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「地域アート」の藤田直哉氏への違和感。そして批判はブーメランになって北海道に返ってくる件について

2016年06月16日 22時28分14秒 | つれづれ読書録
承前

(敬称略。長文です)

1.藤田の論

 藤田直哉編・著「地域アート」(堀之内出版)の全体的かつ雑駁ざっぱくな感想については前項で書いたが、仕掛け人たる藤田氏本人の考えについてはほとんど批評しなかったので、この項で 俎上 そ じょう にあげることとする。
 「すばる」の初出時にははっきりしていなかったと記憶する地域アートの定義だが、本書によるとどうやら、越後妻有つま り や横浜、あいち、札幌などを含む全国各地で開かれているアートフェスティバル・国際芸術祭で発表されている作品の総称らしい。
 もっとも、たとえばキーファーの立体作品が東京都現代美術館やドイツの美術館で展示されれば地域アートではなくて、札幌の道立近代美術館に陳列されれば「地域アート」と呼称されるようになるのであれば、その理由はよくわからない。藤田は「アートプロジェクトとほぼ同義だ」という趣旨のことも述べている。具体例があまり挙がっていないのでこれ以上追及しても肩透かしに終わってしまう可能性があるが、どうやら彼の脳裡には、いわゆる「美」をないがしろにして、コミュニケーションを重視し、地域のしろうとの参加を重視するような作品が、浮かんでいるらしい。氏は、ことし5月31日付読売新聞の「論点」欄に寄稿し「その中で芸術的な評価が置き去りにされることが多い。郷土愛をくすぐり、喜ばすだけの内輪的な作品がしばしば作られ、そこにこそ一番の価値がある、という錯覚が起きている」と書いている。
 藤田は地域アートを全面的に否定するのではないようだ。同じ寄稿で彼は「芸術は、その理念において、歴史も地域も越えた「普遍性」と「永続性」を志向する。」と書きつつ、「消えゆく生が、芸術において永遠へと昇華する可能性。私たちはそのような夢を、地域アートに託してもよい。」としている。つまり、芸術固有の美学がないがしろにされていることに疑義を表明しているのだ(そのわりには、彼なりの美学的、審美的な叙述、つまり「美とは何か」「彼が考える良い作品とは例えばどういうものか」についての記述がもっとあっても良いような気もするが、この本にはそういったことはほとんど書かれていない)。
 現代アートを支える論理が美学固有のものではなくもっぱらフランス現代思想などから移入されてくる現状については、たとえばソーカル事件などと共通する批判が可能だろう。


2.「国策」呼ばわりは底が浅い

 筆者が違和感を抱く第1の点は、次のような部分である。
<注意すべきは、現在の日本で行われているアートが、それらの過去の運動(引用者註:1968年を頂点とする前衛的な芸術運動)を自身の正当化の根拠のようにしながら、結局は、国策の一環であるかのような「地域活性化」に奉仕してしまって、閉じていく現状である。>(35ページ)

 国策で、何が悪いのだろうか。

 この発想こそ、昔の左翼が抱いていた革命的ロマン主義の残渣以外の何だろう。
 国策だから悪いのではない。悪い国策と、良い国策があるだけだ。

 たとえば
「交通事故死を無くそう」
というのは国策である。それに協力することが、どこが悪いのだろうか。
 「地域活性化」も同じである。それぞれの地域を活性化しようとしている人たちは、国策だから賛成したり協力したりしているのではない。国策であるか否かは関係なく、もっと必死の思いで取り組んでいる。その必死さは、大都市の人には、わからないのだろう。
 必死だからすべてが免罪されるとは筆者も思わないが、先の断定は、あまりにも東京からの上から目線としか言いようがない。

 もう一点。

 この本を読んで、「地域アート」というネーミングに、どうして違和感を抱いてきたのかが、ようやくわかった。

 他地方は知らないが、とりあえず、北海道という「地域」では「地域アート」はぜんぜん盛んではないからだ。

 「地域アート」という語だけを耳にすれば、あたかもそれが、東京以外の各地方で主流であるか、そこまでいかなくても一定程度の盛り上がりをみせている現象だという印象を、すくなくても筆者は抱いてしまう。
 しかし、札幌や道内でギャラリーを巡ったり美術館に行ったり、あるいはこのブログを日常的に見てくださっている方なら先刻ご承知だろうと思うが、この地で展開されている美術というのは、依然として絵画であり工芸であり書であり、さもなければインスタレーションや野外彫刻なのだ。

 むろん、アーティスト・イン・スクールの地道な活動なども行われてきたし、もちろん札幌国際芸術祭もあったのだが、全体としてみれば、「地域アートはぜんぜん『地域』のアートではない」としか言いようがない。藤田が言うような「郷土愛をくすぐり、喜ばすだけの内輪的な作品」というのは、少なくても北海道では虚構だと思う(反例があれば、どなたでもいいので挙げてください。おれは見たことないよ)。

