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映画の真実 12 黒澤明とサムライ(続) 蓮實的ジョン・フォード論

2022-07-24 12:03:20 | 日記
A.「七人の侍」のフィクション  
 いまはもう70歳を過ぎた「団塊の世代」と呼ばれた戦後まもなく生まれた人間(ぼくもその一人だが)は、物心つく小学生時代から、楽しみといえば映画館でみたチャンバラ時代劇のスターや、始まったばかりのテレビ放送でもっぱら流されたアメリカ製の拳銃バンバン撃ちあう西部劇だった。とくに、東映時代劇の若手スター、中村錦之助や大川橋蔵、東千代介に大友柳太郎の太刀さばきのカッコよさは憧れで、棒っ切れを手にしてそこいらへんの「広っぱ」で友だちとチャンバラごっこをして、「ううっ、こしゃくな!」とかいって遊んでいたのである。しかし、そういう東映時代劇は、歌舞伎の伝統を引き継いでお約束の型にのっとった演技で、チャンバラも踊りのような型通りのものだった。
 ところが、黒澤明の「用心棒」を見たとき、これは今までの時代劇とはぐっと違う、第一登場人物の衣装から舞台になる宿場町まで、ほこり臭くて汚い。三船敏郎演じる主人公は刀を抜くと一瞬で、やくざ者の片腕を切り落としてしまう。その迫力に観客は圧倒される。次の「椿三十郎」になると、同じ三船と敵役の仲代達也が、最後に決闘して斬られた仲代の胸から血がドバっと噴き出した。東映時代劇では切っても血もでないし、音もしなかった。これが衝撃的で、以後の時代劇では刀で人を切る音が、ズバッ!バシュッ!と生々しくなる。斬り合う殺人の場面が、舞踊のような次元からリアリズムになる。
そして、それまで日本の時代劇など外国人にはまったく興味を引かない、ローカル民族芸能みたいな存在だったのが、映画としての迫力とドラマの造形性で非常にユニークかつ優れた作品だと認められ、黒澤明の名声は世界に広がっていった。その頂点ともいうべき作品が「七人の侍」で、これがアメリカの西部劇にそのまま焼き直された「荒野の七人」が作られたことが、黒澤の名をさらに高めた。じつは1930年代から隆盛を極めるアメリカの西部劇のアクションを、黒澤は研究して、日本で西部劇のようなものをやろうとしたら、馬に乗ったサムライが刀を振り回す活劇を構想したというわけだ。「羅生門」でロジカルで心理的な時代劇を作った黒澤が、今度は剣豪物語から発展した集団戦闘アクションを、戦国時代を舞台に作りあげたのが「七人の侍」だった。

 「(黒沢の)「羅生門」のこの実験を元にして、十五世紀頃の夜盗の群れと七人の侍に指揮された農民たちの戦いを再現しようと試みたのが「七人の侍」である。だからこれも、主流の時代劇とは全く別な作品であり、主流の時代劇の様式をすべて無視して新たにリアリズムの方法で時代劇を作りなおそうとした実験的な作品だったのである。
 ただ「七人の侍」が本当のリアリズム作品であったかということについては疑問が残る。日本の歴史学には当時まだ、民衆の生活の実体を実証的に調査研究しようという動きはあまりなかったので、黒澤明はそれを想像で補って、夜盗の群れとの戦い方を知らない農民たちが主人を失った侍たちを雇ってその指揮の下で戦う、という物語を作りあげたのであるが、今日ではこの時代の農民の生活ぶりは、発見された記録文書によって相当くわしく分かるようになっている。藤木久志『戦国の村を行く』(朝日選書、1997年)によれば、戦乱の絶えなかったこの時代には、農民たちは夜盗と戦うどころか、大名の正規軍とさえも必要に応じて戦う用意があり、そのためには武装はもちろん、ときには城さえ作って、戦闘のための組織をつくり、各種の掟も持っていたというのである。たとえば村に怪しいものが入ってきた場合、それを発見した者が「出会え!」と大声で叫んだら、それを聞いた者はただちにどんな作業もなげうってそこに駆けつけなければならない、という掟があり、この掟に従わなかった者には村の制裁が課せられたそうである。
