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指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

『ドッグ・ソルジャー』

2019年11月30日 | 映画
1978年の映画だが、背景の時代の感じはもう少し前のように見える。
監督はイギリスのカレル・ライス、この人はイギリスのニューシネマの一人で、高校時代に『土曜の夜と日曜の朝』を見たが、あまりピント来ず、映画好きの先輩も「変な映画だったな」と言っていた。
だが、よく考えると日本の大島渚を代表とする松竹ヌーベルバークも、本家のフランスのヌーベルバークよりも、イギリスのニューシネマの方に近いと思える。
それは彼らの政治性で、フランㇲのヌーベルバーグにはほとんど政治的意識がないが、ニューシネマの連中にはあると思えるからだ。
彼らは、イギリスからアメリカに行って結構いい作品を作るようになるが、それは彼らに批判性があったからだと思う。



ベトナムのアメリカ人ジャーナリストのマイケル・モリアティが、一山当てようと麻薬を友人に頼んで、アメリカに運んでもらう。
この友人が元海兵隊員のニック・ノルティで、肉体派である。インテリのモリアティと肉体派のニック・ノルティで、『兵隊やくざ』の田村高広と勝新太郎を思わせる。
彼は、オークランド港で、軍艦に麻薬を隠して運びだし、モリアティの妻のチュズデイ・ウエルドの家に持ってくる。
だが、ウエルドは事情をほとんど聞いていず、ごたごたしている内に、家は二人組に襲われる。
一応FBI捜査官と言っているが、要は横取りしようとしている得体のしれない連中。

ノルティは、嫌がるウエルドを車に乗せて、サンフランシスコに行く。
そこは、まだフラワームーブメントで、チルドレンが花を売ったりしているが、時代的に少しずれているようにも思える。
子供を父親のところに預け、ノルティとウエルドは、山の元ピッピーが住んでいた集落のようなところに逃げる。

すると捜査官もやっって来て、彼らとの攻防になるが、モリアティは彼らに捉まっていて、麻薬との取引になる。
この集落が異様で、木造の小屋だが、舞台もあり、無数の電球が吊るされていて、昔は祭りをやったという。
今年、公開された『ワンス・アポン・ナ・タイム・イン・ハリウッド』のピッピー村みたいなものだ。
ノルティに言わせれば、「そこでは祭りをやっていて、歌い、踊った」という。
音楽は、全面的にクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルで、『雨を見たかい』などが掛る。

最後、ノルティと捜査官連中との激しい銃撃戦になり、モリアティとウエルドは車で逃げ、ノルティも連中に勝つが、落ち合う場所の鉄道の線路に行くと、そこで死体になっている。
冗漫なところもあるが、時代的な意味も興味深い作品である。これらの成功の後、カレル・ライスは『フランス軍の中尉の女』で大成功する。

ザ・シネマ
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『破戒』

2019年11月29日 | 映画
1948年の木下恵介監督作品、主演は池部良、桂木洋子、宇野重吉、脚本は久板栄次郎。
原作は言うまでもなく島崎藤村で、被差別民の瀬川丑松が、自分の身分を明かす苦悩と周辺の偏見を描いている。
冒頭で、桂木の父で教員の菅井一郎が、首になる件がある。校長の東野英治郎の県への追従で、あとすぐで年金が付くはずの菅井は、首になってしまう。だが、元武家の菅井は、武士であることに異常な誇りを持っている偏見のひどい人物としてされ、桂木と池部の関係にも反対である。
武士の家の者が、平民の男と一緒になるのは許せないのだ。

       

次第に、池部が被差別の出身であることが明かされて行き、議員の小沢栄太郎などの悪役が上手いので劇は盛り上がる。
「四民平等」の演説会を開こうとする滝澤修は、暴民に襲われて死んでしまう。
学校で、池部の身分を明かそうとする集会が開かれ、その場で池部は自分が被差別の出身であることを明かし、学校を辞め、運動に専心すると言う。
飯山を出ていく池部を桂木は追い、二人は結ばれることを示唆して終わり。
この映画は、実は東宝で池部主演で撮影が開始されたが、途中で東宝争議が激化してストップしてしまい、松竹に移行したものであるのはよく知られている。
だが、不思議なのは、この東宝での監督が阿部豊だったことで、彼は決して人権意識の強い人とは思えないからだ。
その意味では、阿部監督で作られたらどのようになったのか、興味あるところだからだ。
衛星劇場
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『傷だらけの掟』

2019年11月27日 | 映画
1960年の阿部豊監督の作品。
阿部は、戦前は大監督だったそうだが、日活時代の作品は見たことがない。
存在しないからで、東宝に移籍して後の作品は、最もモダンと言われた阿部は、国威発揚的になっていて、「あれっ」と思う作品群だった。



戦後も、「右翼的」な映画が多く、しかも詰まらないものだったが、これはましな方だ。
池袋が舞台で、不良学生の長門裕之が勝手なことをしていて、二谷英明がボスの暴力団とトラブルになるが、彼は平気である。
彼の兄の葉山良二が、対立するヤクザの組員だからで、親分は金子信夫で、これが非常に悪い。
長門は、やはり不良娘の中原早苗に惚れて、堅気になろうとする。
金子は、それを許すが、代わりに葉山に二谷を襲うことをやらせる。

また、葉山が二谷たちの麻薬取引を横取りする挿話もあり、話の展開は早く、この時期の阿部作品ではましだなと思う。
最後、長門と中原は無事堅気になり、葉山は恋人の南田洋子の目の前で殺されてしまう。

脚本は、山崎厳と助監督の野村孝だが、原案が川瀬昌二になっているが、これは新東宝に共にいた瀬川昌治のことだろうか。
池袋のジャズ喫茶のバンドとして、堀丈男が出ているが、ホリ・プロ社長の堀であり、スチールギターを弾いている。
南田の花屋の店員として、刈谷ヒデ子が出ていた。

チャンネルNECO
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家出サイトについて

2019年11月26日 | 事件
大阪の少女が、栃木で保護されて話題となっているが、私は8年前の2011年3月に、次のように書いた。


「若者はいつも大人の予測を超えることをする それが大人への成長の入り口なのである」

2011年03月01日 | その他


    

昨日、青葉区で人権講演会があり、吉川誠司の『今、携帯を持つ子どもたちに起こってきている事実」を聞いた。携帯やパソコンについて随分知らなかったことを聞き、参考になった。結論として言えば、我々も子どものときにそうだったが、何とかして大人の考えつかないことを考え出し、やってしまおうと一日中考えていたものだ。今回、京都大学等の入学試験で、携帯電話を使った試験問題の流失事件が起きているが、昨日聞いたような若者の携帯電話についての習熟、利用を考慮すれば、別に不思議なことではないようだ。驚いたことの一つに、ゲームサイトが、ゲームのみならず、ウェブ機能を完全に持っていて、そこで子どもが通信のやり取りをしていること。また、ゲームは「一部は有料」と表示しているが、ほとんどは有料で、少しでも面白いレベルに上がるとすぐに有料になってしまうもので、「一部無料」と表示すべきものなこと。パソコンも含めゲームは一切やったことがないので、全く知らなかった。グリーは、この高額請求等の仕掛けで年商100億円なのだそうだ。講師は、グリーの宣伝を見ると「一部無料」と表示すべきと思うそうだ。出会い系サイトについても、最近は管理者がかなり監視しているので、投稿する女子は、投稿を写真でやったり、縦書きで書いたり、隠語で書いたりして投稿している例があるとのこと。監視は、目視もあるが、コンピューターによるキーワードの検索なので、写真、動画、縦書き等は識別できないのだそうだ。また親が、子どもの携帯に利用制限を掛けたとき、それを解除するために、子どもが親の扮装をして店に行き、免許書等のコピーを見せると、業者は親子を明確に判別できないので、申し出どおり解除すること等があったこと。その他、実例を挙げると差しさわりがあるので書けないが、実に子どもたちはいろんなことを考えるものである。そうやって知恵をつけ、成長し、大人になって行くもので、そうした背伸びは、ある意味必要なことかもしれない。

だが、この日一番驚いたのは、ネットに「家出サイト」があり、家を出て宿泊することを求めるのと、受け入れるメッセージの交換が行われていることだった。これなどは、今NHKや朝日新聞がバカみたいに騒いでいる「無縁社会」の典型的な現象かもしれない。
それほどまでに家庭は崩壊し、また若者に間の友人関係も縮小しているのだろう。
まあ犯罪の被害に遭遇する一歩手前のように思えるが、それも個人の自由である。

少年や少女が、ある時期に家を出たいと思うのは、特別なことではない。
それは、子供が大人になるとする意思の始まりの一つだからである。
家出サイトは、今はスマフォで容易にアクセスできるようになっているのだろう。
悪事千里を走る、というべきか。
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『謎解きはディナーのあとで』

2019年11月24日 | 映画
こう見えても私は、結構鷹揚な人間で、こうしたお遊び映画も嫌いではない。
ただ、ラスト近く、悲劇の主人公の桜庭ななみがステージで歌ったときは、大いに白けた。
異常に下手だったからで、「なんで吹替えにしないのだ」と思った。
口パクで、誰が怒るのだろうか。
この歌のシーンは、十分に泣かせる重要なところなのだから、そこで白けるのは大いに問題だった。

役者はいろいろ出てくるが、宮沢りえと特出の伊東四郎しか見るべき人はいない。
二人の出演で、400円づつで、800円くらいしか払う価値はないと思う。

日本映画専門チャンネル
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日本にも法王がいた

2019年11月24日 | 演劇
今、ローマ法王が来日中だが、かつて日本の演劇界にも法王がいた。
それは、劇作、演出の北条秀治で、北条法王と言われていた。
となると、天皇もいて、菊田一夫は、菊田天皇と言われていて、この二人は日本の商業演劇界の二大巨頭だった。

菊田では、『放浪記』など有名作があり、今でもよく知られているだろう。
北条でも、『王将』は、元は彼の戯曲であり、どちらも非常に優れた劇作家だった。

         
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加藤茂雄さんが大演技している映画は

2019年11月23日 | 映画
元東宝の俳優だった加藤茂雄さんの主演映画『浜辺の記憶』が上映されているので、シネマジャックに行く。
鎌倉で漁師をしている加藤さんを主人公とした劇映画で、「長生きも芸のうち」を思いださせた。

さて、加藤さんが、大演技している東宝映画がある。
恩地日出夫監督、内藤洋子、田村亮主演の『あこがれ』である。
これは、元は横浜市中区にあった児童養護施設出身の二人を主人公とした作品で、テレビで『記念樹』として放映されたものの1つである。

最後、田村亮の母親の乙羽信子は、日本からブラジルに移民することになり、横浜の大桟橋から「さくら丸」で出航する。
これは、実際に船の出航に合わせて、俳優を船に乗せ、ロケ撮影したものだそうだ。

この中で、船のデッキで息子の田村亮に向かって手を振る乙羽の左隣で、大声で叫んでいる男性がいるが、これが加藤さんだ。
また、桟橋に来ている施設長の小夜福子の隣にいる職員も、記平良枝さんで、この方も東宝の俳優だった。
皆、俗に言う「大部屋役者」であるが、東宝と専属契約していた俳優だった。

このように、東宝はじめメジャーの映画会社には、スター俳優の他に、専属の俳優が数百人いて、群衆シーンを作り上げていた。
野球でも、スターの選手以外にも、脇役の選手、代打、代走、さらにリリーフ投手などの活躍を得て試合を戦うものだ。
同様に、映画もスター俳優以外の脇役から、その他大勢の「ガヤ」と言われる俳優がいて、初めて成立するものだった。
もちろん、逆に言えば、多くの専属俳優を抱えていられるのは、人件費が安かったからであり、1960年代中ごろに、各社は契約制度を変更し、専属制を止める。
そして、現在のように、その作品ごとに俳優のプロダクションから必要な俳優を出してもらうようになる。
その意味では、昔の日本映画は、非常に多額の予算で作られているので、出来が良いといいことになるのだと言える。


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キリスト教が布教に失敗した国はどこか・・・日本

2019年11月22日 | 政治
明日、ローマ法王が来日される。
38年ぶりとのこと。

      

言うまでもなく、法王は、世界のカソリック教徒の最高の位置におられ、本来政治的な立場はないが、その言動は世界中に大きな影響を与えてきた。
さて、そのように世界中に大きな影響のある法王だが、世界でキリスト教が、カソリックのみならずプロテスタントも含めて布教が上手くできなかった国、地域はどこだろうか。

意外にも、それは日本である。
かつて日本のキリスト教の信徒は、5%くらいと言われていた。
だが、今はもっと少ないと思う。
その理由は、日本には天皇がいるからであり、また太平洋戦争中に、日本ではキリスト教は戦争に対して抵抗しなかったからだと思う。
明治、大正、昭和(戦前)の時期は、平和と民主主義を目指す運動としてキリスト教の存在があったが、戦時中以降はいなくなったことが存在意義の喪失になったと私は思うのだ。

                

鈴木則文監督の映画『聖獣学園』で、神父役の渡辺文雄は言う、
「アウシュビッツで、広島で、長崎で人は何をしたんだ、その時神はなにをされていたのだ、神は死んだのだ!」
と叫び、多岐川由美をはじめ、女を犯しまくる。
なかなか意義深い映画だと思ったものだ。
みちろん、多岐川由美の裸を目当てに見に行ったのだが。
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『日本映画講義・戦争・パニック映画編』 町山智弘・春日太一(河出新書)

2019年11月21日 | 
この二日間、寒くて外に出るのが嫌だったので、買ってあった本を読む。
映画漫談としては、非常に面白い。
取り上げられるのは、『人間の条件』『兵隊やくざ』『日本の一番長い日』『沖縄決戦』『日本沈没』『新幹線大爆破』、そして三船敏郎について描いたドキュメンタリーの『MIFUNE』
いろいろと知らなかったこともあり、参考になるが完全な間違いもある。

              

『人間の条件』についてで、カメラの宮島義勇が中国での戦争体験があるので、北海道ロケで満州の雲とは違うといって「雲待ち」をしたというところ。
宮島は、中国はおろか従軍体験がない。一応、戦争末期に彼にも徴兵令状が来たそうだ、だが東宝の責任者の森岩雄が、
「宮島は必要な男だから」と軍と交渉してくれて、代わりに玉井正夫を出した」
『ゴジラ』の、『浮雲』の玉井正夫である。しかし、「玉井君は、体が弱いとのことで従軍しなかった。結局、私は徴兵忌避者となる」と偉そうに書いている。
第一、宮島は、満州には行けなかったと思う。
なぜなら、満州、満州映画協会には、プロキノの先輩で委員長の監督木村壮十二がいたので、木村の下の宮島が行くはずがない。
また、ロケ地についても、鉱山は北海道と書いているが、これが秋田の小坂銅山なのは有名な話。

全体として、戦後の多くの日本映画の秀作が戦争に絡んでいたのは当然で、日本人と日本が、明治以降の近代で体験した最大の事件は、太平洋戦争とその敗北だったのだからだ。
いわば、戦後日本の戦争映画は、『平家物語』のような国民的叙事詩だというのが私の考えである。
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『天才激突 黒澤明VS勝新太郎』

2019年11月20日 | テレビ
BSの「アナザーストーリーズ」で、1979年の『影武者』撮影の際の、黒澤明と勝新太郎の衝突、勝の降板事件が、それぞれの側の人間によって証言された。

          

黒澤側は、スクリプターの野上照代、勝側は、弟子の谷崎弘一、両者から中立の立場として白井佳夫。
この事件について、黒澤の助監督であり、勝とは映画『王将』で監督したこともある堀川弘通は、「ビデオ事件は、勝は黒澤がどこまでやれば許してくれるか、試してみたが、それに失敗した・・・」と黒澤明の評伝で書いている。
堀川の『王将』では、勝新太郎は「借りてきた猫のようで、非常に大人しく何のトラブルもおこさなかった」そうだ。

また、この番組で、野上は、「黒澤がテレビを見て、勝新太郎・若山富三郎兄弟が似ているので、これでヒントを得てシナリオを構想した」というのは間違いだ。
勝・若山兄弟で1本の映画をと考えたのは、東宝である。
なぜなら、1970年代当初、東宝で最大の娯楽作品は、若山の『子連れ狼』と勝の『座頭市』だったのだから、会社としては当然である。

