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「能」を知る 2 能と仏教のかかわり  歴史の闇

2024-03-08 21:19:59 | 日記
A.能以前と仏教
 能という芸能の特色のひとつに、複式夢幻能と呼ばれる物語と劇構成の型があり、それが取り上げるもととなる物語は、源氏物語や平家物語もあれば中国を舞台するものまでさまざまなのだが、どれもこの世に恨みを残す亡霊が主人公になっている。前段で何気ない人物として登場して過去のいきさつや情景を語り、後段でその本性を現した異形の姿を見せて舞い踊り、そこに立ち会うワキの僧がその魂を鎮めあの世に送る、という形式をとるものがこの複式夢幻能である。
 このような曲の多くを書いたのは15世紀はじめの世阿弥だとされるが、この亡霊や怨霊が現れその恨みを述べ、それを鎮魂し弔うことで劇が終わるという思想には、仏教の影響が大きいといわれる。能の源流である猿楽や田楽、あるいは古代からの歌謡や演芸などにも仏教の影響はあるとはいえ、世阿弥が完成させた能が、とくにこうしたテーマと劇の構成をもっていることは、他の伝統芸能とは異なる特徴ともいえる。
 また、足利幕府の3代将軍義満に保護され愛された能は、その後も武家の式楽として定着したことから、その観客として想定された武士たちの精神や期待に応えるものとして、江戸末期までその型が保存伝承されてきた。戦に命をかけて戦った戦士としての武士の記憶を、文化的な精神性に高めるものとして、仏教と能が結びつくというのもありそうなことだと思われる。観世清和氏はこれについて、こう語る。

「では、どのようにして猿楽は仏教と出会ったのでしょうか?私が二つのきっかけと申したその一つは、「修正会(しゅしょうえ)」と呼ばれる法要です。
 これはご存知の方も多いかと思いますが、年の始まりにあたって、僧衆はじめ人々が懺悔の行をつとめ、罪を取り除くと共に、除災招福・五穀豊穣・国家安泰を祈る儀式です。中でも、二月に行われるものを特に「修二会(しゅにえ)」と呼び、奈良・東大寺二月堂のものが、別名「お水取り」と呼ばれて、大変よく知られています。
 この修正会あるいは修二会に猿楽が大きな役割を果たすようになるのです。時代で申しあげれば、十一世紀ごろからのことと見られます。
 実は私は、この東大寺修二会の行を、内陣から、ごく身近に拝見したことがあります。そして大変に驚きました。叫び、跳ね、走り、五体を投げ出す。あげくの果ては火のついた松明を引きずり回し、内陣に放り出す……まことにすさまじい行だったのですが、それらは、宗教儀礼というよりは、演劇であり、多くの猿楽の技が見えたのです。そこには、私どもが今日「ハコビ、サシコミ、ヒラキ」などと称している型のすべても含まれていました。私は能のルーツがそこにあることを確信しました。
 実際、その行を拝見した後に、高僧の方に率直な感想をお伝えすると「確かにそうです。これは宗教儀礼ではありません。芸能の一つです」とおっしゃっていました。
 一年の始めに、その年の安泰を祈って、火と水によって混沌としたカーニバル状態をつくり、それによって一年間を清浄なものとする、ということが行われているのです。混乱は天狗によってもたらされると考えられていました。そこで、それを抑えるために、天狗の所業をみずから演じ、それを鎮めることで、一年の安泰を確保するという趣向です。そして、そこに猿楽の技が用いられていました。
 おそらく最初は、修行僧が行っていたものでしょう。しかし、猿楽の役者は高い技量を持ち、パフォーマンスに長けています。修行僧よりは上手に、しかも迫力満点に演じることができます。こうして宗教上の行法と芸がない交ぜになっていったのでしょう。そして、この仏教空間から、新たな芸が立ち上がってきたのではないかと思います。
 東大寺だけではありません。興福寺の修二会でも、猿楽技が用いられています。ここでは春日野山から運ばれた薪が供えられ、それが赤々とたかれ、猿楽が演じられました。ここから「薪猿楽」が誕生し、後に「薪能」として催されるようになりました。