 近年明らかになったこういう研究が正しいとすると、夜盗の襲撃に脅えて侍たちの指導がなければただウロウロしていることしかできない「七人の侍」の農民たちの姿は、当時の日本の農民を正しく伝えているとはいえないことになる。事実、黒澤明に、侍をとくに英雄化し、農民や商人、職人のモラルにはあまり敬意を払わない傾向があることは、のちの「隠し砦の三悪人」(1958年)や「用心棒」や「椿三十郎」(1962年)などにもはっきり認められるところで、そこが作家としてひとつの限界だったといえるだろう。
 しかしここで「七人の侍」のために少しばかり弁明するとすれば、主流の時代劇では侍を英雄化して一般民衆を勇気のない凡庸な群衆として描くということは常識だったものであり、黒澤明だけがそうだったわけではない。また主流の時代劇で侍階級でない者が英雄的な行動をする場合には、ほとんどが、やくざすなわちバクチ打ちのならず者という設定になったものである。日本映画のなかで大きなジャンルを占めてきた〈やくざ映画〉がそれである。
 これは日本の社会のなかで下層階級の自信を表現した物語が容易に成り立たなかったからであるが、道徳家だった黒澤明は、ならず者を英雄化するいわゆるやくざ映画は決して作ろうとは思わなかった。ただいちど、これは時代劇ではなく現代劇であるが、「酔いどれ天使」という作品で三船敏郎にやくざを演じさせたことがある。黒澤明としてはこのやくざを意志の弱い愚か者として十分に批判的に描いたつもりだったのに、若い観客はこのやくざを英雄視して喝采した。すると黒澤明は、次の「静かなる決闘」(1949年)と「野良犬」では三船敏郎に正義感あふるる真面目な青年を演じさせて、やくざを奨励する意思のないことの弁明とした。
 侍を英雄化しすぎる傾向についても黒澤明は自己批判を持っていた。三船敏郎にスーパーマンのように強い侍を演じさせた「用心棒」と「椿三十郎」を作ったあと、この日本における残酷描写が、主流の時代劇にも影響して残酷な斬りあいの場面が流行になった。すると黒澤明は、そういう困った流行を生み出した責任は自分にあると考え、その流れを変えようとして「赤ひげ」(1965年)を作った。これは斬りあいのエンターテインメント化の逆で、貧しくて弱い病人たちの医療のために献身的に努力する医者たちを描いた時代劇である。
「赤ひげ」の原作者の山本周五郎は、侍を英雄化することが常識だったエンターテインメント的な時代劇の作家たちのなかでは例外的に、スーパーマン的な侍をあまり描かず、下層の民衆のささやかな道徳的行動を印象的に描く作家だった。
 貧乏人にも自尊心がある。それはどのような現れ方をするか、ということが、山本周五郎がその小説で一貫して追求した主題のひとつだったのである。
 「赤ひげ」のなかにも、どんなにみじめな境遇にあっても道徳的な節度を守って生きようとする貧しい患者たちのエピソードがいくつも盛り込まれている。「赤ひげ」以後、さらにそういう下層の民衆の道徳的節度を追求しようとして、黒澤明は同じ山本周五郎の小説による現代劇の「どですかでん」(1970年)を作る。
 しかし強い侍を描くときに比類のない表現力を発揮した黒澤明が、貧しく弱い者の自尊心を表現するときにも同じように大きな表現力を発揮できたとはいえない。「どですかでん」は日本でも世界でもそれまでの黒澤明作品のようには成功しなかった。
 晩年の黒澤明は「影武者」と「乱」で国際的な名声を保った。これらは絵画的な美しさという点では卓抜な作品であるが、現代の観客に対して特に意義のあるメッセージが含まれているとは思えないところが日本人には不満だった。古くからの黒澤ファンの日本人は、黒澤明が時代劇ならば国際的に受ける、というところに逃避したと考えたのである。他方、現代劇の「夢」(1990年)や「まあだだよ」(1993年)も、すぐれた画家としての才能は示したが、ドラマとしてはいかにも子どもっぽくて成功した作品とはいえないであろう。
 黒澤明は、武士道という過去のモラルの良い面を、封建思想や軍国主義や形骸化した伝統的様式などのなかから救い出し、日本人が自信を失って劣等感の中に沈んでいたときに、心の支えとして提供した人だといえる。そのとき彼は比類のない造形力を発揮したが、じつはそういう意味での武士道的モラルをもっとも見事に表現した作品は、皮肉なことに侍を主人公にした時代劇よりもむしろ、現代劇で見るからに凡庸な小役人を主人公にした「生きる」だったのではなかろうか。