また、勝がメークの資料を求められ大量のスチール写真を送りつけてきたころから、黒澤が不快感を持ったというのも違い、その前にあった。
映画化が決まって、黒澤と勝、さらに主要スタッフはロケ・ハンに各地に出た。
そして、夜は当然に宴会になる。
その時、勝は当意即妙の話術で場を多様に盛り上げる。
だが、黒澤は、昔の自慢話だけで、次第に宴席は、勝新太郎中心になっていって、黒澤は非常に不愉快になっていた。
また、出自の違いも大きかった。勝は、長唄の杵屋家の御曹司で、酒席はお手のものだった。
だが、黒澤の父黒澤勇は、下級軍人から退職して日本体育会の理事になったが、大正3年には首になり、家はどん底になった。
要は、貧乏でまじめな軍人の家だったのだ。
この辺のことは、拙著『黒澤明の十字架』(現代企画室)をお読みいただきたい。

さらに、この時期、1965年の『赤ひげ』で、東宝と手を切った黒澤は、自分のプロでの『暴走機関車』『トラ・トラ・トラ』とアメリカ進出に失敗し、自分の家を抵当に入れて作った『どですかでん』は、大赤字で、『野良犬』の原作の権利を松竹に売るまでになっていた。ここも堀川の本に出てくる。
一方、勝新太郎は、大映は潰れたが、勝プロでテレビや映画を作っていて、特にアジアで大人気だった。
こうした二人の状況の差が、事件を生んだと言えるのだろう。

勝は、黒澤の力を過信していたし、黒澤は勝の演技、フランスのヌーベルバーグ、ゴダールのような即興演出に興味を持っていた新時代の役者であることをまったく理解していなかった。
勝新太郎は、映画界に入る前、「吾妻歌舞伎」で渡米したとき、ハリウッドでジェームス・ディーンに会い、彼の自然な演技に感銘を受けていたのだ。
そうした成果は、森一生監督の『続・次郎長富士』の、森の石松が、アンジェイ・ワイダの映画『灰とダイヤモンド』のチブルスキーの死を模倣した勝の演技に出ていたのだから。

だが、これでもし、勝新太郎主演で『影武者』が公開されていたら、欧米の映画人にも勝新太郎を評価する監督や会社が出てきただろうと思うと残念である。アジアや第三世界では、勝の『座頭市』は大ヒットしていたのだから。
黒木和雄の『キューバの恋人』では、座頭市の真似をするパレードの男がいる。
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『戦うパンチョ・ビラ』

2019年11月19日 | 映画
20世紀初頭のメキシコ革命で活躍したパンチョ・ビラと、彼に協力したアメリカ人ロバート・ミッチャムの友情を描く。
監督は、バズ・キューリックだが、脚本にサム・ペキンパーも参加している。彼の名作『ワイルド・バンチ』でもメキシコ革命のことが出てきていて、ペンキンパーは興味があるのだろう。

         

ミッチャムは、複葉機でメキシコに飛んできて、10丁の銃を空輸してきて政府軍に売り儲ける。
だが、住民から、反政府軍のパンチョ・ビㇻの方を支持していることを知る。
彼は、盗賊上がりだが、賢くまた正義感で、次第にミッチャムは彼に惹かれていく。
パンチョ・ビラ役は、ユル・ブリンナーで、さすがに声が素晴らしく良く、威厳と正義感が良く表現されている。
パンチョは、鉄道隊との戦闘で、飛行機の上からダイナマイトを落とす作戦を考え、部下のチャールズ・ブロンソンも手伝って成功する。
だが、メキシコ大統領は、軍の司令官ウェルターの立場も尊重し、パンチョ・ビラとミッチャムは一時は逮捕されてしまう。
だが、銃殺の直前に、大統領からの中止命令が来て、パンチョ・ビラは助かる。
この銃殺ぎりぎりまでやれせ、中止させるのは、ドストエフスキーの小説からの引用なのだろうか。

メキシコ大統領は、ウエルターによって暗殺され、ミッチャムは仕事は終わったとしてアメリカに戻る。
そこにパンチョ・ビラらが迎えに来るが、「まだ人を殺すのか」と拒否する。
少数のパンチョ・ビラらがメキシコシティーに進軍すると、上空からミッチャムの複葉機が飛んでくる。
正確な歴史的事実は知らないが、アメリカとメキシコの協力を描く気持ちの良い作品である。


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『大菩薩峠・完結編』

2019年11月18日 | 映画
WBSCで、日本が勝ち、時間があったので、録画しておいた1961年の市川雷蔵主演の『大菩薩峠・完結編』を見る。
監督は森一生で、森自身は「三隅研次がやった方が良かった」と言っているが、1、2部との違和感はない。
脚本は、すべて同じ衣笠貞之助だからだ。



実に面白く、次から次へと、筋が展開し、珍しい集団が出てくる。
タイトル前に、1、2部の粗筋が紹介されるなど、昔の映画らしく、見る者へのサービスも良い。

さて、この大河小説の一つの意味は、近藤恵美子が演じる、お玉が唄う「間の山」に象徴される、被差別民の文化、通常の世間の他にある社会の姿だろう。
天誅組や浪人集団もそうだが、見明凡太郎の盗賊、崖から落ちた机龍之介を救う薬売りの女集団など、不思議な連中が出てくる。
「間の山」については、内田吐夢監督、片岡知恵蔵主演の『大菩薩峠』には、この件が結構重く描かれていて、それを入口にした「人権研修ビデオ」もあり、職場で見たが非常に面白かった。

また、いろいろと難に遭う龍之介だが、その度に救う女が現れる。お豊、お銀、そして元のお浜だが、全部中村玉緒が一人で演じる。
小屋の爆破で盲目になった龍之介は、お銀に会ったときにいう、「目には見えないが、その声、その体、よく似た女に会ったことがある」
これは、実は問題が逆だと私は思う。
男女とも、人が惹かれる異性は、ある種同じタイプになっていており、だから似た異性に惹かれるのだと思う。
それは、DNAに書かれているのだと思うのだ。

最後は、甲斐の国に戻った机龍之介の村を大嵐が襲い、彼は子の名を呼びながら、濁流に呑まれて死ぬ。
それを見ていた宇津木文之丞の本郷功次郎も、仇討ちを否定する和尚の言に頷き、その死を見つめて終わり。
市川雷蔵の龍之介は、他の者とも比較し、台詞の持つニヒリズムがすごく、一番だと思う。
時代劇専門チャンネル
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『眠狂四郎・勝負』

2019年11月17日 | 映画
1964年、大映の正月映画、市川雷蔵主演作の「眠狂四郎」シリーズ2作目で、監督は三隅研次。
雷蔵の代名詞のようにみられている「眠狂四郎」シリーズだが、実は雷蔵が最初ではなく、鶴田浩二で作られている。

        

正月の愛宕山で、狂四郎は、不思議な老人加藤嘉と出会うが、実は幕府の勘定奉行で、腐敗不正が横行する幕府や世の中に非常に憤っている。
狂四郎は、そんなことには無頓着に生きている。彼は、向島の投げ込み寺に住んでいて、二八蕎麦屋から弁当を取って生きているが、そこの娘は高田美和で、まだ清純派そのもの。

加藤嘉と眠狂四郎を付狙う悪党の親玉は、須賀不二雄で、将軍の娘で驕慢な久保菜穂子の贅沢を勘定奉行の加藤嘉が削減したことから、加藤を暗殺しようとし、狂四郎は須賀に対決することを決意する。
須賀は、柳生但馬との勝負を企むが失敗する。柳生が恩田清次郎という地味な役者なのがいい。

もちろん、最後は狂四郎が勝つが、全体として大映京都らしい、美術、小道具等が本物のように見えて素晴らしい。
1964年は、今から考えれば、日本映画は最高の年だった。
だが、この年の秋に東京オリンピックが開催され、日本人はテレビで見る、スポーツの本物のドラマの方に魅力を感じ、映画館に行かなくなったのである。
この時期に、映画館で賑わっていたのは、勝新太郎の「座頭市」とピンク映画だけだった。
この暴力とエロが、その後の日本映画の「救世主」となるのだが、それは1964年から始まっていたのである。
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『男の掟』

2019年11月09日 | 映画
渡哲也は、日活最後のスターとして売りだされ、石原裕次郎作品のリメイクが多かったが、ほとんど当たらなかった。
唯一の秀作は、舛田利雄監督の『紅の流れ星』だった。
1968年には、『「無頼」より大幹部』が公開されて、裕次郎とは違うイメージがやっと探りあてられた。
裕次郎の明るさに対し、渡は少し暗いイメージがあるからである。
役者の持つイメージと作品は、合致しないとヒットしないものなのだ。



1968年の江崎実生監督のこれは、木場の建築業の宗方家を描いていて、当主は辰巳龍太郎、息子は長男堀雄二と三男の渡で、次男は南方で真珠貝採取をやっていたが、事故で死んでいる。
冒頭は、神社(富岡八幡か)の祭礼で、辰巳組の幹部の丹波哲郎が、敵対する組長を1960年に刺殺して刑に服し、8年後に出てくるところから始まる。敵の組長は、植村健二郎のようだが、よく見えなかった。
高度成長の開始時期に始まり、好景気の真っ最中の時にドラマが展開される。
東映のヤクザ映画に対し、日活はモダンなので、東映の明治・大正ではなく、現代を舞台にヤクザ映画を展開せざるをえない。ここは、非常に苦しいところである。
製作者の伊地知啓も、「東映のヤクザ映画をなんとかして盗んで・・・」と言われたと言っている。

丹波が出所してくると、組は近代的な会社になっていて、辰巳は社長、堀は専務、渡も取締役。
敵対する組は、植村の息子小池朝雄が社長になっていて、辰巳の会社を潰そうといろいろと企んでいる。
国の団地の造成工事に、辰巳の会社が入札で宗方が勝つが、小池の策略で、わざと負けたのだ。
そこに、死んだ次男とフィリピンで結婚したという野際陽子が現れ、次男の遺産の分け前を要求する。
だが、それも小池の策略で、野際は詐欺師の名和宏の妻だった。
野際陽子が、当時流行のミニ・スカートで現れ、軽い渡は、すぐに「きれいな足だ・・・」という。
丹波の妹の太田雅子(梶芽衣子)は、渡に惚れているので、怒る。

渡辺武信氏によれば、「アクションと人情話が混合して中途半端」とあるが、辰巳の妻で坪内美詠子が出ているなど、確かに若者の世界と中年のが混淆している。
野際陽子の嘘を暴くため、渡と堀雄二が、野際を詰問すると『七人の刑事』風になるのがおかしい。
最後は、カーレースと工事機械の交渉のために渡哲也が、羽田空港からノースウエスト航空でアメリカに行くところでエンド。
まだ、もちろん羽田が国際空港で、ノースウエスト航空もまだあったのだ。今はデルタ航空になっているらしい。
木場もまだ、貯木をしていて、木場らしい情景があるが、今は新木場に移転している。

チャンネルNECO


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坂東富貴子舞踊公演『狐 葛の葉』

2019年11月08日 | 大衆芸能
国立小劇場で、坂東富貴子舞踊公演『狐 葛の葉』が行われた。
葛の葉は、『しのだづま』で、説教節から浄瑠璃、歌舞伎に取り入れられ、映画でも内田吐夢監督で『恋や恋なすな恋』として作られている。
これが大川橋蔵の安倍保名と嵯峨三智子の葛の葉で、結構面白い作品だった。

安倍清明に命を助けられた信田の狐が女として現れて婚姻し、子までなすが、ある時蘭菊に見惚れていて正体を現してしまい去る。
その時、「恋しくば訪ね来てみよ 和泉なる信太の森の恨み葛の葉」と障子に書く。
これは異類婚姻譚で、そこには被差別の問題が隠れているとの説もあるが、ある種の異なる文化の間で婚姻が行われた時の困難さだと言えるだろう。
吉本隆明風に言えば、「共同幻想」と「対幻想」は本質的に対立するからだとなる。

    

今回の公演も、言うまでもなく、ふじたあさやの『しのだづま考』にヒントを得たもので、演出もふじた氏である。
しかし、坂東富貴子は、そこに昔、彼女が二代目若松若太夫の『葛の葉 子別れの段』を聴いて感動した体験に合わせ、
まず泉州信太山盆踊りから始まり、桂春蝶の語りと三代目若太夫の説教で序段が語られ、そこで坂東富貴子が一人踊る。
狐、保名、葛の葉を前半は素踊りで踊り、後半は女義太夫、さらに最後は故杉本キクの瞽女唄で踊るという大変に贅沢な趣向だった。
あらゆる分野で、女性の力が見直される今日、異類婚姻譚の持つ意味は深く重いと思わされた。
国立小劇場
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