指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

安倍政権のおかしさ

2020年08月30日 | 政治
安倍首相が辞職したが、私は最初から変な政権だと思っていた。
スローガンの「戦後政治からの脱却」が変なのだが、それにご本人が気づいていないのが笑える。
もし、社会党や共産党が戦後政治からの脱却を言うならわかる。
だが、自民党のご本人が「戦後政治からの脱却」をいうのは、戦後史を知らないのだろうか。
戦後の日本の政権は、片山内閣、芦田内閣、そして細川内閣と民主党の鳩山、菅、野田内閣以外はすべて自民党政権だったのだから。
安倍首相の祖父の岸内閣や、大叔父で長期政権だった佐藤内閣もあるのだから、いったいどういうことなのかと思ってしまう。
これらの自民党政権は、みな間違いだったのだろうか。
そう考えないと、このスローガンは意味をなさない。
              
                

こうした矛盾の最たるものは、「東京裁判」への考え方だろうが、裁判が終わってA級戦犯の刑が決まった時、昭和天皇は、
「これで良い」と言ったのをどのようにとらえるのだろうか。
昭和天皇もGHQの「自虐史観」にとらわれていたというのだろうか。
信じがたいことである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

横須賀に沖縄系の人が多い理由が分かった

2020年08月30日 | 横浜
まえに、横須賀市に沖縄系の人がたくさんいられることを書き、その理由は戦後サイパン等の南方からの引き上げの人が上陸したのが横須賀だったことを書いた。
そこで、なぜ引き揚げ船が横須賀に来たのか不思議だったので、横浜や港湾のことならなんでもご存じのTさんにお聞きした。
その場で答えをいただいた。
それは、戦後浦賀に浦賀引揚援護局があったからだとのことだった。

              

ここでは、本土への上陸手続きの他、防疫もやっていて、伝染病の問題もあったので、横浜のような人口の多いところではなく、浦賀に置いたのだろうとのこと。
ただ、ここは1950年に金沢の長浜の検疫所に移されたそうだ。
ここには、明治時代から横浜港の検疫所があり、野口英世が勤務していたこともある施設だった。
現在は、横浜市の市民利用施設・長浜ホールとなっている。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

他人に圧力をかけるのは自分の体に良くない

2020年08月29日 | 政治
安倍晋三が首相を辞職するとのこと。
思いだすのは、1980年代に横浜市会議長の秘書をやっていた時に感じたことだ。
それは、「他人に圧力をかけるのは自分の体に良くない」と言うことだ。
私は、四代の市会議長、大久保英太郎、鈴木喜一、相川藤兵衛、松村千賀雄氏の秘書をやらせていただいた。
その時、他人、部下等に様々な形で圧力を掛ける人は、自分の命を短くすると言うことだった。

具体的には一人は、Mという助役がいて、消防局長から筆頭助役にまでなった方だった。
大変にまじめで、職務に精励するのは良いが、会議に市長と一緒に出た時など、「市長の後に出て、次の会場では先に着け」と言うのだから、随行や運転手は大変だった。この方は、助役を辞めた後、比較的早く亡くなられて大変に驚いたものだ。
もう一人は、民社党のS議員だった。
民社党と言うのは、当時も軽くみられる党派で、2月に細郷市長の総決起大会が横浜文化体育館で行われた。
その時、各支持党派の代表が来たのだが、民社党は門司真さんという昔の衆議院議員だったが、受付の職員は門司先生を知らなかった。
それを見て、S先生が激怒された。ようやく各派の代表席に連れて行ったが、怒りは治まらなかったようだ。
その深夜、S議員は脳梗塞で倒れて、半身不随になった。
要は、他人に圧力を掛けることは、反作用で自分にも大きなストレスがかかるのなのだと思う。


              

安倍政権の評価はいろいろだろうが、大変に矛盾を含んだ政権だったと思う。
政治的には、改憲など右翼的だった。だが、経済政策は、新自由主義と政治性とは異なるものだった。
さらに、経団連に賃上げを要望するなど、まるで「社会主義的」だったが、これは祖父の岸伸介が統制経済派だったからだろうか。
いずれにしても、安倍政権と言うのは、非常に矛盾を内包した内閣だった。
さらに、野党からの森友、加計、桜を見る会問題等への批判、首相のストレスは高まったに違いない。
そして、今度の辞任。
かつてマルクスは言った「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」
今回の辞任劇が喜劇かどうかは、まだわからない。
7年の安倍政権の成果としては、アベノマスクを配ったとなるだろう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『レイズ・ザ・タイタニック』

