指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

久が原について

2021年05月29日 | 東京
昨日、見た『スズさん 』では、小泉氏が戦後建てたのは、大田区久が原だった。それは、池上線の久が原と多摩川線の下丸子の間の久が原だった。
ここは、両方の線に挟まれたところで、小さな丘になったところだった。
また、池上線の久が原の北側は、広い丘になっていて、昔から高級住宅地で、先日亡くなられた渡哲也の家もあった。
ここには、戦前から外人の住宅もあり、テーテンス屋敷というドイツ系外国人の邸宅もあったが、私が小学校の頃は邸宅はなく、庭の池などが残っていた。
今は、住都公団のアパートになっている。
さて、この久が原には、映画スタジオもあり、戦前から三幸映画撮影所というもので、漫画映画などを作っていたようだ。
戦後は、エノケンの演技研究所になったこともあり、独立プロの撮影所になったこともある。
その後、撮影所はなくなり、今はトラックターミナルになっている。
また、ここや田園調布あたりには、新興宗教の本部があり、奇妙な建物が建っている。

         
この久が原には映画館はなかったが、目蒲線の鵜ノ木、さらに武蔵新田には映画館があり、武蔵新田のは新東宝作品も上映していたと思う。蒲田と蓮沼の中間の帝都座という館も新東宝で、一時閉館していたが、ピンク映画全盛になると再開し、ピンク映画や日活ロマンポルノをやっていて、私は東映で公開された『雪夫人絵図』をここで見た。やや中途半端な変な作品だった。
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『スズさん 昭和の家事と家族の物語』

2021年05月29日 | 映画
大田区久が原に昭和の家事博物館を作った小泉和子さんの母・スズさんの物語。
普通物語というと、NHKの大河ドラマのように、英雄や偉い人の話だが、これは普通の女性の話で、きわめて珍しい。

          

明治末に鶴見区の農家に長女としてに生まれたスズさんは、一度徳川家の方の家に行儀見習いで行った後、20歳のとき、東京都の技士だった小泉氏と結婚する。
この上流の家での行儀見習いというのは、よくあったことで、私の母も、麻布の若い医者夫婦のところに行き、料理なども教えてもらったそうだ。
農家の口減らしと花嫁教育を兼ねたものである。
そして、住んだのは小石川で、二人の女と一人の男が生まれるが、男の子は伝染病で3歳で死んでしまう。
昭和初期は、まだ幼児死亡率は高かったのだ。
そして、太平洋戦争になり、1944年から東京にも空襲が来ると、家は強制疎開で壊されてしまう。
今考えると信じがたいことだが、より少ない延焼のためには、強制疎開での家の取り壊しは実行されたのだ。
そして、一家はスズさんの母方の実家の新子安の貸家に入ることになる。
長女の和子は、学童疎開で、宮城県の鳴子温泉に行くが、食糧はなく体を壊して鶴見に戻ってくる。
1945年5月29日の横浜大空襲に家族は遭遇する。
子安の家で、空襲を受け、初めは近所の防空壕に潜んでいたが、近くに焼夷弾が落ちたことから、そこを出て鶴見を彷徨することになる。
和子は、艦載機の機銃掃射を受けて、操縦士と目が合ったと証言する。
だが、近くの民家に逃げ込み、難を逃れるが、機は何度も旋回して襲って来たそうだ。半分遊びみたいなものだったとの証言も他にあるが、本当にひどい無差別殺戮だった。それほどに力の差が歴然だったのだ。
これらの無差別攻撃を指揮した米軍の少将カーチス・ルメイに日本国は、戦後勲章を贈っているのはどういうことか。
下の妹二人を連れて和子は、猛火のなかを逃げ惑い、昼頃には、おばあさん、そして母親と再会する。

戦後、平和になり、小泉家は、大田区久が原に自分の家を建てる。
建築士の父の設計で、国民金融公庫から37万円の借りてのものだった。
二階建てで、下に家族六人が住み、二階は下宿人(学生)に貸したという。
その日々の生活になるが、朝の食事の支度、弁当作り、午後の掃除、洗濯、そして夕食、その後は夜なべ仕事で、繕い物。
一日が非常に忙しいのだが、母のスズは、楽しむようにやっていたとの回想。
縫い物は、私などもやってもので、破れた靴下の穴を繕うのは私もやったものだ、電球の切れたのに靴下を被せて。
洗い張りなども、季節ごとに家でもやっていたと思う。
そして、小泉和子さんは、母親の仕事ぶりを残そうとビデオ化する。
これは、非常に貴重な記録だと思う。
ただ、一つだけ言いたいのは、この方の人生の中で、娯楽というものはあったのだろうか、と言うことだ。
茶の間には、ラジオはあったが、勿論テレビはなし。
この世代の方の娯楽はなんだったのだろうか、知りたいところだ。
久が原にはなかったが、すぐ近くの鵜ノ木には映画館あったので、行ったのかどうか。私は、そこで1965年にTBSのディレクターだった今野勉が監督した国映のピンク映画『裸虫』を見たことがある。

これを見ると、日本の近代は、戦争に向けて庶民を総動員したが、それは表層で、生活の根本はほとんど変化しなかったように思える。
政治など空しいものだと思った。
横浜シネマリン



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内ゲバの馬鹿馬鹿しさの例

2021年05月29日 | 政治
先日、見た『君が死んだあとで』でも出てきたのが、中核と革マルの内ゲバ事件である。
他にも、革マルと解放派、あるいはブント内部のもあったが、主なものは中核と革マルのものである。
それは、両者が革命的共産主義者同盟という、思想グループだからだと思う。
ある思想が正しいか、間違っているかは、それに感化される人間の多さだろうと思うが、それには時間が掛かるので、短期的には論争と衝突に行き着く。
そして、その最後は殺し合いである。
思想のために殺し合うなど馬鹿馬鹿しさの極限だが、当事者には大問題である。

            
私の友人にも、内ゲバの被害にあった男がいる。
映画研究会にいたK君で、普通の映画ファンだった。
早稲田の文学部にいたので、いつの間にか革マル派の活動家になった。
そして、いつからか非公然の活動家になり、地下に潜伏したそうだ。
そこでなにをやっていたかは知らない。
その結果を聞いたのは、同じ映研のN君からである。

彼も、あるとき偶然にKと会ったそうだが、なんと彼の目は、上下についていたとのことでびっくりしたそうだ。
そりゃそうでしょう、普通、人間の目は左右に広がっているのだから。
Kは、革マルだったわけだが、ある日中核に襲われ、頭が割られてその結果、目が上下になってしまったのだそうだ。
なぜ、Kが中核の襲われたかと言えば、あるとき、孤独故からか実家に電話してしまったのだそうだ。
そこから、中核の部隊も捜索して、Kの居場所を突き止め、そして襲撃されたのだそうだ。
まことにバカバカしいことと言うしかない。
また、K君曰く、「日本では大都市、100万人以上の都市に住めば、絶対に知合いに会うことはない」そうで、彼も大都市のアジトを転々としていたそうだ。
日本の新左翼運動を潰したのは、この革マルの黒田寛一と、連合赤軍の永田洋子だったと私は思っている。

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昭和天皇が、東條英機を首相にしたわけは

2021年05月28日 | 政治
昭和天皇と内大臣木戸幸一は、なぜ対米強硬派の東條英機を近衛首相の後の首相にしたのだろうか。
非常に不思議に思える。それは、昭和天皇と当時の陸海軍首脳との関係にあったそうだ。

           
若い天皇に対して、20歳も年上の杉山元陸軍大臣などは、「教えてあげる」と言った態度だったそうだ。それに対して、東條英機は、まるで初年兵のように天皇に接していたとのこと。保阪正康の『陰謀の日本近現代史』に、当時の侍従から聞いた話として出てくるが、多分本当のことに違いない。
だから、そのように昭和天皇の言うことをよく聞く東條ならば、あるいは行き詰まった対米交渉も天皇の平和への願いを理解して、戦争回避に行くのではないかと思ったのだ。
だが、もちろん、東條の本意は、米国との戦争にあったので、天皇の命令だったので、一応御前会議の決定も最初から考え直してみるが、結論は同じだった。
そして、1941年12月8日になってしまうのである。

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『君が死んだあとで』

2021年05月27日 | 映画
1966年10月8日に、羽田の弁天橋で死んだ山崎博明の生い立ちから、高校、大学時代を描いたこの作品で、私が思い出したのは、この10月8日には、私には羽田に行っていないことだ。その前日、10月7日に日比谷公園の学生の総決起集会に行くと、社青同(社会主義青年同盟解放派)の連中が、異常な興奮でやってきて、法政大学で中核派(マルクス主義学生同盟中核派)に、「解放派の幹部が拉致されリンチされたので、逆襲に行くのだ」と演説していた。
それは、佐藤首相が南ベトナムに行くことに反対する運動だったが、こんな仲間割れしているようでは、明日は大したことにはならないと思い、羽田には行かなかった。その後、11月12日には羽田でのデモに参加し、大鳥居駅付近で、機動隊との投石合戦をやった。
当時、首都圏での中核派の拠点は、法政と横浜国大で、特に法政は最重要拠点だったが、そこに社青同解放派が、なぜか法政に入って活動を始めたからだ。理由は、従来早稲田が拠点だった社青同(社会主義青年同盟)解放派に対して、次第に中核が早稲田でも人数を増やしていて、しばしば衝突していたからだ。この映画では、法政大の中核に対して、社青同解放派とブンド(社会主義学生同盟)が一緒に駆けつけて衝突寸前になったと表現されているが、私の記憶では、違うと思う。ブンドは、「中核と解放派の衝突など、我々には関係ない」と思っていたからだ。
この中核や革マル(革命的共産主義者同盟革マル派)との「内ゲバ」、殺し合いは実に愚かしいことで、その淵源をたどれば、ロシア共産党の閉鎖性に行き着くと私は思う。
スターリン主義に象徴される、ロシア共産党の閉鎖性、秘密主義、反市民性は、戦前に日本共産党に受け継がれ、それは戦後は黒田寛一の指導と理論によって、革命的共産主義者同盟なる、思想グループである中核、革マルによって拡大再生産されて、1960年代の日本の新左翼運動に巣喰うことになる。革マル、中核が、本質的に思想グループであったために、互いに相手を殲滅することになってしまう。なぜなら、思想グループであるために、その成功、不成功は、相手を思想的に折伏することにしかあり得ないからだ。そして、相手を説得できなければ、身体を消滅させる、つまり殺すしかなくなるからだ。
その点、大衆運動を目的としていたブンドは、運動が盛上がり、政治的目的を達成すれば、それで良いので、内ゲバとは無縁だったのだ。
私は、この日は、家にいて、昼のニュースで、京大生の死を知った。
だが、このとき私が思ったのは、「これは党派の中の死だ」と言うことだ。1960年6月15日の東大生樺美智子さんの死は、国民的運動の中の死だったことの大きく違う。この映画では、山崎君の「国民葬」には、中核派以外の全党派が参加したと言っているが、これも違い、中核派以外はほとんど参加しなかったはずだ。

                             

大阪のかなり貧困な家庭に育った山崎博明は、府立大手前高校に入り、成績優秀だったが、同時に周囲の社会への批判意識から、社会科学研究会に入り、学園祭で反戦パレードをやった後、京大文学部に入り、中核派の活動家になる。
そして、当時最大の政治的問題だったアメリカのベトナム戦争への反対運動に参加するようになる。
この辺は、大手門の高校の同級生の、詩人の佐々木幹朗、作家の三田誠広らによって証言される。その他多くの同級生が、大手門から京大、同志社、立命館、さらに岡山大に等に行き、中核派として活動したことが語られる。
この辺は、関西の学生運動はほとんど知らなかった私には、初めて知ることだった。

そして、後半では東大全共闘議長の山本義隆が出てきて、各政治的党派のエゴイズムと内ゲバの愚かしさが語られ、その通りだと思う。
最後、ベトナムの戦史博物館に、山崎博明君の羽田での死が、ベトナムの人たちへも反アメリカの重要な事跡の一つだったことが、証される。
「へえ、そうなの」と思う。
山崎博明君の死亡原因は、その日に死体を見聞した兄によって、頭蓋骨の損傷であり、警察が言うような、学生が乗っ取って運転した放水車に弾かれたものでないことは明らかだったようだ。

城内は、かなりの観客がいたが、途中で凄い鼾があった。予備知識のない人には、映像は、普通の男女の証言だけなので、理解は難しかっただろうと思った。
横浜シネマリン




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志村智雄さん、死去

2021年05月26日 | 演劇
今日の朝刊に、元前進座の俳優、志村智雄さんの訃報がでていた。
知合いで、新聞の訃報がでるのは、中村とうようさん、漆川由美(井上遥)に次いで三人目だ。
志村さんは、私が早稲田大学劇団演劇研究会に入ったとき、二年上の三年で、劇の主役をつとめていた。

            
ジェームス・ボールドウィン作の『白人へのブルース』で、主人公黒人青年リチャードの父親の役だった。このとき、私は、その他の黒人青年を演じた。
終わった後の演出に堀内聡さんからの批評で、
「黒人青年の中に、黒人少年がいた」というほど、美少年だったわけだ。

志村さんは、北海道から出てきて、早稲田の法学部に入り、劇研にも入った。
きちんと四年で卒業し、就職せずに劇団東京演劇アンサンブル(旧三期会)に入った。だが、まるで収入はなく、これはいくら何でもひどいとのことで、前進座に入った。前進座は、給与があったわけだ。
前進座は、戦前からの俳優が沢山いたので、なかなか主役とは言えなかったが、脇役で出ていた。
映画では、日活最後の映画『落陽』に、憲兵役で出ている。
このとき、監督は、原作の伴野朗はなにもできず、脚本の藤浦敦がやっていたことを聞いた。
また、自分で演出もされ、知人たちで芝居をされていた。
中では、劇団俳小でやった、山田風太郎原作の『幻燈辻馬車』は面白かった。

前進座に長年いたので、河原崎長十郎と中村翫右衛門のことについて聞こうと思っていたのに、それもできなくなった。
今回の訃報で知ったのは、しむらのりおで、ともおではなかったことだ。
ご冥福をお祈りする。

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東千代之介が出ていた 『大忠臣蔵』

2021年05月25日 | テレビ
ついに『大忠臣蔵』が浪士切腹で終わった。
ここには、映画各社を越えた俳優が多数でていたが、今日は、元東映の東千代之介だった。
浪士の処遇について、江戸市中では、圧倒的にご赦免だが、幕府が許すわけもない。
だが、斬首か切腹か、については議論があったようだ。
その中で、幕府のブレーンだった寛永寺の門跡が城内に来る。
これが、東千代之介だった。
東千代之介は、言うまでもなく、東映の躍進の原動力だった『新諸国物語』シリーズで、中村錦之助とコンビで大活躍した。
彼は、錦之助や市川雷蔵、勝新太郎らが歌舞伎から出てきたのに対し、日本舞踊から出てきた。
また、錦之助や雷蔵は、歌舞伎界では第一線に立てないのに対し、千代之介は、舞踊界では一流だったようで、無理して映画界で生きる気も必要性もなかったようだ。
そして、東映が岡田茂によって、時代劇から任侠映画に転換するなかで、次第に姿を見なくなる。

                              
この人の中の異色作は、満州を舞台とした『夕陽と拳銃』で、これは元満映の東映らしい作品だったと思う。
テレビ映画では、これが最後の方だろう。
時代劇スターで、器用とは言えなかったが、品のある役者だったと思う。
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田村兄弟の中で

2021年05月25日 | 横浜
田村正和が亡くなって、兄弟で俳優では田村亮だけになった。
さすがに今回は、「名優田村正和が亡くなった」という記事はなかった。
いくらなんでも、あの滑舌では、名優とは言えなかった。
この台詞の悪さは、実は父阪東妻三郎もそうだったらしいが、彼のデビューした時代は、まだサイレントだったので、問題はなかった。
トーキーになり、阪妻は困って台詞を練習したが、活弁の言い方を真似したそうだ。
だから、彼の台詞は、歌い上げるようなところがあった。

彼の息子では、田村高広が一番上手かったと思うが、阪妻に似ているのは、一番下の田村亮だと思う。
田村亮は、一時期東宝の青春スターだったが、中で一番の作品は恩地日出夫監督の『あこがれ』だと思う。

           
これは、横浜の児童養護施設に育った田村と内藤洋子の物語で、田村は平塚の瀬戸物屋にもらわれている。
内藤洋子は、父親が小沢昭一で、季節労働者で全国を渡り歩いている。
この「階級差」を越えて一緒になれるかが、ドラマである。
ここで、内藤洋子は、横浜高島屋の食堂で働いていて、当時の様子がわかる貴重な映像である。
広いフロアーだが、和食、中華、寿司等の窓口があり、客から注文を受けると、そこに券を出して作ってもらうという仕組みだった。

西口では、近くの駅ビルとジョイナスの間にあった喫茶店には、よく行った。
横浜と逗子にいた友人と会うためで、ジョイナス自然の広場を見下ろすところにあった店である。
最近、まったく行っていないが、大きく変わっているとおもう。

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『火線地帯』

2021年05月22日 | 映画
1961年の新東宝映画、前年1960年12月に、大蔵貢社長が退陣し、再建を図るが、1961年5月に製作停止となる、『北上川悲歌』の一つ前の作品。
脚本は、石井輝男と武部弘通で、石井の助監督だった武部の監督昇進作品で、「ラインシリーズ」の最後の作品。

           
舞台は、川崎で、二つのやくざが対立していて、吉田輝男は、流れ者風の天知茂と協力して、拳銃の売買を横取りすることを計画する。
天知は、その金でブラジルに行こうと思っている。この辺の感じは、日活によく似ている。
冒頭で、吉田らは、競馬場で詐欺的行為をするが、ここは川崎競馬場のようだ。
やくざの一方の親分が田崎潤で、その情婦が三原葉子、対立する組のボスは大友純である。
吉田に惚れている子が、映画館のもぎりで、この館は、平和通りの川崎国際劇場のように思える。
その他、多くは川崎で撮影されているが、港を見下ろす丘で、吉田、天知、三原が会うシーンがあり、ここは横浜の港の見える丘で、下では山下埠頭の埋立てをやっている。1961年は、まだ山下埠頭は、埋立て工事の最中だった。
最後、田崎が拳銃を隠している倉庫で、アクションが行われるが、そこは出田町埠頭の青果上屋のように見える。
この時期は、まだ出田町か高島しか、大きな上屋はなかったのだから。
田崎の子分に、成瀬昌彦がいて、こんな新劇(青年座)の大物がいるのは何かあるなと思うと、成瀬は、田崎を裏切って吉田らと拳銃の取引をしよう企んでいる。だが、それを三原から田崎に知らされて、あっさり田崎らに殺されてしまう。
成瀬昌彦はニヒルな風貌で、テレビにはよく出ていたが、新東宝では珍しいと思う。
最後、二つの組が衝突する中で、吉田輝男と天知茂は、生き残り、さてどうするかと言うところで終わり。
石井輝男は、師匠の渡辺邦男に似て、勧善懲悪的なところがあるが、さらに石井輝男の弟子の武部監督にも、同様な傾向があるのは興味深い。
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『大菩薩峠』 岡本喜八版

2021年05月22日 | 映画
1966年の岡本喜八監督のもの。『大菩薩峠』は、戦前から多数作られていて、内田叶夢監督、片岡千恵蔵主演が有名だが、私は良いとは思わない。宗教的苦悩が出てくるのが不快なのだ。
その点で、これは、そうしたことがなく、アクションに徹底しているので痛快である。