 北海道だけではなく、横浜でも越後妻有でも、藤田が言うようなアートは見た記憶がない。あるいは越後妻有の菊池歩の作品などは、地域の人を巻き込んだ「地域アート」の性格を有しているともいえそうだが、非常にすぐれたアートであった。


3.批評の失効

 あと、これはそれほど重要な論点ではないかもしれないが、藤田は、プロジェクト型の、いつまでも完成されないアートが増えたことに、批評が衰弱している要因のひとつをみている。
 しかし筆者に言わせれば、批評の力が日本で衰えた理由は、単に作品数と発表の場の数が増えすぎて、ひとりではカバーしきれなくなったためである。
 いまでも日本語の文芸時評が日刊紙などで成立しているのは、単に「文学界」「新潮」「群像」「すばる」「文藝」を毎号読んでいれば批評が成立するためである。クラシック音楽の批評も、やはり対象が限定されているがために、同じ土俵で多くの人間が言い合うことができる。
 だが美術についていえば、昔は東京・上野の美術館で団体公募展を見ていればなんとかなったし、戦後もしばらくは東京・銀座に画廊が集中していたので、他の職業をもった個人でも批評が可能であった。すべては見られなくても、なんとなく全体像を押さえることができたからだ。しかし近年、画廊が各地に分散し、美術館が全国に建ち、しかも国際芸術祭があちこちで行われるようになると、一人ではすべてを見ることが不可能になる。もし作品がプロジェクト型や地域アートではなくて、絵画や彫刻であったとしても、やはり批評という営為を続けていくのは困難であろう。


4.地域にあまり無い「地域アート」

 2.に戻る。

 ここで筆者がため息をつかざるを得ないのは、藤田の語法を批判すればするほど、北海道のアートの現況が、世界的な潮流からかけ離れて、いわばガラパゴス化していることが浮き彫りになってくるからである。

 あまり好きなやり方ではないが、話を単純にするため、発展史観的にアートを位置づければ

アート1.1=マネ、モネ以降 アート1.12=セザンヌ以降
アート2.0=デュシャン以降
アート2.1=「関係性の美学」以降

というふうに単純化できるだろうが、北海道で盛んなのは、1.0から1.12までのアートで、2.0もそんなに多いわけではない。
 要するに道内のアートは、乱暴を承知でおおざっぱにいえば「ビジュアル重視、コンセプト軽視、コミュニケーション無視」なのである。
 コミュニケーションを重視したアートや、ドキュメント型あるいはリサーチ型とでも呼ぶべき「アート2.1」については、ここからいきなり具体論に入ってしまうが、道内で取り組んでいる作家は先駆者の藤木忠則をはじめとして両手で数えて十分なぐらいだろう。
 坂巻正美、東方悠平、進藤冬華、そのほか久野志乃もそういう要素がある。しかし、重要な作家である磯崎道佳や札幌に移り住んだ深澤孝史が、道外でばかり発表しているという事実こそが「北海道に『地域アート』なんてほとんどないよ」という現実の証明になっていないだろうか。

(ただし、ここでも例外はあって、道内の作家で『アート2.0』の分野でもっともめざましい活躍をしてきた岡部昌生は、それぞれの地域を事前に調べ巻き込んで、しろうとを参加させるプロジェクト型のアートでも大きな足跡を残してきている)

 繰り返すが、筆者が表明しているのはあくまで違和感にすぎない。
 他の地方のことはよく知らないからだ。
 だから「地域アートなんてものはない」などと強弁するつもりはまったくない。
 ただし、少なくても北海道という地域には「地域アート」は非常に少ないということを、あらためて言っておきたい。誤解を招きやすいネーミングだと思う。


 筆者はときどき、団体公募展の盛期が懐かしくなる。あれはあれでいろいろ問題の多い制度だが、少なくても住んでいる場所のハンディキャップはあまりなしに、同じ土俵で絵画や彫刻などの作品の質を競えるからだ。上野に行けば、自分の作品や自分の住んでいる地方の作品が、全体の中でどういうものなのかが、把握可能なのだ。
 しかし美術が量的に拡大するにつれ、むしろ地方独自の美術界は、中央や世界の傾向から取り残されやすくなっているような気がしてならない。

 もっとも、むしろガラパゴス化したほうが、藤田の言うような美術固有の価値基準を有した「普遍的な作品」が生まれやすくなっているのかもしれない(嫌味に受け取らないでください)。

 藤田は「地域アート」と言っているものの、実際には、地域のアートのごく一部しか見ていないことが明らかだ。
 だからといって、「やーい」と馬鹿にして喜んで批判していればいいという話では、決してないのである。


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