 この凡庸な小役人は、癌であと半年しか生きられないと自覚して死を見つめたとき、全力をあげて役人としての義務を果たし、民衆に奉仕し、そして黙って満足して死んでゆくのある。これこそ敗戦後の日本の社会に蘇った武士道であり、日本の復興を支えた精神である。
 志村喬が演じたある都市の市民課長は、見るからに無気力な事なかれ主義者で凡庸な小役人であるが、癌であと半年ほどしか生きられないと知った時から生き甲斐の模索を始め、ちょっとでも何か意義のあるものを作ることこそがそれだと思い当たり、市民課長としてやるべき仕事のひとつである、裏町の汚いドブを埋め立てて小公園にするという案件に打ち込む。なんでもない小さな仕事のようだが、これがじつは、役所のあらゆるセクションにかかわりのあるもので、ぜんぶの了解やら協力やらを取りつけるための苦労と手間といったら並大抵のことではない。それをまるで、下級武士が上級武士に願い事や根回しやあいさつに歩きまわるようないんぎんさで粘りに粘って歩きまわり、ついに目的を達して工事が完成した夜に、その小公園のブランコで身体をゆすりながら雪の降るなかで「命短し恋せよ乙女……」と歌って満足そうに死んでゆく。これは日本映画に描かれたもっとも見事で美しい死に方といえよう。見事に美しい死に方をするというのは日本の武士道の究極の理想ということができるが、その意味でこの男は、戦後に生き残っていたサムライであり、敗戦で全面的に否定された武士道の伝統はじつはこんなかたちでひっそりと受け継がれ、日本の復興を支えるひとつの力になっていたのだと思う。侍という美化されたイメージが、侍の否定された戦後に別のおよそ侍ふうではない人間像に乗り移って、戦後の復興期を支えた日本人の典型となり、模範=規範になったのである。
 「生きる」が作られた1952年は、武士道など日本の悪しき軍国主義の支柱のひとつとして思い出すのもいまいましかったものである。「生きる」自体にも武士道などどこにも言及されてなどいない。しかしここにあるのはまぎれもなく武士道の精髄というべき精神である。否定されても別のかたちで生きのびるものこそ本当の伝統なのであろう。」佐藤忠男『映画の真実 スクリーンは何を映してきたか』中公新書、2001年。pp.214-229。

 現代劇、それも市役所の課長というごく日常的な世界を舞台に、黒澤明が感動的な映画にした「生きる」は、「七人の侍」とはまったく別の設定と時代の映画だと思っていたが、佐藤忠男さんの「これは戦後の復興を支えたサムライの生き残り、武士道の形を変えた表現だ」という指摘は、考えたこともなかったので、少々驚いた。けれど、そういわれてみると、志村喬が演じたこの市民課長、渡辺勘治という哀れな男の再生の物語は、武士道に通じるのかもしれない。妻に早く死なれ、生きがいとしていた一人息子に突き放され、あと半年の命と胃がんで絶望の淵にある彼は、役所を欠勤して夜の街に出て、遊興をしてみるが何の満足も得られない。ところが、若い部下の女性の溌溂とした言動に、なにをすれば意味のある人生が開けるのか、すがるように纏わりつく。世間には疲れ老いた男のばかげた「老いらくの恋」にしかみえない。しかし、彼女とレストランで最後に話したあと、彼は覚醒したようにウサギのおもちゃを手に階段を降りていく。そこに女性たちのハッピーバースディの裏声が降り注ぐ。これは非常によくできた演出だった。でもここまでは、彼は侍ではなく武士道でもない。生まれ変わった彼は、住民から不衛生な橋の下の土地を公園にするという計画に、献身的に取り組む。やがて場面は、彼の葬式の場に変わる。同僚たちが語る生まれ変わった「渡辺さん」の姿は、まさに老いたサムライの武士道に匹敵する。そして彼が満足して雪のなかブランコに乗って「命短し・・」を歌って死んでいく。これが黒澤明の映画における美学であり、思想なのだといえば、その通りというしかない。


B.ジョン・フォード論の難解?
