独り居の充実ライフを求めて!

ご訪問を頂きまして有り難うございます

NHK 日本人のおなまえ 源頼朝から授かった千葉県鋸南町の皆様

2022年01月31日 09時28分43秒 | 千葉の事

「源頼朝再起の地・千葉県鋸南町竜島 (千葉県のHPより)
源頼朝は、治承4年(1180年)8月に伊豆で平家打倒の兵を挙げましたが、相州石橋山の合戦で敗れ、8月28日に同国土肥郷の真鶴岬から小船で脱出し房総へと逃れます。
翌8月29日、わずかな供を連れて、安房国猟島(現在の鋸南町竜島)に上陸しました。

安房国に着いた頼朝は、上総介広常(かずさのすけひろつね)など房総の武将の加勢を得て、安房・上総・下総と順次支配下にした。
房総で勢力を蓄え態勢を整えた頼朝は、源氏再興を目指し再び平氏討伐にのりだす。
そして頼朝は、やがて平氏を倒し鎌倉に幕府を開設して征夷大将軍となった。

日本史上大きな変わり目となる鎌倉時代が誕生するなかで、「房総の果たした役割は非常に大きなものがあった」のである。
海岸には、源頼朝上陸の碑と説明板が建てられており、この場所から眺める夕日は圧巻である。


    昭和10年3月26日千葉県指定史跡「源頼朝上陸地」               鋸南町竜島の様子            千葉県鋸南町の位置

NHK「日本人のおなまえ」より「千葉県鋸南町」の紹介に千葉県と源頼朝の関係を改めて学ぶために保存いたしました。 
           千葉県指定史跡「源頼朝上陸地」 ↑                 千葉県鋸南町役場 「頼朝に名字を貰った方は?」に

     頼朝に名字を貰った人は何と20人以上!が手をあげました           名字の一部 生貝・龍崎・菊間・松山・・・様を紹介されました


            海辺にがあったらしいんですよ                   そのをむしって頼朝にお茶代わりに飲ませたと


          そのおかげで柴本と言う名字を頂いたと                        頼朝を船で渡した渡さま

 
        左右加の読み方は?「そうか」と読むそうです                  左右から軍勢がわりますよう頼朝が祈願した

 
    祈願した神明神社の宮司に左右加(そうか)と名字を与えました             石橋山で戦いに敗れた頼朝が千葉へ逃げてきました

 
      もし地元の住民が頼朝を捕まえて平氏に差し出していれば                  そのあとの鎌倉時代がなかったと

 
       「源氏の嫡流がきた!」と地元民が助けたので歴史が動いた             頼朝の千葉の伝説っていうのは「貴重なおもしろい伝説です」

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NHK 日本人のおなまえより 「源 頼朝プレゼントネーム・刈込さん」

2022年01月30日 00時00分22秒 | 千葉の事

刈込名字の由来と語源
苅(旧字)込の異形。 千葉県鴨川市花房に江戸時代にあった。
千葉県安房郡鋸南町市井原、千葉県君津市西日笠では秋の雑草を刈って道をきれいにして平安時代・鎌倉時代の武将の源頼朝から賜ったと伝える。(以上はネットより)

千葉県の事となりますと夢中になってしまいます。興味深い内容でしたので保存することに致しました。

 
      源頼朝から先祖が名字を授かった刈込(かりこみ)徹さん              苅(旧字)込氏の名字の由来を記した古文書

 
              由来の説明 昔この地域は背の高い「アシ」・「カヤ」が生い茂っていて進軍できなかったそうなんです


      困り果てた頼朝から頼まれて先祖が草を刈り道を作りました            喜んだ頼朝は「今より”刈込”と名乗るべし」と言われたと

 
         ”刈込”という名字は「感謝の印」ですと言う                  何か褒美を取らせよと側近の佐々木 高綱に命じた


      佐々木 高綱に 「松の実3粒」を頂き立派な松に成長(右側)           「そばに3つの神様をまつりなさい」 と言われて今に至ると
 

      ”刈込”という名のように素晴らしい庭園を管理されています            姿・かたちは変わっていますが感慨深いと語っていました

 
                 そもそも名字って自称なので                       どういう言葉を付けてもかまわなかった

 
         それが不思議だとかおかしなことではなかった               「源氏の嫡流がきた!」と地元民が助けたので歴史が続いた
      

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千葉県野田市関宿出身の 鈴木貫太郎氏 の 「妻が見た二・二六事件」

