
(承前)
札幌の2会場で展開される北海道地域連動アートプロジェクト [すすきのアートプロジェクト+越山計画]のうち、会期が3日間しかない、すすきのの「交感と交換」を、11月30日夜に見た。
「交感と交換」は、泉太郎、河合政之、百瀬文の3氏が映像作品を出品。
会場は、第8桂和ビルという、すすきののど真ん中にあるビルの3階の2部屋と7階の1部屋。いずれも、本来はスナックがテナントとして借りるようなスペースで、十数人も入ればいっぱいと狭いが、酒のボトルを入れる棚や水まわりは完備している。
ただね~、筆者ぐらいの世代のイメージだと、すすきのは、もっとおじさんか、もっと若い人が行くって感じかな。自分はほとんどスナックなんかに行かないしね。飲みに行くときは、大通より北の居酒屋などでさらっと済ますことが多いです。
話をもどして…。
この3氏の作品のうち、最も強い衝撃を受けたのが、百瀬さんの「聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと」だった。
説明は、百瀬さんのサイトにある。
http://www.ayamomose.com/kinoshitasan.html
木下さんは、耳がまったく聞こえないが、昔の聾学校では手話ではなく、話すことを重視していたため、ちょっと聞き取りにくいながらもなんとか、何を言っているかがわかる(映像は、字幕つきです)。相手の話は、くちびるの動きを読むことで理解するという。なので、木下さんと百瀬さんの間で、ふつうに会話が成立している。
ふつうに考えて、それはすごいことだと思う。
ところが、後半から、百瀬さんの発話の仕方が微妙に変化していくのだ。
ネタバレはつつしんだほうがいいだろうから、具体的には書かないが、それでも会話が成立しているということが、いっそうふしぎなことに感じられてくる。
人間と人間のコミュニケーションとは何か。
それは、いったいどういうふうであれば成立しているとみなされ、どういうふうであれば不成立だということになるのか。
川瀬さんと木下さんの会話は、最後まで成立しているのか、それとも最後のほうはすれ違っているのか、それとも最初から最後まですれ違い続けているのか。
「わたしたちは分かり合えないよね」
という発話を、お互いに分かり合うという事態は、ほとんど
「すべてのクレタ人はうそつきである」
という命題に近いものがあるとすら思えてくる。
とにかく、久しぶりに、大いに考えさせられる作品を見て、頭をガンとやられた気分だった。
ところで、木下さんは建築や表象文化論を専攻としているので、部屋には本がいっぱいある。
筆者はとにかく本棚が気になるタイプで、岩波文庫の青帯(哲学、思想、宗教、教育など)や、ちくま学芸文庫、講談社学芸文庫が並んでいるのを確認した。
ほかに「サスペンス映画史」「タルコフスキーatワーク」「キリシタン千利休」「科学革命の構造」(トーマス・クーン)「地理学と歴史学」、はっきりとは読めなかったが「アメリカンマインドの終焉」もあったようだ。
木下さんは映画好きなのか~、とくに字幕つき洋画なら聴覚が不自由でも或る程度は楽しめるからな~と思って、ハッとした。
タルコフスキーの「ストーカー」には、耳の聞こえない子どもが登場するのだ。
札幌の2会場で展開される北海道地域連動アートプロジェクト [すすきのアートプロジェクト+越山計画]のうち、会期が3日間しかない、すすきのの「交感と交換」を、11月30日夜に見た。
「交感と交換」は、泉太郎、河合政之、百瀬文の3氏が映像作品を出品。
会場は、第8桂和ビルという、すすきののど真ん中にあるビルの3階の2部屋と7階の1部屋。いずれも、本来はスナックがテナントとして借りるようなスペースで、十数人も入ればいっぱいと狭いが、酒のボトルを入れる棚や水まわりは完備している。
ただね~、筆者ぐらいの世代のイメージだと、すすきのは、もっとおじさんか、もっと若い人が行くって感じかな。自分はほとんどスナックなんかに行かないしね。飲みに行くときは、大通より北の居酒屋などでさらっと済ますことが多いです。
話をもどして…。
この3氏の作品のうち、最も強い衝撃を受けたのが、百瀬さんの「聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと」だった。
説明は、百瀬さんのサイトにある。
http://www.ayamomose.com/kinoshitasan.html
今回私は、この作品のために木下知威(きのした・ともたけ)さんという方と対談をさせて頂きました。
木下さんは現在建築史の研究、視覚文化論などの研究をされている方でいらっしゃいますが、生まれつき全く耳が聞こえません。
耳の聞こえない人が「聾者」と呼ばれるのに対し、耳の聞こえる人は「聴者」と呼ばれるそうです。
この映像は、聾者である木下さんと聴者である私とで行った、
「声」をめぐる対談を記録し編集したものです。
木下さんは、耳がまったく聞こえないが、昔の聾学校では手話ではなく、話すことを重視していたため、ちょっと聞き取りにくいながらもなんとか、何を言っているかがわかる(映像は、字幕つきです)。相手の話は、くちびるの動きを読むことで理解するという。なので、木下さんと百瀬さんの間で、ふつうに会話が成立している。
ふつうに考えて、それはすごいことだと思う。
ところが、後半から、百瀬さんの発話の仕方が微妙に変化していくのだ。
ネタバレはつつしんだほうがいいだろうから、具体的には書かないが、それでも会話が成立しているということが、いっそうふしぎなことに感じられてくる。
人間と人間のコミュニケーションとは何か。
それは、いったいどういうふうであれば成立しているとみなされ、どういうふうであれば不成立だということになるのか。
川瀬さんと木下さんの会話は、最後まで成立しているのか、それとも最後のほうはすれ違っているのか、それとも最初から最後まですれ違い続けているのか。
「わたしたちは分かり合えないよね」
という発話を、お互いに分かり合うという事態は、ほとんど
「すべてのクレタ人はうそつきである」
という命題に近いものがあるとすら思えてくる。
とにかく、久しぶりに、大いに考えさせられる作品を見て、頭をガンとやられた気分だった。
ところで、木下さんは建築や表象文化論を専攻としているので、部屋には本がいっぱいある。
筆者はとにかく本棚が気になるタイプで、岩波文庫の青帯(哲学、思想、宗教、教育など)や、ちくま学芸文庫、講談社学芸文庫が並んでいるのを確認した。
ほかに「サスペンス映画史」「タルコフスキーatワーク」「キリシタン千利休」「科学革命の構造」(トーマス・クーン)「地理学と歴史学」、はっきりとは読めなかったが「アメリカンマインドの終焉」もあったようだ。
木下さんは映画好きなのか~、とくに字幕つき洋画なら聴覚が不自由でも或る程度は楽しめるからな~と思って、ハッとした。
タルコフスキーの「ストーカー」には、耳の聞こえない子どもが登場するのだ。
(この項続く)