
(承前)
長文です。
1.写実のブーム
2.近代と現代の対比
3.リアルって何
4.諏訪敦の謎
という構成です。
1.写実のブーム
「写実」がブームらしい。
「らしい」というのは、はるか離れた北海道では、そのブームを肌で感じ取れないからである。
NHK・Eテレの「日曜美術館」などで取り上げられているので
「ああ、忘れられていた近代日本の超絶技巧の工芸が、脚光を浴びているんだなあ」
とか、あるいは
「洋画の中では、写真と見まがうばかりのリアリズムが売れてるんだってね」
などと、なんとなく伝わってきているのだが。
だから、京都の清水三年坂美術館が所蔵する宗義の「自在鍬形」や安藤緑山の象牙細工を見ることができたり(手にとって動かすことはできないけど)、画壇でブームの写実絵画のなかでも諏訪敦や磯江毅、野田弘志といった画家の作品を見ることができるだけでも、道内ではめったにない機会なので、たいへんにありがたい。
ただ、この展覧会は、若手中堅の現存作家の作品も多く含んでおり、単に
「本物そっくりですごいでしょう」
というだけではなく
「写実って、そもそも何なの?」
と考えさせる、多面的なものになっているのだ。
もっとも、個人的には、このブームには疑問なしとしない。
とくに絵画については
「実物とそっくり」「写真みたい」
がウリになるなんて、絵画ならではの表現を味わうことができず、単に技術だけに感心しているにすぎない。これは、鑑賞する側の頽廃というべきではないか。岡鹿之助や梅原龍三郎が画壇で人気だった時代にくらべ「見る力」が衰えているとしか言いようがないだろう。
写真をプロジェクターでキャンバスに投影し、なぞって絵画にしている人の話を耳にすると、パスカルの有名な言葉を想起してしまう。
「果物には誰も感心しないのに、絵になると、事物の相似によって人を感心させる。絵というものは何とむなしいものであろう」
急いでつけくわえれば、今回の諏訪や野田、木下晋らの作品は、単なる「そっくり」の域をはるかに超えて、人間存在について問いかける深みに満ちたものである。
2.近代と現代の対比
この展覧会の構成上での著しい特徴は、近代以降(高橋由一、横山松三郎以降)の日本に的を絞り、しかも近代と現代の作品を対比するかのように、織り交ぜながら陳列していること。
たとえば安藤緑山の「牙彫喜座柿」「牙彫貝尽し」の横に、三宅一樹の2015年の作品や満田晴穂の昨年のクモやヤドカリが展示されている。
また、岸田劉生や椿貞雄ら大正期の「草土社」近辺の画家の肖像画が並んだあとに、安井賞を受けた三栖右嗣が老母を描いた「老いる」や、室蘭出身の諏訪敦が老境の舞踏家に迫った「大野一雄」などを配している。
木彫の小品を会場にそっと潜ませることで知られる須田悦弘の「チューリップ」は、簡単に見つけることができた。
かつて道立近代美術館で現代木彫のグループ展が開かれたときには、筆者は発見することができず悔しい思いをしたので、これはすなおにうれしかった。
3.リアルって何
「序」
「I 親しきものへのまなざし」
「II 生と死をみつめて」
「III 存在をみいだす」
「IV 世界を写す~写真からの啓示」
という構成のうち、とりわけ批評性を感じたのは、最後のセクション「IV」だ。
というのは、ときどき誤解している人がいるのだが、「実物そっくり」と「写真そっくり」は違うからだ。
ことさらに修整ということを持ち出さなくても、写真はレンズによる像のゆがみがあったり、ゴーストやフレアが出たりするし、人間の目にくらべ、被写界深度によるボケが極端に出たり、色の強弱も派手になったりすることもある。
だから、写真そっくりに描かれた絵が、実物そっくりであるとは限らない。
そして、写真の登場以降、わたしたちが実物を見る目が、写真によって変容させられていることもあるだろう。わたしたちは、映画や写真をなぞるように現実を見てしまうようになっているのである。
鴫剛の「団地 T&T」は、モノクロ写真と、それを模写したアクリル画を左右に並べ、写真と実物の違い、あるいは境目を考えさせる。