 いずれにしても、仏教行事である修二会と猿楽の出会いが、素朴な物まね芸を後の能へと導く、一つのきっかけとなりました。
 そして猿楽と仏教が出会った二つ目の場面、それは「勧進」の世界でなかったかと思います。
 勧進というのは、寺院の建立や修繕などのために、信者にその費用を奉納させることを指すもので、そのことによって人々を仏道に導き、善行をなさしめるというのが本来の主旨です。勧進の観覧料が寺院の建立費用に充てられたのです。
 俗に「勧進帳」と呼ばれるのは、勧進の目的について書かれた巻物形式の趣意書のことで、勧進の発願趣旨や、寄付によって得られる現世利益や極楽往生などについて説いています。
 ご存じのように、歌舞伎の演目には、その名も『勧進帳』と名付けられたものがあります。これは能の『安宅』から取り入れられた演目です。義経を隠して無事逃れようとする弁慶は、安宅関で関所の役人に問いつめられ、東大寺建立のために諸国に遣わされた勧進山伏であると名乗ります。すると役人は、それが事実なら勧進帳を持っているだろう、それを読み上げよと命じ、弁慶が咄嗟の機転で白紙の書状をいかにもそれらしく読み上げます。能の『安宅』のシテは面をつけない「直面」で演ずるのが決まりで、演者には難しい曲の一つとなっています。
 さて、この弁慶の勧進山伏は少し特別かもしれませんが、一般に勧進は、おそらく最初は、僧侶が諸国を巡り、仏教的な法話を聞かせ、説教し、寄進を募るというものだったと思われます。この勧進の場は、観客の人々にとっては、亡者供養の場でもありました。だからこそ人が集まったのだと思います。
 人々は、今も成仏できずにさまよっているかもしれない父や母、あるいは先祖のことを思い、その境遇から救うために、そして自分の後生も極楽往生できるように、この勧進の場に進んで出向き、貧しい財布の中からお金を寄進していったのです。つまり勧進の場とは、たんなる寄進の場ではありませんでした。説法を聞きお金を出すだけなら、それほど人は集まらなかったでしょう。人びとが進んで赴くだけの、意味を持った場所だったのです。
 そして、ひとりでも多く集め、少しでも多くの寄進を得るためには、わかりやすく、また、おもしろくて人も集まりやすいイベントが必要です。おそらくそこから、当初の僧侶の法話も見て面白い仏教劇、説教劇に変ってゆき、興行としてもたれるようになっていったのでしょう。この興業化した勧進の場面に、卓越した演技力を持つ猿楽の役者たちが合流してくることになるのです。
 彼らはプロの芸能集団です。その所作は鍛え上げられています。彼らを起用することは、勧進の場をさらに魅力的なものとしたことでしょう。勧進の成功は、彼らの力量に負うところも大きかったに違いないと思います。大いに人が集まり、当然、寄進も多くなりました。
 こうして、仏教の修正会、修二会の空間に、そして少し遅れて勧進の空間に、猿楽が入りました。それが猿楽を大きく変えることになります。見物客の心をとらえる、見どころたっぷりの小演劇として完成度を高めていったからです。それはやがて「能」として大成されていきます。
  武士階級の新しい文化装置として 
 その流れを強く後押ししたものもありました。それは、当時の武士階級が、新しい自分たちの文化を持とうとしていた、ということです。
 1375年頃に京都・今熊野で行われた猿楽で、観阿弥とその子。鬼夜叉(世阿弥の幼名)が勤めた舞台がありました。それを観覧していたのが、当時若干十七歳の三代将軍・足利義満です。もともと文化や芸能に造詣の深かった義満は、その舞台に強く惹きつけられました。義満はそれを機会に、後に「藤若」という美しい名前を持つことになる鬼夜叉を引き立て、側におくことにします。観阿弥親子は義満という強力なパトロンを得ることになり、いよいよその新たな演劇の確立に邁進することになるのです。大成したばかりの能は、貴族政権に代わって勃興した武士階級の美学に出会い、そこから、洗練に洗練を重ねた能へと発展していくことになります。
 当時、新興の武士階級は、新しい文化装置を必要としていました。従来の、貴族政権の中で育てられた和歌や連歌、雅楽といった古典ではない、新しい文化メディアを彼らは求めていました。そこに、新しい演劇として興ってきた猿楽が、見事にマッチしたのだと思います。
