○姜尚中『姜尚中の政治学入門』(集英社新書) 集英社 2006.2
私が最初に読んだ姜尚中氏の著書は、『オリエンタリズムの彼方へ』(岩波書店, 1996)だった。出版よりだいぶ遅れて、著者がメディアに露出し始めていた頃に読んだので、深夜のテレビ討論番組で、生臭い論敵を相手に、積極果敢に発言するジャーナリスティックな著者の姿と、ウェーバー、フーコー、サイードなど、古典的な政治哲学を踏まえ、徹底して論理的・知的に構築された、アカデミックな著作との間に、不思議な落差を感じたものである。
本書は、現代日本の政治状況を読むための7つのキーワード「アメリカ」「暴力」「主権」「憲法」「戦後民主主義」「歴史認識」「東北アジア」について、その由来、論点、展望などを解説しながら、全体として、著者の構想する”アメリカから東北アジアへ”というストーリーが見えてくる仕掛けになっている。
姜先生、あのお忙しい(であろう)毎日で、ちゃんとした本が書けるのかしら?と心配していたのだが、きちんとした内容だった。各項目は、手際よくまとまっており、しかも著者の一人称の主張が、分かりやすい言葉で示されている。ただし、固有名詞がズバリと投げ出されている箇所など、「入門」とは言いながら、ある程度、関連文献を読んだ経験がないと、分からないところはあると思う。紙数の制約上、仕方ないのだが。
本文以上に印象的なのは「あとがき」である。複雑化する現代社会、巧妙に操作される報道メディア、突きつけられる二者択一、そんな中で、我々は何を判断の根拠にすればいいのか――著者は「結局、第六感に頼るしかない」と言う。おいおい、そんな無責任な答えでいいのか、とびっくりした。
しかし、続きを読んで納得した。「第六感」を、単なる思い込みと分けるのは、その根底に、過去と現在の類比を行う思考実験があるかどうかである。そして、このような思考実験は、「生もの」を扱うメディア的な情報だけでは成立しない。「干物」の知が必要なのである。「干物」の知――それは、端的に言えば、大学における人文・社会科学のことだ。メディアにおいては、役立たずの、がらくた同然の学問である。
「生もの」のメディアでは新しく見える現象も、意外に旧かったり、違う衣装を纏って現れたものであったりする。そんなとき、どんなジャーナリスティックな解説よりも、「干物」の学問が、生々しいアクチュアリティを持っていることに気づく。この逆説の醍醐味を噛みしめておくと、どんな難問にも「答えられるに違いないという確信が芽生えてくるようでした」と著者は言う。大胆な発言だけど、それだけの確信がなかったら、大学人のアイデンティティを保ちながら、「生もの」世界の最奥まで踏み込んでいくことはできないだろうなあ、と思った。
個人的なことを書いておくと、私は大学図書館に勤務している。著者に倣って言えば、ここは「干物」の知の貯蔵庫である。しかし、この貯蔵庫でさえ、最近は「生もの」志向が著しい。古典よりも新刊書、図書よりも雑誌、紙媒体よりも電子メディアが重要視され、ストックよりもフローの数字によって、活動実績が測られる。もちろん、著者も最後に述べているように、大学や大学人が「干物」の学問に安住していてよいということではない。しかし、食いつきやすい「生もの」の美味に溺れて、「干物」の知を伝えていくことを忘れないようにしたい、そう肝に銘じて、心ある研究者と伴走する図書館員でありたい、と思った。ちょっと構え過ぎかしら。
私が最初に読んだ姜尚中氏の著書は、『オリエンタリズムの彼方へ』(岩波書店, 1996)だった。出版よりだいぶ遅れて、著者がメディアに露出し始めていた頃に読んだので、深夜のテレビ討論番組で、生臭い論敵を相手に、積極果敢に発言するジャーナリスティックな著者の姿と、ウェーバー、フーコー、サイードなど、古典的な政治哲学を踏まえ、徹底して論理的・知的に構築された、アカデミックな著作との間に、不思議な落差を感じたものである。
本書は、現代日本の政治状況を読むための7つのキーワード「アメリカ」「暴力」「主権」「憲法」「戦後民主主義」「歴史認識」「東北アジア」について、その由来、論点、展望などを解説しながら、全体として、著者の構想する”アメリカから東北アジアへ”というストーリーが見えてくる仕掛けになっている。
姜先生、あのお忙しい(であろう)毎日で、ちゃんとした本が書けるのかしら?と心配していたのだが、きちんとした内容だった。各項目は、手際よくまとまっており、しかも著者の一人称の主張が、分かりやすい言葉で示されている。ただし、固有名詞がズバリと投げ出されている箇所など、「入門」とは言いながら、ある程度、関連文献を読んだ経験がないと、分からないところはあると思う。紙数の制約上、仕方ないのだが。
本文以上に印象的なのは「あとがき」である。複雑化する現代社会、巧妙に操作される報道メディア、突きつけられる二者択一、そんな中で、我々は何を判断の根拠にすればいいのか――著者は「結局、第六感に頼るしかない」と言う。おいおい、そんな無責任な答えでいいのか、とびっくりした。
しかし、続きを読んで納得した。「第六感」を、単なる思い込みと分けるのは、その根底に、過去と現在の類比を行う思考実験があるかどうかである。そして、このような思考実験は、「生もの」を扱うメディア的な情報だけでは成立しない。「干物」の知が必要なのである。「干物」の知――それは、端的に言えば、大学における人文・社会科学のことだ。メディアにおいては、役立たずの、がらくた同然の学問である。
「生もの」のメディアでは新しく見える現象も、意外に旧かったり、違う衣装を纏って現れたものであったりする。そんなとき、どんなジャーナリスティックな解説よりも、「干物」の学問が、生々しいアクチュアリティを持っていることに気づく。この逆説の醍醐味を噛みしめておくと、どんな難問にも「答えられるに違いないという確信が芽生えてくるようでした」と著者は言う。大胆な発言だけど、それだけの確信がなかったら、大学人のアイデンティティを保ちながら、「生もの」世界の最奥まで踏み込んでいくことはできないだろうなあ、と思った。
個人的なことを書いておくと、私は大学図書館に勤務している。著者に倣って言えば、ここは「干物」の知の貯蔵庫である。しかし、この貯蔵庫でさえ、最近は「生もの」志向が著しい。古典よりも新刊書、図書よりも雑誌、紙媒体よりも電子メディアが重要視され、ストックよりもフローの数字によって、活動実績が測られる。もちろん、著者も最後に述べているように、大学や大学人が「干物」の学問に安住していてよいということではない。しかし、食いつきやすい「生もの」の美味に溺れて、「干物」の知を伝えていくことを忘れないようにしたい、そう肝に銘じて、心ある研究者と伴走する図書館員でありたい、と思った。ちょっと構え過ぎかしら。