             
タイトル上は、東宝と宝塚映画の製作となっているが、どうやら宝塚撮影所で作られたらしい。宝塚映画も、東京映画と共に、1950年代、量産時代の東宝の一翼を担ったが、1960年代中頃から、人員縮小になり、テレビに移行した後、閉鎖される。土地は、遊園地に転用されたこともあったが、現在はバス駐車場とホテルになっている。やはり、宝塚は、歌劇団が本業なのだ。

主演の机龍之介は仲代達矢で、彼を仇と狙う宇津木兵馬は加山雄三、冒頭で祖父を龍之介に殺される巡礼は、内藤洋子である。
机龍之介は、今日で言えば完全な精神異常者であり、「なんとかに刃物」という言葉があるが、その典型だろう。こういう人間が剣術の達人になってはまずいのである。
御嶽山の奉納試合で、机は、宇津木を殺してしまう。
前日に、「負けてくれ」と懇願に来た、宇津木の妻小浜の新珠三千代を龍之介は犯している。
二人は、江戸で逼塞していて、貧困生活をおくっている。
仲代は言う、
「あの試合が命を賭けたものになったのは、お前の存在だ」と小浜を批難する。
これは、実は東映での最初の1953年の渡辺邦男監督版の時、小浜の三浦光子に対して、片岡千恵蔵が言う台詞で、これがこの小説の核心だと思った。
三浦光子というのは、自堕落な感じの女優で、私は好きだ。吉永小百合と石原裕次郎の『若い人』で、吉永小百合の母親役を演じていて、どこか裕次郎を誘惑しようとしている。

さて、この小説の凄いところは、江戸時代の日本には、下層社会というか、普通の人の社会とは別に裏の世界があったことを表現していることだと思う。
この長い小説は、一本では終わらせることが無理で、ここでは無理矢理島原の店で、新撰組の連中と斬り合いになり、仲代の延々とした殺陣で終わる。
岡本の『侍』のラストシーンの桜田門外の殺陣も凄いが、これはもっと凄い。
まるで新撰組は、全滅したのではないかと思うほどだ。
因みに、前に書いた先輩の林裕通さんは、「最後まで読んだが、同じことの繰り返しだった」とのことである、ご苦労様。
日本映画専門チャンネル


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蜷川幸雄は、殺陣は下手か

2021年05月21日 | テレビ
『大忠臣蔵』の昨日は、「討ち入り・2」で、本所吉良邸での赤穂浪士と吉良側との殺陣が展開された。
ここには、間十次郎の蜷川幸雄も出ていたが、殺陣の後ろでうろうろするだけ。
彼は、東映にも出ていたが、殺陣は苦手だったのだろう。
千坂兵部の手下の女忍者として、上月昇が出ていて、彼女は殺陣をするが、結構様になっている。殺陣は、日本舞踊と同じだそうなので、その性で彼女は上手いのか。

だが、蜷川は大きな役割を演じていて、吉良を見つけた際に、呼び子笛を吹き、討ち入り成功後の、浪士の泉岳寺への行進では、吉良のみ印を槍に刺して掲げる役を演じている。

                    
この1971年は、まだ東宝での『ロミオとジュリエット』を演出する前なのだが、一応現代人劇場での演出をやっていたので、他の俳優とは違う別格だったのだろうか。
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『白鳥の歌は聞こえない』

2021年05月20日 | 映画
『赤づきんちゃん気をつけて』に続く、庄司薫原作の二本目。
あまり上映されない作品で、今回初めて見た。
主人公の薫は、先日亡くなられた岡田祐介、相手役の由美は、公募で選ばれた本田みちこ。

                       
脚本の桂千穂によれば、これは少女の持つ怖さで、それに右往左往する男の話だそうだ。
本田は、少女の持つ残酷さを持っているが、そこに女の恐怖の元祖のような加賀まり子が出てくる。
すべては、加賀に持っていかれるので、作品としては変わった青春映画になる。
加賀の祖父で、凄いディレッタントの小沢老人が出てくるが、誰のことなのだろうか。姿は、見せず。
最後、小沢老人は死に、薫の春休みも終わる。
朝比奈逸人、広瀬昌介ら当時の小劇場の俳優が出ている。
監督の渡辺邦彦は、言うまでもなく『明治天皇と日露大戦争』の監督渡辺邦男の息子である。

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『傷だらけの勲章』

2021年05月19日 | 図書館
1986年、西城秀樹主演で、こんな映画が作られていたとは初めて知った。
脚本は、大和屋竺、監督は斉藤光正と旧日活勢。
話は、刑事もので、警視庁巽署の署長は、成田三樹男で、適当な男。
敏腕の刑事は、中村嘉葎雄と西城秀樹で、共に拳銃の名手。

         

エジプトのカイロで、日本の商社の社長・鈴木瑞穂が射殺され、彼が持っているはずの遺言状の在りかが問題となり、それを横取りしようと、弁護士の中谷昇の事務所が荒らされ、中谷も殺される。
西城は、テレビ局の職員朝加真由美と恋人同士で、朝加は、テレビの取材で、事件現場を取材するが、この辺もリアリティがある。
鈴木を殺したのは、小林稔侍だと分かり、中村と西城は小林を追う。
この年上の老練な刑事と若い刑事の組合わせは、黒澤明監督の『野良犬』以来のもので、刑事物の典型の一つ。
鈴木の若妻が、ちあきなおみで、彼女がドラマに出ているのは珍しいはず。
娘の真理が小林らによって誘拐され、それを追跡する件もある。
誘拐の電話が掛かって来て、警視庁に西城が電話しようとすると、中村は止める。
「じぶんたちだけの山にするのだ」と。
二人は、鈴木の大邸宅に泊まり、中村は、遺言状を探して、暖炉で発見する。
それを、ちあきは、中村に言って焼いてしまう。彼女には、遺産は何も残さないように書かれていたからだ。そして、中村に自分の体を上げる。
ちあきは、カイロ支店長の高橋悦史とできていた故の鈴木の嫉妬からである。
シンガポール、そして最後はエジプトに行き、ちあき・高橋組と中村・西城組が対決し、もちろん西城が勝つ。
結構大きな映画だが、あまりスケール感はない。
その理由は、監督の斉藤が、舛田利雄のようなケレン芸がないからだと私は思う。
衛星劇場


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田村正和で唯一良いと思ったのは 『この声なき叫び』

2021年05月19日 | 映画
田村正和が亡くなったそうだ。
前にテレビで『地方紙を買う女』を見たが、台詞がほとんど聞こえず、もう引退すべきだなと思った。
そのように、彼の台詞には、もともと欠点があった。
だが、その彼でも、良いと思える映画があった。

             
1965年の『この声なき叫び』である。
監督は市村泰一で、共演は香山美子だった。
題名の通り、聾唖者の青年が、実母殺しの嫌疑をかけられるミステリーで、これは台詞がないので、大変に良かったのだ。
身体障害者ものなので、地上波テレビで放映することは難しいだろうが。
この映画の原作が、西村寿行だと言うのだから、驚いてしまうが。
       
           
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龍岡晋が果たした役割は

2021年05月18日 | 演劇
先日の原節子の映画『風ふたたび』で、兄を演じていたのは、文学座の龍岡晋だった。この人を映画で見たのは、これの他、篠田正浩監督の『化石の森』くらいしかないが、日本演劇史に残る重要な役を演じたことがある。
彼が、商業高校を出て証券会社にいたこともあったのだと思うが、文学座は始めから株式会社で、座員はみな株を持っていた。

            

そして、1963年の福田恆存、芥川比呂志らの脱退の時、龍岡は株式数を数えた。残留組と脱退組の総株数を合計し、残留組が上回った時、彼は言った。
「勝った!」と。
これで、福田らは、文学座を出て劇団雲を作ることになり、文学座は杉村春子劇団として再出発したのだ。
このとき、出ていった連中の株は、いくらで買い戻しただろうか。多分、昔のことなので、額面通りだと思う。

近年、このような非上場株の評価が問題になっている。
中小企業等で、相続が行われ、その時故人が持っていた非上場株の評価が問題になる。
昔は、額面で評価していたようだが、最近税務署は、時価評価をすることが多いようだ。
中小企業の継承も難しくなっている。


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