独り居の充実ライフを求めて!

ご訪問を頂きまして有り難うございます

「和様の書」展を鑑賞しました

2013年08月30日 22時56分11秒 | 書道

平成25年8月30日(金)  「和様の書」 展見学。 於 東京国立博物館

先ず最初に、あまり紹介されていませんが、子どものための鑑賞の仕方のHPで、タイトルの
「和様の書」「の」は、豊臣秀吉が書いた文字を使用と説明されておりました。


                     パンフレットよりご紹介

      消息(おね宛)豊臣秀吉筆 「和様の書」 「の」  はこの手紙の「の」と説明がありました
   
    讀賣新聞 2013年(平成25年)8月30日(金曜日)の報道より転載

 
      パンフレットより転載してご紹介させていただきました

          パンフレットより転載してご紹介させていただきました

「和様の書」とは?パンフレットより転載
中国からもたらされた書法を日本の文化の中で独自に発展させた、日本風の書のことです。
平安時代中期以降に社会制度や文化の和風化が進むと、日本独自の仮名が生まれ、仮名
と漢字が調和した「和様の書」が展開していきました。
本展では、三跡(さんせき)と呼ばれる小野道風・藤原佐理・藤原行成をはじめ日本を代表する
能書の作品や四大手鑑(よんだいてかがみ)など至高の名筆が一堂に集まります。
出品総数約150件のうち約80件が国宝・重要文化財です。
日本の文化が育んだ文字の美しさ、日本人の心を感じる、またとない機会となるでしょう。

四大手鑑(よんだいてかがみ)とは?HPより転載
手(筆跡のこと)のアルバムです。
その手鑑で国宝に指定されているのが、4つのみ。
*手鑑藻塩草 (てかがみもしおくさ)     京都国立博物館蔵
*大手鑑 (おおてかがみ)           京都・陽明文庫蔵
*手鑑見努世友 (てかがみみぬよのとも) 東京・出光美術館蔵
*手鑑翰墨城 (てかがみかんぼくじょう)   静岡・MOA美術館蔵
以上を四大手鑑と呼びます。
手鑑は、台紙に、一枚から三枚ほどの古筆切(こひつぎれ)が貼り付けられています。
その台紙を50枚ほどつなげて、帖(じょう)に仕立ててあります。
手鑑を作ることは、江戸時代に流行しました。
それには、古筆の鑑定を家業とする古筆家(こひつけ)が関係しました。
手鑑には通常、古筆切の右上に伝称筆者(でんしょうひっしゃ)を示す極札(きわめふだ)が
付いています。
その極札を書くのが古筆家の仕事でした。

8月30日 (金) は、とても1日でした。
長女から30日(金)は休暇を頂けたので、何か用事は有りませんか あり。
思わずやった
即座に「和様の書」展に上野まで一緒に行って頂戴と返信  にOK の  有りに
娘の同伴に安心して貴重な展覧会に臨むことが出来ました。
最近では一番暑い1日でしたが、書道を愛好するかなりのご高齢とも思われるお方の熱心な
お姿にも学ばせていただきました。
又、8月30日と言えば1年前の同日、簡単に済むと思われましたポリープの手術日でした。
が、思わぬ医療過誤の始まりの日でもありました。
長い闘病生活を強いられて参りましたが現在、暑さにも負けずに素晴らしい「和様の書」展に
足を運べました喜びはこの上なく幸せに思っております。
娘は書道展よりも「韻松亭」がとても気にいり、満足して貰えたことも収穫でした。
今後は子ども達の優しさにも感謝をしながら日々を大切に過ごして参りたく思います。