 芸道に専念することができた観阿弥、世阿弥。とにく世阿弥は、この恵まれた環境を生かして、いよいよ自らの演劇を「能」として確立してゆくことになります。
  世阿弥の考案した「複式夢幻能」 
 一方では神に捧げるものとしてあった「翁猿楽」が、仏教が用意した場面で、人々の素朴な祈りに出会い、それに影響されながら、演劇として充実度を増していく、その流れは明らかだと思います。そのため、当然のことですが、能で演ぜられる演目には、それを見物する人々の心に響くような、仏教の教えや仏教的なものの見方が、また、日本固有の土着の信仰が、色濃く反映されています。
 現在上演されている能の曲目を「現行曲」といい、だいたい二百曲前後です。ご覧いただく機会の多い人気曲となりますと、五十曲から百曲ほどでしょうか。これらの曲の多くは、いわゆる「複式夢幻能」と呼ばれる二部構成になっています。これは世阿弥が考案したスタイルです。この「複式夢幻能」は、最も能らしい能といえ、その性格をよく示すものです。
 まず「諸国一見の旅の僧」が登場します。これは全国の名所・旧跡を訪ね歩いている僧で、ワキが演じます。一日を旅に費やし夕暮れ近くにある土地に到着、その土地にまつわる物語などを思い起こしていると、いわくありげな人が通りかかります。そして、僧に向かって問わず語りにその土地の由来や物語などを語り、自分こそがそこに描かれた当の主人公であると明かして消えていきます。
 ここまでが前段で、シテはいったん舞台から姿を消して、「中入り」となります。
 旅の僧が弔いつつ、疲れて眠りに落ちると、先の人が生前の姿で現れます。過去のいきさつを語り、舞を舞い、僧侶の供養を頼みながら消えていきます。ワキの僧はそこで目を覚まし、今見たものは夢であり、自分がひとりそこに残されていることに気付くというところで、一曲が終わります。舞台が前後半に分かれ、夢の世界が展開されることから「複式夢幻能」という名前が付きました。
 この形式の曲は非常に多く、おそらく、先ほどご紹介した勧進興行として行われた猿楽のなかで、勧進元が、人集めも意識して亡者供養の夢幻の世界を盛んに語った、それも背景にあるのではないかと思います。
 『敦盛』は、熊谷次郎直実に一の谷の合戦で討たれた平家の武将・平熱盛の物語です。『忠度』は、自作の歌への評価に未練を残して戦死した平忠度の、『頼政』は、平家討伐に失敗し自害した源三位頼政の、それぞれの無念の物語です。
 珍しいものでは『鵺』という曲があります。この曲の主人公は、人ではなく怪鳥『鵺』です。頼政に射落とされた『鵺』の亡霊が主人公となって、その顛末を語り、それによって頼政が恩賞を得たことや己の無念を語り、さらに懺悔をして、回向を頼むという趣向です。世阿弥の作ですが、人間だけでなく、このような妖怪までも登場させて、成仏できないでいるものの生前の姿、その栄華や美しさを披露させ、なぐさめ、供養するということが行われています。
 『山姥』も世阿弥の作ですが、これも趣向が変わっています。そもそも山姥とは、人とも鬼女とも山の妖精とも理解できる正体不明の存在で、しかし世阿弥は、鵺同様、このような魑魅魍魎といえるようなものにも、その境涯を語らせ、美しい舞いを舞わせるのです。しかし解決はありません。この『山姥』にも、先ほどの『鵺』にも、そして、戦国の武将が蘇るその他の複式夢幻能のどれにも、解決はありません。
 ただ彼らは、無念を語り、生前の姿で舞い、そして回向を頼んで消えてゆくだけです。戻るところは、また、苦しい冥界です。いやそもそも彼らの再登場は、諸国一見の僧の見た夢かもしれない、そういう想定です。」観世清和・内田樹『能はこんなに面白い!』小学館、2013年。pp.33-40.
 「勧進」は今でいえばクラウドファンディングだが、その募金の趣旨を書いたものが勧進帳になる。各地を回って浄財を集め寺院や神社の建立や修復の費用に充てる。能がそういう活動の一環を担っていたのかもしれない、と思うとなかなか面白い。イヴェント屋という面はあるな。


B.亡霊の帰還?