エアブラシを用いた絵を写真週刊誌「FOCUS」の表紙に載せ続けたことで有名な三尾公三「シーレの部屋」は、写真的な人物像をわざとひずませるとともに、エゴン・シーレの絵をそのまま引用している。こちらも、リアルなのはどちらかという問いを、見るものに突きつける。
なにより、この展覧会の白眉といって差し支えないのは、最後の二つのブースに並んだ、佐藤雅晴のアニメーション「Calling」(計14分)と、伊藤隆介のインスタレーション「Realistic Virtuality(日本の国会)」=次の画像=であろう。
(画像は2004年に初めて発表した際のものです。今回の作品とは細部が異なります、たぶん)
「Calling」は、森の中や誰もいない部屋の中、プラットホーム、学校の職員室、ホテルの枕もとなどで、電話が鳴り、着信音が途切れる―という情景を、24の場面で描く。
「不在」ということを、これほどひしひしと感じさせる作品は少ないだろう。中でも、高層住宅とおぼしき古い建物でエレベーターの扉があいて電話が鳴る場面は不気味だし、お茶から湯気が立ち上っているのに着信音に誰も反応しない情景は、津波や原発事故で住人が急いで避難したのではないかという想像が湧いて、切ない。露店の立つまつりの会場で桜の花びらが舞い散る場面も、美しくはあるが、無人であることの重さが迫ってくる。
「Realistic Virtuality」シリーズは、読者の皆さんもご存じのとおり、精巧なミニチュアを小形CCDカメラで撮影して、拡大して投影するというもので、実物(模型)と映像が同時に存在し鑑賞されるという、或る意味でこれほど今回の展覧会にふさわしい作品もあるまい。言い換えれば、「写実って、けっきょく、何?」という問いを、ユーモラスかつ鋭く突きつけてくる作品なのだ。
それはすなわち、国権の最高機関であり、テレビニュースなどでよく見知っているはずの国会を、わたしたちはほんとうに「見知っている」のだろうか―という問いである。
野党が開会を要求しても与党が応じず、疑問点が多い法案の審議もそこそこに通過させてしまう昨今の国会の様子を見るにつけ、その存在の空虚さが、初出時にもまして、無人の議場にこだましているように感じられる。
4.諏訪敦の謎
それにしても「大野一雄」は、すごい絵だった。
諏訪敦の絵は、もう、表層的に「似ている/似ていない」のレベルを超えて、人間存在の根源に届いているようなすごみがあるとしか言いようがない。
横たわる大野一雄の、肌や寝具の質感に驚きつつ、写真であればもう少し人体に量塊の感じがあるようにも思う。しかし、絵に量塊の感じがないことで、実在の感覚がないかといえば、むしろ逆なのだ。これはどういうことだろう。
さらに不思議なのは、図録で図版を見ると、意外と写真のように見えず、絵画的に見えることだ。
会場で、少し離れて見ても、おなじ印象を受ける。
近づいたら筆触が見えて絵画の性質があらわになり、離れて見たり図版にしたりしたら写真のように感じられるというのは、よくあることだが、その逆というのは経験がない。
もっと見たいので、道内の美術館でぜひ諏訪敦展を開いてほしい。
個展を企画する意味のある画家だし、これまでグループ展で何点か展示されただけだし、お客さんも入ると思う。
あと、とても日本画とは思えない星野眞吾の「露草」などの静物画と、高村光雲の木彫、とくに「西行法師」が目を引いた。
光雲には、西洋彫刻とは違う経路でたどり着いたリアリズムがある。
全体的に走り書きのように、まとまりを欠く文章になってしまい、申し訳ありません。
2017年6月10日(土)~8月20日(日)午前9時半~午後5時(入場は30分前まで)。月曜休み(祝日は開館し翌火曜休み)
道立函館美術館(函館市五稜郭町37-6)
□特設サイト http://event.hokkaido-np.co.jp/sokkuri/
・市電「五稜郭公園前」から約700メートル、徒歩9分
