
1981年、空知管内栗山町生まれ、東北芸術工科大の大学院を昨春に修了した若手の個展。
名前の読みは、ふるばやし・れみ。現在も栗山在住です。
大学のある山形や東京では個展やグループ展を数多くひらいていますが、道内での本格的な発表はこれが初めてとなります。なお、道展では2006年に佳作賞を受賞し、昨年も入選しています。
作品は銅版画です。3センチ四方の正方形のピースを大量に制作し、プレス機にならべて1枚の大きな作品に仕上げる-という、特徴ある手法をとっています。
おなじ版を使いまわしして、色や方角を変えてあちこちで使う-ということをほとんどしていないようで、ひとつひとつのピースを見ていて飽きるということがありません。
冒頭の画像は、「峰~g」と題された連作のIからIVまでの4点組み。
この方法論による作品としては、初期に属するものだそうです。
縦に25枚、横に12ないし14枚をびっしりならべてプレスしています。
版画制作は一般的に、版を作り上げるところがヤマで、あとは刷るだけ-という場合が多いですが「そうではない、動きのあるものをつくりたかった」と古林さんは話していました。
こういう作品ですから、エディションを入れるわけにもいかず、それぞれの作品はほとんどモノタイプになってしまいます。おなじ作品に見えても、一部のピースを入れ替えるなどのことはどんどんできるわけですから。
単調さを防いでいるのは、個々のピースが、抽象的でありながら、とても同一人物の手になるとは思えないほどバラエティに富んでいることが最も大きいでしょう。
しかし、それだけではありません。それぞれのピースが微妙にかしいでいることが、独特のリズムを生んでいます。リズム、ということでいえば、紙にプレスして引っ込んでいる触感というかマティエールも、一般的な版画作品にはない表情のようなものを、作品に与えているということができると思います。
付け加えれば、これらの大作は額装がしてありません。そのことがかえって、パタンの無限の広がりのようなものを感じさせることになっています。
「I」を拡大してみます。

さらに接近してみると…。

じつに多様な表情がうかがえます。
ギャラリーの右手の壁には、さらに大掛かりな連作「層~b-I」から「層~b-IV」および「層~r-I」から「層~r-IV」がならんでいます。
こちらは、隙間なく紙を埋め尽くした「峰」のシリーズと異なり、周囲に空白をつくって全体のかたちをも表現するとともに、色彩も緑系を中心とした「峰」から発展して、さまざまな色が入り乱れています。
やはり、ところどころに空白があったり、斜めになっているピースがあるため、デジタル的とか無機質的という形容詞はあたらないものになっています。

こちらも、接近して撮影した画像を掲げてみます。

格子状をどこまでもひろげていくという方法論は、容易に、ジェニファー・バートレットを想起させます。
しかし、彼女の名前がよく「美術手帖」に出たり、東京で個展がひらかれたのは、80年代でしたから、最近の若い人がピンとこないのも、無理はないかもしれません。
まあ、バートレットのほうが、規則正しく並んでいる上、それぞれの正方形の大きさも10倍ほどあるのですが。

修了制作でつくったリーフレットに、古林さんが「生命の流動」と題した一文を寄せています。
古林さんがおなじピースの安直な使い回しをせず、ひとつひとつ異なるピースを配置するのは、それぞれがおなじものでない生命の暗喩だからなのかもしれません。
そう思うと、じつは存在の孤独さを裏テーマ?としているバートレットにくらべ、生命の肯定的な面に着目した作品といえそうです。