2022年01月26日 19時17分19秒 | 千葉の事

この度の鈴木貫太郎氏の新聞記事を見て平成26年2月25日放映の見つかった音声テープ「妻が見た二・二六事件」を思いだし久しぶりに録画を鑑賞することができました。
その中の奥様がテープに残されましたお言葉の一部を紹介させて頂きます。

「ネットより転載」
見つかった音声テープには、鈴木を撃った兵士に、妻たかが叫んだ言葉が残されています。「とどめだけはどうか待って下さい」。
鈴木は宮中の要職、侍従長。たかも昭和天皇の幼少時代の養育係。天皇にとって二人は信頼厚い特別な夫婦でした。天皇は鎮圧を命じ、鈴木も一命を取りとめます。
以下はNHK放映より 
 
        平成26年2月25日NHK放映によります                 千葉県野田市関宿は鈴木貫太郎氏の故郷です


         テープの内容「妻が見た二・二六事件」                   たか奥様が語りました「襲撃現場」の様子

 
        テープを保存されていた関宿町の上原進一さん               テープはいつもここへ(仏壇の下)置いてありますと

 
      昭和40年時の上原さんと、たか夫人を囲む隣人の皆様                   昭和40年時のたか夫人 


            上記は絵画表示によります                      上記はテープを回しながらの様子です

 

 

 
          たか夫人のおかげで一命を取りとめます               その後、侍従長を辞す~ 天皇陛下から首相就任を懇願される

 

 
    昭和20年4月7日~昭和20年8月17日まで首相を務めました            天皇にとって二人は信頼厚い特別な夫婦でした


                        戦後公職から退き故郷・野田市関宿にて奥様と余生を送りました

 

 
       息を引き取る寸前まで「永遠の平和」「永遠の平和」と            ダビに付されました時に体内から弾丸が出てきたそうです

 
           実相寺の境内にご夫婦は眠っています                  戒名は鈴木貫太郎氏自らが付けられましたそうです

 
        鈴木貫太郎旧宅跡に建つ記念館(現在は休館中です)             昭和20年8月14日「最後の御前会議」 白川一郎画伯作                                             

 「ネットより転載」
天皇陛下が下した決断=「聖断」で戦争は終結に向かうはずでした。しかし、連合国側の対応に、政府・軍部上層部の間で議論が紛糾。
ついに鈴木貫太郎首相は一度ならず二度までも天皇陛下に決断を仰ぐことになります。
そして昭和20年8月15日、終戦。天皇陛下はこう述べました。「私と肝胆相照した鈴木であったからこそ、出来たのだ」と。 

以上、尊敬してやまない千葉県の偉人「鈴木貫太郎氏」のご紹介をさせて頂きました。最後までお訪ね頂きまして有り難うございました。

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千葉県出身 鈴木貫太郎の資料 後世に (讀賣新聞より紹介)

2022年01月26日 17時35分53秒 | 千葉の事

                2022年(令和4年)1月25日(火曜日)    讀   賣   新   聞

左上の写真の篠崎和夫さんご夫妻は「以和為貴」(和を以って貴しとなす)とタカ夫人がしたためた書を頂き大切に保管していますと。
ご主人は資料館建設に携わった大工さん、当時作業員が寝泊まりした施設の五右衛門風呂ももらい受け今も庭で水をはっていますと。
当時建築に関わった人たちも少なくなり、野田市関宿台町の篠崎和夫さん(86歳)が鈴木家ゆかりの品々を保管しています。
(上記より抜粋)