 蓮實重彦の本が難解だといわれるのは、たとえば専門のフランス文学で代表作ともいえる『凡庸な芸術家の肖像 マクシム・デュ・カン論』(1988年)などは確かに、かなりの知識を要するし、膨大な映画論も、ふつうの映画ファンが読んですっきり理解できるレベルの著作とは言えない。つまり、蓮實氏がどういう視点で何を問題にしているかを、何も知らないで、月並みな映画評論家が書くようなことを期待しても、まさに「凡庸」の極致でしかない。でも、初期の「反=日本語論」(1977年)などを読めば、じつは非常に親しみやすく分かりやすい文章を書く人だとわかる。
 そして、そんなに蓮實重彦を読んでなくても、映画論についてなら「監督 小津安二郎」(1983)という名作(仏語・韓国語訳もある)を読めば、この人の世間の常識や定説を、映画作品そのものによって見事にひっくりかえしていく妙技に感心するはずだ。小説「伯爵夫人」で三島由紀夫賞を受賞したときの、記者会見で「自分を選ぶなど、はた迷惑、暴挙だ」と発言して、物議を醸したように、この人の発言や著作は非常に戦略的に、人のアホな期待を足技のように裏切っていくことにいわば命を懸けている。元東大総長で高齢の新人小説家というどうでもいい知識だけで、蓮實重彦の文章を読んだこともないインタビュー記者に、何言ってんだと足蹴にする。
 その蓮實氏が、小津に並んで気にかけてきたジョン・フォード論を書いたという。まだ、読んでいないがこれは読まねばなるまい。

 「ジョン・フォードのレッテル 覆す:ハリウッド巨匠を評論蓮實重彦さん最新刊
 多彩な活動を続ける蓮實重彦さんが『ジョン・フォード論』(文芸春秋)を上梓した。ハリウッドの巨匠監督の膨大な作品群に、オリジナルな視点で迫る大著。映画評論としては、1983年の『監督 小津安二郎』に並ぶ代表作になりそうだ。そして、この2冊には大きな共通点がある。

 ジョン・フォード(1894~1973)はサイレント時代から発動を始め、「駅馬車」「怒りの葡萄」「わが谷は緑なりき」など数々の作品で知られる。アカデミー監督賞も4度獲得。とりわけ西部劇のイメージが強い。
 蓮實さんは86歳。30代の頃にフォード論を書くと決めていたという。「わたくしが仇を討たねばならない監督が2人いました。それが小津とフォードでした」
 監督作品の全貌を詳細に論じたのはこの両者しかいない。「2人とも『保守反動』とされていました。しかし、そんなことはありません。『ちゃんと画面を見てみろ』と言わねばならないと思っていました」
 今でこそ小津を古くさいという人はめったにいない。だが半世紀前、小津は若い批評家や監督の批判にさらされていた。西部劇や戦争映画を撮ってきたフォードもまた「人種差別」「男尊女卑」「軍国主義」などというレッテルを貼られている。
 蓮實さんはレッテルを一つずつはがしていく。例えば男尊女卑との批判には、勇猛な女性が幾人も登場することをあげ、いわゆる男らしい男たちがなぜか白いエプロンをまとっていることを検証する。「ほらここでもエプロンが物語に介入しているではないか、と。フォードは性差の境界を繊細に壊しにいっています」
 「騎兵隊」3部作の第1作「アパッチ砦」という作品がある。軍国主義の典型のように言われるが、事はそう単純ではない。ラストで、主人公の大尉を演じたジョン・ウェインが、部隊を壊滅させた中佐(ヘンリー・フォンダ)のことを新聞記者の前でたたえる。
 「ウェインのすさんだ顔を見れば、軍国主義の賛美などではありえないと分かるはずです。部隊が壊滅したこの映画を、第2次大戦で米国が勝利した3年後に発表している、これが保守反動の監督に撮れますか」
 先住民への侵略を描いた西部劇は本質的に人種差別的だ。しかし蓮實さんはウェインと先住民のリーダーに同じ身ぶりをさせることで「連帯関係をフィルムに行きわたらせる」と書く。「フォードは複数のことを同時にやろうとした。心の開かれた監督です。それを「一つの視点からしか見ないのはとても悲しい」
 小津やフォードにレッテルがあるように、蓮實さんにも「難解」というレッテルがある。「難解な言辞を弄する面倒な男」として煙たがられていた、と自身で書いている(文芸春秋8月号)。しかしこれも実際にページをめくると、なじみのない外来語や学術用語がほぼ使われていない。いわゆるレッテルとは印象が異なることに気づくだろう。
 刊行を記念した特集「二十一世紀のジョン・フォード」が東京・渋谷のシネマヴェーラで上映される。23日~8月19日のパート1は「香りも高きケンタッキー」のMoMA修復版など計25本。9~10月のパート2では、大九明子監督と蓮實さんのトークショーもある。 (編集委員・石飛徳樹)」朝日新聞2022年7月22日朝刊25面文化欄。
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