上野の杜公園内の「韻松亭(いんしょうてい)」で素敵なランチをいただきました

 
「韻松亭」(いんしょうてい)
のご案内
韻松亭は上野の駅に近く、上野公園内にある横山大観が店主だったこともある懐石料理の
老舗です。
歴史と文化の街上野にある高級感ただよう和風の店構えの料亭で韻松亭は明治8年、上野
公園の中に建つ、とても歴史のある懐石料理のお店です。
明治6年、政府は欧米諸国の例にならって都市公園建設を計画し、上野公園を開園しました。
公園を訪れる市民のために飲食施設も必要と考え、民間に委託して作らせた飲食店のうちの
1つがこの韻松亭だそうです。
店名の由来は「鐘は上野浅草か」と詠われる寛永寺の鐘楼に隣接することから「松に韻(ひ
び)く」さまを愛で、韻松亭と名付けたとのことです。
ちなみにこのお店の本店は北千住にある「味問屋 明日香」というお店で、東京スカイツリー
タウン31Fにも和食 國見」を開いているとのことです。
そのほかいくつかお店があるようです。
以前、呉服屋さんの「和服で美術館巡り」ブログ2008-05-06 22:07:59 | 日々の出来事
招待され、美術館観賞後の昼食が韻松亭でした。
とても印象に残りました素敵なお店でしたので、久々に長女共々美味しさを満喫致しました。

久し振りの韻松亭でしたのでランチは花籠本膳 3500円 をいただきました
 
一の膳
寄せ豆富茶碗蒸し湯波刺しマグロ刺身山芋のお造りです                      
二の膳は花かごです。中には沢山の料理が入っています。素材だけでなく見た目も華やかで楽しい!
  
三の膳
豆ごはんと赤だし汁揚げ物香の物 フルーツは 笹巻麩まんじゅう杏仁豆腐                                 

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金澤の山ちゃんだより ~ 135 ~       

2013年08月24日 12時37分20秒 | 金澤の山ちゃんだより

                   皇 居 宮 殿 参 観

 
     東京 (皇居 桔梗門櫓)         東京 (皇居 正門鉄橋=二重橋)
 
      東京 (皇居 宮殿東庭)       東京 (皇居 警察騎馬隊 宮内省前)

皇居参観コースは 「桔梗門」 を出入り口とし、窓明館(コース説明) ~ 元枢密院庁舎
~ 富士見櫓 ~ 蓮池濠 ~ 富士見多聞 ~ 宮内省庁舎 ~ 宮殿東庭 ~ 宮殿 ~
正門鉄橋(二重橋) ~ 伏見櫓 ~ 山下通り

皇居の面積は約115万㎡、周囲には八つの門があり、皇居内は車も通れば、馬も人も
通るから交通事故に注意しなければなりません
お馴染の宮殿東庭は四国産の石に敷き替え工事中だった

徳川歴代将軍の居城だったが、明治天皇から居住
昭和20(1945)年消失したが、昭和43(1968)年現在の宮殿が完成した

宮殿東庭へは昭和天皇誕生日に参賀したことがある
御立ち台はその時だけガラス張りになり、参賀者の日の丸の旗を振った時は、お立ち台が
見えなくなった

いつも山ちゃんだよりをご覧頂きまして有り難うございます。
暦の上では処暑を迎えて居りますが、残暑厳しき折りに毎日お暑うございます
皆様のご健勝をお祈り申し上げます。
山ちゃんさまのお便りに初めてこのようなコースの有りますことを知りましたので収めさせて
頂きました。

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8月21日おかげさまで6歳のお誕生日を迎えました      

2013年08月22日 07時00分00秒 | 未歩ちゃん

成田山お参り →  成田山書道美術館へばばの書道見学 → 成田山名物の鰻の昼食 
帰宅後お友だちをお誘いし、夜はおばちゃま達と一緒に楽しいお誕生日会をしました。

 
 おばちゃまから  の美味しいケーキ         おばばから  の地球儀

成田山にお参りして
  
          成田山山門          手水舎(ちょうずや)で手と口を清める
 
香閣(こうかく)で未歩ちゃんの頭に香の煙を頂く 1701年(元禄14)年建立の鐘楼です
                              NHKのゆく年くる年でもおなじみです
成田山参拝 → 書道美術館 → 昼食へ
 