2020年08月28日 | 映画
昼間、見るものがなかったので、見ると前半は結構面白い。
寒冷地で、男が雪原を掘っていて、何かを掘り出す。
そこから話が飛んで、現在になり政府の高級顧問ジェイソン・ロバーツが海軍高官を説得している。
それは、対ソ連へのミサイル防衛システム構築に、ある元素が必要で、記録ではそれが、1912年に沈没したタイタニックに積まれていたという。
もちろん、元素は架空の物らしい。
まず、沈没場所を探すことが大変で、深海艇を操作してなんとか場所を特定する。ここまでに約1時間掛るが結構快調だった。
極秘で、タイタニックを引き上げることになるが、その方法は、ガス袋を船体に入れて膨らませて浮上させるのだとのこと。
ついに、浮上に成功すると、なんとソ連が出てきて脅かす。
もともとの元素は、ソ連領内の島から盗まれたもので、公海上なので今度は自分たちが取るのも自由だと。
すると、アメリカの原潜と軍艦を見せるとソ連は引き帰っていく。
曳航してニューヨークの岸壁に持ってくるが、大歓迎の民衆の歓呼。

だが、この船内に、その元素はなく、木箱にあったのは砂利のみ。
その時、作業者の住所の票を見つけ、そのスコットランドの墓場に行く。
予想通り、放射線を含有しているのを見つけるが、「これを掘りださねば世界平和だ」としてエンド。
1980年の映画で、当時流行のデザスターものかと思っていたら、宝探しだった。

シネフィルwowow

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『憎いあンちくしょう』

2020年08月27日 | 映画
朝、録画をしているので、なにかと思うと『憎いあンちくしょう』なので、そのまま最後まで見る。
1962年の石原裕次郎、浅丘ルリ子の映画で、たぶんこれも蒲田パレス座で、『何かおもしろいことないか』『銀座の恋の物語』の、裕次郎・蔵原惟繕の「典子3部作」の一つとして見たと思う。
私としては、今までに見た古今東西の映画で一番好きな作品で、なんどみても文句のつけるところがないと思う。

                

話は、マスコミの兆児の北大作の裕次郎で、これは永六輔がモデルで、冒頭で浅丘ルリ子が聞く、
「今日は何の日」
裕次郎は答える、「昨日の続きさ」
これは、当時ラジオ関東でやっていた、永六輔、前田武彦、青島幸夫らの人気番組『昨日の続き』のことなのだ。
『昨日の続き』は、テーマのないその日の、出場者の気分に応じて話されるトーク番組の先駆けで、大変に人気のあったラジオ番組だった。
ここでは、「今日の3行広告から」という、新聞に出ていた3行広告を取り上げて、トークする構成になっている。
そこに、「ヒューマニズムを理解する運転手求む」という広告の芦川いずみが現れる。
彼女は、米軍払下げのジープを九州の村まで運んでほしいという。そこには医師で、恋人が働いているというのだ。
裕次郎は、毎日仕事が詰まっているのに、全部取り消して「自分が運んで行く」とテレビで断言する。
このところの裕次郎と芦川の対話も非常に良い。「愛は信じるものです」
芦川の最高作だと思うのだ。

裕次郎は、簡単な荷物をバックに詰めて東海道を西に向かう。川崎のスナックの親父は山田禅二、静岡の食堂の中には高品格らもいる。
その他雑誌記者で榎木兵衛、途中大阪での大群衆からジープに乗り込む記者で佐野浅夫と森塚敏など、新劇の役者も多数出ている。
ここに出ていなのは、小林旭、宍戸錠、二谷英明らだが、それぞれが封切り作品を持っていたからだ。
このたぶん、日本最初のロードムービーだが、これが特に大作でも芸術祭参加作品でもなく、通常の日活のプログラム・ピクチャーとして作られたのがすごいと思う。
当時の日活の高揚したパワーである。
音楽の黛敏郎が、菅原通斎と共に、裕次郎との対談番組に出るお遊びもある。

四国から九州に入った裕次郎とルリ子の二人は、博多で「博多山笠」の列に遭遇するが、この博多山笠が映像で紹介されたのは、日本で初めてだと思う。
最後、熊本の田舎でジープが着き、芦川と恋人の小池朝雄の対面映像を作りたいテレビ局の長門裕之が、芦川をヘリコプターで連れてきて会わせるが、二人は照れてぎこちない。すると裕次郎は、二人を対面させて、
「これから二人でやっていくんだ」と言う。
裕次郎とルリ子は、草原で抱き合ってエンド。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

