指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

諸悪の根源は日教組?

2015年02月28日 | 横浜
横浜市会のある議員の話で、一応は非自民党なのだが、日教組が大嫌いな方がいる。
常任委員会も必ず教育委員会関係の常任委員会に入られ、必ず質問される。
だが、どのような問題を取り上げても、いつの間にか、必ず「日教組が悪い」という結論になってしまうのであるには、思わず笑ってしまった。
「諸悪の根源日教組」というが、いったい今やどれだけの組織率があるのだろうか。
多分、30%も行っていないに違いない。
今や、職員の給与は上がらない時代なので、組合に加入するメリットはない。
かつて人事異動の時は、横浜市役所では職員の異動については、あらかじめその組合の支部にも了解をえる合意があったので、異動の時になると組合員になる者もいた。
もし、自分の意に反する配置転換が行われたら組合に駆け込もうというのであろう。
それも今や昔の話に違いない。

英連邦墓地

2015年02月28日 | 横浜
今、日本に来ている英国のウィリアム王子が、保土ヶ谷の英連邦墓地を訪れて墓参したそうだ。
保土ヶ谷区と南区の境界の場所にあり、平和台の近くである。
私は、どういう理由だったか忘れたが、横浜市を代表して墓地に墓参したことがある。
多分、担当課長だったU氏が何か理由があって行けず、代わりに日曜日に行った記憶がある。
場所は、市営バスで行くと79系統の、関内から井土ヶ谷、永田台等を経由する平和台行の、児童公園前から歩いてすぐのところにある。



イギリスは、海外で亡くなった兵士などは、その現地に葬るそうで、世界中にこうした墓地があるようだ。
まさに世界を制覇した大英帝国らしいと言えばその通りだが。
この平和台というのは、実は戦争中は日本軍の高射砲陣地だったところで、戦後に平和台と名付けられたもの。
東京大井の平和島も、戦時中は捕虜収容所があったことである。
今は、その島の前面水域でボートレースが行われているが、ともかく平和で結構なことである。
各地に平和なんとかと名付けられた地名があるが、それのほとんどは戦時中は戦争に関係した場所であり、戦後に国民が平和を希求した想いがよく分かる。

『ロッパの水戸黄門』とテレビドラマの黎明

2015年02月27日 | テレビ
早稲田大学26号館で、「『ロッパの水戸黄門』とテレビドラマの黎明」が行われた。
26号館なんてどこだと思うと、かつて第二学生会館があった場所である。これは新学生会館として、堤義明が寄付してできたものだが、誰も入らない内に大学紛争になり、過激派によって占拠され、1970年の封鎖解除の時には機動隊との間で大攻防戦が行われて廃墟になってしまったところである。
もう、60年前のことだから関係ないのだろう。
さて、古川ロッパにテレビの『水戸黄門』があったなど知らなかったが、それもそのはず関西の毎日放送でワンクールだけ放送され、その間に古川ロッパが死んでしまったので、どこでも放送されなかったからとのこと。
今回は、フィルムを所有していた方から、関係者を介して大阪芸術大学の太田米男先生のところに「フィルムが臭くて堪らない」との話があった。
京都花園の黒沢さんの家は農家だが大地主で、このテレビドラマ制作に出資した。新星映画という名称で、かつての左翼独立プロの新星映画社と関係があるか否かはまだ不明とのこと。
監督は東宝系の小田基義で、ロッパも当時は東宝専属だったが、まさに晩年で日記を見ると日々文句と愚痴ばかりだが、実際の映像で見るとかなり痛々しい。本当にロッパはよたよたしていて、アクションシーンでは吹き替えも使っているようだ。何しろ糖尿病と結核でひどかったらしい。



水戸黄門なので、助さん格さん、さらに狂言回しのヤクザのような男も出てくるが、日記の記述だと皆松竹の新人連中とのこと。
この日は、第1話と2話、さらに13話が上映されたが、「第1話と2話は本当にこの程度でも放送したの」というでき。
当時のロッパの日記には、新東宝や富士映画に出ると、「昔の大都映画のレベル」という記述がよく出てくるが、これは大都映画以下。
なにしろ、太田先生のお話では、東宝は京都にスタジオがなかったので、オールロケ、オールアフレコで、1日30カットというスピードで撮影し、アフレコは仮設の小屋でやった。
フィルムのループもできていなくて、流しでアフレコしたので、声と映像がほとんど合っていないのが凄い。
また、ライトのスタンド予言をする竜神の木像があるのだが、その顎と舌を横で操作している男の姿も見えている。
先生によれば、当時のテレビの受像機の画面は相当に丸くて端は写らなかったので、「これで良し」としたとのこと。
一応音楽が付き、編集は宮田味津三となっておるので、近くの大映スタジオで完成処理はしたのだろう。
ただ、13話は、村人の誤解によって金鉱探しの三人組が水戸のご老公一行に取り違えられているところに、ロッパたちが来て、「お前たちは偽物!」として打擲される。
だが、古川ロッパは、「偽物でも、彼らが代官の悪行を糺し、農民が喜んでいればそれで良い」とするのはなかなか皮肉だった。
なぜなら、戦後のロッパは、森繁久彌以下の人気者は偽物だとして、その活躍を常に苦々しく思っていたからで、これは自己批評になっていたからである。
早稲田大学演劇博物館事業

新資料は 2・26事件産業

2015年02月26日 | 政治
今日から79年前の1936年2月26日は、陸軍の一部の青年将校が反乱を起こした2・26事件の日である。
秦郁彦先生によれば、日本には「2・26事件産業」があり、毎年この時期になると、新資料が発見されるとのことだった。
だが、今年は出なかったようだ。
もう70年以上前の事件となれば、未発見資料も出尽くしたのだろう。
この事件が与えた影響は非常に大きく、近衛文麿、木戸幸一ら天皇側近の連中も、軍人の暴力に怯えることになり、それが軍国主義の跳梁跋扈の一因にもなったようだ。
だが、この事件の原因と昭和天皇の態度、「予自ら直ちに近衛兵を引きいて反乱軍を鎮圧する」と言った言葉の真意については、必ずしも明確ではない。
それを解くのは、脚本家笠原和夫の説である。
彼は、シナリオ執筆に当たっては、膨大な資料を調査し、多数の関係者からのヒアリングを行った。
その結果、ある関係者からの話として、昭和天皇とその弟宮の秩父、高松、三笠の宮らとは、父親が違うというのだ。
大正天皇には子供ができなくて、他の男子を充てたので、昭和天皇と兄弟は、、皆顔付が非常に違うというのだ。
昔は、後妻や側室によって母親が異なる兄弟というのはいくらでもあったが、お種が違うというのは珍しいと思う。
なんとしても男子を作らざるを得なかった天皇家では仕方のないことだったと思う。
もともと、素質に問題があると言われた大正天皇のお種は残さない方が良いのではと思われ、その上に子ができなくては仕方のないことだったろう。



2・26事件の時、反乱軍の後建てに秩父宮がいたというのは有名な話で、そうなると「兄弟相撃つ」壬申の乱になるので、「そうなっては一大事」と、昭和天皇は、すぐに鎮圧に乗り出したというのだ。
まあ、ありえない話とは言えはないだろうと思うが、DNA鑑定でもしないと真偽のほどは分からない。
笠原和夫の本、『昭和の劇』に出ている話なので、ご興味のある方はお読みいただきたい。

『原節子、号泣す』 末延芳晴 集英社新書

2015年02月24日 | 映画
小津安二郎映画に出た原節子の作品の内、俗に「紀子三部作」と言われる『晩春』『麦秋』『東京物語』のそれぞれのクライマックスで、原節子が号泣していることからアプローチしたユニークな小津映画論である。



他の小津安二郎産業本に比べて、かなり独自の視点で、『晩春』での最後の京都旅行の夜の意味、原節子と笠智衆の「近親相姦的」意味を否定している。
それは蓮實先生やドナルド・リチーから言われたもので、他にも類似した観点での批評がある。
だが私も、小津安二郎のモラルから見て、あの場面にエレクトラ・コンプレックスの意味を付与するのは相当に無理があると思う。
ただ、多くの論者にそう書かせたくなるほど、原節子は一見は慎ましやかに見えて、実は大いに性的なのである。
それを筆者は、「原節子の反社会性」のよるものと書いているが、さらにそれがどこから来ているのかの言及がないのは私には大いに不満である。
反社会性というよりは、むしろ反道徳性というべきで、それは言うまでもなく義兄熊谷久虎との問題に起因していると私は思う。
また、『東京暮色』への言及が少ないことも私には不満だったが、小津安二郎産業本の中では、極めて個性的な本のひとつであることは間違いない。

やはり、セットだった

2015年02月23日 | 映画
一昨日ラピュタで見た『嵐を突っ切るジェット機』の葉山良二がやっている飛行機会社のビルは、映画用に作ったものではないかと書いた。
美術の木村威夫さんの本『映画美術』を調べると、やはり東雲飛行場に建てたと書いてあった。
さらに、前からもしかしたら、と思っていたのだが、鈴木清順の映画『けんかえれじい』の高橋英樹が入学して、軍事教連などをさせられるコンクリート造りの古い校舎は、やはり都立小山台だった。
1966年当時、すでに結構古い建物になっていたようだ。
小山台は、たしか関東大震災以降に建てた校舎で鉄筋コンクリート造りだったが、なにしろ大変なバンカラ高校で、上履きがなかった。
全員が土足でそのまま校舎に入るので、非常に汚い高校だった。
私の知り合いの女子高生など、来てあまりの汚さに気持ちが悪くなっったくらいだった。
今は、もう少しきれいになっているのだと思うが。

「政治主導」の誤り   安倍首相の問題発言

2015年02月23日 | 政治
先週の国会で、安倍首相が「日教組は、日教祖はどうなの」と叫んだヤジは、デマ情報を信じたものであることが分かり、自ら陳謝することになった。
これも大きな問題だが、1月に安倍首相がエジプトでやった演説の「人道支援」というのも、あらかじめ外務省が用意した演説原稿とは異なるものだったとのことだ。
日教組への国の補助金などはないことは、後ろに並んでいる官僚に聞けばすぐにわかることである。
また、エジプトでの演説も、外務省が用意した原稿を踏み出して演説したために、人道的援助とは理解されず、イスラム国からは、有志連合への援助と「誤解」されたようだ。

要は、官僚を信じずに、政治家の考えでことを進めて行こうということだろうが、非常に困ったことである。
民主党も「政治主導」を言い過ぎて墓穴を掘ったが、安倍内閣もその二の舞になるのではないだろうか。
心から心配する次第である。

「マツケン」と言えば

2015年02月23日 | 映画
昨日見た『嵐を突っ切るジェット機』の原作は松浦健郎で、脚本が星川清司だった。
原作松浦健郎と見て、嫌な予感がした。
昔、日活の映画を見に行くと、松浦健郎原作、共作の脚本の映画があり、見ると大体ひどかったものだからだ。

松浦健郎は、満州で映画監督をしたこともあるそうだが、戦後日本に帰国後は脚本に専念し、塾を開き、多くの門下生を抱えていた。
星川清司の他、中西隆三、小川英、あるいは監督の長谷部安春もいたことがあるそうだ。
だから、当時はマツケンと言えば、松平健ではなく、松浦健郎のことだった。
だが、日本映画界全体の衰退の中で、脚本を辞め、1970年代の頃小説に転向し、暴露記事を書いたそうだ。
古本屋で見たことがあるが買わなかった。
戦後の日本映画界で活躍した方であることは間違いない。

『嵐を突っ切るジェット機』

2015年02月22日 | 映画
1961年の日活映画で主演は小林旭。日活には航空映画の流れがあり、石原裕次郎には傑作の『紅の翼』があるが、これはそれには遙かに及ばない。
その理由は、小林旭と監督の蔵原惟繕との相性の問題もあろうが、飛ぶ航空機がジェット機であることも理由の一つだと思う。
プロペラ機には、SLに似た人間くさいドラマが似合うが、ジェット機にはドラマが生まれにくいようだ。
浜松の航空自衛隊のアクロバット・チームの暴れ者が小林旭だが、ある日隊長の芦田伸介が事故で死んでしまいチームは解散し、彼と同僚の郷暎治は金沢へ転勤させられてしまう。
そこでも問題を起こした小林旭は、休養を命じられ、東京で小航空会社をやっている兄の葉山良二のところに来る。
撮影場所は、今の東雲にあった小型機の飛行場らしいが、そこに中層の焼け跡のようなビルがあり、葉山の会社は、草薙幸二郎、高原駿雄、高品格らのポンコツな連中でビラマキ飛行などで細々と営業している。
このビルは、随分と都合よくあったなと思うが、見ている内に、「これはわざわざ撮影用に作ったものではないか」と思えてきた。
やはり木村丈夫の美術は凄い。
金に困った葉山は、やはり以前に一度だけ密輸を手伝ったことのある中国人山内明の依頼で、沖縄への密航を運んであげることになる。
それを知った小林旭は、最初はボロセスナで追いかけるので、羊頭狗肉ではないかと思うが、途中で警察から自衛隊に追跡の依頼があり、旭は、F6Fに乗って山内らを追い、小さな島で逃走した飛行機を見つける。
そこには葉山や山内もいて、撃ちあいの末に葉山は死に、悪漢は退治される。
そして、兄の会社を継ぐため、自衛隊をやめる最後のフライトに旭が出ていくところでエンド。

この映画は、ラピュタの笹森礼子特集で上映されるので見に行ったもの。
笹森は、ラジオ東京テレビの人気番組『日真名氏飛びだす』の、三共のドラッグストア・ガールとしてデビューし、日活で映画に出るようになった。
目が異常に大きな女優で、浅丘ルリ子に似ているが、主に赤木圭一郎の相手役でかなり出ていた。
彼女は、大田区の出身で、その性か、1950年代の末、本門寺で行われた夏の盆踊りに、『日真名氏飛びだす』チームとして来たことがあった。
日真名氏の久松保夫の他、高原駿雄、そして笹森礼子だったと思う。
記憶しているのは、ドラマのように久松がパイプを銜えて何かを探るように歩いていたこと、あわて大作の高原が、番組同様に滑稽な仕草を見せていたことで、子供ながら「役者というのは不思議な者だな」と思ったものである。
特に大した女優ではないが、一応1960年代の日活映画を飾る女優の一人だろう。



映画史的に言えば、赤木圭一郎の遺作で、多分牛原陽一郎監督作品としてもベストと思われる『紅の拳銃』に赤木の相手役として主演したことだろう。
ここでは、彼女の大きな目を生かして、盲目の設定で、最後手術に成功して目が見えるようになって、列車で赤木とすれ違い、盲目だったので赤木とは分からず、
「この人かしら」とつぶやくラストが最高だった。
音楽が伊部晴美だが、当時大流行のアート・ブレイキーの『ブルース・マーチ』そっくりの曲がタイトルとはまさにモダンジャズの時代である。
阿佐ヶ谷ラピュタ

こんな総理大臣がいただろうか 安倍晋三

2015年02月21日 | 政治
内閣総理大臣の安倍晋三が、民主党の玉木議員の質問中にヤジを飛ばしたことが問題になっているが、これは本当にひどい。
こんなに程度の低い内閣総理大臣がいただろうか。
「日教組は、日教組は」と言い、日教組系の教育会館から議員が献金を受けていることを指摘して、西川農水大臣の政治資金規正法の質問をかわしたいようだが、全くのお門違いである。
国から補助金等を得ている団体、企業が政治家に寄付することを1年間禁止した条項で、国が日教組系の団体に補助金を出しているだろうか。
少し考えれば、すぐにわかることである。
この程度のお頭とは、草葉の陰で、祖父やお父上は、さぞや嘆いていることだろう。
だが、一番嘆きたいのは、この程度の人間を首相にいただいている日本国民である。

http://news.livedoor.com/article/detail/9803743/

渡辺邦男について

2015年02月21日 | 映画
映画監督の渡辺邦男は、非常に面白い方で、なべおさみが「シャボン玉ホリディー」でやっていたキントト映画の監督役は、渡辺のことである。
彼は編集の名人でもあり、編集機のビオラなど使わずにネガを目で見て編集ができたそうだ。

監督の石井輝男は、新東宝で渡辺の作品『エノケンのホームラン王』で彼の助監督についたそうだ。
その休憩中につい
「先生はなんでこんなくだらない映画を撮るのですか」と聞いてしまった。
すると渡辺先生は激怒し、
「俺がなぜ200を越える映画を作って来たか言ってみろ!言え、言え、言え!」と言われた。
「先生は、どの作品でもモラルだけはきちんと守られてきたからではないですか」と石井が言うと途端にご機嫌になった。
「石井ね、俺もこんな映画は撮りたくないんだよ」
石井が、「では何をお撮りになりたいのですか」と聞くと、
「マルクスの資本論だよ」とお答えになったのには、石井は、「反共の闘志がなぜ」と非常に驚いたそうだ。
だが渡辺邦男は、早稲田大学時代は、社会主義運動の団体の建設者同盟のメンバーだったのだから、さもありなんでもあったのだ。

『鉄の兄弟』

2015年02月20日 | 映画
1939年の東宝映画作品で、監督は渡辺邦男、原作は中野実なので、新派の劇なのかもしれない。
下町の鉄工所のある町のアパートが舞台で、主人公高田稔と弟の伊東薫は、共に鉄工場で働いているが、素朴で無学な兄と違い弟は優秀で夜学に通っている。伊東はまじめに貯金していて50円になったと喜んでいる。
高田の友達は、同じ工員(アパートのおばさんたちは職工と言っている)仲間の小杉義男で、この喧嘩友達風の関係は楽しい。
普通は、高貴な役の多い高田稔としては、工員役は珍しい。
そのアパートに、素性の知れない女の千葉早智子が最近来た。
まさに「掃き溜めに鶴」だが、おばさんたちは怪しげに見ている。

千葉のところに亭主の三木利夫が来て、二人の間の子でもで、生活苦から他人にやってしまった子供に会わせるからと金をせびりに来る。
その金額はまさに50円。物干し台から降りてくるとき、たまたま聞いてしまった伊東は、50円を千葉に渡し、千葉はそれを三木のところに持って行ってしまう。
女の浅墓さだが、「渡辺邦男ともあろうものが新派的母物を」と思う。
話を知った高田は怒り、伊東を打つ。
住人は驚く、「そんなことのなかった仲の良い兄弟だったのに」
千葉が、カフェの女給時代の同僚の清川虹子が来て告げる。
「去年の秋に坊やはしんでいるのよ、あいつの言っていることはみんな嘘よ」
思わず千葉は床に倒れてしまう。こんなことで平気なの、渡辺先生。
と、そこに電報が来て、伊東が補充兵として出征することになる。
出征の前日、アパートで細やかな祝宴が開かれ、外で三木と会い、格闘した末に高田は、二人で部屋に入ってくる。
「明日から、彼も工場で、弟の代わりに働くのだ」と。
そして、旗行列と「天に代わりて不義を撃つ」と出征していく伊東。
まさに男たちは、戦地でも銃後でも鉄の兄弟になったと言うことなのだろう。

                    

確かに、この昭和14年頃は、満州事変から日中戦争の軍需景気で、日本が非常に好景気だった時代なのである。
言ってみれば、軍需によって多くの人間が雇用され、三木のようなヤクザ風の遊び人でも工場で働くようになり、「完全雇用」になっていたのである。
そして、日本人の近代の歴史の中でも、ほとんどの日本人が一致団結して暴戻なるなる支那、さらに鬼畜米英に立ち向かっていた時代の記憶として今も存在するのだろう。
特に安倍晋三のような、祖父岸信介のように戦時下で大活躍された方を持つ人にとっては、格別の想いがあるのだと思う。
だから、正月の年頭所見のように「世界に輝く国」になりたいなどと世迷言を言いだすのだと思う。
日本映画専門チャンネル

『侍』

2015年02月19日 | 映画
1965年の岡本喜八監督作品で、岡本というと戦争アクションの『独立愚連隊』シリーズを揚げる人が多いが、私はこの『侍』や『大菩薩峠』のような時代劇が好きで、この『侍』を見るのは、多分5回目くらいだ。
話は、「人を斬るのが侍ならば・・・」の郡司次郎正の『侍ニッポン』の新納鶴千代で、桜田門で暗殺された井伊直弼を、実子の彼が殺したというもの。
戦前から作られていて、戦後は東千代之介が主演し、唄も歌ってヒットしたが、この新納のニヒルな感じと東はよく合っていたと思う。



主人公の鶴千代は三船敏郎で、井伊直弼は松本幸四郎(先代)、鶴千代の運命を狂わせるお菊と菊姫の二役は新珠三千代、水戸天狗党残党の暗殺団の首領は伊藤雄之助と豪華な配役。
最後は、誤った情報で井伊側への内報者として、三船が殺すことになる友人が小林桂樹の栗原で、この二人が異常に強いのだが、小林桂樹が剣豪という映画も珍しが、二人の友情とその悲劇も痛切である。
三船が大河端で小林を待ち伏せし、いきなり小林に切り込むと小林は言う。
「なぜだ、なぜだ、なぜだ」この台詞だけ言って小林は三船に斬られてしまう。
小林の妻は八千草薫で、「匂うように美しい」とは、彼女のことだ。
本当の裏切者は、平田昭彦であることが分かり、伊藤雄之助によって刺殺される。
その時、小林の殺害の無意味さに怒る三船に伊藤は言う。
「もっと血を冷まさなければならない。直弼の血を流すには、こっちの血も流さなくてはいけないのだ」
伊藤雄之助のニヒルな異常さも凄い。
そして、3月3日の雛祭りへ都城する井伊直弼一行に斬りこんで行く一団と、そのアクション・シーンの凄さ。
これぞチャンバラ映画の醍醐味であり、岡本喜八のやりたかったことだと思う。
また、重厚な画面は、撮影の村井博のものだとも思える。村井は、元は大映にいたカメラマンで、なぜか大映を出て、この時代は東宝系の会社で活躍されていた。
一団の動静を記録しているのが江原達怡で、わざと小学生が作文を読むように無表情で読み上げている。
最後は、田村奈巳が店番の茶屋で動向を見守っていた江原も斬り合いに飛び出していき、結果堀に落ちて、記録はすべて水に消えてしまう。
原作者の郡司は、昭和初期の「流行作家」だったが、長くは続かず、大洗で船宿をやっていたのに会ったと、映画関係者が書いていた。

『歌う弥次喜多・京大阪の巻』

2015年02月18日 | 映画
「歌う弥次喜多」と言えば、古川ロッパのロッパ劇団の大当たり狂言で、オリジナルの『歌う弥次喜多』が1936年に作られているが、これは翌1937に作られた作品。
原案は、勿論ロッパで、シナリオは菊田一夫、監督は久保為義で、京都のJOの製作。
弥次喜多は、藤尾純と森野鍛冶哉で、その他有馬是馬、林田十郎・芦乃家雁玉など、女優は神田千鶴子。
だが、まったく面白くない。
京では、お染久松、大阪ではヤクザの出入に弥次喜多が巻き込まれるが、どこにも笑える場所がない。
久松が沢村宗之介で、戦後は悪役専門だった沢村が二枚目を演じているのがおかしい。



実際の芝居では、それなりに面白かったと思うが、映画ではまるで笑えるシーンはなく、ただ音楽とダンスの場面は冴える。
音楽は谷口又士とPCL、JOの管弦楽団、バンジョーが非常に良いが、角田孝だろう。
主演の藤尾純は、女優中原早苗の父親であり、戦後はテレビにも出ていたと記憶している。
彼は、二枚目の森野に比べて厳つい顔付で、言ってみれば渥美清のような感じだったと思う。勿論、レベルは比較にならないが。
衛生劇場

陳情書は受理されず

2015年02月17日 | 横浜
先日、横浜市会議長あてに陳情書を出したのだが、今定例会は2月6日までに提出された分については委員会に付託し、審査するが、「あなたのは2月16日に付いたので付託審査できず、預かっておくこともできないので返送します」との連絡があった。
普通は、その定例会で付託・審査されなくても、次の議会に、となるのだが、今年は4月に統一地方選があり、議員の任期も4月29日までなので、この間に結論の出なかった案件はすべて廃案なのである。
6日までに出したところで、任期満了では当然決論は出ず、次の新たな構成の議会で審査いただくとなるのだから同じことだったのだが。
いずれにしても、また4月30日以降に出すことにしよう。
内容は、以下の通りの横浜市役所の跡地の再利用についてである。




陳 情 書
                       平成27年2月15日

横浜市会議長 佐藤裕文 様

    県・市協力で横浜市役所跡の整備を進める会
    代表 指田 文夫


横浜市役所跡地再利用及び神奈川県立図書館の移転について

1 横浜市庁舎移転後の再利用について
 1959年に建設された中区港町の横浜市役所については、2020年までに中区北仲通に移転されることになっております。しかし、その横浜市役所跡の利用については、現在のところ横浜市はまだ外部には明確な計画を出されていないときいております。
そこで、横浜市役所移転後の関内地区の活性化、横浜市全体の文化・芸術・教育の充実・発展の観点から、ここに現在市内西区紅葉丘にあり、再整備が計画されている神奈川県立図書館を移転させることが一番に望ましいことだとと考えております。さらに、内・外の専門学校、専修学校等を誘致されれば、さらに有効な跡地利用となると思います。
こうした教育機関は、若者が対象で、東京都の活力の一つにこれらの学生の存在があり、横浜でも神奈川区六角橋や、金沢区金沢八景には、横浜市の中でも独特の雰囲気と活気があり、商店街も大変賑わっています。それは六角橋には神奈川大学が、金沢八景には横浜市立大学、関東学院大学があり、多くの若者がいるからであることは明らかです。学生は、消費者であり、しかも数年毎で入れ替ることから、地域にとっては永遠に消尽しない顧客層なのです。
 そうした教育・文化機関の中核として県立図書館があるのは、大変に有意義なことであり、経営第一で自己施設としての図書館整備までに手が回らない専門学校には大変効率的であり、若者の利用が促進されることは図書館にとっても大きな意義があり、相互の有機的な連携が期待できるものです。
 また、専門学校にとって、横浜港を初め、みなとみらい21、さらに山下公園や中華街にも近い関内という場所は、最高のイメージを生徒や父兄に与えるエリアであり、本来的に「イメージ産業」である学校にとって最大の売りとなり、全国からの生徒の集客に大いに寄与することが期待できます。専門学校が必要とする床面積は、規模によって異なりますが、おおむね1,000㎡程度なので、複数を入居させることも可能となります。

2 神奈川県立図書館について
 市内西区紅葉丘にある神奈川県立図書館は、1954年11月の開館以来、県内公共図書館の中心として大きな役割を果たしてきました。しかし、2012年11月県教育委員会及び財政当局の「緊急財政対策」の一環として、「館内利用はやめ、県下の市町村図書館を通しての貸出に特化する」との計画が出された。これについては、県下市町村図書館の反対はもとより、全国の図書館関係者の間でも大きな問題となり、県内に於いては、「神奈川県の県立図書館を考える会(代表岡本真)」が、シンポジウムなどを開催し、幾つかの提案も行ってきました。
 そして2013年12月の県議会本会議で、黒岩知事は、「県立図書館の閉館」は取り消すとの方針が示されたが、今後については、どのようになるのかは、未だ不明な状況にあります。
ここにおいて、私達は、現在西区紅葉丘の神奈川県立図書館を現在の場所から移転し、中区港町に所在し、2020年には中区北仲通りに移転することが決定されている、現横浜市役所の跡に神奈川県立図書館を移転・設置することを提案するものです。
その理由の第一は、紅葉丘に県立図書館が所在することは、図書館利用者の中でも多い高齢者にとっては、自力歩行であの高い丘まで登って行くことは大変な労苦が必要であります。それがJRと市営地下鉄の二つの関内駅のすぐ近くにあり、市内のバス路線も多数通過している関内地区に所在すれば、高齢者や障害者にとっても大変使用しやすい施設となり、利用向上に大変寄与するからです。老朽化が進んだ現県立図書館を再整備することは費用の無駄であり、それよりもすでに耐震工事も終了している現横浜市役所に移転、入居した方が経済的で、横浜市にとっても有効な再利用というメリットとなります。若者と高齢者が利用すれば、関内地区の活性化の観点からも有効でしょう。現在の県立図書館の床面積(約15,000㎡)と、横浜市役所本庁舎部分の床面積(約18,000㎡)を比較したと床面積の余剰が生じるので、それについては、上記のとおり専門学校の誘致・入居を考えることとすれば良いでしょう。

3 財産処理と跡地利用
 現在西区紅葉丘にある県立図書館の横浜市役所跡への移転にあたっては、財産処理が必要となります。
 最も簡単なのは、紅葉丘の土地を民間に売却し、その売却益で、市役所跡の底地分と地上権分を取得することですが、神奈川県は県有財産の処理について、公共団体との間では交換以外の方法は取らないと推測されるので、相互の財産の交換で、旧横浜市役所の当該底地部分と床面積部分を県に与え、市は市内の元県立高校などの県所有で現在は使われていない土地を取得し、福祉や子育てなどの施設の底地にすることが考えられると思う。


4 横浜市役所・市会棟部分の再利用について
 さらに、本庁舎部分につながっている市会棟部分(約3,000㎡)についても、本庁舎に関連した施設として、再利用することが良いでしょう。
 横浜市会棟は全体として、現状をさして変えることなく、そのまま「文化・芸術センター」(仮称みなとまち文化センター)として、中劇場、ギャラリー、稽古場、会議室、資料室、倉庫などに利用することが最適と思います。
まずは、本庁舎部分に入居した専門学校等の生徒・教員等による研究、発表の場を中心に、広く市民の創作活動、発表、研鑚の場としていく。
 現在の市会の本会議場は、そのまま中劇場に転用することができ、他の会議室は小ホール、稽古場、会議・打合せのスペースとして活用でます。
 また、4階の市会大会議室は、ギャラリーとし、本庁舎部分とつなぐ回廊の屋上は、室内から直接に屋外へに出られるカフェ、飲食スペースとして、民間事業者に貸出すこともできるでしょう。
 どうか私たちの陳情の趣旨をご理解いただき、横浜市庁舎と県立図書館の整備を有効に進められることをお願いする次第です。
                     
                     
 なお、昨年12月に、別紙の陳情書を神奈川県議会議長あてに提出しております。