           成田山名物の美味しいうなぎをいただきました    

とても暑い1日でしたが、成田山参拝をしてから書道美術館に白扇会書道展見学。
程良い散策後の少し遅い昼食に本場の美味しい鰻にひととき幸せをいただきました。
残暑のきびしい日々に暑さを乗り切ることの出来る元気をいただいたように思いました。 

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第53回 白扇書道会展開催される

2013年08月20日 21時37分34秒 | 書道

      会 期 2013年 8月17日(土) ~ 9月1日(日)
      会 場 成田山書道美術館 


 書故 種谷扇舟先生書  初代会長故 種谷扇舟先生 種谷扇舟先生遺作「芭蕉の句」
 
  書道美術館に向かう成田山公園入り口    公園内で一番大きな池「龍智の池」 
     成田山書道美術館に到着       成田山書道美術館横にある水琴窟 

 
理事長先生の「出虹」 吾が師市川蘭華先生の「礼器碑」  雲峰賞 麻生先生の「傳山」
 
先生の作品と未歩ちゃん準大賞に輝いた先輩の「秋風に」1年振り復帰出展私の「喪乱帖」 

白扇書道会展は例年ですと千葉県立美術館で開催されて参りましたが、「本年は、改修工事のために使用できず、成田山書道美術館をお借りしました。多くの方々のご協力を戴き、お陰様で第53回展が開催できました。」と理事長 種谷萬城先生のお言葉でした。
会場までは51号線を  で1時間余、酷暑の1日、未歩ちゃんのパパとママのおかげで作品展を鑑賞することが出来ました。
私自身は昨年の8月から入院の為に筆を持つことが出来ませんでした。
6月末提出に市川蘭華先生のご指導を戴きながら久し振りの墨の香に感激、また筆を持つ事ができました幸せに感謝して「喪乱帖」を出展する事が出来ました。
1枚仕上げますには4時間余を要し、6枚仕上げました中から選んでいただきましたが、この度の出展に至りますまでの様々の思いが去来して参ります。
ご指導いただいております市川蘭華先生の励ましに感謝を申し上げますことは勿論ですが、健康回復の幸せは言葉に尽くせない喜びでした。
書道には体力が必要である事を改めて再確認もしました。
膝にサポーターをしても体力不足に膝が付けず、立ち机の上で仕上げました。
入賞も出来なかった作品をここに収めることは恥ずかしいことですが、いろいろと困難の中で書きました作品でしたので、私にとりましては大切な記念の作品です。
今後の励みにしたく収める事に致しました。
最後までご覧頂きまして有り難うございました。

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千葉県主催 「千葉県忠霊塔拝礼式」 に参列

2013年08月16日 07時00分00秒 | 遺族会(各追悼式・戦争証言などを含む)

目  的   8月15日は 「戦没者を追悼し平和を祈念する日」 として閣議決定されており、
        政府主催の 「全国戦没者追悼式」 に会わせ、戦没者を追悼し世界の恒久平和
        を
祈念するため、千葉県忠霊塔において拝礼を行う。
日   時  平成25年8月15日 (木) 午前11時57分から 
場   所  千葉県忠霊塔前 (千葉市中央区弁天)
主   催  千葉県
拝 礼 者  千葉県知事
        千葉市長
        千葉県遺族会会長
        遺族代表 (約20名)
        ボーイスカウト (3小隊 計36名程度)
        その他関係者の皆様