横浜の沖縄系の人々

2020年08月26日 | 横浜
横須賀に沖縄の人が多いことを書いたが、横浜にも沖縄系の人が多数居住する地域がある。
鶴見区小野である。
その理由は、今もある旭硝子の工場で、ここに沖縄の人が多数やってきたのだ。
硝子工場は、非常に熱いので、沖縄は熱帯なので、その熱に耐えられるだろうという「偏見」からきたものだとのこと。
また、すぐ近くの川崎市にも沖縄の人は多いが、これも日本鋼管の工場だと思う。

                      

この二つの沖縄系のエリアは、現在では日系ブラジル系の人の地域になっている。
その理由は、1980年代に日系人には、労働ビザが容易に取れる時代があり、沖縄からブラジルやペルーに移民した人たちの子孫が、日本に来た。
ブラジルに移民した人には沖縄の人が多かったので、来日の場として、川崎や横浜の沖縄系の地域に来たのである。
その意味では、沖縄は、本土よりはるかに国際的だといえる。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

横須賀に沖縄出身の人が多い理由は・・・

2020年08月25日 | 都市
       

横浜市の南隣は横須賀市であり、ここには沖縄出身の方が多く住んでいる。汐入や逸見などの山側である。
現在の上地市長も沖縄系の人で、父の代に横須賀に来たのだそうだ。

その理由は、戦前から日本の委任統治領であった、サイパンやグアムには、多くの沖縄系の人が移住し、精糖などの産業についていた。
そして、日本の敗戦で、それらは米国に統治されることになり、日本の住民は内地に引き揚げることになった。
その際に、日本への帰国港になったのは、横須賀港で、その性で多くの人が横須賀に住むようになったのだそうだ。
港は、横須賀のみではなく、横浜もあったのに、なぜ横須賀だったのかはわからない。
引き上げは、たぶん米国の軍艦によって行われたので、横須賀港はもともと軍港だが、横浜は商業港だったので、水深に違いがあったのだろうか。

昔、脳梗塞で横浜の脳血管医療センターに入院した時、伊料さんという方が同じ部屋にいた。
彼は、小泉元首相の父親の小泉純也氏の秘書で、自身も横須賀市議会議員を長くやっていたのだそうだ。
そして、ある日、体の大きな男の人が見舞いに来られた。
その方が帰った後、伊料さんが言われた「彼は、ハワイの人間で、従弟だが、元は沖縄なんだよ」
伊料さんも、横須賀の沖縄人の票で議員をやっていたのだろうか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昔の池上と本門寺

2020年08月24日 | 東京
先週の日経新聞の文化欄に、蒲田映画祭実行委員の岡茂光氏が、蒲田の映画について書いていた。
蒲田に松竹撮影所があったのは有名で、JR蒲田駅のサイン音は、『蒲田行進曲』である。
1936年に蒲田から大船に移り、所謂大船調の作品で、戦中から戦後にかけて全盛時代を迎える。
この記事の中で知ったのは、蒲田でも時代劇が作られていて、池上本門寺周辺で撮影していたというのだ。

             

普通、蒲田では現代劇、京都では時代劇が作られていたとされているが、蒲田で作られた時代劇もあったとのこと。
その理由は、戦災で焼失したが、本門寺には、戦後のわれわれが見知っていた寺だけの境内ではなく、戦前はもっと多くの店や飲食店があり、言ってみれば浅草のような賑わいのある町だったようなのだ。
それを背景に時代劇も作られていたのだと思う。
どんな作品が作られていたかは不明だが、いずれ調べてみたいと思う。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学力テスト

2020年08月23日 | その他
『大人と子供のあいの子だい』でも出てきたのが、中学の学力テストだ。
               

1960年代当時、東京では中学3年になると、学力テストが盛んに行われていた。
もちろん、民間業者のもので、後に文部省によって全廃させれれた。
私たちが受けていたのは2種類あり、5科目のと3科目のだった。

