
いわゆる所蔵品展なんだけど、とてもいろいろなことを考えさせられる好企画だったと思う。
「見せ方」や「提示の仕方」次第で、良い展覧会になるのだなあと、あらためて感服した。
いままで、はっきりと意識してなかったけれど、じつは非常にたいせつな見方を教えてくれている展覧会ではないだろうか。
セザンヌ以降のモダニスム絵画の見方だと、どうしても、形がどうした、色がどしたという話になる。
目に見えているものが話題のほとんどすべてというわけだ。
まあ、視覚芸術なんだから、しかたないのかもしれない。
でも、そこでストップしてしまう鑑賞というのは、おもしろい体験たりうるだろうか。
本来平面であるからそこにはないはずの「奥行き」。
あるいは、静止している画面や彫像には存在しないはずの「動き」。
人は、そういう要素を作品には見ていないだろうか。
さらには、「感情」とか「精神」といったものを通して見えてくるものはないだろうか。
絵画などの美術作品が、風景や人物といった、目に見えるものを再現することは、よくあることだし、別に不自然なことはない。
ところが、絵画や彫刻は、目に見えない感情や空気感をも表現することができる。ふしぎなことに。
しかも、それは「恐怖」とか「喜び」といったことばですぱっと割り切れるものではないことが多いのだ。ことばだって、ウイスキーを水で割るように、意味で割るわけにはいかない(田村隆一)のだから、それは当然だろう。
たとえば。
会場を入って最初に展示してあるのは、上野憲男「流れ・痕跡1987」「大気・振動6」の大作2点である。
筆者は最初、上野さんの絵のどこがいいんだかサッパリわからなかったが、いまはとても好きだ。
上野さんの絵を見ていると、雨の降り始めを思い出す。
かるく湿り気を帯び始めた大気。ひんやりした風。ぬれたアスファルトのにおい。舗装道路を走る車のタイヤが奏でるシャーっというかすかな音。
そういったものの総体の雰囲気としか言いようもないものが、この絵からつたわってくるのだ。
それは、筆者の場合であって、唯一正しい見方だと言い張るつもりはまったくない。
もし、作者本人が、こういうことを言いたかった-と表明したとしても、それにさからった見方をするのは、鑑賞者の自由だろうと思う。
「目を閉じよ、そしたらお前は見えるだろう」
とは、詩人サミュエル・バトラーのことばだ。
「肉体の目を閉じよ」
と、ドイツの画家フリードリヒは言った。
絵には、まさに、目に見えないことが表現されている。
もうひとつあげれば、阿部典英「Mokujin」の6点組みと、砂澤ビッキ「神の舌」が対峙しあっていたコーナーもすごかった。
なんだか、その空間に森の精気みたいなものが充ち満ちているのだ。
最後の、阿部国利VS佐藤武の部屋も、具象画でありながら、どこにもない光景を描ききっていて、あらためて「絵の持つ力、すごさ」を感じることができた。
美術家の想像力って、すばらしい。
なお、同時開催で「片岡球子の裸婦」も開催中。
札幌出身で日本画の代表的画家が晩年、「春の院展」で発表していた裸婦像18点(3月9日以降はうち2点が巡回展に出たため16点)並んでいる。
これに関しては、機会があれば別にエントリをたてたい。
2009年1月31日(土)-3月29日(日)9:45-17:00(入館-16:30)、月曜休み
札幌芸術の森美術館(南区芸術の森2)
一般500円、高大生250円、小中学生100円
●学芸員によるこの1点 丸山隆「不可視コード」=同日程。無料
●学芸員によるギャラリーツアー=2月28日、3月14日、28日(いずれも土曜)14:00.要観覧料
・地下鉄南北線「真駒内駅」のバスターミナル「2番乗り場」(改札口を出て南端方向)から出るバスならどれでも「芸術の森入り口」にとまります。片道280円、地下鉄乗り継ぎ割引有り
・「1dayカード」は使用できません