 
        千葉県忠霊塔            黙祷を捧げる森田健作千葉県知事 
黙祷を捧げる千葉市遺族会鈴木会長と役員   取材に応じる森田健作知事
 
   取材に応じる熊谷俊人千葉市長   取材に応じる高梨良勝千葉県遺族会会長

以上写真は千葉TV報道より撮影させていただきました。

平成25年8月15日(木)天然クーラーのテントの中で気温も最高潮に達した12時開始に式典が行われました。
終戦の昭和20年8月15日の68年前も風一つ無いとても暑かった日で有りましたことを先輩から伺いました。
千葉県によりますと、千葉県忠霊塔には日清戦争以降の県内戦没者役57000人の名簿が納められているそうです。合掌
今年で60回目となる拝礼には、森田健作千葉県知事、熊谷俊人千葉市長、遺族、ボーイスカウトら関係者80人が参加。
正午から1分間の黙祷を捧げた後、塔の前に設けられた献花第台に菊の花を手向けました。
この日、午前中に靖国神社も参拝した森田知事は、報道陣に対し、「英霊の御霊に心から感謝し、戦争が二度と起きないように見守ってほしいとお願いした」と語りました。
私自身は酷暑の中にも健康を回復して遺族会行事に参加が出来ましたことに健康の有り難さに感謝の1日となりました。
又、夜の千葉TVニュースに以上の式典の様子を丁寧に報道されましたので急いでシャッターを切りました。
最後までご覧頂きまして有り難うございました。

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平成25年8月15日68回目の「全国戦没者追悼式」(TV報道による)

2013年08月15日 23時16分14秒 | 遺族会(各追悼式・戦争証言などを含む)


                    
全国戦没者追悼式会場 武道館

      オーケストラによる「君が代」斉唱         遺族・来賓など6000人の参列者

         黙祷を捧げる天皇・皇后陛下           お言葉を述べられる天皇陛下

   最年長者埼玉県の青柳よし乃様(99歳)       最年少者横浜市の中島馨君(10歳)
終戦から68年を迎えた8月15日(木)気温およそ310万人の戦没者を慰霊する政府主催の全国戦没者追悼式が、東京の日本武道館で行われました。 合掌

式典には、全国の遺族の代表などおよそ6000人が参列しました。
天皇皇后両陛下が、菊の花で飾られた式壇に着かれたあと、安倍総理大臣が「貴い命をささげられたあなた方の犠牲の上に、今、私たちが享受する平和と、繁栄があります。
歴史に対して謙虚に向き合い、学ぶべき教訓を深く胸に刻みつつ、希望に満ちた国の未来を切り開いてまいります」と式辞を述べました。
そして正午の時報とともに、参列者全員で1分間の黙とうをささげました。
続いて、天皇陛下が「歴史を顧み、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります」とおことばを述べられました。
そのあと遺族を代表して、昭和20年に奄美大島沖で夫を亡くした東京・練馬区に住む遠矢みち子さん(92)が、「最愛の夫を、父を、兄弟を、そして子を失った私たちの悲しみは深く、切なく、とても言葉では言い尽くせるものではありません。
悲惨な戦争の教訓をしっかりと心に刻み、すべての人々が平和で、心豊かな世界となりますよう、たゆまぬ努力をいたしますことをお誓い申し上げます」と追悼の辞を述べました。
終戦から68年を迎え、遺族の高齢化が一層進み、参列した遺族の73%が70歳以上になりました。
最年長の参列者で、埼玉県宮代町に住む99歳の青柳よし乃さんは、昭和19年に夫の好男さんをサイパン沖の戦闘で亡くしました。
戦地に出発する前に好男さんが告げた「子どもたちを元気に育ててほしい」という言葉を胸に、畑仕事や内職などに励み、3人の子どもを育てたということです。
青柳さんは、「夫のことは一日も忘れたことはありません。夫に、子どもも孫もみんな丈夫に育ったことを伝えたいと思います。家族が死ぬのは嫌なので、絶対に戦争はしてほしくないです」と話していました。
また最年少の参列者で、横浜市戸塚区に住む10歳の中島馨さん、ひいおじいさんの石井吉三さんが終戦のよくとしの昭和21年に抑留されていた旧ソ連で亡くなりました。
祖母に連れられて遺影を抱いて参列した中島さんは、「ひいおじいさんは日本に帰ってくることができず残念だったと思います。
世界中から戦争がなくなって平和になってほしいと思います」と話していました。
式典では、参列者が式壇に菊の花を手向けて、およそ310万人の戦没者の霊を慰めるとともに平和への誓いを新たにしました。(以上HPより転載させていただきました) 

読売新聞の報道より転載
 参 列 し た 遺 族    4672名人
     戦没者の妻       16人 ( 8人減)     

        兄弟姉妹      508人 (80人減)
           子     3116人 (46人減)
           孫      209人 (64人増) ※カッコ内は前年比、功労省調べ 

本年、8月15日は千葉県忠霊塔拝礼式に参列のために  予約をして出かけました。
ビデオ・新聞報道により記録をすることが出来ました。
千葉県からは200名余のお方が参列しました。
参列予約は5月頃には完了させますので暑さ厳しき8月15日の体力が把握出来ずに、当日の参列者の確認に多忙にします。
申し込み時に於いては最高齢の参列者の出席予定にインタビューを受ける予定になっておりましたが、酷暑当日は99歳のお方をはじめ80代のお二方、急遽3名のお方が不参加となり、最高齢者のインタビューを受ける事が出来ませんでした。
戦争も遠くなりましたが私たち遺族は事実は事実として、子どもたちに戦争を語り継ぐ使命があると思います。
恒久平和を願いますと共に、被災地の一日も早い復興を願い平成25年8月15日の記録と致します。
最後までご覧頂きまして有り難うございました。      

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金澤の山ちゃんだより ~ 134 ~    

2013年08月12日 13時34分21秒 | 金澤の山ちゃんだより

        写真は桶滝 (能登半島・輪島市) です

金澤の山ちゃんさまよりお見舞い状を頂きましたので、山ちゃんだよりをご覧頂いております
皆様へご紹介させていただきます。

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平成25年 68回目の長崎原爆忌・平和祈念式典(TV報道による)

2013年08月10日 15時34分34秒 | 遺族会(各追悼式・戦争証言などを含む)

          長崎平和祈念式典 平成25年8月9日 (金)   気温


       式典会場 長崎市松山町の平和公園             司会進行役の高校生のお二方

               「ひまわり」 合唱団の皆様の 「もう二度と」 の歌で開始された式典

          この1年間の死没者3404人を追加して162083人の名簿が「奉安」されました

               水を求めて亡くなられた犠牲者へ被爆代表他の皆様による 「献水」

         市長・遺族代表による 「献花」                 「長崎の鐘」 と共に黙祷 合掌

                    長崎市 田上市長の 「平和宣言」 のお言葉

                    長崎市 田上市長の 「平和宣言」 のお言葉

     原爆投下に15万人が傷つき7万4千人が逝去              「平和の泉」
    長崎市 田上市長の 「平和宣言」 のお言葉より
 
「平和の泉」のご紹介(HPより)
 
昭和44年8月3日建設された「平和の泉」の碑に刻まれている少女の手記

             のどが渇いてたまりませんでした
            水はあぶらのようなものが
            一面に浮いていました
            どうしても水が欲しくて
            とうとうあぶらの浮いたまま飲みました
        
             ーあの日のある少女の手記からー    


 
                  「子らのみ魂よ」を合唱する城山小学校の5年生6年生の児童の皆様

                 被 爆 校 舎                         被爆のマリア像
被爆校舎について(HPより)
長崎原爆落下中心地から西に約500m離れた小高い丘の上にある長崎市立城山小学校は、大正12(1923)年、九州初のコンクリート3階建て
校舎の城山尋常小学校として設立されました。

緑に囲まれた白亜の校舎は、モダンな学校として当時は有名でした。
昭和16(1941)年4月、城山尋常小学校から城山国民学校となりました。
昭和20(1945)年8月9日午前11時2分、長崎に落とされた原子爆弾で、このあたり一面は廃虚となり、学校にいた28人の教員、3人の庁務員
および学校に居た三菱兵器製作所員58人、挺身隊員12人、学徒報国隊員42人が亡くなりました。

生き残ったものはわずかに先生3人、兵器製作所員9人、挺身隊員2人、学徒報国隊員4人でした。
また家庭にいたこの学校のこども1,400人余りが亡くなり、この地区の家庭にいて助かったこどもは50人あまりに過ぎませんでした。
校舎の一部や半円形の窓を持つ階段塔屋は爆風による倒壊をまぬがれました。
現在、階段塔屋部分は長崎市原爆中心地近くに残る最大規模の被爆建造物として保存されています。
保存されている被爆校舎の一部は、児童の発案により、1999年2月に内部を資料館として改装されました。