どちらも年に2回くらい行われていて、この内3科目のテストでは、成績上位300者のリストが毎回出されていた。
「300番代」とよび、優秀な学生の証だったが、私も一度だけ出たことがある。
しかし、上には上がいるもので、大田区蒲田の中学の女性で、いつも300番代に出ている方がいて、われわれは大変に驚いていた。
後に、この方は、私が早稲田の学生劇団で同じになり、ウォーマッド横浜も一緒にやった田村光男と日比谷高校で同級生になっていたとのことで、これも実にびっくりしたものだ。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『大人と子供のあいの子だい』

2020年08月23日 | 映画
1961年の日活映画、東京の北部の貧困家庭の話、主人公の中学生は浜田光夫、父は松下達夫で、工員だが競輪と酒で身を持崩している。母親は、小夜福子で、祖母は武智豊。

                      

「大宮競輪に行く」と父親は言っているので、北区あたりだろうか。
浜田は成績が良いが、家が貧しいので、高校進学については迷っている。担任の教師は鈴木瑞穂。
姉の高田敏江は、結核になり療養所に入院すると、恋人だった梅野泰靖はすぐに高田を捨ててしまう。
父親の工場は、給料の遅配があったが、ついに行き詰まり閉鎖となり、松下は、工場主の斡旋で足立の工場に移ることになる。
工場主は鶴丸睦彦、工員には大滝秀治など、多くの劇団民芸の役者が出ている。出ていないのは、滝澤修くらいだろう。
浜田は、親友の両親で、裕福な家の宇野重吉と佐々木すみ江夫妻のところに住むことになる。
明治、大正時代には、貧困から進学できない優秀な生徒を親戚や地域の富豪などが援助したなどの例があるが、この戦後では珍しいだろう。
だが、浜田は、宇野と佐々木の家にいることには満足できず、ついに一人で生きてゆくことを決意して終わる。
浜田の同級生として松原智恵子が出ているが、彼女も貧困家庭で、中学卒業後、進学せず駅の売店の売子になる。
この若杉光夫監督の貧困家庭映画は、それほど大したものではないが、注目されるのは、この年に浦山桐郎の『キューポラのある街』が作られていることだ。言うまでもなく、これは東京の隣の川口の話で、浜田ではなく、少女吉永小百合の主演であることだ。
名作は、それ単独でできるものではなく、前作等の積み重ねの中でできるものであることが証明されたと思う。




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『さらばわが愛、北朝鮮』

2020年08月22日 | 映画
1950年代末に、北朝鮮から8人の若者がソ連のモスクワ国立映画大学に留学した。
当時、北朝鮮で起こっていた、金日成首相による反対派の粛清の一環だったようだ。
卒業後、彼らはソ連の各地に派遣される。
中央のモス・フィルムに残れるのは、ほんの少数のエリートだけだかったのだろう。

                    

ある男は、シベリアに派遣される。その都市のテレビ局に職を得て、毎週のニュースやピオニール向けの番組を作る。
だが、党の規制があり、彼は自由な報道を求めて別の共和国の新聞社に行く。そこで、地域の記事を書くと共に、地元の人と芝居を作るなどする。
また、ある男は、カザフスタン行き、映画を作る。
カザフスタンは、非常に他民族に温かいところで、さらにスターリン時代に強制移住された朝鮮人(高麗人)もいて、彼らの協力を得て作品を作る。
カザフスタンは、昔から多くの民族や人が交差したところなので、そうした寛容性があるのだろうか。

この映画の監督は韓国の人なので、彼らを悲劇人のように見なそうとしいる。
「生まれたところを故郷とよぶなら、死ぬところはなんとよぶのか」と。
だが、彼らは悲劇的には見えない。住めば都である。
どこであれ、ともかく作品を作れる自由があったからだろうか。
もし、あのまま北朝鮮にいたなら、金日成体制確立の中で死んでしまったかもしれないからだ。

横浜シネマリン
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

維新の体質

2020年08月20日 | 政治
                   

大阪の吉村知事が、ポピヨドンによるうがいが「新型コロナ・ウイルス」に効くと記者会見して問題になっている。
関西の人間には、これを擁護する発言も多いようで驚く。
この吉村知事の発言は、決して偶然のものではなく、日本維新の会の体質に係わっていると思う。
横浜市という地方だが、議会の事務局職員として10年以上勤務した身から見て、維新の体質によく合った事件だと思う。
それは、維新の連中の考えは、現在の議会制度への疑問、物足りなさからきている。

彼らは、おおむね自民党に近い連中だが、そもそも日本の自民党というのが、きわめて特殊な体質を持っている。
戦前の政友会、民政党は、地方の地主や大商人などの、地方の名望家を支持基盤としていて、それらの中から議員も出ていた。
戦後、吉田茂は、その議員の中に高級官僚を入れた。池田勇人や佐藤栄作などである。
総じて言えば、自民党は金持ち喧嘩せず的な体質であり、名を捨てて実を取ることで国民の支持を得てきた。
要は、非常に時間のかかるやり方であり、それに我慢のできない若手も内在するものだった。
そうした連中の中から、大阪維新の会が出てきたと思う。
民主主義は、非常に時間のかかる制度であり、多数決に至るにしても多くの議論と法的な手続きが必要である。
こうしたことは、行政や議会ではなく、民間の企業や団体では必要とされない場合が多い。
なぜなら、それらは一つの存在ではなく、利用者は別のものを選択できるからだ。
キリンが嫌なら、アサヒでもサントリーでもビールはある。
だが、横浜市の他に、新横浜市や第二横浜市はないのであり、市民は横浜市以外に選択はできないからである。
ただ一つの存在である国や自治体においては、国民や市民は、その行政に従うしか方法はないので、そこには民主的で慎重な手続きが必要なのだ。
昔、橋下徹が言っていたような「時には独裁も必要だ」というのは、民間企業や団体では有効だが、国や地方自治体の議会では無効なのである。
こうして連中に行政を任せるのは、常にあの「イソジン吉村」の危険をはらんでいるのだと私は思うのだ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

社会を明るくする運動とは

2020年08月19日 | その他
横浜市に40年いて、いろいろな事業に参加したが、一番変な事業は、この「社会を明るくする運動」だと思う。
変なというのは、実態がほとんど存在しないからだ。
主催は、本来法務省だが、主催ではなく、主唱と言っていて、金もなにも出ない。
要は、地方が勝手にやれと言うので、法務省がやるのは、イメージ・ガールを決めポスターを配布してくるくらい。
いずれ売れるかもしれない三流のアイドルがイメージ・ガールになるものだった。
法務省は、一番金のない省庁だそうで、本当に何も予算がない。
区役所の予算、事業でやることになる。
たいていは、地域か区で講演会をやって終わりというものだった。
ただ、良く考えると、小学生のころ、夏休みに納涼映画会というのが学校であったが、多分これは「運動」の一環だったのではないかと思う。
私が見て憶えているのは、美空ひばり主演の『たけくらべ』であるが、これは五所平之助監督で、後にビデオで見たが結構いい映画だった。
これは多分、市川染五郎が出た最初の映画だと思うが、ひばりの相手役は、彼ではなく北原隆である。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

渡哲也、死去

2020年08月18日 | 映画
渡哲也が死んだ。だが「名優がまた消えた」というと本当かね、と思う。
彼は、決して上手くはないし、正確にいえば名優ではなく、ほとんど大根役者だと思う。
役者としてみれば、弟の渡瀬恒彦の方がはるかに上手いし、いろんな役を演じている。
渡哲也は、むしろモデル的な俳優であり、その意味では美男俳優である。
それがよくわかるのは、鈴木清順監督の『東京流れ者』であり、ここで鈴木は、渡を人間というよりは、人形のように画面に出して成功している。

                      

             
コメント (3)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『赤い闇』

2020年08月17日 | 映画
              

1933年、イギリスの若いジャーナリストのジョーンズは、ソ連に行く。
大恐慌の中で、ソ連のみが好景気だというのはおかしいと思ったのだ。
ソ連に入ると、好意的なルポでピューリッアー賞を取ったベテラン記者もいる。
彼は、実情を調べるため、ウクライナに行くと、異常な飢餓だった。
その記事は、地方の新聞には出るが、中央やアメリカでは問題にされない。
後に、彼は満州を取材中に死んだとのこと。

ロシア革命後のソ連の経済事情については議論のあるところで、同時期にバーナード・ショーなどは大きく評価している。
その後、スターリン独裁の中で、経済不振、独裁と粛清については誰もが肯定できないだろう。
こうした非人間性は、どこから来たのだろうか。
それは、ロシアという国の後進性からだろう。
一口に言えば、アジア的後進性である。マルクスは、社会主義革命は、資本主義の後に生まれるとし、イギリスだろうと考えた。
だが、現実は、ロシアという一番資本主義と民主主義の遅れた国だったという皮肉。
日本と日本軍の非人間性も、こうした後進性からきたものだと私は思う。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする