まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

観人則からみた宰相の器量 【II】   8 10/25 再

2020-09-09 08:41:09 | Weblog

安倍一次内閣の頃のこと・・・・


《小人、利に集い 利薄ければ散ず》
議員の中でも小者とおもわれるものは、力の有りそうなところにへばり付き地位や名誉、はたまた利権を吸い取る。一応理由付けはするが、力が無くなる、いやその前にその兆候が出ると「旅支度」を始める。平成の御世、参議院選の前にその兆候はある。とくに側近にその姿がある。

以下本文、その�

此処でいう観人則は、人の何を有効とみるか、あるいは老子の説く無用の用にあるように、存在そのものを自己の鏡として無用を有用せしめる観人力の有無をあえて政権担当者を例に観てみたい。

小泉総裁の任期満了にともなって自民党の次期総裁に選出されたのは安倍晋三である。選出理由は議員の選挙効用、はたまた失対保険を描いた結果であることは大方のみかたであろう。またそう思わせる風は、あの統制派軍官僚の現状追認に随った当時の鬱積した空気を打ち払うかのように嘱望された近衛文麿の登場に似ているからだ。
何のための任期なのか、此処までくると政策の善し悪しは別として元気溌剌として政権を降りた小泉純一郎氏の毒っけにあてられ、無理に異なることを選択した、あるいは新世代の顔ぶれを並べた居抜き政権の棚揃えにもみえる。

しかし、その構成は学園祭の役割分担でのように、一時のイベント用に集められたスタッフのようで国家で云う「維」を繋ぐものは希薄である。イベント効果では一過性のパフォーマンスや内(うち)治まらず外に耳目を集めるが、これとて商業マスコミの凝り性もない競争意識と言論貴族の食い扶持論によって一時の表層史を刻み、ともかく政権史の表層に名を記す程度の集まりである。

それを助長しているのが小泉全総理の毒気に当てられた貪官を始め、派閥機関政治としての拠り所をなくし足した伴食議員の意志薄弱さと、猟官が単なる選挙区用の金屏風として用を成すことと、益々愚民化した有権者の姿に見られることである。
つまり、どうにか食えれば「いいんじゃない」といった姿である。

とくに主役である安倍殿を支える黒子が安倍フレームにしゃしゃり出る、つまり側近として顔を売る手合いが多いことに気が点く布陣である。
つまり、「小人、利に集い 利、薄ければ散ず」の様相がみられる。

なかには選挙区に戻り、我は大物然であると錯覚した取り巻き議員もいる。あの組閣にために籠もった山梨の別荘から頻繁に連絡をもらい、大臣の人選をアドバイスしたと吹聴している議員だ。別荘に居たともあるが、その手合いに限って、そろそろ及びが掛かるのではと前任総理の頃から一戸建てに引っ越す入念さと、今までにもまして八艘跳びよろしく、めぼしい宰相候補者の各氏に保険を掛ける狡猾さもある。

あるいは総理外遊の折、必ずといってよいほど総理夫妻や単独インタビューのカメラフレームにコバンザメの如くちゃっかり納まるなど、前任の古川氏のあまりにも愚直に謙譲の美徳を表した黒子であるべき立場とかけ離れた醜態がみられる側近でもある。金と愛人、その次は間諜と八方美人的売国奴が話題になるのは、そう遠くはない。
ちなみに前任の古川氏は秋篠宮妃の出産退院の折、玄関先まで先導し、両殿下が定位置に立たれると、瞬時に病院内に戻りカメラフレームの外に隠れる動きをしている。
歴代首相に仕えた先代の石原氏と同様、内閣を陰で支えた副長官の姿は分在の任を弁えた官の役割として特筆すべきものでもある。

果たして権力者の有用とする人物はどのようなものか、また重要な用を成す「無用の用」を為す、とはどのような人物を指すのであろうか。
老子も有用のみを追い求める四角四面の愚、とくにそれに陥りやすい民族性癖が少なからずみられる我が国の組織ばる様態は、ついつい愛人、金といった怠惰な潤いに堕落する姑息な政官を輩出する。

まさに「小人の学は利に向かう」であり、「上下こもごも利をとれば国危うし」、またそれに倣う民衆が増えるのである。

隣国の観人則には以下のことが記されている(簡約)。
《地位が昇ったらどのような部下を登用するか》
《財を蓄えたらどのような使い方をするか》
《どのような朋友と交わるか》


あるいは、《困窮しても貪らないか》、《酒を呑んだらその様態は》、など知識、技術、情報を学ぶ「時習学」の前提となる「人間学」、つまり立場においては一家の頭領から企業の経営者、あるいは為政者の姿を測る単純座標として明快に描いている。

以下次号

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2 コメント

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副官の職責 (コンソメパンチ)
2008-10-26 11:10:17
 副長官としての任。
その権力者に応じて、役割は変わってくるのかもしれませんが、基本は、国民のための政権なのですから"その行動が歴史的にみて国民の為になるのか"を主眼において、権力者を補佐する任だと思います。

 内向的だが優れた見識と計画を持った権力者なら、それを実現に近づけるべく奔走する。
行動力旺盛ではあるが、やや短慮という権力者であれば、権力者のプライドを傷つけずにたしなめ、最大限活躍をできるようにお膳立てする。
文句のつけようのない人格・識見を持った人物の補佐は、陰に回る。ただ、人間である以上完璧という事はないので、時として道を踏み外しそうになる前に察して、それを見過ごしてはならない。そして、自身気を抜いてはならない。

難しいですね。

 日本の平安な未来を描け、その上で、私利に奔りがちな大臣や官吏を統率できる人間が現れれば良いのですが、greendoor様の仰有るように、その人は得難そうですね。
 私の知人は、国家に限界を感じてNPOにて地域住民のために活動を始める方がおります。陽明学を修めた志の高い方ですので期待しております。
 私は精進の最中の人間ではありますが、見所のあるアルバイトには仕事を通じた人間学や発想法を伝えています。使われる側の人間がリラックスして仕事のできる上司になれる器の人間を増やしたいからです。
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無さざるは成らざるなり (孫景文)
2008-10-26 12:34:46
次は突破力ですね
陽明学ですが、「狂」に至ることです。
突破とは現在の生活、朋友との関係、仕事もしくは食い扶持、これらから離脱する突破です。

晋作が「女房を敵とおもえ」と喝破していますが、人情に負けて大業を逸する事が自身の念に耐えられなかったからでしょう。厚い人情と忠恕が言わせた言葉です。

また、有朋は「狂介」と号しています。
常人と狂人の異なりではなく、異なることを恐れない学問でなければ、知識学に終始します。

゛狂に達する゛その世界は官制学校歴のマニュアルによって埋没し、消滅しているかのようです。
児玉、秋山、後藤、孫文、各々の拙章にある登場人物は皆、狂に達してました。

安岡先生はそれを拾い、古典の栄枯盛衰を例に伝えています。
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