上記の新聞記事を拝見して先日、元歴史倶楽部会長さんから頂きました記事にも思いをしておりますので再度ご紹介させて頂きます。      

                     鈴木貫太郎記念館再建の記事を友人より頂きました

10数年前の友の会で訪問した「鈴木貫太郎記念館」が再建されるとの記事が日経新聞に掲載されていましたので記事をお送り致します。


歴史倶楽部 平成20年9月定例会に「鈴木貫太郎記念館」を見学しました事に懐かしく紐解いてみましたのでご紹介させて頂きます。

                                                     千葉実年大学校 歴史倶楽部 平成20年9月定例会「関宿」 ・ 「流山」 を訪ねる会 

9月定例会は、千葉県東葛飾地域の北端 「利根川と江戸川」 の分岐点に位置した 「関宿」 及び 「流山」 を訪ねます。
上記のご案内に、6月の北茨城市・常陸太田市の旅 参加者90名を更新し、92名の大勢の皆様が参加されました。
午後遅くには の予報に心配をしましたが、残暑が舞い戻りましたかのような の一日、汗を拭き拭き、健康増進に有意義な散策が出来ました。
 1.開催日  平成20年9月7日 (日) 予報が外れて 
 2.参加者  92名 (歴史倶楽部始まって以来の参加者です)
 3.集   合  千葉NTT前 7時45分
 4.行   程
(1) 関宿訪問先         
  ① 千葉県立関宿城博物館(学芸員の説明を頂く)
  ② 日蓮宗宝樹山実相寺  (住職のお話を頂く)
  ③ 鈴木貫太郎記念館    (自由見学)
② 日蓮宗宝樹山実相寺
 
           応永16年(1409)日英上人の創建                   鈴木貫太郎氏の筆によりますと説明を頂きました  
境内には関宿城本丸から移築した客殿があり、本堂には久世家歴代の藩主と奥方の位牌が安置されている。
墓地内には、鈴木貫太郎氏や弟鈴木孝雄氏 (靖国神社宮司) 等のお墓がありますが、とても質素なお墓にビックリ致しました。合掌
      
          質素な鈴木貫太郎氏のお墓 合掌                  鈴木貫太郎氏の略歴も墨文字がかすれて残念!でした
③ 鈴木貫太郎記念館
 
太平洋戦争終結時の内閣総理大臣であった、鈴木貫太郎氏の記念館。
鈴木貫太郎氏が愛用していた海軍時代や侍従長時代の礼服、又当時を偲ばせる遺品が数多く展示されています。
白川一郎画伯が描いた 「最後の御前会議」 の油絵がおさめられておりました。

歴史倶楽部でお世話になりました当時の会長様の素晴らしい企画を残したくブログを始めました。
歴史倶楽部入会10年間、その後、友の会へ入会させて頂き、素晴らしいお仲間との交流は大切な宝物です。
この度の事は勿論ですが、懐かしい旅の思い出をいつも楽しむことができます幸せに感謝をしております。

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千葉県南房総市の早春の花摘み (NHKニュースよりご紹介)

2022年01月25日 22時47分03秒 | 千葉の事

「NHKの紹介より」
早春に花摘みができます千葉県南房総市の観光農園ではまん延防止等重点措置の適用で首都圏から来る人が大幅に減ることを心配しています。

冬も比較的温暖な南房総市白間津地区にあるおよそ3ヘクタールの園花畑がある観光農では現在、色とりどりのストックやキンセンカ等が咲き始めていて毎年、花摘みをする観光客が大勢訪れます。
農園では花摘みや切り花の販売ができるように準備してきましたが、まん延防止等重点措置の適用で首都圏から来る人が大幅に減ることを心配していました。
このため農家は花を廃棄しないようにするため、電話やファックスで注文を受け付ける配送販売を始めたということです。

 
           早春の楽しい花摘みができます南房総市  ↑                南房総市白間津地区約3ヘクタールの花畑がある観光農園


                          色とりどりのストックやキンセンカなどが咲き誇っております

 
                          早春の美しいお花が競い合っております千葉県南房総市の花園


                                   配送のための花束の準備


                配送販売の準備                       花を捨てることが無いように販売方法を考えているそうです

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「兵士たちの戦争 フイリピン・ルソン島」 証言記録(TV放映より)

2022年01月23日 17時59分58秒 | 遺族会(各追悼式・戦争証言などを含む)

1月22日(土)作詞家 湯川れい子さんが「徹子の部屋」で語る、「26歳でルソン島で戦死した兄と洋楽と平和への思い」を紹介させて頂きましたが、その折にお兄様は「26歳でルソン島で戦死」
をお伺いしました。
ルソン島の戦いは壮絶にして多くの兵士が犠牲になりました事を聞いております。

以下に紹介の記事は10年以上も前の過去ログですので証言をされた皆様も鬼籍に入られておいでのことと存じますが、今でも多くの皆様にお訪ね頂いておりますことに驚いておりますと共に感謝
申し上げております。
今年は戦後77年目を迎えますが散華されました多くの英霊に哀悼の誠を捧げ、ここに再度ご紹介させて頂きました。
「太平洋戦争末期」

フィリピン・ルソン島で、米軍の日本本土侵攻を遅らせることを求められた第23師団。米軍を島の奥深くに誘い込み、戦いを長期化させることが使命でした。
しかし既に制空権 ・ 制海権を奪われて補給は途絶え、しかも太平洋の島々で激戦を繰り返したため、蓄えていた物資の多くを使い果たしていました。
こうした中で兵士たちに下されたのが、“自活自戦・永久抗戦” 。食糧も物資も自ら調達し、永久に戦い続けろというものでした。
9ヶ月に及んだ、補給なきルソン島の戦いの実態を辿ります。(放送の解説より)

           TV放映のご紹介 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210057_00000

 上記のご案内にTV報道に  を向けさせて頂きましたので後世に伝えるために綴らせて頂きました。

 

  
                          戦死者30万人と言われております激戦地 フィリピン ルソン島

  

                             自活 ・ 自戦を強いられた2万人の九州出身者

 
           自活自戦・永久抗戦の文字に震えます                   敵の陣地に向かい ほふく前進 芋虫前進した・・・

 
        ヘビを生で食べる人もいた 引き裂いてそのまま・・・             「何事も命令と言って頭ごなしに言われると・・・」

 
       バギオでふらふらしていたら 遊兵狩りが行われた・・・             シラミの血を自分の体に戻すために 全部食べた・・・
                             
 
                                              洞窟の様なところに病人を直接寝かせた「地獄病院」
       
昭和19年1月からバギオも空襲を受け、野戦病院として使用した場所と言う。
マラリア、テング熱などにかかった兵士を洞窟の様なところに直接寝かせたと言う、ここを「地獄病院」と言われていたそうです。

 
       「助けてくれ」と言っていた。本当にかわいそうだった           私の父はレイテ島東方沖に昭和19年10月27日戦死 残念!

 
                     毎年お一人で ルソン島へ慰霊巡拝に訪れておいでの 小杉 峯彬(みねもり)様
小杉 峯彬(みねもり)様は戦死されたお仲間のために戦後6回(2012年時)、 慰霊巡拝にルソン島を訪ねておいでのお方です。
 「亡くなった方と生きて居るものでは格段の差があり、幾たび手を合わせても自分の気持ちの整理が出来ないと」 と涙ながらに語られました。

以上のご紹介は10年以上も前の放送ですので真実を語られた高齢者の元兵士の皆様は今はもしや鬼籍にはいられてお出でかもとご冥福をお祈り申し上げておりますが、
貴重な証言をありがとうございました。

私も2000年にフィリピンの多くの島々に慰霊巡拝に参りました。
マニラ空港着 ~ セブ島 ~ オルモック ~ サンタフェ ~ カンキボット山 ~ ビリアバー ~ リモン峠 ~ マニラ ~ カリラヤ合同慰霊祭に参列。

誰もが「父は勇敢に戦って戦死した」と伝え聞いておりましただけに当時ご案内役の日本人のお方からの悲惨な状況を見聞きしました折に「来なければ良かった!父があまりにも可愛そう」と、
号泣された男性の姿が忘れられません。

戦争で得るものは皆無です。今年は戦後77年を迎えますが今もこれからも戦争の傷跡は癒えることはありません。悲しみは永遠です。
戦争は二度と繰り返してはなりません。犠牲者は私たちで終わりにしたい!そう願っております。  

最後までお訪ね頂きましてありがとうございます。                                   

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湯川れい子さんが「徹子の部屋」に出演されました

2022年01月22日 23時10分49秒 | 日々の出来事

比企の丘様のご紹介                2008-07-30 | 語り継ぐ責任 あの戦争
湯川れい子さんのお話から・・・兄の遺した口笛「Sleepy Lagoon」  

先々週の7月20日(日曜日)、音楽評論家・湯川れい子さんのお話を聞きました。某町の某グループの企画した講演会です。
そのときの話は7月21日にエントリーしましたが今日はそのときの話と重複する話です。

7月27日深夜(正しくは28日早朝)、某テレビ局の「わたしが子どもだったころ」というシリーズ。
深夜番組ですから録画してあとからの視聴しました。
子ども時代の湯川れい子さんの話です。

18歳年齢の違う兄が徴兵で戦争に向かう前、母や妹のために口笛を吹きながら防空壕を掘っていってくれました。
戦地に向かう前に小さかった湯川さんを抱いて兄は宵の明星を指差しながら
おぼえていてね、あれが兄ちゃまだよ」といったことが最後となったそうです。

