勾玉のかたちの鉄片をたくさん取り付けた鉄鋌も面白かった。棒の先に指して、儀器として用いたものと考えられている。

 加耶の基盤は豊かな鉄にあり、特に金官加耶では、製鉄や鉄器製作の工房に関する遺跡が数多く確認されているという。会場では、加耶諸国の遺跡の様子がスライドショーで紹介されていたが、金官加耶の王陵である金海市の大成洞古墳群には、私は2008年に行ったことがあって、懐かしかった。どんな山の中の遺跡かと思ったら、大きな団地のそばだったことはよく覚えている。

 土器は、透かし孔を配するなど複雑な形状のものが多かった。銅鏡や水晶の頸飾り、金製品も出土している。先の尖ったしずく型の耳飾りは「大加耶系」のデザインとみなされていて、日本国内でも出土例があるそうだ。

 4世紀、加耶諸国の中心であった金官加耶は、海港を通じて中国や倭と活発な対外交易を行っていた。しかし高句麗の一時的な侵攻によって金官加耶は衰退していく。5世紀には、内陸の大加耶が急速に成長し、中国南斉に使者を送り、官爵号を受ける(南斉、ええと梁武帝に滅ぼされる王朝か)。6世紀に入ると百済・新羅が強国化し、562年、加耶諸国は新羅の攻勢により滅亡した。なお『新撰姓氏録』には、百済国人の後裔として「加羅氏」の記載がある。

 また、慶尚南道の山清生草古墳群(6世紀前半)には、倭でつくられた須恵器と鏡を副葬した古墳があるそうだ。この地に定着した倭人が、倭の葬送儀礼にのっとって埋葬されたのではないかという解説が興味深かった。これは、たまたま墓所が発見された事例だが、同じように海を渡って、異国の土に葬られた人々は、たくさんいたのだろうなと想像した。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする