指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

『約束』

2017年11月30日 | 映画

1972年、斎藤耕一監督作品で、『旅の重さ』と共に、キネマ旬報ベストテンに入り、斎藤の名を高めた作品である。

1970年代、当時は多数あった都内の名画座に行くとよく見た作品であり、あらためて見てみると上手いと思う。

日本海岸を北上する列車で知り合った萩原健一と岸恵子の話だが、1時間半のうち、当初しゃべっているのは萩原だけで、岸はほとんど口を開かない。

岸恵子は言うまでもなく美人女優だが、台詞に難があり、私などは、あのぶりっ子声が苦手で、好きになれないのだ。

彼女を『早春』で非常に上手く使ったのは小津安二郎だが、金魚と仇名された女性は、コケティッシュだからぴったりだったのである。

                                 

 

1時間ほど過ぎて、初めて岸が言う台詞が「私、囚人なの」である。

ここまでドラマを持っていく技術が、脚本の石森史朗と共に斎藤のすごさで、映像と音楽の良さである。

繰り返し奏でられる宮川泰のメロディーはしつこいが、映画を持っていく。

話非常に単純で、チンピラの萩原が列車で見知った岸恵子を好きになり、付いてくるというものにすぎない。

逆に話が単純だからこそ、斎藤の映像と音楽のセンスが生かされたともいえる。

岸恵子の裁判の裁判長と、萩原を逮捕する刑事が三国連太郎なのは、予算がなくて別の俳優を使えなかったからだそうだ。

衛星劇場 


『黒澤明が描こうとした山本五十六』 谷光太郎

2017年11月30日 | 映画

映画『トラ・トラ・トラ!』制作の真実 と副題されていて、ネットでの評価は、既存の本の引用ばかりとのことで低かったが、黒澤と山本には興味があるので買う。引用ばかりで、と言う評価はおかしい。既存の資料を使用することは当然のことで、ノン・フィクション・ノベルではない限り、新資料がないからと評価しないのは間違いである。

だが、この著者はきちんと黒澤明の映画を見ていない人であるように私は思う。その証拠に、黒澤が「自分の作品ではない」と言っている、自分勝手な言い分の問題作『明日を創る人びと』に一切言及していないことで明らかである。

もし、『明日を創る人びと』が、黒澤明が言うように、「組合に作らされた映画」なら、戦時中の『一番美しく』も、軍国主義という時代の風潮に作らされた映画である。第一、東宝の争議時代、黒澤は明らかに組合派であり、その趣旨の論文を『新日本文学』に書いているほどなのであり、組合の運動を黒澤は基本的に賛成だったのである。

 

           

ただ、この本で知った新たに確認したことは二つあった。

一つは、日本海軍のことで、南雲忠一のような優柔不断な将官が海軍攻撃隊の司令官になったのは、海軍の年功序列主義だったこと。要は完全な官僚主義だったのだ。

これに対して、米海軍首脳は、大統領ルーズベルトの好き嫌いで選ばれていて、それほど優秀ではなかったが勇猛果敢な連中だったこと。

そこで大統領の指示に忠実に従ったことが真珠湾の敗北になったが、ミッドウエィ以後の勝利になったこと。

日本とアメリカの軍隊の組織の違いがよく分かった。

平時は官僚主義でもよいが、戦時は臨機応変な特別の編成が必要なのだから。

 

 


トリクルダウンの嘘が証明された

2017年11月24日 | 政治

トリクルダウンとは、金持ちの富が社会全体に振り撒かれるという、風が吹けば桶屋が儲かる、のごとき理論である。

小泉・竹中の新自由主義経済理論の中核であり、規制緩和を進めろという今のアベノミックスにつながっている。

                      

だが、これは全部嘘であることが証明された。

話題のパラダイス文書によってである。そこに出ているのは、世界の富豪たちで、彼らはより税金を払わないために工夫していることが証明された。

つまり、誰も自分の富をトリクルダウンしていないのである。

金持ちはもっと金持ちに、貧しいものはさらに貧しく、と言うのがアベノミックスの本質なのである。

元首相の方についても云々する向きもあるようだが、宇宙人はすべてに免責と言うべきだろう。


監督や演出家の様々なやり方

2017年11月21日 | 映画

映画監督と言うと、黒澤明のように全スタッフを怒鳴り散らす、独裁者のイメージを持つだろう。だが、その黒澤も、若い頃は多くのスタッフの声に耳を傾ける人で、音楽の早坂文雄を最大の助言者としていたそうだ。

早坂がいないときは、俳優の志村喬を頼りにしていて、撮影で忙しい時などは、アフレコを志村に任せていた。それが原因で、大映京都の『羅生門』の時は、チーフ助監督の加藤泰と喧嘩になったそうだ。

その後、黒澤の周囲から多くの人が離れ、黒澤一人になると次第に独裁的になり、作品から潤いが失われていったように私には思える。

さて、藤田敏八と言えば、ロマンポルノ前の日活最後の映画『八月の濡れた砂』で有名だが、彼は同時に優柔不断でも有名な監督だった。

撮影の現場で明確な指示を的確に出すと言った具合ではなく、常に悩んでいるという風だったそうだ。だから、チーフ助監督の長谷川和彦が大声で怒鳴り、まるで長谷川が監督のようだったと言われている。

また、黒木和雄も、ややこれに近いタイプで、彼の作品で珍しい時代劇で俗にゴールデン街映画と呼ばれた『竜馬暗殺』がある。

昼間、世田谷の元醤油工場での撮影が終わると、石橋蓮司、原田芳雄、松田優作らの俳優、黒木監督以外のスタッフは新宿のゴールデン街に行き、そこで酔って議論になり、翌日の撮影が決められたそうだ。

つまり、どちらの監督の場合も、一見監督抜きに現場の撮影が行われたように見える。

だが、できたものは、どれも藤田や黒木のものになっていた。

映画音楽も多数書いた作曲家の林光は、監督、演出者を独裁型とオーガナイザー型に別けていて、新藤兼人や千田是也が前者で、大島渚は後者だと言っている。

特に映画は、編集があるので、撮影の時は自由にスタッフ、キャストにアイディアを出させて現場は盛り上げて、最後は自分が編集ですべてを統一することが可能だからである。


喜劇映画のアクション・カット

2017年11月20日 | 映画

最近の映画を見ていて気になるのは、アクション・カットの使い方が下手なことである。

アクション・カットが何かについては、調べてほしいが、例としてはマキノ雅弘の映画を見ればよいだろう。

多分、ワンシーンワンカットの流行で、だらだらと撮っておけば良いとの考えが蔓延しているからだと思うが、映画の基本は小津や成瀬を出すまでもなく、カット繋ぎである。

私の考えで、アクション・カットの使い方が上手いのは、市川崑と山田洋次である。

市川は、もともとはアニメーション作家なので当然だが、山田も非常に上手い。

『男はつらいよ』がなぜ面白いかは、脚本がよくできていること、渥美清や森川信らが上手かったこともあるが、山田のテクニックもある。

彼は、渥美がギャグ台詞を言うと、そこでカットし、カットを変え、ロングで全員を捕る。

そして、全員が爆笑するのだが、この時、ほんの少し時間を盗んでいる。

多分、0.5秒くらいで、聞いた者の笑いがはじけているカットにつなげている。

つまり、これを連続してみると、寅次郎の台詞で笑いがはじけた場面になるのである。

これは松竹の伝統なのかと思うと、『釣りバカ日誌』のバカ監督は、ギャグシーンをワンカットで撮っていて、少しも面白くないので、野村芳太郎あたりから伝授された手法なのかもしれない。

いずれ調べてみようと思う。

 


坂本長利、88歳

2017年11月19日 | 演劇

今日の東京新聞に、坂本長利さんのことが特集されていた。坂本さんと言えば『土佐源氏』であり、50年、1,000回以上演じているそうだ。

私が見たのは、1980年代、錦糸町の西武の中にあった小劇場で、上演後には故扇田昭彦さんとの対談があった。

『土佐源氏』は、民俗学者の宮本常一の『忘れられた日本人』の中に書かれている話で、高知の譲原で宮本が聞き取った元馬喰で、当時は乞食同然だった男の一代記である。

そこには、まったくの無学で最下層に生まれた男によって、農村での馬の意味と世話、農耕馬の売り買い、そこでの儲け方等が語られ、日本の農村での馬の重要さがまず描かれる。

そこから彼の性的体験が語られ、特に上流の女性の寂しさとそこでの彼による慰め方でクライマックスに至る。

それは、どのような偉人伝も敵わない庶民のドラマがある。

多分、ここから、さらに宮本常一の『忘れられた日本人』から窺がえるのは、現在の日本の常識や道徳が、明治維新までとは全く異なるものだったことである。

例えば、女性の処女性などは、ほとんど問題にされていず、処女と性交すると「当たる」と言われて、忌避する向きもあったとのこと。

だから西日本では、若い未婚の女性は、結婚前には一度は他国に行って働くなどして様々な経験を積み、その後に結婚するのが習慣だったそうだ。

坂本さんは、1970年代は日活ロマンポルノにも多数出ていているが、ひろみ摩耶が伝説のストリッパー、ジプシー・ローズを演じた、西村昭五郎監督の1974年の『実録ジプシー・ローズ』では舞踏家の正邦乙彦を演じたのが代表作だろう。

本当のことを言えば、私は、「一人芝居」は役者の自己満足に過ぎず大嫌いだが、坂本さんのは別である。

それは乞食と言う卑種(貴種)を演じているからだと思う。

坂本長利さんは、「出前芝居」で、100歳まで演じたいとのことだが、本当に頑張ってほしいと私も心から思う。

 

 

 


吉永小百合の叔母は・・・ 『スプートニクスの落とし子たち』 今野 浩

2017年11月18日 | 映画

今野浩のこの本は、1958年に東大理1に入学した、今野氏をはじめ、最優秀な連中のことを書いたもので、非常に面白い。

日比谷高校のことや東大のことなど、詳細に書かれていて非常に興味深い。

このベスト&ブライテストの一人で、今野自身と関係が深く、富士製鉄でも一緒になり、さらに米国を経て共に日本の大学の教員となる後藤公彦のことが一番詳細に書かれている。

彼については、冒頭で美男子で吉永小百合の従兄弟として語られ、彼は慶応高校から東大にわざわざ入って来たという人物でもある。

そして、本の最後で、後藤の母親は、小笠原貞子であることが明かされる。

           

小笠原の名を知っている人も、今ではそう多くないと思うが、全国区と北海道から参議院選挙に出て4回当選した日本共産党の女性議員である。

となると、小笠原と吉永小百合の母親は、姉妹で、小笠原は吉永小百合の叔母ということになる。

たしかに、小笠原は、結構美人の議員だった。

また、吉永小百合は、もともと都立の名門校の都立駒場高校に合格していたが、仕事が忙しくて精華学園に転向した。

だが、そこも中退せざるをえず、大検を受けて合格し、早稲田大学文学部にも一般受験で合格したという頭の良い女性である。

「何とか受験」で早稲田に入学した広末涼子などとはもともと出来が違う。

勿論、誰が誰と親戚だとしても、問題はない。なぜなら出自は自分では選べないからである。

要は女優なら女優として良い仕事をすれば良いだけである。

 


東京映画と宝塚映画

2017年11月14日 | 映画

かつて東宝系の映画会社として東京映画と宝塚映画があった。

東京映画は、豊田四郎や川島雄三らのベテラン監督作品が多く、結構いい文芸映画作品がある。

これは、豊田の『夫婦善哉』が3か月もかかり、砧スタジオを占拠されて困ったので、千歳船橋の連合映画を改装して使用することにしたものである。

さらにもう一つ意味があり、『駅前旅館』から始まる「駅前シリーズ」は延々と東京映画で作られた。これは森繫久弥の他、松竹専属の伴淳三郎の出演が必要なので、1954年にできた「5社協定」外の東京映画を使ったのである。

 

                  

 

同様の意味は、宝塚映画にもあり、普通ここは宝塚歌劇団の生徒を出すためと言われている。

しかし、もうひとつの意味があり、京都の他社のスタッフを使って時代劇を作ることだった。

『オテナの塔』がそうで、製作は東宝の稲垣浩だが、監督は弟子で大映の安田公義である。

これは東宝系の映画館でも時代劇が必要だったことも意味していると思う。

 

                  

 

 

因みに、今はどちらもなく、東京映画は民間企業の用地になっている。

宝塚映画は、一時は宝塚遊園地の一部だったが、今は広大な駐車場になっていて、歌劇観劇のために地方から来る団体のバス等の駐車場になっている。

民間企業は、時代によってさまざまに保有資産を変えるものである。


都市民俗学としてのドキュメンタリー映画

2017年11月05日 | 映画

11月3日に、横浜シネマリンで、2本のドキュメンタリー映画を見た。

堀田監督の『日曜日の子供たち』と小川監督の『どっこい人間節』である。

感じたことはいろいろあるが、小川監督の寿町の人へのインタビューは、記録映画が都市民俗学としての意義を持つものだということだ。

                                     

 

これは以前、区役所の福祉課にいた時も、ケースワカーの仕事と記録は、都市民俗学ではないかと思っていた。

それは、1970年代のドキュメンタリー映画を見ると、明らかに都市の民俗学であると改めて思えたのである。

 


『野良猫ロック・マシン・アニマル』に見る本牧ふ頭

2017年11月01日 | 横浜

蒲田の安売りビデオ屋に『野良猫ロック・マシン・アニマル』があったので、買ってきた。

1970年、長谷部安春監督で、岩国から藤竜也と岡崎二朗が横浜に来る。場所は本牧の手前の埋め立て地で、最近までイトーヨーカードーがあったあたりである。

彼らは、ベトナム脱走兵(日本人俳優だが)を連れていて、彼が持ってきたLSDを換金して海外への逃亡させようとしている。

本牧の不良集団と接触するが、梶芽衣子らの女のバイク集団、さらに郷鍈治がリーダーのバイク集団との間での争奪戦が劇である。

勿論、セットだろうが本牧のゴールデンカップそつくりのバーのバーテンは、ロマンポルノで活躍する市村博(五條博)など、日活の若手が沢山出ている。市川魔胡もあるが、後の松田英子であるが、どれかはよくわからない。歌手の青山ミチも出ているが、この頃はまだ活動していたのだ。

                                   

バイクによる疾走戦が見せ場だが、パチンコ屋や中華街の同発の中を走る等のシーンもある。

途中と最後のコンテナバースでの疾走戦は、本牧埠頭のBとCバースである。Aバースも出てくるが、もうできて供用されていたので、内部は使えず背景になっている。

1970年なので、Aの建設は終わり、BとCを整備していた時代である。

今は、Aはコンテナバースではなくなり、大黒に川崎汽船等は移転し、B・C間は埋立られて一体型のふ頭になっている。

この次のDふ頭の建設が見られるのは、藤田敏八の『赤い鳥逃げた?』である。

最後の3人組が自爆する場面に行くところで、京浜外貿埠頭公団の看板が見える。

公団は、その後東京と横浜の埠頭公社に分離され、横浜は横浜港埠頭公社に、さらに今は横浜港埠頭株式会社になっている。