08年5月1日(木)-10日(土) 11:00-18:00(最終日-16:00) 日曜休み
オリジナル画廊(中央区南2西26 地図D)
名前の読みは、ふるばやし・れみ。現在も栗山在住です。
大学のある山形や東京では個展やグループ展を数多くひらいていますが、道内での本格的な発表はこれが初めてとなります。なお、道展では2006年に佳作賞を受賞し、昨年も入選しています。
作品は銅版画です。3センチ四方の正方形のピースを大量に制作し、プレス機にならべて1枚の大きな作品に仕上げる-という、特徴ある手法をとっています。
おなじ版を使いまわしして、色や方角を変えてあちこちで使う-ということをほとんどしていないようで、ひとつひとつのピースを見ていて飽きるということがありません。
冒頭の画像は、「峰~g」と題された連作のIからIVまでの4点組み。
この方法論による作品としては、初期に属するものだそうです。
縦に25枚、横に12ないし14枚をびっしりならべてプレスしています。
版画制作は一般的に、版を作り上げるところがヤマで、あとは刷るだけ-という場合が多いですが「そうではない、動きのあるものをつくりたかった」と古林さんは話していました。
こういう作品ですから、エディションを入れるわけにもいかず、それぞれの作品はほとんどモノタイプになってしまいます。おなじ作品に見えても、一部のピースを入れ替えるなどのことはどんどんできるわけですから。
単調さを防いでいるのは、個々のピースが、抽象的でありながら、とても同一人物の手になるとは思えないほどバラエティに富んでいることが最も大きいでしょう。
しかし、それだけではありません。それぞれのピースが微妙にかしいでいることが、独特のリズムを生んでいます。リズム、ということでいえば、紙にプレスして引っ込んでいる触感というかマティエールも、一般的な版画作品にはない表情のようなものを、作品に与えているということができると思います。
付け加えれば、これらの大作は額装がしてありません。そのことがかえって、パタンの無限の広がりのようなものを感じさせることになっています。
「I」を拡大してみます。

さらに接近してみると…。

じつに多様な表情がうかがえます。
ギャラリーの右手の壁には、さらに大掛かりな連作「層~b-I」から「層~b-IV」および「層~r-I」から「層~r-IV」がならんでいます。
こちらは、隙間なく紙を埋め尽くした「峰」のシリーズと異なり、周囲に空白をつくって全体のかたちをも表現するとともに、色彩も緑系を中心とした「峰」から発展して、さまざまな色が入り乱れています。
やはり、ところどころに空白があったり、斜めになっているピースがあるため、デジタル的とか無機質的という形容詞はあたらないものになっています。

こちらも、接近して撮影した画像を掲げてみます。

格子状をどこまでもひろげていくという方法論は、容易に、ジェニファー・バートレットを想起させます。
しかし、彼女の名前がよく「美術手帖」に出たり、東京で個展がひらかれたのは、80年代でしたから、最近の若い人がピンとこないのも、無理はないかもしれません。
まあ、バートレットのほうが、規則正しく並んでいる上、それぞれの正方形の大きさも10倍ほどあるのですが。

修了制作でつくったリーフレットに、古林さんが「生命の流動」と題した一文を寄せています。
(前略)私の目の前に存在している様々なものたちは、肉眼で見ることのない大きな生命の流れの中に点在し、生きるという共通の方向に向かっている。その流れは目に見える実態ではなく、感覚としての認識だけなのかもしれないが、個々の様々な命を突き動かすその壮大な「流れ」にも似た無形の「力」を感じる時、その「力」は私の「表現」への心を大きく動かす。私が感じた目に見えない生命の「流動」は、私を通じて銅版となり、版が紙に写し取られ有形の作品となる。鑑賞者が私というフィルターを経て、私が感じた生命の「流動」が鑑賞者に伝わることを祈る。
古林さんがおなじピースの安直な使い回しをせず、ひとつひとつ異なるピースを配置するのは、それぞれがおなじものでない生命の暗喩だからなのかもしれません。
そう思うと、じつは存在の孤独さを裏テーマ?としているバートレットにくらべ、生命の肯定的な面に着目した作品といえそうです。

08年5月1日(木)-10日(土) 11:00-18:00(最終日-16:00) 日曜休み
オリジナル画廊(中央区南2西26 地図D)
今回もついつい後回しになってしまって、最終日に見に行き、紹介が遅れてしまいました。
ただ、これまでも何度も山形や東京で発表していますから、今後も見る機会はあるのではないかと思います。
あと、CAIや工芸愛海詩の帰りとか。