指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

『ルールー』から中東情勢を考えたこと

2015年11月29日 | 政治

昨日は、大岡地区センターで『横浜クロス・カルチャー』をしましたが、そこではレバノンの、というよりもアラブ最大の女性歌手フェイルーツの『ルールー』も上映した。

                                      

 

これは、ずいぶん前にLPで持っていたものを、数年前に渋谷のエルスールでDVDとして買ったものだが、筋は全く分からない。

彼女が主人公なのだが、どういう役か不明だが、どうやら一種のコメディーらしい。

このLPでも気になっていたのは、他国の曲が演奏されることだったが、映像で見ると、彼女を中心に多くの男女が踊り歌うものだった。

その曲は、まず『サンタ・ルチア』、次は『ポリシカポーレ』、そして『マイム・マイム』なのである。

それらに勝手に詩をつけているように聞こえるが、もちろん意味は分からない。

だが、これを見ると興味深いのは、イタリア民謡、旧ソ連の軍歌、さらにイスラエル民謡であることだ。

要は、レバノンが、地中海文明、ロシア等の欧州文化、さらにアラブの宿敵のイスラエルとも、実は文化的に親近性が極めて強いということである。

よく考えれば当然で、イタリアとは海で結ばれている他、ロシア、イスラエルとは陸続きなのだから、文化は相互に浸透し、交流しているのである。

中東情勢は複雑だが、実は相互に親近性もあるのだということをお話しさせていただいた。

明後日12月1日には、黄金町のたけうま書房でトークイベントをしますので、どうぞよろしく。

 

 


『横浜クロス・カルチャー』 大岡地区センター

2015年11月27日 | 音楽

明日、11月28日の午後1時から、弘明寺にある大岡地区センターで、大岡サロンの3回目として、『横浜クロス・カルチャー』を行います。

主に、古代から戦後までの日本に来た外来音楽、また在日外国人による日本音楽などを聞くイベントです。

お時間のある方は、弘明寺の大岡地区センターにお出でください。

 

                    

 

上の昨日書いた記事の中で、2時からと書きましたが、1時からです。

間違えてすみませんでした。お間違えのないようによろしくお願いいたします。

 

 

 

                

 

 

   


原節子は、なぜ引退したのか

2015年11月26日 | 映画

1963年に原節子は、42歳で引退したが、その原因は何だろうか。

目の疾患や小津安二郎が死んだことなどが言われている。

だが、私は彼女の義兄である熊谷久虎とのことだと思う。

それについては、不愉快だから書かないが、彼女のイメージを大きく傷つけるものだった。

彼女は、それに耐えつつ、あの美しい演技を続けたのには、大変な忍耐と努力があったと思う。

だが、週刊誌等のスキャンダル・ジャーナリズムが興隆しつつあった1960年代当時、そのまま現役女優を続ければ、いずれ事実が暴露されることが予測されたのだと思う。

そこで、彼女はすべてを秘匿するするために、引退をしたのだと私は思う。

いずれにしても、彼女は大変に忍耐強い人間だったと思う。

 

                                    


原節子、死去

2015年11月26日 | 映画

昨日の深夜に電話が来たので、なにかと思うと、通信社にいた後輩からで、

「原節子が死んだよ」で、「一面に出るだろう」とのことだった。

今度出した本が予期していたみたいに見られるのは困るが、もう90代だったので、いずれ来ることだったが。

さて、原節子だが、今回出した『小津安二郎の悔恨』で、一番反響があったのは、

「『東京物語』の原節子が演じた紀子という次男の未亡人には、今付き合っている男がいるはずだろう」と書いたところだった。

よく考えれば、当たり前のことで、戦争で夫が亡くなった妻は、ほんとんどが再婚したもので、その多くは元夫の兄弟、あるいは従弟などの親戚だった。

昔は、女性の多くが働いていなかったので、余程資産がある場合を除き、再婚しないと生活できないためで、また家の財産の維持継承の問題もあった。

 

私が最初に入った職場の庶務課長もそうで、二言目には「俺なんか兄貴のお古だ」と言い、実のお兄さんが戦死したので、その奥さんと結婚したとのことだった。

小津安二郎の『東京物語』で言えば、三男大坂志郎と再婚するところだが、小津は大坂が好きではなかったので、その筋にはしなかったのだろうと思う。

大坂志郎は、国鉄職員で大阪にいて、原節子は東京で働いているという設定にして再婚させていない。

 

                  

 

必ず言われる彼女の42歳での引退の原因だが、やはり義兄の熊谷久虎とのことだろうが、不愉快なので詳細は書かない。熊谷は1986年まで生きていたとのことで、本当に彼女は大変だったと思う。

日本映画史に残る大女優のご冥福をお祈りする。


今井正の映画を再評価しよう

2015年11月20日 | 映画

一昨日、横浜市中央図書館で「映画『あにいもうと』の昭和史」を行い、昭和期に11年、28年、51年と3回作られた作品のハイライトを上映しつつ、作品と時代について話をさせていただいた。

それぞれの特徴は、最初のPCL版は、監督が元プロレタリア映画同盟のメンバーだった木村荘十二の意向で、川筋者の肉体労働と当時の階級的格差を描いていた。

冒頭に多摩川で砂籠によって砂防工事をする男たちが出てくるが、頭領の小杉義男以外は、全員お尻丸出しの裸なのだ。労働イコール肉体労働だとの木村の意思が感じられた。

さらに、娘おもんを妊娠させて捨てた小畑が来ると、小杉は怒るが、ここには多分金持ちであろう小畑への下層民である小杉の非常に激しい怒りが表現されていた。

おもんは、竹久千恵子で、小畑は大川平八郎と、いずれも米国に行ったことのある俳優であることが興味深く、こうした行いをする者は、本来日本的ではないということがある。

 

戦後の成瀬己喜男監督版は、もん・京マチ子の妹のさん・久我美子がクローズアップされているが、それは脚本の水木洋子の意思である。

つまり、彼女は製麺所の息子で養子の堀雄二と恋仲だが、父の潮万太郎も家付き娘の本間文子に頭が上がらず、堀と久我のことを認めない。

水木洋子の脚本は大変に優れたものがほとんどだが、冷静に考えてみると、彼女の作品の男は、『浮雲』の森雅之を典型に、情けなく、不甲斐ない男がばかりである。

ここでは、もんの兄の伊之は、森雅之で、本来彼の役柄ではないと思うが、非常にうまく演じており、京マチ子との立ち回りのシーンも凄い。

ラストには、京マチ子と久我美子がきちんと生きていくようにとの水木洋子の考えが感じられた。

 

                   

 

さて、一番評判が良かったのが、最後に作られた今井正監督、草刈正雄、秋吉久美子主演のものであった。

秋吉の自然な演技は、前作とは比較にならず、竹久や京マチ子らの演技には、どこかでお芝居をしているという臭さが見えた。

ラストは、東京へ戻る秋吉久美子とさんの池上季実子をダンプ運転手の草刈りが拾って乗せ、

「また、戻って来いよ。遠くに行くなよ」と声をかけ、たばこを吸う秋吉が涙をこらえるもので、ここは名場面だと皆感じたようだ。

 

今井正というと、『また逢う日まで』や『ここに泉あり』等が取り上げられるが、それらよりも、この『あにいもうと』や『夜の鼓』の方が良いと私は思う。

そして、先日ヨコハマ映画祭実行委員会前代表の鈴村さんにお会いした時に、鈴村さんもおっしゃっていたが、今井正は、もっと評価されてよい監督だと思う。

演出力という点では、同じ東宝出身の黒澤明と同等のものがあったと私は評価している。

 

 

 


本当の黒澤明映画は、

2015年11月19日 | 映画

先日、本当の小津安二郎映画は、を書いたが、では本当の黒澤明映画はどれかを考えてみる。

彼の戦後の映画は、以下のとおりである。

 

  1. 1946.05.02 明日を創る人々  東宝
  2. 1946.10.29 わが青春に悔なし  東宝
  3. 1947.07.01 素晴らしき日曜日  東宝
  4. 1948.04.27 酔いどれ天使  東宝
  5. 1949.03.13 静かなる決闘  大映東京
  6. 1949.10.17 野良犬  映画芸術協会=新東宝
  7. 1950.04.26 醜聞  松竹大船
  8. 1950.08.26 羅生門  大映京都
  9. 1951.05.23 白痴  松竹大船
  10. 1952.04.24 虎の尾を踏む男たち  東宝
  11. 1952.10.09 生きる  東宝
  12. 1954.04.26 七人の侍  東宝
  13. 1955.11.22 生きものの記録  東宝
  14. 1957.01.15 蜘蛛巣城  東宝
  15. 1957.09.17 どん底  東宝
  16. 1958.12.28 隠し砦の三悪人  東宝
  17. 1960.09.15 悪い奴ほどよく眠る  東宝=黒澤プロ
  18. 1961.04.25 用心棒  東宝=黒澤プロ
  19. 1962.01.01 椿三十郎  東宝=黒澤プロ
  20. 1963.03.01 天国と地獄  東宝=黒澤プロ
  21. 1965.04.03 赤ひげ  東宝=黒澤プロ
  22. 1970.10.31 どですかでん  東宝=四騎の会
  23. 1975.08.02 デルス・ウザーラ  モスフィルム
  24. 1980.04.26 影武者  東宝=黒澤プロ
  25. 1985.06.01 乱  ヘラルド・エース=グリニッチ・フィルム・...
  26. 1990.05.25 夢  黒澤プロ
  27. 1991.05.25 八月の狂詩曲  黒澤プロ=フィーチャーフィルム...
  28. 1993.04.17 まあだだよ  大映=電通=黒澤プロ

黒澤明の代表的作品は、というと普通はまず『七人の侍』だが、次は『用心棒』や『椿三十郎』を挙げる方が多いと思う。

それは、当然で、この2本は大ヒットした作品で、公開時にも、あるいは名画座等の上映でも見た方は多いからである。

だが、私は、この2本は、「黒澤明映画」というよりは、脚本の「菊島隆三映画」ではないかと思っている。

どちらも三船敏郎が演じる浪人だが、ひどく腕がたち、頭脳も明晰な男が活躍する映画は、黒澤明の本質とは無縁のように思える。

菊島隆三は、『兵隊やくざ』のように、勝新太郎の肉体そのもの男と、田村高広が演ずる頭脳の男が、日本帝国陸軍という極限状況で活躍する物語を作った脚本家である。

また、彼は映画界に入る前には自分で実業をしていたこともあり、経理や経営にも詳しい人間だった。

そこで、彼は黒澤プロダクションの代表になる。彼の映画と経営への能力を買ったものだろう。

 

そして、1967年の映画『トラ、トラ、トラ!』の企画と脚本完成になり、1967年12月、東映京都撮影所で撮影に入る。

だが、12月24日に黒澤は、監督を首になってしまう。

この作品は、20世紀フォックスの下請け作品で、予定通りにフイルムを納入しないと莫大な違約金を払う契約だったからだ。

そこで、菊島を代表とする黒澤プロダクションは、「黒澤は精神が異常になった」としてしまう。

精神の異常は、天災等と同じの予見不可能な不可抗力であり、仕方のないことだからである。

そこには保険会社から金がフォックス側に払われたので、問題はなくなったのである。アメリカから保険会社が来て、関係者にヒアリングしたとのことである。

だが、この「黒澤は気が狂った!」の発表によって、黒澤は大変に傷つき、菊島隆三との仲は決裂してしまう。

そして菊島隆三が、亡くなり遺族が彼の遺稿集を出そうとし、『用心棒』や『椿三十郎』を入れようとしたとき、黒澤は許さず、遺稿集にはこの2作は入れられなかった。

中年男の遺恨は恐ろしいというしかない。

本当の黒澤明映画は、『用心棒』や『椿三十郎』のような豪快な英雄を主人公とするものではなく、むしろ『静かなる決闘』のように、うじうじと悩む男のような気が私はする。

 

 


『メルヘン誕生』 高島俊男  いそっぷ社

2015年11月16日 | テレビ

「つまらない真実よりも、面白い嘘の方が良い」というのはエンターテインメントの世界では当たり前のことだが、向田邦子の作品についても、そう思う。

最初に感じたのは、『無名仮名人名簿』の「おばさん」を読んだ時だった。これは、向田が映画雑誌社に勤めていた時の話で、ビルの入口に靴磨きのおばさんがいた。

それを守衛のおじさんが嫌がって時には水をかけたりしていた。

ところが、向田は、ある日浅草で、その二人が仲睦まじく手を繋いで歩いているのを見たという。

だが、その翌日からも、おじさんはおばさんを前のように邪険に扱っていたという。

 

読んだとき、「これは作り話だ」と思った。ビルの入口に靴磨きのおばさんがいたこと、守衛のおじさんがいて、彼女を邪険に扱っていたことは本当だろう。

だが、その後の筋書きは、向田の創作、想像の産物だと思った。

この本で、高島も、小説として称賛すると同時に、これはエッセイではなく創作としている。

そこから彼は、向田の履歴を詳細に検討する。

彼女の父親は、高等小学校卒ではなく、東邦生命に入社して、大倉商業の夜間に通い、それなりの「学歴」を取得していたこと。

さらに、彼女の本に出てくる、戦前、戦後の向田家の暮らしぶりは、当時の日本の庶民生活ではなく、むしろかなり恵まれたレベルの過程だったこと。

そして、彼女は明確に書いていないが、父親は、私生児として生まれたように、その母親、向田からは祖母になる女性は、かなり奔放で自由な女性だったことなどである。

彼女の男性遍歴については、他の本に譲ってはっきりとは書いていないが、そう深く男性とはつきあったことがないのではとしている。

つまり、父親以外の男をあまりよく知らなかったことが、『寺内貫太郎一家』のように、自分の父親をモデルにしたような劇ばかりを書いたのだと結論付けている。

前の「おばさん」に戻れば、この話は、千葉泰樹監督の佳作『下町』を思わせる名作だと私も思う。


『お吟さま』

2015年11月14日 | 映画

1987年、宝塚映画で作られたが、実際上は松竹京都や大映京都も使って撮影されたそうだ。

美術の木村威夫さんの本によれば、予算が少なくて大変だったとのことだが、今見れば結構贅沢に作っているように見える。特に凄いのが衣装で、三越の協力とのことで、お吟の中野良子がとっかえひっえ着替える着物は本物らしく、大変美しくみえる。

撮影は、岡崎宏三で、これまた職人技を見せている。また、音楽は伊福部昭先生で、中村吉右衛門の高山右近らが歌い、演奏するキリシタン音楽は、きちんと復元したとのこと。

 

                                                        

全体としてみれば、意外にも面白い作品だった。

北陸攻めから高槻の城に戻った高山右近は、熱心なキリスト教徒で、慈悲深く領民からも慕われている。そこに幼馴染で、今は堺の千利休の養女になったお吟がやってくる。

大人になって美しい吟に、右近も心惹かれ、吟は幼いときから右近に嫁ごうとしていたが、右近はすでに妻子のある身で、吟の申し出は拒絶される。

キリシタンンを心よく思わない秀吉(三船敏郎)の意思で、右近は根拠地の高槻から明石に国替えさせられる。そのとき、領民が彼を慕って、右近を囲むが、ここは溝口健二の『山椒太夫』の冒頭で、清水將夫の安寿と厨子王の父が左遷される場面を思い起こさせる。

脚本は溝口のシナリオを書いた依田義賢なので、そう思わせるのだろうが、1962年に田中絹代監督で作られた有馬稲子主演の『お吟さま』も、脚本は溝口の弟子の一人の成沢昌成だったのは、なにかの因縁なのだろうか。

中野の吟は、ある意味でストーカー的でもあるが、『風と共に去りぬ』のスカーレットといい、メロドラマの主人公の女性には、こうした性格付けのものもあるということだろうか。

中盤から作品は、秀吉と志村喬の千利休との対決になり、朝鮮攻めを企図し、明までも攻めようとの妄想を抱く好戦主義者の秀吉と平和を願う利休との対決になっていく。

小田原城での北条攻めの茶席で、秀吉の好戦主義を諫めた利休の高弟の山上宗二の中村敦夫は、即座に殺されてしまう。

吟は、右近を追って九州にまで行くが、最後堺に戻ったとき、父と共に秀吉から死の命令が来て屋敷は包囲され、吟は武士の娘らしく、一刺しで胸を突いて自害する。

秀吉に追放されながら、秀吉軍側で密かに大活躍した右近は、徳川時代になり日本を追放されてマニラで死んだという。

熊井啓は、好きになれない監督だが、残した作品のレベㇽが高いことは認めなくてはならないだろう。

日活の後、独立プロで多数の作品を作った力は確かにすごい。

フィルムセンター

 

 

 


本当の小津安二郎映画とは

2015年11月11日 | 映画

戦後の作品の中で、本当の小津安二郎映画は何かを考えてみる。

1947年の『長屋紳士録』から遺作の『秋刀魚の味』まで、以下のとおりになる。

  1. 1947.05.20 長屋紳士録  松竹大船
  2. 1948.09.17 風の中の牝鶏  松竹大船
  3. 1949.09.13 晩春  松竹大船
  4. 1950.08.25 宗方姉妹  新東宝
  5. 1951.10.03 麦秋  松竹大船
  6. 1952.10.01 お茶漬の味  松竹大船
  7. 1953.11.03 東京物語  松竹大船
  8. 1956.01.29 早春  松竹大船
  9. 1957.04.30 東京暮色  松竹大船
  10. 1958.09.07 彼岸花  松竹大船
  11. 1959.05.12 お早よう  松竹大船
  12. 1959.11.17 浮草  大映東京
  13. 1960.11.13 秋日和  松竹大船
  14. 1961.10.29 小早川家の秋  宝塚映画
  15. 1962.11.18 秋刀魚の味  松竹大船

 

             

この中で、本当に小津安二郎の作品といえるのは、『風の中の牝鶏』と『東京暮色』だけではないか。

他の映画は、「野田高梧映画」ではないかと私は思うのである。


『生きる』の市役所は、川崎市役所であることを報告した  神奈川の図書館を考える会

2015年11月09日 | 図書館

昨日は、関内のさくらワークスで、神奈川の図書館を考える会があり、途中から参加した。

県議会議員や川崎市議会議員の参加もあったが、最後の参加者からの意見の中で、川崎市役所が黒澤明の映画『生きる』の志村喬が課長を勤めている市役所のモデルであることを報告した。

下が、4月に世田谷美術館で行われた「東宝スタジオ展」の図録で、松山崇の手によるものだが、はっきりと川崎市役所と書かれている。

今は、どうなっているか知らないが、2階の中央に市長室がある。

このスケッチをもとにスタジオにセットを作って撮影したのであろう。

最後で、日守新一の職員が夕日の中を歩き、路面電車が通過していく。

これも、昔は川崎にも市電があったことをきちんと踏まえているのである。

会では、こうした由緒ある建物であるいずれ行われる予定の川崎市役所の再開発の中で、県立川崎図書館をぜひ入れてほしいと要望しておいた。

 

 

 

 

 

 


