gooブログはじめました!

写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

「完本 美空ひばり」から 1 おいたち  方言の変質

2024-01-24 12:00:16 | 日記
A.「ひばり」の誕生
竹中労『美空ひばり』は、1965年12月に弘文堂より刊行され、その後、原稿を追加し、1987年9月に朝日文庫(朝日新聞社)の一冊として刊行され、さらに1989年に追悼文を加え「増補・美空ひばり」が刊行された。そしてこの「完本 美空ひばり」は、「増補・美空ひばり」をもとにアンケートへの回答などを収録した形で、ちくま文庫として2005年に刊行されたものである。
 竹中労(1928~1991年)は、ルポライターとして多くの作品を書いたアナーキスト。Wikipediaによると、東京都出身で父は竹中栄太郎という画家。甲府中学中退。「夢野京太郎」「ケンカ竹中」「反骨のルポライター」などの異名を持ち、芸能界や政界に斬り込む数々の問題作を世に送り出した。晩年には癌を患うが、闘病しながら活動を続けた。
 なかでもこの「美空ひばり」の評伝は、美空ひばりとその母に密着し寄り添った記録として知られる。ひばりの生い立ちからその死まで、戦後という時代の風景を織り込みながら、竹中の大衆の偶像たる歌姫というかなり独断ともいえる思い入れに満ちた文章で、刺激的だが基本的な事実はその取材を通じて押さえてある。
 大スター美空ひばりについては、すでにおおくのことが語られているが、いまぼくが確認しようと思っているのは、敗戦の翌年、横浜のはずれの町で、9歳の天才少女歌手として登場する当時の世の中とその雰囲気を知りたかったからだ。まず、はじめの部分は父母と滝頭「屋根なし市場」のことから。

「第一章 私は街の子 生いたち(1937~47)
 1937(昭和12)年。中国との戦争がはじまった年の五月二十九日、美空ひばりは、横浜市磯子区滝頭町で生まれた。
 本名、加藤和枝。父、増吉。母、喜美枝
 家業は魚屋で、屋号を「魚増」といった。
 ‥‥…滝頭は横浜の場末。商店街と住宅街の入り組んだ、ごみごみした下町だった。ひばりの生家は、「屋根なし市場」と呼ばれるマーケットの中にあった。ハモニカのように並んだ店の間口も奥行きもせまいので、軒先から道まで品物をひろげて売っている。だから「屋根なし」である。
 そのころ磯子一帯は、埋め立ての新開地だった。毎日新聞横浜支局刊の『横浜今昔』(昭和32年発行)によると、「磯子の今日を造りあげたのはなんといっても埋め立てにある。埋め立ては明治40年ごろに始められ、大正二年に完成した。滝頭にあった刑務所の囚人を人夫がわりに使って工事は進められた。今のように機械化されていない時代のことで大事業といってもすべて人間の手で行われた。山に深さ五間、十間というトンネルを、五つも六つも掘って、山のシンを痛めつけ、山が崩れ落ちる寸前にトンネルから走り出て逃げる。そして崩れた岩や土をトロッコに積んで海に捨てる。職人の技術といえば技術だが、勘にたよる工事だけに、山がくずれるとき逃げ遅れて、生き埋めになった人も、数多かった……」「屋根なし市場」の裏は刑務所跡の草ぼうぼうの原っぱで、その先のアスファルト道を市電がのろのろと走っていた。
 停留所を二つゆくと市営の魚市場(八幡橋)、そこからすぐに海がひろがっていた。滝頭の子供たちは水着一枚で、歩いて泳ぎにいった。海岸のベットリした砂地を掘ると、赤い虫がとれる。それを餌にして、ボラやハゼが釣れた。
 秋になると、原っぱの空にヤンマの群れがとぶ。子供たちは、たこ糸の両端に鉛のおもりをつけたのを空にほうって、トンボを捕った。
 そういう場末の町で、ひばりは育った。そこには文明にまだ汚されない自然があり、素朴な人の心があった。「屋根なし市場」の人びとは、あけっぴろげな近隣の気安さで連帯していた。貧しくてもほがらかな、そこは庶民の世界であった。
 ひばりは生まれたとき2500グラム、難産で頭部の前後が人並よりも長かった。つまりサイヅチだった(いまでも彼女には出来合いのカツラが合わない)。子ほめにきた隣家の荒物屋の主人が、家に帰ってから「金ヅチが見当たらぬときは魚増の赤ん坊を借りてきて代用品に使えばよい」と笑った。壁越しにそれを聞いたひばりの父親が、カンカンになって怒鳴りこむ。万事、そんな具合だった。
 隣近所の話が筒抜けになるような、へだてのない、そして、いささか落語的な「屋根なし市場」の風景をぬきにして、美空ひばりを語ることはできない。ひばりは正真正銘の街の子であり、大衆の子だった。彼女の「原体験」は、戦火に破壊される前の日本の庶民世界で形成された。
 そのころ街には、古賀政男のいわゆる「古賀メロディ」が、ギターの弦に哀傷の戦慄をのせて流れていた。『影を慕いて』(1929年発売)、『酒は浪だか溜息か』(1930年)でデビューした古賀は、『丘を越えて』『うちの女房にゃヒゲがある』『青い背広で』『人生の並木道』『人生劇場』などを作曲して、名実ともに、歌謡界の第一人者の地歩を築いた。それらの記念碑的な歌曲は、やがて1965年、美空ひばりによってリバイバルする。
  〽わびしさよ
   せめて痛みのなぐさめに
   ギターをとりて爪弾(つまび)けば
   どこまで時雨(しぐれ)ゆく秋ぞ
   振音(トレモロ)さびし身は悲し  (『影を慕いて』古賀政男作詞作曲)
 ひばりが誕生して、二か月後の七月七日。JOAK(NHK)は、『鶯の饗宴』という番組で歌っていたミス・コロムビア(松原操)の声を突然中断して、重大ニュースを報じた。―-北平(現在の北京)郊外盧溝橋付近で、日本軍は中国軍と交戦状態に入った。いわゆる「支那事変」の勃発である。八月八日、北平陥落。同十五日、南京空襲。戦火は速い速度で大陸にひろがっていった。
 だが「屋根なし市場」の明け暮れは、あいかわらずにぎやかで平和だった。戦争はまだ遠い距離にあった。
 ひばりの父親――加藤増吉は、多芸であり多趣味であった。ギターが得意で、都々逸や端唄は玄人はだしの節まわしだった。そして、熱狂的な浪曲のファンでもあった。
 1937年、その前年六月に内務省が発禁にした『忘れちゃいやよ』(最上洋作詞 渡辺はま子唄)がようやく下火になって、広沢虎造『石松代参』の名調子が全国を風靡していた。
〽バカは死ななきゃなおらねえ……というあれである。
 増吉氏はみずから清水次郎長を気どって、店の若い衆二人に、小政、石松と異名をつけるほどの気の入れようだった。ひばり五歳のとき、その石松が、友人と「市電にぶつかって死ぬか死なぬか」というバカな賭けをした。そして、本当に電車に体当たりを敢行して、冥土へ旅立ってしまった。そんなすっとんきょうな、“身命を鴻毛の軽きに置く”日本男児が健在だった時代である。男一匹、「たとえどんなにチッポケでも、てめえの城ってものを持たなきゃいけねえ」というのが増吉氏の口ぐせだった。
 増吉氏は、栃木県の農村(河内郡豊岡村)の四男坊である。十六歳のときに横浜に出てきて、魚屋に奉公し、二二歳で独立して自分の店を持った。東京山谷の石炭卸商の長女であった喜美枝さん(旧姓・諏訪)と見合い結婚したのは、二四歳の秋。戦前の社会で、田舎から歩ッと出の若ものが、たとえ九尺二間にもせよ「自分の店」を構えるのは、なみたいていのことではなかったのである。
 いわば立志伝中の人である増吉氏は、なかなかエリート意識が強く、「屋根なし市場」の文化人をもってみずから任じていた。
 東海林太郎そっくりの男前だったし、宵越しの金は持たないという気っぷであったから、増吉氏は、花柳のチマタで大いにもてた。都々逸、端唄などの『教養』は、そこで見についた。
 ひばりは回想する。
「……私のお父さんって人はよくいえば粋な人、はっきりいっちゃえば道楽ものだった。仕事もするかわりに遊びも派手で、母をずいぶん泣かせたものです。そのくせ、私が芸能界に入るときには大反対でした。歌うたいなんか、河原コジキのすることだって、死ぬまで頑固なことをいってました。でも、私に“芸”の手びきをしてくれたのは、その父だったんです。こうして目をつぶると、店の上がりかまちのとこに腰かけて、ポロロンポロロンてギターを爪弾いている父のすがたがうかぶんです。“お父さんって芸人だなあ”って思ったものでした……」
 美空ひばりの最初の「歌の記憶」は、百人一首の朗詠であった。
 1940(昭和15)年―-皇紀二千六百年の前夜に復古調の波にのって。小倉百人一首が全国津々浦々に流行した。増吉氏は、早速町内の若い男女を集めて、盛大にカルタ会を開いた。「魚増」の店先からは夜も昼も、みやびやかな(?)うた声が流れた。小政がサバの切身をつくりながら「あひみてののちの心にくらぶれば」と上の句をかけると、石松がマグロのあらを皿に盛る手を休めて「昔はものをおもはざりけり」と下の句をうける。
 そんな掛け合いの途中で、「めぐりあひて見しやそれともわかぬまに」という紫式部の恋歌の下の句につまっているのを聞いて、そばにいたひばりが、「雲がくれにし夜半の月かげ」すらすらと後をつけた。満三歳の冬である。
 おどろいた増吉氏が、ためしに上の句をたてつづけに読みあげると、ひばりは百句のうち七十五句まで、よどみなく暗唱することができた。むろん、意味などわかりはしない。呂律で、耳におぼえていたのである。
 このエピソードは、重要である。たんに天才的な「暗譜(誦)」の非凡な能力があったというだけでなく、やがて大衆芸術家・美空ひばりを形成する原体験を、ここに見ることができる。ギター、浪曲、都々逸、そして、百人一首、……父親の「道楽」は、幼いひばりの魂に日本の音律を刻んだ。
 百人一首の朗詠が持つ、素朴な七五調の抒情は古来、私たち民族の情動を支配してきた。
 それは、祭文、筑前びわ、浄瑠璃など、さまざまに分化した「語り」の音曲の原型である。日本人の哀傷、詠嘆、かいぎゃく、その他もろもろの詩的感情を表白するのに、もっとも適切な音律がそこにある。
 七五調の情念については、一つの論を後にまとめたので、ここではくわしく述べない。ともあれ日本の音律は、その揺らんのときから、ひばりと共にあった。
 そして横浜という港町が必然的に持たなければならなかった、バタ臭い異国情緒も、ひばりの心に早くから根をおろした。昭和一二年、淡谷のり子の『別れのブルース』が登場した年でもあった。」竹中労『完本 美空ひばり』ちくま文庫、2005年。pp.16-23.

 いまNHK朝ドラでやっている「ブギウギ」は、笠置シヅ子がモデルだが、美空ひばりが人前で歌って注目されるのは、当時爆発的に流行した笠置シヅ子の唄、「セコハン娘」だったという。敗戦直後の混乱と飢餓の時代に、占領者アメリカの音楽である(スウィング)ジャズの派手なリズムを強調した曲を、小学生の少女が唄うことがどれほど異常で刺激的なことであったか。それをいま想像することは簡単ではない。とにかく、美空ひばりは父と母に導かれ、ここから出発したのだ。


B.方言の意味変換
 庄内鶴岡にぼくが毎月通うようになって、もう5年近くなるのだが、地元の人たちの会話にでてくる東北弁のひとつである庄内弁を耳にすることはあっても、ちょっとしたイントネーションや語尾などで方言かと思うことはあるが、意味不明で困るようなことはまずない。高齢者には方言中心の人もいるが、大半の人びとはテレビで話す標準語を使えるし、よそ者に違和感は与えない。つまり方言は、失われつつあるともいえるし、完全に方言だけで暮らしている生活は、ごく少数の高齢者だけになっているのかもしれない。方言への蔑視や拒否は、かつてほど主張されず、それをむしろ固有の文化として尊重したいという気分もある。ただ、逆に若い人たちは方言から遠ざかることを意識して残念に思うこともあるかもしれない。いずれにしても、方言を知らないぼくのような東京人には、井上ひさしが絶妙に作品化した方言の多彩なありようの歴史性は、うらやましい文化遺産だと思う。

「震災も逆風 方言は消えるのか  東北大学名誉教授 小林 隆 さん
 単語や文法に土地ごとの特徴が表れる「方言」。2011年の東日本大震災の際には、地域コミュニティーの崩壊などからその消滅が加速したと言われる。方言に未来はあるのか。東北伊地方を中心に調査・研究を続ける方言学者小林隆さんに聞いた。(編集委員・宮代栄一)
 18年の平昌冬季五輪で銅メダルを獲得したカーリング女子日本代表のLS北見(ロコ・ソラーレ、北海道)の選手たちが試合中に交わした、北海道弁の「そだねー(そうだね)」が、その年の新語・流行語大賞に選ばれた。熱戦とのんびりしたアクセントのギャップが話題となった。
 東北大学名誉教授で方言学が専門の小林隆さんは「あの言葉を聞いた多くの人は、北海道弁に、素朴でかわいいといったイメージを抱いたのではないでしょうか。このように、近年、方言はポジティブに評価されるケースが増えています」と話す。
 19世紀、近代化を急いだ明治政府は「一国家、一民族、一言語」の還俗を掲げ、言文一致に加え、学校教育や軍隊などで共通語(標準語)の使用を奨励した。戦前の沖縄では、学校で方言を使った子どもが、罰を示す札(方言札)を首にかけさせられることもあったとされる。かつて、方言は悪であり、撲滅すべきものだったのだ。
 「ですが、実際にはほとんど効果はあがりませんでした。他方では共通語の必要性が実感として感じられず、子どもたちも学校では共通語教育を受けても、家では方言しか使っていなかったからです」
 変わったのは高度成長期。「交通が発達し、人の行き来が増えた結果、多くの人が方言のやりとりだけでは意味が通じにくいと感じるようになった。そこへテレビやラジオから共通語が流れてくる。必要性に後押しされる形で、若い世代を中心に全国で共通語が話されるようになりました」
 一方、共通語化が進んだ結果、ユネスコ(国連教育科学文化機関)が09年に発表した「消滅の危機にある言語・方言の一覧」で、アイヌ語、八重山方言、国頭方言、沖縄方言、宮子方言の八つが世界の約2500限後と並び、きわめて深刻・重大な危機・危険の三つのランクに該当するとされるなど、マイナス面も顕在化している。
 現在、能登半島地震の被害が連日報じられているが、小林さんによれば、大災害も方言の消滅を加速させるらしい。
 11年、小林さんも所属していた東北大学方言研究センターが東日本大震災後発災後の青森・岩手・宮城・福島4県の方言の状況を分析したところ、岩手県宮古市や宮城県気仙沼市。福島県いわき市などの数十か所で、人口減やコミュニティ―の崩壊などにより、その地域特有の方言が危機に瀕していることが明らかになった。「話者が亡くなったり、移住したりすれば、その地域における方言は脆弱になる」と指摘する。
 発災後、宮城県には全国から支援ボランティアが訪れたが、東北特有の方言のせいで、地元の人とコミュニケーションがとりづらい状況が続いていた。そこで、小林さんたちは以前からフィールドにしていた気仙沼市を訪れ、避難所やボランティアセンターなどを回って、地元の人との会話で何が通じないのかを徹底的に聞いて回った。
 「すると『かれき投げて(捨てて)ケロ』と言われ、『がれきをぶん投げればいいのか』と思ったとか、からだがびょうてきにつかれてしんどいことを『こわい』と言うのですが、『こわい、こわい』と言われて『何がこわいのかと悩んだ』といった話が出てきた」。そこで、誤解を招きそうな方言をパンフレットにまとめ配布したという。
 16年に起きた熊本自身の時は、この経験が生きた。すぐ現地に行くことができなかったため、わかりにくかったり、意味を取り違えたりしそうな熊本弁の言葉を選んでパンフレットを作り、八歳から1週間前後でネット上に公開したのだ。
 東北大学方言研究センターでは現在、今回の能登半島地域にも対応しようと、能登地方の方言パンフレットの作成を急ピッチで進めているという。「今後、受け入れ態勢が整えば、各地からボランティアなどの支援者が多く駆けつけるでしょう。その時に役立ててもらえば……」と話す。
 小林さんによると、消滅の危機に瀕していない方言も、「日本列島内では、その役割が大きく変容しつつある」という。
 「すべての言葉には本来、考えや知識を伝えるという役割があるのですが、その部分はすでに共通語が代行してしまっている。そのため、あえて方言を使うのは、相手との心理的距離を縮めたり会話の雰囲気を和らげたりする必要がある場面に限られるようになってきているのです」と語る。
 「たとえば共通語的な会話でも、語尾を方言にしたり、『おばんです』と挨拶したりすると、途端に場がなごむでしょう。現代における方言は気持ちのやりとりを円滑に行うためのツールであり、方言が今後生き残る道はそこにしかないとも思うのです」
 かつて民俗学者の柳田国男は、方言の地理的な分布はほぼ同心円で、文化の中心地には新しい言い方が広まる一方、中心から遠いところに古い言い方が残るという「方言周圏論」を唱えた。「柳田の説は基本は正しいのですが、では、東北と九州に古い言葉が同じように残っているかというと、そんなことはない」。東北が変化しやすいのに対し、九州は変化しにくいという。
 たとえば、東北弁の「どこどこさ行く」の「さ」は、古典語の「さまに」から来ていて、言葉尻を削った結果だという。また、「誰々はあそこにいたっけよ」などの「け」は、古典語の「けり」の「り」を短くして意味も変化させたものだという。
こうした語尾の変化の根底にあると思われるのが「言葉は簡単に使える方がよく、そのためには変化も容認すべきだ」との考え方だ。「特有の言い方が成立する背景には、東北の人たちに特有の発想の仕方があるのではないでしょうか。東北弁はズーズー弁といわれ、『し』と『す』、『じ』と『す』の区別をしませんが、その方が発音が楽だからです。空から降る雨となめるあめのアクセントを区別しないのも同じ理由です。それでも会話には困りませんので、言葉遣いに対する東北人の発想は、きわめて合理的だと私は思います」」朝日新聞2024年1月19日夕刊6面。
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「未完のレーニン」を読む ... | トップ | 「完本 美空ひばり」から 3... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事