指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

団塊監督全員クビ

2005年09月30日 | 野球
巨人の堀内監督がクビになった。これで、山本浩二、若松と団塊の世代の監督は全員クビになった。
世間では、リストラが横行している今日、プロ野球界も例外ではない、と言うことだろう。
互いに気をつけるしかないね。
彼ら以前に、田淵もダイエーで監督をやったがやはり駄目だったね。
ある人の説では、団塊の世代は、「俺が、俺が」で、互いに協力しないから駄目なんだそうだが、まあそうかもしれないね。

『人間蒸発』

2005年09月29日 | 映画
9月23日に川崎市民ミュージアムで『にっぽん戦後史・マダムおんぼろの生活』を見たと書いたが、その日は今村昌平監督の映画『人間蒸発』も見た。
これは、東京下町からある男が蒸発したことを、その婚約者だった女性早川佳江さんと俳優の露口茂、今村組のスタッフが探すもの。

途中で佳江さんが露口を好きになってしまい、その告白も隠し撮りで捉えている。
封切り当時も、ルール違反だと今村に対して批判があり、早川さん本人も告訴したはずだが。

確かに今見てもあまり後味の良くない作品である。
しかし、封切り当時は衝撃を受けた隠し撮りのシーンは今見ると余り驚かない。
それは、その後テレビ等でそうした手法は当たり前のように行われているからである。だが、「人権的視点」から見ればこうしたことへの感覚の麻痺はいいことではないだろう。

叙勲祝賀会に行った。

2005年09月29日 | 横浜
以前、職場で大変お世話になった上司だった方が、今春に勲章を受賞され、お祝いの会が横浜のホテルであった。
それには官位がなかった。聞くと以前はあった等級(勲何等というもの)は、廃止されたのだそうだ。
昔は、「あいつは勲3等だったのに、なぜ俺は勲4等なのだ」などという馬鹿らしい争いがあったが、そうしたことはなくなったわけだ。
人間に等級を付けるのは良くないということらしい。当然のことで、戦前の日本では1等国民とか、2等国民と言った区別があった。
1等とは言うまでもなく、本州に住む日本人で、沖縄や朝鮮半島等に住む人々は2等国民とされたらしい。実に馬鹿げたことである。

私などよりはるかにえらい人ばかりなので、会場の隅に恐縮していたが、つくづく日本は超長寿社会だと思う。60才はおろか70、80の人が元気なのだ。偉い方がずっとはるか上までご存命なのである。誠にご同慶に耐えない。

昔、映画監督の故・須川栄三が、50年前の下っ端の助監督だったとき、当時東宝には40人以上の助監督がいて、「1年に2人ずつ監督に昇進しても、定年までに俺に回ってくる機会はない。忘年会かなんかで全員がふぐ中毒になってくれないかな」と妄想したと書いていたことをふと思い出した。

勿論、ふぐ中毒はなく、皆さん元気でお帰りになったようだ。
私も、友人に会って戻った。

『NaNa』

2005年09月29日 | 映画
期待していなかったが、前から中島美嘉は贔屓なので、行くと意外に面白かった。現在の若者の心情のキーワードが、「自分らしく自由に」であることがよく分かった。
中島美嘉と宮崎あすかの、同じナナという名の二人の女性の話。
ツッパリのロックシンガー中島と能天気なフリーター宮崎。上京する新幹線で偶然知り合い、同じ部屋をシエアーする。
中島は、昔の恋人で有名ロックバンドメンバーの松田龍平と再会し、宮崎は付き合っていた恋人と別れる。

注目すべきは、ここには役作りといった伝統的な演技が全くないことだ。
東陽一の『サード』『もう頬杖はつかない』あたりから始まった自然な演技が完全に定着し、他に演技の方法論がないことが分かる。太陽族から『非行少年・陽の出の叫び』や『非行少女ヨーコ』などの不良少年ものにあった、少年・少女たちの「背伸び」が全くない。

自分が普通に言うように台詞を言い、演技しているのが当然となっている。
そして、ここで顕現されている若者の気分は、「自分のやりたいことを自由にやる」ということである。勿論、それは間違いではなく、究極の目的である。
しかし、大きく見れば自分が選択したのではなく、実は類型として与えられたものであることが分かる。
昔、アメリカの社会心理学者R・D・レインが『引き裂かれた自己』の中で書いたように、アメリカの消費社会の中で、人々は自らが選択したように思い商品を購入しているが、実は選択するよう強いられたものだ、と言った趣旨のことを書いていたと思う。それに近いことが今日本でも起こっているのではないか。

そして、若者のそうした「自分らしく、自由に」という気分に一番あったのは、政治で言えば小泉純一郎首相である。小泉首相に、従来の自民党の勢力に縛られているという感じはない。
それに比べれば、岡田克也民主党前代表は、自由にものを言わず、どこか後ろに存在する者や勢力の意見を言わされていると言う感じがした。その辺が、若者が民主党に投票しなかった大きな理由だろう。

『日露戦争秘話・敵中横断300里』

2005年09月26日 | 映画
黒澤明の脚本を二度監督したのが、大映の森一生で、その1本がこれ。もう1本は時代劇、荒木又右衛門の『決闘・鍵屋の辻』
黒澤の脚本を映画化した人は多く(その最低は、小泉何とかの『雨上がる』と熊井啓の『海は見ていた』だろう)、谷口千吉が3回映画化しているが、友人だったからだろう。森は、大映京都の監督で、会社が違うのに2回も映画化しているのは、黒澤も認めていた証拠。

戦前に軍記物で大人気だった山中峰太郎の日露戦争を舞台にした小説。
菅原謙二が満州(中国東北部)の奥地に潜入し、ロシア軍が奉天に結集していることを調べ、日本の奉天会戦の勝利に貢献する。
この映画が作られた昭和33年頃は、奉天会戦を皆良く知っていたらしく、地理関係の説明がないので、私たちには少々分りにくい。
さすがの森なので、「血わき、肉踊る」娯楽作品にしている。
新東宝の『明治天皇と日露大戦争』の大ヒットに刺激された作品だろうが、渡辺邦夫の浪花節調ではなく、淡々と丁寧に描いている。
北海道で撮られたらしいが、セットがすごい。日本映画全盛時代である。

音楽が大映には珍しく鈴木静一。黒澤の『姿三四郎』など、戦前は東宝で、戦後は東映京都でマキノ雅弘の時代劇映画が多かった人であり、抒情的な旋律に特徴がある。

佐藤蛾次郎が出ていた。

2005年09月25日 | 映画
9月20日に見た今村昌平の『エロ事師たち・人類学入門』に、娘佐川啓子の不良仲間の一人として、佐藤蛾次郎(当時は蛾二郎)が出ていた。。佐藤は、大阪朝日放送の劇団に所属し、あの映画は大阪で実際に撮られたので、選ばれたのだろう。
その劇団には、死んだ中島葵や、図書館と敵対することが何故か生きがいの作家三田誠広などもいたそうだ。

『にっぽん戦後史・マダムおんぼろの生活』

2005年09月24日 | 政治
横須賀で米兵相手の売春バーをやり、財をなした女のドキュメンタリー。制作、日映新社、戦後の大事件のニュースを見ながら監督今村昌平が聞く。『にっぽん昆虫記』の実録版。
世界映画史上、これほどまでに不細工で下品な女が、あけすけに人生を告白する作品もない。

中国地方の肉屋(富裕だったが、差別はあった)の娘の赤座が、戦後地元での商売のために結婚した(検挙情報等の入手のため)警官から逃れるために上京し、横須賀でぼろいバーを買う。買値をけちったので、名前は変えられず「おんぼろ」とする。

母親も間もなく上京し、同じく横須賀に売春宿を開く。妹もバーで働き、米軍の高級将校と結婚する。

主人公はいつも行き当たりばったりで(その実計算はすごい)、下級米兵との関係を繰り返し、最後は20歳以上も年下の米兵と結婚して、サンディエゴに移り住む。

ここで、私たちが打たれ、またひどい不快さに襲われるのは、戦後ずっと日本が「アメリカの愛人」的存在である現実の姿である。頭では分っていても、現実に見せられると少々つらい。
ここでも創価学会への入信がある。

『マグノリアの花たち』から『わた鬼』まで

2005年09月24日 | 映画
たまにはこういうものも見る。サリー・フィールヅの母、その娘で糖尿病のジュリア・ロバーツ。美容院のドリー・パートン、そこに就職してくるダリル・ハンナ、嫌われ者の金持ち・シャーリー・マックレーン、さらに資産家のオリビア・デュカキスなど。ルイジアナの小さな田舎町の淡々とした話。
ウイリアム・インジの戯曲『わが町』のようだ、と思ったら原作は劇だった。
監督のハーバート・ロスは舞台演出家で、確か振付師だったはずだ。アメリカには振付師出身の監督がいる。ボブ・フォッシーもそうだし、ジェローム・ロビンスやジーン・ケリーのようにダンサーから監督になった者もいる。