被爆マリア像について(HPより)
1929年(昭和4年)、聖堂に取り付けられた祭壇には木製の聖母マリア像が装飾されていた。

1945年の原爆投下により本堂は倒壊するが、戦後マリア像の頭部は神父によって瓦礫の中から発見される。
その後、トラピスト修道院や純心女子短期大学(現:長崎純心大学の教授・片岡弥吉によって保管され、1990年(平成2年)にマリア像は浦上
天主堂に返還された。

バチカンには1985年(昭和60年)と2010年(平成22年)に訪れており、2回目の訪問の際にはローマ教皇ベネディクト16世に祝福を受けている。
現在ではこの聖母マリア像を世界遺産に登録するための運動も行われている。(平成28年登録される)
ちなみにこの像のモデルはムリーリョの『無原罪の御宿り』とされている。

長崎市は8月9日(金)68回目の原爆の日を迎えました。
爆心地に近い長崎市松山町の平和公園で、長崎市主催の「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」が行われ、今年の被爆者の平均年齢は78歳を超えましたと報道されました。
犠牲になられました多くの皆様のご冥福をお祈り申し上げ、後世に伝える為に綴らせていただきました。合掌

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金澤の山ちゃんだより ~ 133 ~          

2013年08月05日 07時30分32秒 | 金澤の山ちゃんだより

                == 納涼シリーズ ==
                 厳   美   渓
                            (げんびけい)
 
   岩手 (一関 厳美渓・橋上見物)       岩手 (一関 厳美渓=名勝)
 
      岩手 (一関 厳美渓)         岩手 (一関 厳美渓 川中の岩)

岩手県一関市にある磐井川中流の渓谷。
栗駒山を水源とする。全長2キロメートル。
1927年に国の名勝及び天然記念物に指定された。

古くから景勝地として親しまれており、一帯を治めた伊達政宗もこの地を賛美している。
1877年8月には、明治天皇が東北巡幸の際に立ち寄っているほか、近代の文人、幸田露伴
もこの厳美渓を訪れ、紀行文を記している。

古く都として栄えた平泉に近く、戦後になって平泉が観光地として人気が出たため、それに
伴い「厳美渓」も観光客が急増した現在も、年間約90万人が訪れる県南部有数の観光地と
なっている。
                                            資料より 

山ちゃん様より続いて 納涼シリーズ 厳美渓 の素敵なお写真を頂きましたのでご紹介させて
いただきます。 
涼しげな思いにひととき暑さを忘れる思いで更新させていただきました。                 

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金澤の山ちゃんだより ~ 132 ~             

2013年08月04日 12時37分15秒 | 金澤の山ちゃんだより

                 == 納涼シリーズ ==
                 奥 入 瀬 渓 流

 
     青森 (奥入瀬 銚子大滝)         青森 (奥入瀬 大きい岩)
 
     青森 (奥入瀬 大木古木)          青森 (奥入瀬 清 流)

奥入瀬渓流(おいらせけいりゅう)は、青森県十和田市十和田湖畔子ノ口(ねのくち)から
焼山までの約14kmの奥入瀬川の渓流である。
十和田八幡平国立公園 に属する国 指定の特別名勝及び天然記念物

車道・歩道が整備され多くの人々が行き交い、歩道を歩いて見ると「巨岩」[大樹][清流]
そして随所に「瀧」を見て新鮮な空気をいっぱい味あうことが出来た

1928年(昭和3年)には十和田湖とともに名勝及び天然記念物に、さらに1936年(昭和11年)
には十和田国立公園 (現:十和田八幡平国立公園) に指定された。
1952年(昭和27年)には、特別名勝及び天然記念物に格上げされている
                                        青森県十和田市奥入瀬

金澤の山ちゃん様から 納涼シリーズ 奥入瀬渓流 の涼しげなお便りを頂きました。
ひととき暑さを忘れてご一緒にご覧いただけましたら幸に存じご紹介させていただきます。