・JR五稜郭駅から約2.4キロ、徒歩31分
長文です。
1.写実のブーム
2.近代と現代の対比
3.リアルって何
4.諏訪敦の謎
という構成です。
1.写実のブーム
「写実」がブームらしい。
「らしい」というのは、はるか離れた北海道では、そのブームを肌で感じ取れないからである。
NHK・Eテレの「日曜美術館」などで取り上げられているので
「ああ、忘れられていた近代日本の超絶技巧の工芸が、脚光を浴びているんだなあ」
とか、あるいは
「洋画の中では、写真と見まがうばかりのリアリズムが売れてるんだってね」
などと、なんとなく伝わってきているのだが。
だから、京都の清水三年坂美術館が所蔵する宗義の「自在鍬形」や安藤緑山の象牙細工を見ることができたり(手にとって動かすことはできないけど)、画壇でブームの写実絵画のなかでも諏訪敦や磯江毅、野田弘志といった画家の作品を見ることができるだけでも、道内ではめったにない機会なので、たいへんにありがたい。
ただ、この展覧会は、若手中堅の現存作家の作品も多く含んでおり、単に
「本物そっくりですごいでしょう」
というだけではなく
「写実って、そもそも何なの?」
と考えさせる、多面的なものになっているのだ。
もっとも、個人的には、このブームには疑問なしとしない。
とくに絵画については
「実物とそっくり」「写真みたい」
がウリになるなんて、絵画ならではの表現を味わうことができず、単に技術だけに感心しているにすぎない。これは、鑑賞する側の頽廃というべきではないか。岡鹿之助や梅原龍三郎が画壇で人気だった時代にくらべ「見る力」が衰えているとしか言いようがないだろう。
写真をプロジェクターでキャンバスに投影し、なぞって絵画にしている人の話を耳にすると、パスカルの有名な言葉を想起してしまう。
「果物には誰も感心しないのに、絵になると、事物の相似によって人を感心させる。絵というものは何とむなしいものであろう」
急いでつけくわえれば、今回の諏訪や野田、木下晋らの作品は、単なる「そっくり」の域をはるかに超えて、人間存在について問いかける深みに満ちたものである。
2.近代と現代の対比
この展覧会の構成上での著しい特徴は、近代以降(高橋由一、横山松三郎以降)の日本に的を絞り、しかも近代と現代の作品を対比するかのように、織り交ぜながら陳列していること。
たとえば安藤緑山の「牙彫喜座柿」「牙彫貝尽し」の横に、三宅一樹の2015年の作品や満田晴穂の昨年のクモやヤドカリが展示されている。
また、岸田劉生や椿貞雄ら大正期の「草土社」近辺の画家の肖像画が並んだあとに、安井賞を受けた三栖右嗣が老母を描いた「老いる」や、室蘭出身の諏訪敦が老境の舞踏家に迫った「大野一雄」などを配している。
木彫の小品を会場にそっと潜ませることで知られる須田悦弘の「チューリップ」は、簡単に見つけることができた。
かつて道立近代美術館で現代木彫のグループ展が開かれたときには、筆者は発見することができず悔しい思いをしたので、これはすなおにうれしかった。
3.リアルって何
「序」
「I 親しきものへのまなざし」
「II 生と死をみつめて」
「III 存在をみいだす」
「IV 世界を写す~写真からの啓示」
という構成のうち、とりわけ批評性を感じたのは、最後のセクション「IV」だ。
というのは、ときどき誤解している人がいるのだが、「実物そっくり」と「写真そっくり」は違うからだ。
ことさらに修整ということを持ち出さなくても、写真はレンズによる像のゆがみがあったり、ゴーストやフレアが出たりするし、人間の目にくらべ、被写界深度によるボケが極端に出たり、色の強弱も派手になったりすることもある。
だから、写真そっくりに描かれた絵が、実物そっくりであるとは限らない。
そして、写真の登場以降、わたしたちが実物を見る目が、写真によって変容させられていることもあるだろう。わたしたちは、映画や写真をなぞるように現実を見てしまうようになっているのである。
鴫剛の「団地 T&T」は、モノクロ写真と、それを模写したアクリル画を左右に並べ、写真と実物の違い、あるいは境目を考えさせる。
エアブラシを用いた絵を写真週刊誌「FOCUS」の表紙に載せ続けたことで有名な三尾公三「シーレの部屋」は、写真的な人物像をわざとひずませるとともに、エゴン・シーレの絵をそのまま引用している。こちらも、リアルなのはどちらかという問いを、見るものに突きつける。
なにより、この展覧会の白眉といって差し支えないのは、最後の二つのブースに並んだ、佐藤雅晴のアニメーション「Calling」(計14分)と、伊藤隆介のインスタレーション「Realistic Virtuality(日本の国会)」=次の画像=であろう。

「Calling」は、森の中や誰もいない部屋の中、プラットホーム、学校の職員室、ホテルの枕もとなどで、電話が鳴り、着信音が途切れる―という情景を、24の場面で描く。
「不在」ということを、これほどひしひしと感じさせる作品は少ないだろう。中でも、高層住宅とおぼしき古い建物でエレベーターの扉があいて電話が鳴る場面は不気味だし、お茶から湯気が立ち上っているのに着信音に誰も反応しない情景は、津波や原発事故で住人が急いで避難したのではないかという想像が湧いて、切ない。露店の立つまつりの会場で桜の花びらが舞い散る場面も、美しくはあるが、無人であることの重さが迫ってくる。
「Realistic Virtuality」シリーズは、読者の皆さんもご存じのとおり、精巧なミニチュアを小形CCDカメラで撮影して、拡大して投影するというもので、実物(模型)と映像が同時に存在し鑑賞されるという、或る意味でこれほど今回の展覧会にふさわしい作品もあるまい。言い換えれば、「写実って、けっきょく、何?」という問いを、ユーモラスかつ鋭く突きつけてくる作品なのだ。
それはすなわち、国権の最高機関であり、テレビニュースなどでよく見知っているはずの国会を、わたしたちはほんとうに「見知っている」のだろうか―という問いである。
野党が開会を要求しても与党が応じず、疑問点が多い法案の審議もそこそこに通過させてしまう昨今の国会の様子を見るにつけ、その存在の空虚さが、初出時にもまして、無人の議場にこだましているように感じられる。
4.諏訪敦の謎
それにしても「大野一雄」は、すごい絵だった。
諏訪敦の絵は、もう、表層的に「似ている/似ていない」のレベルを超えて、人間存在の根源に届いているようなすごみがあるとしか言いようがない。
横たわる大野一雄の、肌や寝具の質感に驚きつつ、写真であればもう少し人体に量塊の感じがあるようにも思う。しかし、絵に量塊の感じがないことで、実在の感覚がないかといえば、むしろ逆なのだ。これはどういうことだろう。
さらに不思議なのは、図録で図版を見ると、意外と写真のように見えず、絵画的に見えることだ。
会場で、少し離れて見ても、おなじ印象を受ける。
近づいたら筆触が見えて絵画の性質があらわになり、離れて見たり図版にしたりしたら写真のように感じられるというのは、よくあることだが、その逆というのは経験がない。
もっと見たいので、道内の美術館でぜひ諏訪敦展を開いてほしい。
個展を企画する意味のある画家だし、これまでグループ展で何点か展示されただけだし、お客さんも入ると思う。
あと、とても日本画とは思えない星野眞吾の「露草」などの静物画と、高村光雲の木彫、とくに「西行法師」が目を引いた。
光雲には、西洋彫刻とは違う経路でたどり着いたリアリズムがある。
全体的に走り書きのように、まとまりを欠く文章になってしまい、申し訳ありません。
2017年6月10日(土)~8月20日(日)午前9時半~午後5時(入場は30分前まで)。月曜休み(祝日は開館し翌火曜休み)
道立函館美術館(函館市五稜郭町37-6)
□特設サイト http://event.hokkaido-np.co.jp/sokkuri/
・市電「五稜郭公園前」から約700メートル、徒歩9分
・JR五稜郭駅から約2.4キロ、徒歩31分
(この項続く)