「旭化成建材の社長が好きな映画は?」

2015年11月07日 | 大衆芸能

『わが青春にくいなし』

荏原中延の喫茶店・隣町喫茶で行われた居島一平の「シネ漫談」で一番受けたネタだった。

ほぼ2時間、居島は、田畑智子の自殺騒動からルコントの『タンデム』のラストを間違えて記憶していたことに至るまで、しゃべり、演じた。

この夜のテーマは、ドキュメンタリー、ノン・フィクションとは何かで、彼がドイツ映画祭で見てきた『ビクトリア』の凄さと、それがどうしたの、ということだった。

『ビクトリア』は、ベルリンに来たスペイン人女性が主人公で、酒場で働いている。

彼女はピアニスト志望でもあったので、その腕前を披露したりする。

『砂の器』の加藤剛のように、まったく弾いていないのをカメラワークでごまかすのではなく。

そして、彼女は不良一味に巻き込まれ、最後は銀行に押し入り銃撃戦も行われるのだそうだが、この2時間30分が、ワンカットというのだ。

映画全編がワンカットは、かつてヒチコックも『ロープ』で作っている。

だが、勿論フィルムで、20分弱しか続かないので、この時は、繋ぎのカットでは、壁に隠れたりして繋ぎを見せないようにしていた。

ヒチコックは、『ダイヤルMを回せ』でも部分的に使ってワンシーンのように見せていたと思う。

DVD時代になり、平気で2時間、3時間撮影できるので、こうした作品ができたのである。

だが、居島は、この作品に驚嘆しながら、

「それがどうしたの・・・」と疑問を出す。なぜなら、それは演劇では別に大したことではなく、一人で2時間演じる芝居もあるからだ。

『ビクトリア』で、彼が即座に思い出したのが『仁義なき戦い』のドキュメンタリー・タッチで、シリーズの中ではアクションがほとんどない『頂上作戦』が最高に面白いというのは私も賛成である。

                                               

 

特に、先日亡くなられた加藤武が演じた打本組長の小心ぶり、卑怯未練な演技が最高だった。

また、本当のドキュメンタリー原一男監督の傑作、だがそこにも演出と演技がある『ゆきゆきて、神軍』での奥崎謙三のカメラへの視線についても、居島自身が演じた。

最後、ルコント監督の芸人もの『タンデム』のラストを間違えて記憶していたことに、この日に見返して気づいたというのは、映画ファンがよくすることである。

帰りは、本当に40年ぶりくらいに、夜遅くの池上線に乗って旗の台まで行ったが、満員なのに驚いた。

昔は、いつもガラガラだったのが池上線だったからだ。東京への一極集中の現れなのだろう。

 

 


たけうま書房は

2015年11月06日 | 横浜

京浜急行黄金町駅のすぐ近くにあるたけうま書房は、古本屋です。

末吉ショッピングセンターの二階にあり、ちようど3年前の12月にオープンしました。

今、横浜の古本屋で、映画、演劇、音楽、町づくりの本や雑誌など、サブカルチャー関係では、最も充実している店だと思います。

この末吉ショッピングセンターは、1964年の東京オリンピックの時、黄金町駅周辺に蝟集していた闇市などを移転、収容させたのが、その始まりです。

横浜の戦後の歴史を見てきた、この場所でトークイベントをすることは、非常に意義深いことだと思います。

どうぞよろしく。

  

                

 


12月1日、火曜日に横浜でトークイベントをします

2015年11月06日 | 映画

12月1日、火曜日に横浜でトークイベントをします。

夜7時からで、ゲストにヨコハマ映画祭実行委員会前代表の鈴村たけしさんをお迎えします。

場所は、京浜急行黄金町駅から太田橋を渡ってすぐ右のビル、末吉ショッピングセンター2階の古本屋「たけうま書房」です。

当日は、本には書かなったことなど、指田個人の小津安二郎映画とのかかわりなども明かします。

どうぞよろしく。

 

 

 

 


「江夏の21球の日」だそうだ

2015年11月04日 | 野球

今日、11月4日は、1979年に広島が近鉄を破って日本一になった「江夏の21球」の日だそうだ。

このとき、実は私は、知人の紹介でお見合いをしていた。

北鎌倉であって食事したのち、鎌倉に歩いていき、喫茶店等でお話をした。

横浜の南部の区に住むお医者の娘で、大変にまじめな女性で、高校の先生だった。大学では、明治時代の未来戦記などを研究したとのことで、その頃は県立高校で日本史を教えられていた。

非常に良い話だったと思ったのだが、結局はお断りすることにしてしまった。

                    

 

理由は、非常にくだらないのだが、この日の日本シリーズの経過が気になって仕方がなかったからだ。

当時は、スマ・フォもなかったが、多くの店で日本シリーズ第七戦を放送していたので、経過は知っていたのだ。

そして、駅で別れて、すぐに電気店に行き、テレビで中継を見たのだ。

ちょうど9回裏で、江夏の21球の場面で、最後は石渡の三振で広島の日本一が決まったのだ。