兄はフィリピン・ルソン島で戦死。この兄が吹いていた口笛の曲が「Sleepy Lagoon」というアメリカの
スイング・ジャズであることがわかったのは終戦後、ラジオでFEN放送を聞いているときだったそうです。


戦争はすべての環境をガラッと変えます。日本が大戦に突入しなければ湯川さんは裕福な高級軍人のお嬢様として過ごしたかもしれません。
人の思想は学問からではなく環境に大きく作用されるものかもしれません。靖国神社に祀られている軍神の妹が「女性九条の会」会員として活動している、わかります。

たいへん優秀なかたです。大学や語学、音楽の学校で学んでないようですが作詞家として数々の名曲を作詞、外国の名曲を訳詞、評論家として海外のポップスを日本に紹介
しています。兄の遺していった口笛の曲が音楽活動の原点になったのでしょうか。

比企の丘様は私の父がフィリピンで戦死しておりますことをご存じに湯川れい子さんもフィリピン・ルソン島でお兄様が戦死されました事に1月13日にご紹介頂きました。
その6日後の1月19日(水)偶然にも湯川れい子さんが「徹子の部屋」に出演されました。
内容は比企の丘様にご紹介頂きました内容でしたので上記をご覧いただきたく思います。
テレビでは親族が戦死と言う共通の話題でしたので湯川さんのお話に耳を傾けさせていただきました。

作詞家 湯川れい子さんが「徹子の部屋」で語る、「26歳でルソン島で戦死した兄と洋楽と平和への思い」を紹介させて頂きます。
 
                                                令和4年1月19日(水)出演の作詞家 湯川れい子さん


      お話は作詞・おしゃれ・戦死のお兄様の事と紹介されました                  20代の頃から作詞活動をされましたと

 
         初めての大ヒット曲、安西マリアさんが歌って下さった「涙の太陽」と、 それから15年目に「ランナウェイ」がヒットしましたと

         鈴木雅之さんは「ランナウェイ」をデビュー曲にさせてほしい!と お父様(病死)・弟様(戦死)も軍人・長兄は赤紙で招集されたと

  
           長兄様は絵画も上手でしたのでレコードのジャケットにご紹介の素晴らしい絵画を添えておりまし事に貴重な遺品となりましたと

 
  長兄は戦地に向かう前の休暇の3日間、防空壕を掘りながら素敵な口笛を吹いていたので湯川さんが誰の曲?「自分が作った曲」と戦後に「スリーピー・ラグーン」は
  アメリカの有名な曲と判明。敵国の曲なので言えなかったお兄様を偲ばれました。


   戦地に向かう前に小さかった湯川さんを抱いて兄は宵の明星を指差しながら           『時代のカナリア』(今こそ女性たちに伝えたい)
   「おぼえていてね、あれが兄ちゃまだよ」といったことが最後と                お兄様の戦死に「平和」を願い執筆されたそうです


          最後におしゃれを楽しみ、ピンヒールを支えられるように筋肉を支え、90歳までピンヒールがはけますように頑張りたいと結ばれました                                   
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日本遺族通信 令和4年1月15日号 遺書と九段短歌

2022年01月18日 23時00分27秒 | 日本遺族通信


                       令和4年1月 靖国神社社頭に掲示されました遺書 合掌

昭和20年6月10日ミンダナオ島にて戦病死。とありますことにご両親様の悲しみは想像を絶することと存じます。
戦病死=餓死。戦争を知らない多くの皆様には想像もできないほどに悲劇です。敗戦前は、食べ物は全くありません。病気になっても医師はいなく薬もありません。
勿論お風呂なんてありません。南方のジャングルにはまだまだ多くの日本人が置き去りにされたままに泣いています。
開戦に熱くなった馬鹿者たちに怒るばかりです。毎月15日発行の遺族通信を読みます度に遺骨収集派遣隊員の皆様のご苦労に頭が下がります。
今号には11月26日硫黄島で14柱収集、千鳥ヶ淵戦没者墓苑に納骨とありました。合掌
「九段短歌」
今年は戦後77年を迎え、戦争の事実を知る国民も少なくなりました。
語り部も高齢になり悲惨な戦争の事実も忘れ去られるような昨今ですが、我々遺族の悲しみは永遠です。生ある限り鎮魂の歌を詠み、御霊を偲びたく思います。

