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小泉文雄『日本の音』を読む 6  筝曲と三曲合奏  KGBの伝統?

2024-02-25 11:00:51 | 日記
A.お箏とお琴
 お琴を習って演奏するのは女性に多いと言われるが、ぼくは今まで筝曲を習っている人に会ったことがないし、琴の演奏を目の前で聴いた記憶がない。どこかにはいるのだろうけれど、ぼくらの世代で琴を弾く人は見たことがないし、第一筝という楽器を間近で見たことがない。しかし、戦前までは両家の子女の嗜みとして筝をならう人、とくに名家のお嬢様などは必須の教養であったらしい、とは聞く。邦楽の権威、この小泉文夫氏の説明では、実は「琴」と「筝」は違うもので、一般に「お琴」といわれている楽器は正式には「筝曲」の「筝」なのだという。弦は十三本もある。そんなことも知らなかった。「琴柱(ことじ)」とか「筝爪」とかも実物を見たことはない。
 しかし筝は三味線と並んで日本の代表的な「邦楽」の楽器であるし、三味線が花柳界や民謡で使われるイメージなのに対し、筝は一般家庭の両家の子女が弾くものだというイメージの違いがある。しかも、江戸時代に盲人の職屋敷という組織で伝えられ完成したために、筝の演奏や作曲の名人は盲人が多かったという。これは、確かに独特の伝統を持つ楽器なのだ。

「日本の代表的な音楽ということになりますと、三味線音楽と、箏の音楽とが一般の常識になっています。三味線音楽の方は非常に種類が多く、また広く使われていますが、一般の家庭ではむしろ、お箏の方がもっとポピュラリティがあると言えるかもしれません。それは何と言っても三味線という楽器やその音楽が、普通の家庭よりも遊里、あるいは劇場といった場所と結びついたものというイメージがあるからです。お箏の方は、純粋に家庭の子女が演奏するのにふさわしい楽器だという印象が一般に強いと思います。実はそれもそのはずで、江戸時代から明治にかけて、一般家庭では主として箏が演奏され、特殊な社会あるいは下町の町家において三味線が主として使われたという背景を持っているからです。
 こうした筝曲、またはその筝曲に三味線や尺八、あるいは胡弓のような楽器をいろいろ組み合わせて合奏するいわゆる三曲合奏が、一体どこで発達したかということが、その性格をつかむ上で非常に重要になってきます。筝曲、及び三曲合奏の発達の母胎になった場所として盲人社会を第一に取り上げなければならないでしょう。お箏のお師匠さんに何々検校とか、何々勾当とかいう名前がよく知られております。たとえば亡くなりました筝曲の大家、宮城道雄さんなどは、以前には検校という称号を持っておられましたが、大正から昭和にかけてそのような名前はすでにすたれてしまったので、今日では用いられてはおりません。実はこの検校、勾当というのはお箏のお師匠さんだけの称号でなくて、職屋敷、当道などとよばれる盲人社会の組織の中における階級を表す名前であったわけです。
 室町幕府のころ、平家琵琶を語る盲法師たちが職業ギルドを作って、自分たちだけの治外法権的社会を組織しました。これは盲人の生活権を守る自衛の手段で、幕府もこれを認めました。この組織を当道と呼んだのです。この当道の統括の中心が京都にあり、そこを職屋敷と呼んだので、後にはこの組織そのものをも職屋敷と俗に称するようになりました。江戸幕府もこれを引き継いだわけですが、幕府は盲人たちに対して、その生活権を保護する意味から、あんま、はり、きゅう、地唄、筝曲といった職業も特に盲人のために専有としました。したがって目明きがそのような職業につくことは原則として許されないので、盲人だけがそれらの特別な職業を確保していたわけです。これは世界の音楽史の中で、あるいは音楽史と言わず一般社会史の中で、特に注目すべき点だと思います。
 このような特別な保護を受けていた盲人社会というものも、その組織の中では、やはり徳川幕府のきわめて強い制度にしばられていました。そういう職屋敷を統率する一番の頭は、総検校とか職検校という位で、絶対の権力を持っていて、全体の行政に当たっていました。その下に最も位の高い盲人として検校が置かれていたわけです。さらにその下には別当、勾当、そうして一番下に座頭というのがいました。座頭さんは盲人のお坊さんとして、特に位の低い人でしたから、あんまをしながら町を歩いてその当時の子どもたちからからかわれ、今日でも「座頭さん」とか、「中の中の小坊さん」とか、ちょうど「かごめ」に類するわらべ歌がたくさん残っています。座頭さんは目が見えませんから、それを子どもたちがいろいろ言ってからかうわけです。
 こうした職屋敷の中では、彼らの独自の音楽が発達してきて、それが日本の伝統音楽の中の大きな部分を占めるほどに成長してきました。今日の筝曲の母胎になっているものです。したがってそれはほかのジャンルの日本音楽、たとえば雅楽、能楽、三味線音楽という華やかで規模の大きいものに比べて、はるかに室内楽的であり、家庭的であり、そうして盲人独特の鋭い感覚によって、純音楽的ないし理論的構成美というものを備えている独特なものに発達してきたわけです。
 純音楽的な興味は、明治以後の新しい洋楽の影響や社会的文化的変化に対して、むしろ強味となって今日も残っています。有名な新日本音楽や、現代邦楽の作曲家、たとえば宮城道雄、今井慶松、中能島欣一、宮下秀冽、といった人々がすべて筝曲界から出ているという事実によってもこのことを理解することができると思います。
   箏の起源
 箏の音楽は、日本では主として盲人社会の中で発達してきましたが、箏という楽器は、必ずしも室内楽的でしかも盲人社会に結びついたものと決めてしまうことはできません。
 箏は非常に古くから中国で使われていました。ところが、中国にはこの箏に大変よく似た楽器で琴(きん)があります。琴というこの楽器のことを日本では琴(こと)と呼んで、普通の箏のことも琴という字で書いてしまうことが多いのですが、これは混乱しやすいので注意しなければなりません。楽器自体の構造も演奏法も違うので、琴(きん)と箏(そう)と別に考えた方がいいと思います。
 琴は、板の上に七本の弦が張ってあり、そこには箏に見られる柱(じ)というものがありません。そのため、左手で弦の途中のポジションをおさえて、いろいろな音高を得るわけです。この楽器は日本にも来て七弦琴と言われ、江戸時代まで盛んに使われています。数年前まで琴の音楽を伝える人は生きていましたが、今日では完全に日本では失われてしまいました。
 また、中国には瑟(しつ)という楽器もあります。
 この瑟の方はだいたい二十五本くらいの弦が張ってあり、しかもこの弦の音の高さを調節するために、小さな柱がたくさん板の上に並べてあります。この瑟と琴とが両方合奏されることが多く、今日でも「琴瑟相和す」という言葉が仲の良い夫婦を表す諺として日本でも残っております。
 この瑟の弦の数が半分になったものが箏です。箏の場合には十三本の弦があり、柱がそれぞれについていますので、いろいろな高さに音を調弦することができるわけです。この箏の小型のものや二十弦ほどに大型にしたものなどが今日でも中国で使われています。ベトナムにも十六弦があり、また十二弦の箏としては朝鮮、韓国で使われている伽倻琴(カヤグム)があります。この伽倻琴の演奏法はあぐらをかき、その膝の上に伽倻琴の片側をのせて演奏します。このスタイルはまさに平安時代の日本の演奏法とよく似ています。したがって今日の中国やベトナムで使われている金属弦を主とする小型の箏という楽器は、むしろ後の世になってしだいに形が小型化していった結果かと思われますが、朝鮮、韓国にある伽倻琴は日本の古い箏の形や演奏法とよく似ているという点で、中国のより古い箏が残っていると考えることもできます。
 ところで日本に一番はじめ入ってきた箏は雅楽の中で使われている楽箏と呼ばれるもので、これが中国から来たというはっきりした証拠を持つ一番古い箏です。ところが日本にはその以前、朝鮮の新羅から新羅琴が渡来し、正倉院に残っています。これは伽倻琴の前身です。また古くから用いられていたものに和琴(わごん)といわれる楽器があります。この和琴は今でも宮中で使われていますが、弦が六本しかなく、その六弦の調弦の仕方も非常に変わっていて、演奏法なども今日の箏とは大変に違うところから、たぶん別系統の弦楽器と考えられています。最近日本の各地で発掘された小型の五弦琴がその前身と考えられますが、それが和琴のように大型化したり六弦になったのは、たぶん大陸からの新羅琴や箏の影響や刺戟を受けたからでしょう。いずれにしても中国音楽で使われている箏の古い形は雅楽の中に取り入れられ、それが今日でも残ってい箏として演奏されているわけです。
 この楽箏というのは雅楽の中で、ただリズム楽器のような形で簡単なフレーズを演奏するだけになってしまいましたが、平安時代にはこの楽箏によるもっと手のこんだ面白い弾き方がありました。こういう雅楽の演奏法における独自性を生かして発達したものに「筑紫箏」があります。
 筑紫というのは言うまでもなく、九州の福岡県の一地方ですが、ここでは雅楽の流れをくむ箏の独奏音楽として、はやくから筑紫箏という独立したジャンルを生んでいました。この筑紫箏の伝統も今日までわずかながら伝えられていて、演奏法や楽譜なども残っていますから、大いに研究に役立つわけですが、この筑紫箏から、いわゆる俗箏、つまり世俗の筝曲というものが発達してきます。
 その俗箏の発達において、一番はじめに大きな役割を果たしたのが、『六段』の作曲家として名前の知られている八橋検校です。十六世紀に活躍した八橋検校の流れは八橋流として、また独自の流派を作りましたが、八橋流になってから音階も変りましたし、細かな演奏法も変ってきて、どちらかというと上流社会に結びついていた箏の音楽が、庶民の生活感情を表わすようになってきました。というのは、この八橋検校という人がもともと三味線の名手だったからです。こうして筝曲と三味線音楽が合流するわけです。その後十七世紀に発達してきたのが生田流です。これは生田検校によって作られたものですが、この生田流では三味線音楽である地唄と、この箏の音楽が結びついて、いわゆる地唄・筝曲というものが、さらに今日の三曲合奏の母胎にもなっているわけです。
 地唄は言うまでもなく三味線伴奏で歌をうたいますが、その唄と唄との間に長い器楽の部分(それを「手事」といいます)を入れて、声楽としてよりは、むしろ器楽としての純音楽的な発達を見せたわけです。その部分をさらに拡大していきますと、唄のかわりに尺八ないし胡弓を使うという形を取ります。これが三曲合奏です。
 一方、浄瑠璃系統の三味線音楽と箏の音楽の融合をはかったのが十八世紀後期の山田検校です。山田検校は山田流という流派を作って今日に至っていますが、ここでも浄瑠璃、つまり河東節のような浄瑠璃の三味線と箏及び尺八などの合奏による三曲合奏というものが行われております。
 こうして発達してきた生田流と山田流だけが今日では筝曲の大きな二大流派と言われるものになっています。
 三曲合奏というのは普通に考えられるように三重奏とか、西洋音楽のトリオとかいうものとたいへんにその性格を異にしております。西洋音楽のトリオ、たとえばピアノ・トリオと言われるピアノ、ヴァイオリン、チェロによる三重奏では、それぞれの楽器は音域においても、音色においても違っておりますので、それを対位法的に、あるいは和声的に組み合わせることによって、いろいろ変化を見せ、重厚な、また華やかな表現というものを持っておりますが、日本の三曲合奏では、それぞれの楽器が他の楽器をおさえて華やかに躍り出るというように、異なる性格を重ね合わせたり、そこに対照的な組み合わせを見せるといった作曲法はほとんど行われていません。
 むしろ三つの異なった楽器、箏、三味線、胡弓、あるいは箏、三味線、尺八といった三つの旋律楽器がそれぞれ大変よく似た同じような旋律を、ほとんどユニゾンで合奏するという形です。西洋の音楽理論だけからすると、ほとんど一つの楽器で済むようなことを、なにも三つの旋律楽器が合わせてやらなくてもいいのにと考えるかもしれませんが、しかしそこが日本音楽と西洋音楽の美意識の大きな違いです。三曲合奏の精神というのは、結局人に聞かせるためというよりも、自分たちが異なった音色を持った楽器で、同じような旋律を合わせる喜びを表わした音楽だと言うことができます。そしてそこにもやはりこの筝曲、三曲合奏というものの家庭的、室内楽的生活というもの、あるいは盲人社会というものを背景とした内的な音楽の追求の仕方、そういった性格の一端がうかがわれると思います。ですからそれぞれの楽器のもっている奏法や構造の上から来る特徴というものを無理に変えてしまうとか、あるいは逆にオーバーに誇張するというようなことをしないで、むしろ素直に特徴を生かしつつ、同じアイディアから出てきた旋律を合奏するという形を取っています。この面白さは大変にデリケートなところにあり、その一致するようでなかなか一致しない旋律の進行の中に細かな綾が隠れていると見るのがいいと思います。」小泉文夫『日本の音 世界のなかの日本音楽』平凡社ライブラリー、1994年、pp.201-210.

 むかし学校の音楽の時間に聴くことになっている「邦楽」として、長唄の「越後獅子」と筝曲の「春の海」があるので、これは聴いたことがある。しかし、宮城道雄作曲になる「春の海」はお正月の定番音楽になっているが、これは昭和の創作で、江戸以来の三曲合奏ではなく、西洋音楽の技法を取り込んだ作品である。念のため三曲合奏というものをネットで聴いてみた。小泉氏の説明にあるように、筝・三味線・尺八という三つの楽器が同じ旋律を同時に演奏するものだった。なるほど。


B.権力者の暴力犯罪 
 ソ連時代の秘密諜報機関KGBは、スパイ映画などで暗躍する敵として描かれていたが、プーチン氏はその一員だったという。反政府的活動家や外国人スパイなどを監視し取り締まり、場合によっては「消す」というような活動もやるといわれる。これは別に旧ソ連やナチスドイツのゲシュタポに限らず、どこの国にも似たような組織はあり、とくに権威主義的権力者は自分の政権維持のためこうした秘密組織を活用する。やっていることは、拉致監禁や殺人にも及ぶ恐ろしい仕事だが、そういうものは日本にもあるのだろうか?

「本音のコラム: 邪魔者は消せ    北丸 雄二 
 自分に逆らうものは遠ざけたい、歯向かうものはやっつけたいと思うのは生き物に組み込まれた本性のひとつなのだろう。だがそればかりだと「社会」は壊れる。壊れて腐る。なので人間は友情や信頼といったもう一方の性向を生かして共存と繁栄を図ってきた…はずなのに今また世界には「邪魔者は消せ」が大手を振るっている▼ナワリヌイが殺された。その3日前には元ロシア軍パイロットが亡命先のスペインで射殺された。昨年8月にはブリゴジンが墜落死。政権批判のリトビネンコも2006年にポロニウム入り緑茶で殺され、ポリトコフスカヤ記者も04年に射殺された。▼邪魔者ばかりが都合よく消えるのはロシアに限らない。専制国では処刑や粛清の形で、宗教支配では神の権威で消える。ガザでは3万人がテロ対策の“大義”で消され、サウジアラビアは体制批判の記者を溶かして消した。国家権力を自分の力と過信する為政者は己が民主主義に消されるより先に民主主義を消す▼外国に限らない。朝鮮人追悼碑、森友関連文書、旧統一教会との関係や巨額裏金の使い道の記憶すら、「消し」てしまえばこの国では説明責任も納税も罪も無視できるようになった。どれもがプーチンと「同じ未来を見てい」た人物の首相時代に根を持つ腐臭。今すぐそれを止めなければ、いずれは必ず人をも消すようになる。いや、既にか。(ジャーナリスト)」東京新聞2024年2月23日朝刊19面特集欄。 
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