 1972年旧陸軍軍曹横井正一さんが潜んでいたグアム島から帰還した。敗戦から27年間ジャングルに一人で生活していたと大きなニュースになった。その2年後、今度はルバング島でやはりジャングルに潜んで投降を拒否していた旧陸軍少尉小野田寛郎さんが、日本の若い青年に説得されて帰還した。30年間の潜伏生活がまた大きく報道された。ただ、横井さんと小野田さんは、潜伏の動機もその後の生活もまったく違ったものだった。

「小野田元少尉の帰国から50年 旧軍の病理 今再確認を : 保阪正康 
 今年は太平洋戦争が終わってから79年である。戦争体験世代も少なくなり戦場体験者となると100歳を越える時代に入っているのだから、次代に語り継ぐ人たちも極端に減った。昭和の戦争も「同時代史」から「歴史」の領域に変わっていくと言っていいであろう。
 同時代から歴史への見方に変わるとはどういうことか。私はよく織田信長の例を出す。同時代人には、延暦寺の焼き討ちまで行う武将であり、その残酷さに恐怖や憎悪があったであろう。
 しかし歴史の解釈では、仏門勢力の正常化や全国統一を目指した武将という比重が重くなる。史実の解釈が論理的になるということでもある。
 太平洋戦争も当事者の意思を離れて「歴史」の解釈に移っていく。とくに節目の年はきっかけとなる。今年を例にとれば、小野田寛郎元陸軍少尉の帰国から50年である。
 1974年3月、小野田元少尉は突然フィリピンのルバング島から日本に復員した。小野田氏は45年の日本降伏後も、3人の日本軍兵士と共に山岳地帯に入り、降伏はデマだ、次の戦争に備え残置諜者として抵抗を続ける任務があると信じ、潜伏したのである。
 以来29年間、小野田氏は仲間が投降・死亡して一人になっても戦い続けた。その間、フィリピン当局や旧日本軍の上官などが、日本の降伏は間違いない、出てこい、と呼びかけたが、説得を謀略と考えてますます密林奥深くに隠れるように潜んでいた。
 しかし戦争を知らない24歳の日本人青年が、密林で野営中に小野田氏と遭遇。小野田氏もやっと自らの誤解に気がつき、日本に戻ることを決意するのであった。
 当然ながら日本メディアは大騒ぎになった。戦争が終わっても戦い続けた精神力に感服する声もあれば、軍国主義の亡霊呼ばわりする声もあった。国論は見事なまでに二分した。フィリピンの人々に多大な迷惑をかけたとの批判も多かった。
 小野田氏自身もメディアの取材攻勢に戸惑い、ブラジルの兄の元で牧場を営んだり、日本で青少年塾を開いたりした。
 経済大国・日本の空気に違和感を持ったということなのだろう。軍国主義に慣れた小野田氏の体質に右派系団体が共感したのか、その流れで活動を続けたこともさまざまな見方を巻き起こした。
 こうした同時代的見方・受け止め方から50年を経たが、歴史的見方では、どのような解釈がされるであろうか。
 私見を言えば、小野田氏の帰還は二つの見方で語られていくであろう。第1は「近代史が現代史の中に突如浮かび上がった」ということである。第2は「日本の軍事教育の功罪が浮上した」ことである。歴史的解釈では、小野田氏自身の意思よりも、行動の持つ意味が問われると考える。
 まず近代史(1868=明治元年から1945年8月まで)の軍事主導体制下の人間像が、現代史(45年9月以降)の経済大国に突然出現したということである。
 小野田氏は近代史では模範となるべき人間像である。軍事を全てに優先させ、忠誠心をもってお国に奉公するのが人生の目的なのである。
 現代史では、そうした忠誠心を国は求めていない。私たちは小野田氏を通して、高度経済成長後の社会の中に、近代史のナマの姿を見てしまったのだ。
 私は当時小野田氏を見ていて、ある感慨が浮かんだ。私は昭和史を検証しようと、旧軍人を訪ね、太平洋戦争の実態を確かめようとしていた。
 そうした中でも小野田氏の主張は極論であった。旧軍人たちも終戦から30年近くとなり、あの戦争への反省を口にする時代に入っていた。「小野田氏の不幸は真面目で、きわめてストイックに情報将校になろうとしていた点にあるな」と語った旧将官の言葉を、私は忘れないのである。
 これは第2の点とも関わる。小野田氏は情報将校を育成する陸軍中野学校二俣分校を出ている。戦い方は教えられたのであろうが、戦争終結後の国際法、戦時立法の限界などには全く知識を持っていないことも露呈した。例えば戦時の行為は戦後、犯罪になることを知らない。小野田氏に限らず旧日本軍の将校教育の基本的な誤りであったというべきであろう。
 50年を経ての歴史的解釈で、私たちは旧軍の病理の姿を再確認すべきだと実感するのである。 (ほさか・まさやす=ノンフィクション作家)」東京新聞2024年3月5日夕刊5面。

 庶民出身の横井さんは、グアム島で軍から見捨てられ日本兵狩りから逃れて生き延びるために、穴を掘って隠れていた。その生命力と忍耐力は並外れていたが、晩年は幸福そうに見えた。これに反し、筋金入りの情報将校の小野田さんは、敗戦を信じず上官の命令どおり現地で戦争を継続していた。敗戦後の「民主化されてしまった」日本に帰ってきたことも、納得はいかなかったようだ。大東亜戦争をひとりルバング島で戦い続けた精神を、立派だと評価する右翼もいたけれど、それがどれほど不幸な人生であったか、日本軍の狂気がどんなものだったか、記憶すべき歴史だ。
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