しかし残念!選者の安元百合子先生が高齢になられました事に今月号で辞退されました。故に、2月号から新しい選者の先生が決定するまで休載のお知らせがありました。
今号にも「鳥海」艦長ご子息の佐世保市の田中暁様、友人の青森県の田中恭子様両名のお歌を学ばせて頂き、お元気にお過ごしの御事を拝察させて頂きました。
毎号多くの皆様に鎮魂の歌にお心を寄せて頂いておりますことに御礼を申し上げます。

                                                             安元百合子先生有り難うございました
投稿開始以来、令和3年12月号から16年めに入りました。今号で156首目(千葉市 嘉子)の掲載を頂き、励みを頂いておりました。
然し、選者の先生が高齢のために辞退されましたので、新選者決定までしばらく休載になります。
何とか200首を目指しておりましたのでとても残念に思っております。

この度掲載されました歌の素材になりました行事を過去のブログ(一部写真の紹介)より紹介させて頂きます。

                     千葉県護国神社に平和を願う書を奉納(千葉TV放映より)

 
            書道家の腰原佳恵先生                        桜林高校書道部の皆様と腰原佳恵先生と竹中啓悟宮司様

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志賀直哉邸跡書斎の修復完了(紹介)

2022年01月12日 22時57分18秒 | 千葉の事


「暗夜行路」を執筆した志賀直哉邸跡書斎とは
志賀直哉邸跡書斎は、大正10年に志賀直哉が設計。我孫子(市)の大工、佐藤鷹蔵が建てました。  
志賀はここで長編小説「暗夜行路」を執筆しました。その後、書斎は他所に移築されましたが、昭和62年に市民の手によって、元あった緑雁明緑地に再び移築。
我孫子市の歴史を語る上で重要な文化財であることから、平成23年に我孫子市の市指定文化財となりました。  
我孫子市のホームページによると、この書斎について以下のとおり掲載されています。
“修復箇所は建物内部では、天井・壁・障子などで、外部では軒ひさしなどです。志賀直哉は書斎の建築時に、できるだけ高級な木材を使わず木の肌や虫食い跡などを活かした簡素な建物づくりを
目指したと伝えられており、こうした思いを踏まえて修復に際しては現在使われている木材などはできるだけ活用し、志賀直哉が使用していた当時の雰囲気を壊さないよう細心の注意を払って行って
いきます。”と。

志賀直哉邸跡書斎   我孫子市の位置図
        我孫子(あびこ)市指定文化財 志賀直哉邸跡書斎                        我孫子(あびこ)市の位置の案内
「我孫子(あびこ)市」は
千葉県の北西部、北は利根川、南は都心から一番近い天然湖沼「手賀沼」にはさまれており、東京都内から約30キロメートル圏に位置しています。
平成27年3月にJR上野東京ラインが開業し、我孫子-東京間は最速38分で結ばれています。


上記の新聞記事に「あっ、歴史倶楽部で見学したところ」と早速記事をめくってみましたら開催の案内に「我孫子市では大正時代の白樺文人たちの手賀沼湖畔での暮らしに思いを馳せます。
と確かに紹介されており、高台に建つ「志賀直哉邸跡書斎」も見学しました。
しかしながら残念!その折に見学の写真、記事が記載されておりませんでした。多くの皆様と貴重な見学をしましたあの日を思い出すために11年前の一部を綴ってみました。

                      「野田・柏・我孫子市の旅」 に参加                     

                    千葉実年大学校 歴史倶楽部 平成23年7月度定例会
「開催のご案内」 より
7月定例会は“醤油のふるさと野田”で醤油のルーツを学んだあと、旧茂木佐邸
(現市民会館)の凛とした佇まいに触れ、柏市では一昨年から公開され昨年末、国の重要文化財に指定された
豪農旧吉田家住宅と、関東三弁天の一つ布施弁天を訪ね、最後に“北の鎌倉”と呼ばれ多くの文人が愛した我孫子市では大正時代の白樺文人たち の手賀沼湖畔での暮らしに思いを馳せます。
以上のご案内に、大勢の会員の皆様が参加されました。
       7月12日 (火)     気温  参加者52名
       7月15日 (金)     気温  参加者42名  (この日に参加をしました)
       7月 18日 (月・祭日)  気温  参加者53名  計 147名

 
        キッコーマンしょうゆ館見学 7/15日参加者                     茂木佐平治家旧宅 (現市民会館)

