まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

慎みの乏しくなった権力 2015 あの頃

2024-09-16 02:01:25 | Weblog

自民党をぶち壊す!と吠えた小泉氏のワンフレーズに酔った有権者だったが、しばらくして現れたのは、非正規雇用という、まさに正規の雇用ではない、いつでも解雇できる臨時雇だった。狂ったように叫び、争った郵政改革なるものは保険、貯金の虎の子を株や為替の博打まがいの世界に流動させる手立てだった。

規制改革は非効率な役人世界の手から離し、ハゲタカのような新興成金に安売りしたが、言い分は不良債権の切り離しという簡便な会計操作で、正常化を装ったが、ついでにリストラで従業員を解雇し、まるで垢落としでスッキリした気分になったようだが、要は見た目の変化の如く、本当に自民党だけではなく、社会構造や人心までぶち壊されてしまったようだ。

今までは非正規と正規に分離だが、今度は効率的とか働きがいなどと言葉を変え、正規まで雇用の流動化を図り、しかも要求者たる企業団体に政策として、早々と御説明に上がったとか。

あの時も競走馬のように、わき目も振らず走れとばかり遮眼帯だったが、やはり似たもの同士には非正規雇用口入れ屋の振り付け師も苦笑いしているだろう。

やはり「匹夫に責あり」無関心、無理解な有権者にも問題は大いにある。

 

 

横須賀  スカ ジャン

 

旧稿


戦後レジュームとかの脱却・・・・・

レジームとはフランス語で体制だが、安倍総理が就任時に頻繁に唱えた戦後レジームと云えばヤルタ・ポツダム会談後の連合国戦後体制、つまり日本でいえばGHQ(連合軍総司令部 ダグラスマッカーサー司令)が作り上げたという日本の戦後体制である。それは憲法条文や教育、土地税制、医療保険、防衛など多岐にわたり、一方でいわれるところの日本弱体政策といわれたりしている。

安倍総理はその習慣的思考が及ぼす政治政策や官吏の立案形態を「脱」という言葉で変えようとしている。それはレジュームのもう一つの意である「管理体制」下に構築されたという前提のもと現体制のレジュームチェンジだ。

しかし、「脱」と問題意識をもっても、今更ながら「脱」は出来ない、好まない一群がいる。しかもそれが政治中枢の周囲を取り巻き、「脱」の影響範囲を狭めている。要は、この部分だということに気が付いていないだけでなく、それらによって岩盤のようになったレジームを政権の背景力として互いに利用し合っている可笑しさがある。

何を基にしているのか政権が安定すると、その内にレジームの踏襲こそ平和安定の基であるなどと言い出しかねない。そのくらいに総理を操る力をレジームはもっている。

天に唾するようなことだが、安倍総理は安倍晋太郎の子息、母は岸総理の娘。それゆえ彼のバックボーンは実の父より、岸元総理の血脈として喧伝されることが多い。
戦前の商工省、満州官僚として統制経済を牽引した。

統制経済は集中資本、統制管理によって黎明期の満州経済を発展させ、その試行成果をもとに戦後は興銀を中心に重厚長大産業といわれる鉄鋼、造船、鉄道、エネルギーなどの産業を興している。まさに戦後復興は満洲の映し絵のよう近似政策だ。

私事だが、その満州人脈が会した新橋の国際善隣会館に唯一戦後生まれとしてその老海に漂い、取り付く島の縁に逍遥していたことで満州実情を大観させていただいた。

復興経済は多くの功罪を遺した。その副作用なのか、基幹産業を育てる過程で時世をにぎわす政財界の贈収賄が数多発生した。造船疑獄、インドネシア・フィリッピンの賠償利権、韓国地下鉄利権、アラブ石油利権、穀物利権など内外政治家と経済界、はたまた高級官吏を巻き込んだ汚職腐敗が蔓延った。

しかも、どこの派閥はエネルギー、他方は建設や電波利権、どこそこは文教(教育・技術)やODA利権など、国民からすればとんでもない利権が構築され、いまでもその系譜には手を突っ込めない状況があるという。つまり改革、省庁統合、独立行政も裏を返せば利権の再構築(陣取り)のようだと新進官吏は嘆く。

つまり戦後体制は戦前の軍刀に怯えていた連中が、GHQにお追従して手に入れた新世界なのだ。維新も欧米の植民地侵攻の怯えと対応を失くした幕府を倒し、美味い飯を奪った結果だが、その小人然とした貪りに、西郷は慚愧を抱いたのだ

今度も外来の侵攻軍だ。戦前の体制は倒れ、人物二番手が疲弊した戦後を曲がりなりにも担った。だからドサクサの奪い合いが起きたのだ。それが戦後レジームの恩恵を受けた群れであり、その血脈をつなぐ二世、三世の世襲議員が無くならない理由でもある。
ことさら抹香臭くも青臭い、または左翼(欲)掛かった立ち位置でいうのではない。あくまで下座観がそう観るのだ。










貧者のヒガミ根性なのか、日本人に染みついた習性なのか、今ほどウルサイ眼が無かった頃、政治家は井戸塀から金満に変わった。都内に大きな邸宅を構え、郊外には別荘、不思議に思っていると未公開株や情報有りきの土地ころがし、穀物やエネルギーの外交利権など、官吏の狡猾な知恵を寸借した蓄財が指摘されるようになった。

また、もともと財を成した二代目議員は狡猾な官吏出身議員の財布代わりになって没落したものもいる。「戦禍に倒れた人々のお蔭で繁栄した」、とはいうが、西郷の言葉を借りれば「こんな国にするつもりはなかった」だろう。それが遺伝子となって政権与党に群生する忘恩の徒を増産している。
それが、人心の衰えた権力に寄り添う者たちの戦後レジームなのだ。

官吏、政治家、軍閥の姿は、現在の官吏、政治家、官警、と何ら変わることのない御上御用の姿として国民は眺めている。数値比較ではなく、深層の国力というべき人心、情緒をみるならば確かに、戦後レジュームは戦前のそれと大きく異なる。しかし本来の問題は維新後のレジューム(体制)は、日本及び日本人の姿を根本的に変質させてしまったことだろう。

文明化は便利性とともに到来する。そして誘引されるように起きた情緒性の齟齬は近ごろの世代間の断絶どころではない。棲み分けられた地域に複雑な要因を以て構成され継続した国家なるものと、そこに棲む民と称される人間の親和性、すすんで連帯と調和心が、時とともに融解している。その憂慮に為政者の関心は薄い。その意味では、昔はそれを慎みを以て鎮考した為政者がいた。





ともあれ、戦勝国に迎合した知識人や議員、当初GHQの急進的もしくは試験的に試行しようとした勢力によって、あえて戦前・戦後と裁断された歴史的継続性だが、その後の至るところの各分野で馴染まない齟齬をきたしている。それは環境資質を基とした棲み分けられた人間の特徴ある姿の変質だ。

一方、その戦後レジームという安倍氏の云う紛い物の体制だが、ドイツの剛毅な反応と異なり、憲法のみならず、税制、教育、土地改革など、骨抜きや面従腹背を得意とする官吏や迎合政治家は巧妙にも自らの利権として戦後体制にバチルスのように寄生した。

他人から与えられたパッケージだからと理由にするが、GHQのみならず現在の日米関係は「年次要望書」の類にある、建設工事の透明化は談合排除、金融・保険は市場参入の自由化、医療の自由化、郵政改革は保険・金融の分離と自由化、それらの政策は治安当局のショック策を巧みに援用して市場開放と彼らの云う自由化に突き進んでいる。正規、非正規といわれる雇用問題も要望書の切り取りだ。


ここで問題なのは、戦後レジュームの恩恵を受けてきた公職者は食い扶持土俵を毀損することなく、その身分のようになった安定担保職を変わることなく維持している。
西洋感覚でいえばタックスペイヤーは変化に晒され、タックスイーターはお咎めなしの状態だ。その群れが弛緩した戦後レジュームの守護者なのだ。それが安倍君の視点にはない。
例をひいて恐縮だが、南欧のギリシャ、もしくは後進社会主義の国情だ。


憲法だが、ことさら組織や体制、もしくは法治の基となる条文を変え、整えたとしても世の中(国風)は変わらない。書き物や制度で民族を収斂し国家として成さしめても、単なる形式的国家としてしか成立しないだろう。法がことさら証明したり説明したりするための具では無いことは承知しているだろうが、それしか方法がない、つまりそれに数字を付け加えれば唯一の正しい答えとする固陋で許容量のない思考法しか導けない人間の習慣性の問題を考えることもない。神棚は汚れ掃除しなくてもお札は鎮座している。ときおり願い事のために手を合わせるが、エゴの利益には効能もない。













筆者がおもうに、これこそ戦前・戦後のみならず、明治に遡る「脱・模倣レジューム」だ。
あの頃は、法はドイツ、イギリス、教育はフランス、海軍はイギリス、陸軍はドイツと拙速な模倣だった。何よりも人間が西洋カブレに陥っていた。
また、そのモノマネに真や核というものを拙速にも置き忘れたために起きた形式欠陥が、その後の虚飾された経済力や軍事力に依存した国風となり、民風は人心すら微かなものとなってしまった。

世上では余りにも明治維新の異業などと喧伝するものだから、偉人、先覚者と顕彰される英雄や知恵者を汚すこともできず、その背後や後の場面で巧みに、時に狡猾に立ち回った連中によって近代模倣国家が曲がりなりにも出来上がった。

そして藩民は「国民」と呼ばれ、「国家」なるものに収斂された。
繰り返すが、西郷は「こんな国にするつもりはなかった・・」との意を語る。鉄舟も海舟も松陰もそんな慚愧の気持ちだと筆者は拙くも推測する。

教育はフランスかぶれの森有礼が持ち込んだ人権や平等、自由を編み込んだ啓蒙思想を文明の証として制度化した。それに直感し諭したのが明治天皇だ。(聖諭記)

理科、物理、法科は見るべきものがあるが、果たして相となる人材を養成することはできるだろうか・・つまり部分専門家は必要だが、多面的、総合的に内外の歴史を俯瞰して将来を推考する「宰相」を養成することは、この形態では適わない、という指摘だ

今もってその残滓は教育が立身出世の具となり、その弊害は先の原発被災時の東電経営者や監督官庁の官吏、そして選挙で選ばれた為政者たちのエリートと称される階層に、明治天皇の指摘を想起するのだ。

「現場は世界一だ、比して日本はエリートの養成に関しては失敗している」とは、世界中のジャーナリスト、有識者の感想だ。

これこそレジューム(体制)に安閑と巣を営む明治以降変わることのない残滓なのだ。いわゆる「脱」はこの部分であり、名利と安逸を最善の欲望として貪る者たちのコントロールの欠如なのだ。つまり欲望の自己制御を学問の基としておかず、互いに素餐を蝕む群れこそ、脱レジームの根幹をなすものであり、ここに視点が及ばないことこそ政治の放埓を招いている原因でもあろう。







ならば、どうしたら、こうしたらと堂々巡りの戯言が騒がしくなるが、先ず問題意識をもって明治以降の歴史の変遷を我が身に置き換えて内省してみたらよいだろう。
欲望についても「色、食、財」がある。世につれて対象と目的は変わるだろうが、この欲望のコントロールはどうだろうか。「数値」については法治、人治、そして数治になっていないだろうか。「知」について、質より量が単なる知った、覚えた類の学になってないだろうか。あるいは「色」にある性別、情欲が禽獣の別を弁えているのだろうか。「人物観」について一過性の数値の多寡や儚い名利に憧れたり、追従していないだろうか

学校では教えてくれなかったという。
もともと、官制の学校制度は数値競争と知の遊戯のようなもので、人間そのものを悟る場面ではない。習いはあっても「倣う」対象は少なくなっている。

未完

イメージは関連サイトより転載

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