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大東亜戦争へ至る歴史  

2013年08月03日 20時02分47秒 | 友人のご紹介
 リンクしているmatsubara様が私の恩師の弟さま斉藤剛様の著書 「大東亜戦争へ至る歴史」 の感想をブログにご紹介下さいました。
matsubara様は何事にもご熱心にいろいろとご活躍のお方ですが、「大東亜戦争へ至る歴史」 を早速、購入いただきこれまでの戦争に対する知識が、偏っていたことや、浅かったことを改めて認識しました。
と感想を頂きました。
matsubara様にご承諾を頂きましたので転載してご紹介させていただきます。
matsubara様の掲載ブログのご案内
    http://blog.goo.ne.jp/tsukimiso17/e/488b2f4cefc1c517c3935c87d937477a
 
 日本の悲劇的な場面ばかりしか知らなかったのですが、大戦に至る二か月前(1941.6)に、ドイツとソ連の壮絶な戦いがあり、死傷者も記録的でした。第二次大戦全部の死者は民間人合わせて、数千万人ですが、この時の死者が最大だったそうです。
 日本人としては広島・長崎の原爆の死傷者が最大と思っていたのですが・・・ドイツ軍が、不可侵条約を破り、対ソ戦に踏み切ったからです。

 終戦間際、ソ連が日本に不可侵条約を破り対戦してきたのですが、自分の国もドイツに同じことをされていました。

 南京虐殺については日本人が残忍であることが世界に伝えられているのですが、これは反日の中国人が嘘をまぜて、つまり捏造し、針小棒大に書いているのだそうです。過去の日本人の戦争史にはあんな残酷なことをしたと書いていないのです。でも日本軍は証拠書類を廃棄したため、何を言われても言い訳出来ません。
 証拠がないので今となっては何とも言えません。あったとも、なかったとも・・・人はまちまちのことを言います。

 あの戦争が完敗に終わった原因の一つは、日本政府の慣れないまずい外交のせいと言えるようです。奸智にたけた西洋列国に叶わなかったと言うことです。それとドイツの戦力を過大評価していたことと・・・日本外交は松岡の独走で失敗に至りました。ヒットラーに大歓迎されて・・・
 また、暗号がすべて米英に解読されていたことも知らなかったこと。高校の授業でそれは、聞いていました。12/8のパールハーバー攻撃の時も、向こうは事前に知っていたのでわざとボロ船で待っていたことなど・・・
 解読していても知らなかったふりをして死者を出していたのです。ところが日本はせっかく暗号を解読していたのに、海軍は陸軍に知らせず、対策もおろそかで、解読した意味がなかったのです。
 向こうでは、チャーチルとルーズベルト(文中ではローズベルト)は、お互いに900通も手紙を交換していました。

 この戦争を止められるのは、天皇しかいなかったので電報を依頼。
 ところがルーズベルトから天皇に出した親電が、何故かアメリカに10時間も留められて、天皇に渡ったのは真珠湾攻撃の30分前でした。
 これは米国の謀略でしょうね。ハル・ノートは、最後通牒と言われていますが、挑発的な内容で開戦に至らざるを得なかったようですから・・・仮にあれと同じ内容の手紙を受け取ったら、モナコでも米国に立ち向かうと後世言われていますから・・・ハル・ノートが物別れとなり、打電で回避しようとしたのに・・・
 アメリカの狡猾さは、米国史を学ぶと分かると放送大学の友人は言っています。

 なお、著者の斉藤氏は東大卒後、千葉県庁に勤務。定年後は大学講師。2009年にも 「世界の中の日本」 を出版され、贈呈頂いています。
 その本は、世界史の中でも古代史を中心としたものから書かれていました。参考文献が150冊を超えているのに驚きます。中央公論事業出版発行。518ページ。

 文中に安部信行首相(昭和14年)の記述がありますが、長女のIさんとは高嶺東京歌会でよく会っていました。
もう故人ですが・・・

     
 
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