 
             茂木佐邸庭園入り口                              茂木佐邸庭園の一部            

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2022年(令和4年)のお手製のお年賀状

2022年01月09日 13時25分19秒 | 我が家・親族

       
           絵手紙に励む93歳女性の作品                   油彩が趣味の男性の作品

       
             毎年お手製の60代の女性の作品                 可愛い後輩の50年前~現在までの楽しいお年賀状と嬉しい表の添え書き

お互いに高齢になりましたために、毎年「次年度からお年賀状を失礼させて頂きます。」のご挨拶が多くなりました。
その折にもダンスの友人(60代前半)のお母様の絵手紙はありがたく拝見させて頂いております。
お母様は今年は93歳を迎えられますが、昨年も歌舞伎座に一人で足を運び、他にも何かの公演などには度々お出かけになられお元気にお過ごしと伺っております。
可愛い後輩が葉書の表に添えてくださった嬉しいお言葉にも励まされております。
高齢になりますと年齢の差を感じます昨今に、健康維持には自ら何かを行う姿勢も大切ではないかと考えさせられております。

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「人日の節句」に七草粥を頂きました

2022年01月08日 14時37分55秒 | 我が家・親族


     未歩ママからのプレゼントの七草粥の材料                    孫家族と一緒に美味しくいただきました

「七草粥について」 (HPより転載)
 お正月のご馳走で、疲れた胃を休めるため。というのは、最近の説。
 1月7日は「人日の節句」。
 前漢の時代の中国では邪気を祓う為に、7日の七にちなんだ七草粥を食し、一年の無病息災を祈ったそうです。
 日本にその習慣がうつりました。当時は「コメ、アワ、キビ、ヒエ、ミノ、ゴマ、アズキ」の7種の穀物の粥を指したようです。
 鎌倉時代になり、現在の「春の七草」を七草粥の材料にしたとされておりました。
「人日の節句について」(HPより転載)
 まだまだ寒さの厳しい1月。しかし1月といえば、かつて暦の上では立派な“春”でした。
 そして、その新春を迎えるための行事というのが、正月です。
 元来、正月とは、新しい年神様(としがみさま)を迎え、旧年の豊作と平穏に感謝し、新年の豊作と無事を祈願する日でした。
 農業を営む人々と、農作物の恵みにあずかるすべての人々にとって、欠かすことのできない行事であったのです。
 そして、正月7日──つまり、1月7日は「人日(じんじつ)」と呼ばれる大切な日。現在もさまざまな風習が残っています。

以下の  はHPより転載させて頂きました

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千葉市中央区 4年ぶりに積雪7センチ

2022年01月07日 15時29分32秒 | 千葉の事

       
        
                      1月6日(木)午後1時過ぎしんしんと降り続く我が家前の公園

おかげさまで1月7日(金)は晴天に恵まれ、玄関前の雪かきを終了させて10時過ぎの我が家前の公園の雪も青空に染まっておりました。


         青天に恵まれ公園の雪も融け始めました                 道路も陽の当たるところから融け始めました

雪に慣れていない千葉市民は久々の雪に大慌て、子ども達は1時間以上も歩いて出勤と、娘2人からは転んだら大変だから余計なことはしない事と有り難いメールあり。
外に出てみますと素晴らしい青空!でしたが、滑ったら大変ですので雪かきも玄関前のみに適当に行いました。
雪国の皆様には申し訳なく思いますが、久々の雪に早く止んで欲しい!積もらないで欲しい!と願った昨日でした。

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2022年(令和4年)1月3日 箱根駅伝復路

2022年01月04日 01時52分16秒 | オリンピックなどスポーツ関係

             青山学院大学2年ぶり6回目の総合優勝 おめでとうございます 
(ネットより転載)
青山学院大学が2年ぶり6度目の総合優勝を飾った。10時間43分42秒。大会記録(10時間45分23秒=20年・青学大)を大幅に更新する歴史的な圧勝だった。

往路を制し、2年ぶり6回目の総合優勝を狙う青山学院大学は、7区で3年生の岸本大紀選手が激走。
左足の疲労骨折から1か月前に回復したばかりでしたが、今大会チーム最初の区間賞となる走りでリードを広げます。
9区では、こちらも3年生の中村唯翔選手が区間記録を14年ぶりに更新する快走で優勝を一気にたぐり寄せます。  
最後までトップを譲らず、復路を走り抜けた青山学院大学。大会新記録で2年ぶり6回目の箱根駅伝総合優勝です。
青山学院 原晋監督(54)「大アッパレ快走でですね、学生たちにアッパレ、ほめてあげたいなと思います」

個人的に青山学院大学を応援しておりましたので1月3日の復路も大きな拍手を贈りながらTV観戦の楽しい一日を過ごすことができました。


            箱根・芦ノ湖の復路スタートの様子                    往路一位の青山学院大学 6区高橋勇輝選手のスタート


        1位で6区のコースを走る青山学院大学 高橋勇輝選手               高橋勇輝選手は昨年も6区を走り区間3位と紹介あり

 
         6区高橋勇輝選手 ~ 7区岸本大紀選手へ                        7区のコースを走る岸本大紀選手

 
        1位で7区岸本大紀選手 ~ 8区佐藤一世選手へ                         8区のコース紹介


        1位で8区佐藤一世選手 ~ 9区中村唯翔選手へ                  1位で9区中村唯翔選手 ~ 10区中倉啓敦選手へ


           アンカーを迎える青学の選手の皆様                       優勝を確信してこぶしを上げる中倉啓敦選手

 
         優勝テープを切った青山学院大学中倉啓敦選手                  中倉啓敦選手を胴上げする原監督と仲間の選手

         
         
                          ご活躍されました各校の選手の皆様お疲れ様でした。有り難うございました

                
                          素晴らしい激走に区間賞を獲得されました選手の皆様おめでとうございます  

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2022年(令和4年)1月2日 第98回 箱根駅伝往路スタート

2022年01月03日 02時49分29秒 | オリンピックなどスポーツ関係


      2022年(令和4年)1月2日 第98回目の箱根駅伝には、オープン参加の関東学生連合を含む21チームが出場し、 箱根駅伝往路がスタートしました
1月2日の往路は東京 大手町から神奈川県箱根町までの5区間、107.5キロのコースで争われ、1区は中央大の2年生、吉居大和選手が5キロすぎから独走して後続を40秒近く離す区間新記録をマーク
しました。

個人的に青山学院大学を応援をしたく朝からテレビに魅入っておりましたところ、嬉しい!2ぶり5回目の往路優勝を果たしました。
なかなか走っているところが上手く撮れませんでしたが、私の記録に残しました。

 
          2区の近藤幸太郎選手は5位~3位への力走                   中央大学を抜いて2位を確保した近藤幸太郎選手

 
        2区2位の近藤幸太郎選手~3区太田蒼生選手へ                  1年生の太田蒼生選手が区間2位の力走で1位に
                青山学院大は3区の1年生、太田蒼生選手が区間2位の力走で駒沢大を抜いてトップでたすきをつなぎました。

 
         1位で3区太田蒼生選手~4区飯田貴之選手へ                 1位で4区飯田貴之選手~5区1年生の若林宏樹選手へ

 
         1年生の若林宏樹選手の往路優勝を迎える仲間                   往路優勝のテープを切る1年生の若林宏樹選手

                         青山学院大学2年ぶり5回目の往路優勝 おめでとうございます

            山登りの5区で1年生の若林宏樹選手がリードを広げて5時間22分6秒のタイムで、2ぶり5回目の往路優勝を果たしました。
            青山学院大の原晋監督は「学生1人1人が自覚と覚悟を持ってこの箱根駅伝に向かってくれた成果が出た。」と語りました。

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2022年(令和4年)新年のご挨拶を申し上げます

2022年01月01日 22時35分00秒 | 我が家・親族

                          謹んで新年のお慶びを申し上げます 

                 新春を迎え、皆様のご健勝とご多幸をお祈り申し上げます。
                 
今年もご厚誼の程どうぞよろしくお願い申し上げます。

                                          2022年 元旦

                  【2022年千葉県銚子市初日の出】(銚子市のHPより)

           

                  千葉県銚子市 【初日の出時刻】 午前6時46分頃

  1. 関東最東端の千葉県銚子市の犬吠埼は、山頂・離島を除き日本で一番早く初日の出を見ることができます。
  2. 元旦は、犬吠埼周辺の海岸で雄大な大海原と荒磯に砕ける波や白亜の灯台がおりなす美しい風景とともに、新年の誓いを立ててみてはいかがでしょうか。

以下はNHKニュース放映より「千葉県銚子港犬吠埼の初日の出」をご紹介させて頂きます。

 

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