ドリー・パートンの夫が、ジェシカ・ラングと結婚しているサム・シェパード。この人は劇作家で、たまに役者で出るがいつも良い。

こういう大人向け映画は、日本で言えば成瀬の『晩菊』だが、最近では全くないね。あえて言えばテレビの『わた鬼』になるのか。

いま『浮雲』を作れば。

2005年09月22日 | 映画
いま『浮雲』を作れば、高峰秀子・森雅之のコンビは誰になるのか。
高峰のゆき子は、大竹しのぶ以外にいないが、富岡の森がいない。

以前、岩松了の作・演出で舞台では、風吹ジュンと小林薫だったが、あまり面白くなかった。
私は奥田英二かなと思っている。

いずれにしても、成瀬巳喜男に代わる監督がいない。
生きていれば、神代辰巳だと思う。神代演出なら、萩原健一になるが。萩原では、役人という感じがないのが問題だろう。

金持ち喧嘩を売る

2005年09月21日 | 政治
小泉首相のやり方は、簡単に言えば「金持ち喧嘩を売る」だろう。
日本の保守政治家は、一口で言えば「金持ち喧嘩せず」だった。
多くの政治家は、功なりとげた者か、いずれなることが約されている人間で、あえて物事に争いを持ち込まず、万事丸く治めるのがその基本的態度だった。
自民党の派閥で言えば、池田派、大平派が典型で、お公家さん集団と呼ばれ、多くが官僚出身者だったが、出自は地方の名望家が多い。現在では、加藤紘一がその代表だろう。谷垣財務大臣も近い。
だが、小泉首相の考えは、こうした伝統的な思考方法と全く異なっている。
積極的に問題を提起し、事を起こすことによって政治化し、自己の陣営に引き込む。今回の郵政民営化問題がその典型である。
恐らく、この方法は彼が英国に留学していたときに見聞きしたやり方であるに違いない。
亀井、綿貫ら伝統的自民党政治家の反発もそのあたりにあるのだろう。

ロマン・ポルノのもとは今村昌平だった。

2005年09月20日 | 映画
川崎市民ミュージアムの今村昌平特集で『赤い殺意』『エロ事師たち・人類学入門』、『神々の深き欲望』『西銀座駅前』を見た。『神々の深き欲望』と『西銀座駅前』は初めて、『赤い殺意』は3回目、『エロ事師』は封切り以来二度目だった。

全体として、後の日活ロマン・ポルノで描かれるテーマ、題材が、総てこの頃の今村作品で描かれていることに気づいた。ロマン・ポルノは応用問題、表現を過激にしたにすぎなかったのだ。スタッフも遠藤三郎、田中登、加藤彰などが参加している。
ロマン・ポルノのとき、東映も対抗して「ニューポルノ」を作ったが、全く駄目だったのは、東映にはそうしたもとが全くなかったからだろう。

『浮雲』

2005年09月19日 | 映画
途中から『浮雲』を見たが、すごいとしか言いようがない。互いに依存し合っているのに、会えば傷つけあうしかない森雅之と高峰秀子。世界の映画を見ても、これほどまで男女の関係をきびしく見つめた作品はない。日本の下層社会の男女関係のいい加減さ、いかがわしさ、非道徳性を明確に描いている。そこには元々、性道徳などなく、適当にくっ付いたり離れたりしているのだ。
サイト名にも使ったミケランジェロ・アントニオーニの『さすらい』も同様な作品だが、主に男の孤独さを描いた映画で、男女関係を見つめたものではない。
高峰の死後、森は手伝いのばあさんの千石規子とできるのだろう、と思ったのは私だけでしょうか。

二重ではなく荷重だった。

2005年09月19日 | 映画
9月15日の「柳橋の路地がセットだった」の中で、路地も「二重」でできていたため壊れたと書いたが、「荷重」の間違いだった。
荷重は、元は舞台で使用するもので、6尺・3尺の長方形の台で、これを敷き詰めて家の床等を作るのである。

妻の敵・高峰秀子と普通の主婦・中北千枝子

2005年09月16日 | 映画
9月11日「飯田蝶子と高峰秀子」と9月14日「中北千枝子と佐田豊」で書いた中北千枝子さんがなくなられた。79歳。高峰秀子より2歳若い。

高峰と中北は、いつも対立する役で『浮雲』では、愛人と本妻、『妻として女として』では、同じく愛人と本妻(淡島千景)の妹。

『浮雲』では、嫌味を出すため成瀬巳喜男から金歯されてしまったそうだ。
『流れる』でも、山田五十鈴の妹で、いつもぐうたらしていて、賀原夏子に嫌味を言われる。『流れる』では、高峰も芸者にも普通人にもなれない駄目な女として描かれているが。賀原は、昭和30年にすでにお婆さん役だった。

高峰秀子は、美しく同情を買うヒロインだが、実際に考えれば普通の家庭を破壊するとんでもない女である。

中北は何故か戦争未亡人役が多く、原節子に助演した『めし』でも友人の一人の未亡人で、確か保険の外交員だった。後に、日生のCFをやったのはここからかもしれない。

民主党敗北の原因

2005年09月15日 | 政治
総選挙での民主党敗北の原因は、いろいろあるだろうが、「小選挙区では自民に負けても比例では復活当選する」と皆が考えていたことにあると思う。
だが、実際は復活当選も、小選挙区で大敗しては、どうにもならないことが初めて分った。

作家宮崎学によれば、中小企業の労働争議の場合、絶対に経営者側が勝つのだそうだ(彼は両方で戦ったことがあるそうだが)。理由は、経営者は負ければ何もなく、誰も助けてくれないから猛烈に頑張る。だが、組合員は負ければ別の会社に就職すれば良く、さらに外部団体が援助・口出したりするので、他人任せで頑張ればないからだそうだ。

今回の総選挙で自民党は、小泉首相の「殺されてもやる」という不退転の決意に対し、民主党はいずれ「風が変わる、潮目が変化する」と全く他力本願だった。
戦争や喧嘩では、他力本願では絶対に勝てないことは、かつての日本のカミカゼと同じである。
民主党は、風や潮目ではなく、自分一人でも頑張るという意思が形成されたとき、自民党に対抗できるようになるだろう。